京都昨今
34、東山論V   弘法大使の筆     偶然と必然    

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いま、京都市役所の不祥事が、社会問題となっている。
京都市には、市会議員がいるのではないのか。
市議は、市民の声の代わりをする役割ではないのか。

「時代」というのは、同じときに、過ごしていないと、どうしても伝わらない部分がある。
いまだと、警察にまかせられることだが、1970年代までは、宗教をかかげている学園は、とくに、規律など、社会からの、関わりにたいし、自分たちでの解決となる。

いぜん、山科区市議の、「富きくお」さんと、学園闘争時代の話をしていた。
同年ということで、富さんとは、話やすく、啓光学園のとき、大阪市立大学生が、マリア像の破壊に来たので、ひとり、とめる役目をさせられたというと、富さんは、
「ウチは、東寺が」という。
1980年代になり、「洛南」の名前は、進学校ということは知ったが、この「ウチは、東寺」が、分らない。
弘法大使の、東寺には、種智院大学(しゅちいんだいがく)があるのは知っていたが、なぜですかと聞くと、
「洛南は、真言宗、洛南高等学校といい、過激派が、東寺の破壊、燃やしに来るので、生徒会長だったので、先生と、生徒代表は、1970年は、一ヶ月、泊まりこみになって」
という。
わたしは、弘法大使は、播州や四国のため池など、庶民に、生活の知恵をさずけた人で、東寺は、重要文化財なのに?というと、
「そやから、全校中、緊張して、生徒会は、先生といっしょに」と言う。
このときの、会話の抑揚だが、時代にふりまわされた、高校生のときにもどるというか、時代にとまどった高校生や、このときの教員にしても、どうしようもなかったという、響きになる。

ここで、1969年から1971年の啓光学園のことも、洛南高等のことも、受験勉強はじめ、社会の犠牲となった、人たちに、「あの時代のリーダー」は、良いご身分となり、責任を、取りそうもない。
そのため、わたしたちの世代が、あの失敗に終わった、「70年日米安保反対という時代の祭り」を、「必要でなかった時代の祭り」を、追及してゆき、責任の所在を見つけ、ふつうの大学生や高校生の生涯を傷つけた輩を、明らかにしなければいけないかもしれない。

公共を問わず、悪行を働くものがずいぶんおり、あの時代と同じく、日本の良い文化か、言葉にしようとしない人たちは、静かに、敗残者へとなってゆく。
1969年、受験生で、東大入試中止をあじあわされ、悩んだものは、いま、その、原因を究明してゆき、「声に、言葉にする時代」へ入ったのかもしれないことを、わたしは言う。

ベトナム戦争での最前線は、アメリカのばあい黒人、有色人種が多かった。1968年、メキシコ五輪、陸上、男子200メートルで、1位、3位のアメリカの有色人種が、無言で、黒い手袋を、「星条旗よ永遠なれ」に向かい、人種差別反対の意向を示した。
中学のとき、200メートル走者でもあった、高校一年の、わたしは、ぼんやりしていた、が、拳を天に向けることでの抗議に感動した。

日本の、男子高校出身者には、「言わずもがな」とか「詮無き事」で終わらせる、独特のカラーをもつものがいる。
わたしたちの世代、1951年生まれというのは、どうも、「言わずもがな」「詮無き事」が、心身にはいっているものが多い。

「弘法筆を選ばず」という言葉があるが、小学校四年生のとき、「書道」の教室への「張り出し」で、わたしは、自分の字を見た。
1950年代、2歳ごろ、姫路の、東雲町の祖父宅へゆくと、夕食後は、古い新聞紙に向かい、書道となる。
が、長い、病院生活で、加古川市での、四年生まで、本格的な書道はしたことがなかった。
わたしは、わたしのグループ数人になったとき、習字を張り出した、教室の壁をさし、イトコたちに、
「ぼくの字は、下手」と言った。
わたしのグループの、ヨシコちゃん、キミちゃん、ケイコちゃん、岩田君、金沢君は、みんな、無言だった。
母に、書道を習いに行くと言ったけれど、体に無理がかかるので、やめさせられた。

豊中市の庄内小学校は、字の上手な人が多かった。わたしは、多少のことに、かかわらず、高熱を発し、倒れ、入院となるので、競争心はないけれど、五年生の「書初め」で、岡重信先生が、ひとり、ひとり、
「これは、お母さんに書いてもらったのか、お父さんか。これは上手だ、下手だ」とか、批評を言う。
わたしのだが、図画では褒めてくれるけれど、書道では、下手過ぎるのに、何も言われたことがない。

そのあと、張り出しとなり、わたしのグループ、長男組みは何も言わないのに決まっているので、遊びグループの一人っ子、次男、三男組に、
「ぼくの字、いちばん下手じゃないか」と聞いた。
だいたい、一人っ子、次男、三男組は、正直に返事してくれるのに、みんな無言である。

この無言は、「いちばん下手」と言うことだろうと思い、母に、書道を習いに行くと言った。
母は行かなくてもいいと言ったが、兄は習いに行っていて、ある程度書け、妹も下手だから行きたいということで、いっしょに、庄内栄町にあった、大きな書道塾、東(あずま)先生のところへ習いに行った。
六年生になる、わたしが行くと決めると、近所の下級生も行くというので、桃太郎さんのような一行の、書道塾通いとなった。

妹も、毎月、上級し、半年後は、二人とも、来年は「段ですね」と言われた。
わたしの字は、大人っぽく、静かな字筆ですと、東先生は言った。
暮に、妹のは、子供っぽく、「特選」とかで、小正月、大阪の天王寺の博物館へ見に行くことになった。

冬休みの課題は「強い信念」だった。
東先生が、「冬休みの課題は書きますよ」という。
わたしは、書道塾での、課題に、神戸を意味する、「百万弗の夜景」があり、「百万弗」の「ドル」が気にいっていた。

妹の課題は忘れたが、東先生に書いてもらい、
「お兄ちゃんも、手本を、先生に、書いてもらったらいい」
と言うので、ためらいながら、手本を書いてもらった。
東先生が、書き方も説明してくれたので、これは、卑怯ではないかとおもいながら、筆を140円のから、160円のに、買い替えて、半月以上、「強い信念」と書いて、指導してもらった。

1964年、夏休みの課題、40日間、朝昼晩の、わたしの「雲の観察」の発表が取り上げられず、6年3組は、宮田君の「カエルの研究」という、どんな図鑑にでものっているのが、代表となった。

浦谷君、早川君、木下君たちは、大声で、
「岡先生、夏に、おたまじゃくし、いません」
「先生、夏に、こんな、カエル見たこと、ありません」
「宮田君はずるいです、図鑑の写してます。まつだ君は、遊びに行っても、ずっと、雲の観察ばかりして、遊んでくれませんでした」と、学級会で言った。
わたしは褒められているのか、責められているのか、わからない、感じになった。

わたしの、朝から晩まで、徹底した、「雲の観察」は、わたし自身、一週間ほどして、「ヤン坊マー坊天気予報」などの予報が、ほとんど外れることがわかった。

それで、自分自身の認識だけが頼りとなり、夏の雲を観察しているのだけれど、雲は、一日置きにでも、出ているのかとおもったら、雲の無い日がつづいてこまった。
1964年、東京オリンピックがあった年の夏、大阪の中心部は、雲がなかった。

はじめの希望は、雲が変化してゆく形を、レポート用紙に描いていく考えだったが、肝心の雲を見ることができない。
それで、雲がない、空の表現は、レポート用紙の、白い西洋紙より、みすぼらしい雰囲気で、安い、わら半紙が良いのではと思って、変えることにした。
母に、わら半紙と言うと、白の西洋紙があるのにと言う。

1961年、わたしが、叔父からもらった、紫色軸の鉛筆一本をめぐり、妹が、
「ちょうだい」というので、売っていないので、ジャリジャリしたが、嫌というと、父は、
「やかましいこと、そんな炭素の少ない鉛筆で。明日持ってかえってくる」といった。
炭素って何?ときくと、「カーボンや、墨が多くないと、書きにくい」と父が言う。

シャープペンは、兄がパイロット0.9ミリのとき、わたしは、「ノーマン」のシャープペン0.7ミリ芯だった。
兄は、三菱鉛筆に、テープはニチバンとメジャー路線だったけれど、わたしは、保育園児から「コーリン」鉛筆に、テープは「セキスイ」という風に違った。

父が持って帰ってきたのは、「トンボのモノ」の、茶色をした、書き味がまったくちがったので、聞くと、「製図のなっ、仕事用のや」との事だった。

この父が、「雲の観察」を面白いとおもったのか、水色のマスキングテープをくれた。
何?ときくと、「新発売の、仕事で、仮止めに、使うもんや」と言った。
レポートのわら半紙を束にして、ホッチキスで、簡易にとめ、とめた部分に、半透明をした水色のマスキングテープをつけた。実に、みすぼらしさに、マッチし、このことは、同級の浦谷君、早川君、木下君たちに言った。

6年3組はじめ、庄内幸町や栄町の児童会の下級生が、「遊んでー」とくるたび、「雲の観察」があると断っていて、7月はまだ良かったが、8月に入っても、わたしが、朝、昼、夕方、晩と定点観察するので、この年、林間学校で、生駒山へ行ったとき、わたしの、観察眼が変わった。
わたしは、山での、雲の変化を、級友、同窓に言えた。六年生は、わたしの、雲の観察に、納得したけれど、
「雲の観察、やめてください」と五年生に言われ、妹にも、夏休みの宿題の絵が描けないといわれ、8月の終わり、一日だけ、箕面公園へ行った。
この日の観察の昼と夕方は箕面市からとなった。
夏休みのとちゅうと、終わり、幸町(さいわいまち)の児童会で、わたしは、五年生に、
「遊んでくれませんでした」と、言われ、わたしも、児童会担当の先生も困った。


1965年、1月、岡重信先生は、わたしのは批評せず、国行さんのを、クラスの代表とした。
わたしが書道塾へ行き、練習の過程を知っていた、浦谷君、早川君、木下君たちは、夏休みの「雲の観察」もあり、書初めでは、なかなか意見を引かず、友だちの声は、おとなしい岡崎君、市居君、岩永君、小倉君まで広がった。
「岡先生、すごく、不公平です」といい、
「岡先生、不公平」の、大合唱になった。そして、
「まつだ君、言えばいいのに」
と言ってくれるのだけど、筆は、140円から、160円の高級なのにしたし、手本があったので、浦谷君たちに、いいからと言った。
そして、これを機会に、わたしは、9ヶ月通った、書道塾をやめた。

中学一年のとき、わたしが書くのを見ていた、書道の男の先生が、呼び出し、
「まつだ君、全校一です。書道クラブに」という。
三年生に、同じ塾だった、全国一で、五段の人(女)が居て、もどりがいい、高価な筆をもっていたので、かないませんというと、いえ、書道部にと言う。

このことを、福井市出身の妻にいうと、妻の小学校低学年での筆の価格は、数千円単位の白の筆という。
わたしは、絵筆は、コリンスキー(イタチ)の高価な部類に入るものを使用して、絵の具は、欧米のもので、画材は、中学二年のときから、心斎橋の「カワチ」まで買いに行っていた。
が、書道では、小学校、中学校のとき、展覧会用の「条幅」の大筆は別にして、ふだんので、160円以上のものなど使ったことはない。

京都府教育委員長だった、山田忠男先生は、良い字を書かれ、手紙など、筆のときがあった。が、基本に、字など、書ければいい、判読できれば良いと言う、面白い、性格があった。
左京区北白川小学校の校歌が山田忠男さんによるものだったように、宮津市に、府立海洋高等があって、実習船「みずなぎ」の書は、府教育委員長だった山田忠男さんときく。

歌人でもある、長崎大、浅田一博士の、お嬢様からの、筆には、熟練の編集者が、おどろいたレベルだった。
それを言うと、千代田女学園は、浄土真宗の学校で、書道のできる人が多く、
「千代田の、一番は、樹木希林(きき・きりん)さんです」とおっしゃる。
女優の樹木希林さんは、巻紙のまま、筆をとられるという。

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森鴎外の小説で、有名な「高瀬舟」は、鴨川沿いに流れる、高瀬川がモデルである。が、同じく、森鴎外の作品で、
日本の美徳なのだろうが、「言わずもがな」「詮無き事」を課題としたものに、「じいさんばあさん」がある。

京都二条城勤務に、将軍と、御目見得が、許されている、大名、旗本がする「大番頭」という役目がある。
明和五年(1768)、松平石見守(島根)が、大番頭となった。

そして、大番組となった、剣術に、書道も和歌もできた、「美濃部伊織」が、明和八年(1771)四月、江戸に、臨月の妻、「るん」を残して、京都へきた。秋風がふくころ、
「寺町通りの刀剣商店で、質流れだというよい古刀を見出した」
ことから、事件を発する。
美濃部伊織のもとは、徳島藩(阿波)松平家である。

美濃部伊織は、まえから、良い刀剣が欲しいとおもった。が、万が一のため、百両は持参していたが、代金百五十両というのは、大金だった。
刀剣商は、百三十両までにするというので、残り三十両を、美濃部伊織の代わりをする、相番(あいばん)の「下島甚右衛門」に、借りた。

刀剣は、柄(つか)、鍔(つば)、はばき、鞘(さや)、などが、こしらえ上がり、日のよい、八月十五日、伊織は、友だち二、三人を招いて、披露とご馳走をした。

友だちは、みんな刀をほめた。このとき、めったに来ない、下島甚右衛門がきたので、伊織は金の催促かと思い、不愉快になった。
しかし、我慢をして、杯(さかづき)をすすめ、友だちとの、団欒の中にいれた。
伊織の友だちたちは、下島甚右衛門の、言葉に、角があることに気づき、故意に、喜びごとの酒宴に来たことがわかった。

下島甚右衛門は、刀剣を買うのはいいが、こしらえ事は贅沢で、月見などは、心得違いといった。
ことばの意味より、下島甚右衛門の、他人を冷笑した、語気に、一同が、不快に思った。

伊織は友だちのてまえ、借金を持参したときに、返事を、改めていうことをいい、今夜は友だちとの、酒宴なので、引きとってくださいと言った。
が、下島甚右衛門は、きかなかった。そして、返れというなら返ると、自分の前の「膳」を、蹴るということをした。

伊織が、「これは」と言い、刀をもち、顔色を変えた。
すると、下島甚右衛門は、「たわけ」と叫んだ。

伊織は、白刃とし、一刀で、下島甚右衛門の額を切った。
下島は刀を抜き、伊織にかかるかと思ったら、白刃で逃げたので、伊織は追ったが、下島の、部下の中間(ちゅうげん)が、脇差(わきざし)を抜き、立ちふさがったので、伊織は、中間の腕を切った。
美濃部伊織が、逃げる、下島甚右衛門との差をつめようとしたとき、伊織の友だちの柳原小兵衛が、伊織の罪状をおもい、伊織を抱きしめ、逃げだしているのだから、放っておけと言った。

柳原小兵衛は、一同が見ていたことだけれど、先に刀を抜いた以上、理由をききたいといった。伊織が、涙をうかべた、一首は、
「いまさらに 何とか言はむ 黒髪の みだれ心は もとすゑもなし」
と、心身を乱して、おこしてしまった事柄に、多くを語っても、きりがないとの歌だった。

下島甚右衛門の、傷は、思っていたより重く、二、三日後、死んだ。
江戸で、取り調べをうけた、美濃部伊織は、「知行(領地、年貢など)」をなくし、安永元年(1772)八月、福井藩松平家の丸岡あずかりとなった。

30歳の美濃部伊織の家族は、親戚がひきとり、祖母の「貞松院(ていしょういん)」は、二年後、逝き、殿様の屋敷に奉公をし、伊織との結婚は、29歳と遅くなった、妻の「るん」は親戚にあずけられた。

「るん」は、父たる、伊織の顔をも知らない、子の「平内(へいない)」を、ひとり育てたが、五歳のとき、流行の疱瘡で、子を亡くし、祖母と同じく、赤坂の松泉寺(しょうせんじ)にまつった。

そして、伊織の妻「るん」は、福岡藩(筑前)松平家の黒田家から、目にかかり、藩主四代の妻の、奥方を、31年を勤め、隠居の身となった。
伊織は、福井藩松平家で、37年の間、書道、剣術の指導にあたっていた。

第十代将軍、徳川家治(1737−86)、「浚明院(しゅんめいいん)」殿の、御追善の文化六年(1809)、25回忌の「御慈悲」がだされ、72歳の伊織と、71歳のるんは、江戸、麻布で、夫婦として、生活することを許可された。

近所の人々は、楽しく話し、礼儀ある、二人の仲をみて、出歩きは、菩提所の松泉寺と知り、息子さんが生きていたら、39歳の男盛りで、
「過ぎ去った昔の夢のあとをたどるのであろう」
と言った。

このような、噂がきえたころ、第十一代将軍徳川家斉から、暮に、るんへと「銀十枚」の褒美が行った。

美濃部伊織は、同じく、旗本クラスの、下島甚右衛門と、いさかいを起こした。
これは、同属とみなされる。

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わたしは、第十代将軍、徳川家治の祖父、八代の徳川吉宗に受講したという、荻生徂徠の、今中寛司(いまなか・かんじ)さんから、20講義は受けた。
「荻生徂徠学」の、今中さんがいうのに、
「武家諸法度をひもとくと、武士が、刀を抜いたという事がないのです」
と、もっともぶった声で、「忠臣蔵」が悪い行為のように、ひびかせ言う。
わたしは、上級の士族社会を知らないのかと思った。

1977年の秋は、文学部長として、平石善司先生から、科学哲学の下村寅太郎さんを、
「下村先生、ウチの学部長の、今中です」
と、あらため、紹介された。
平石善司先生に、笑顔で、肩をもたれた、今中寛司さんは、仕方なしに、お辞儀をして、つぎは、哲学流の、握手を、嫌々させられているのを見て、わたしは、わらった。

荻生徂徠は、五代将軍徳川綱吉の時の、播磨の国、浅野長矩(あさの・ながのり)を、即日切腹させたことで有名である。
今中寛司さんの出自は知らないが、徳川、松平家の社会は、イエでおこったことは、イエで処分ということになる。
これは、この規律があるイエで育たないことにはわからない。

わたしの出自の、親藩、桑名藩松平家は、城が、取り潰しにあった。
血縁は、「前田、佐川、長谷川」一家系三家名として、取り潰しにあったが、会津藩松平家、若松城に、筆での残骸がある。
桑名市史では、残存二家系の一家系が、わたしのイエで、祖父の遺言により、わたしが筆頭である。

赤穂浪士による、忠臣蔵の考え方だが、これは将軍家が、身内の旗本をひいきし、「外様」への「不公平な判断」で、親族、義士による行動と考えたほうが良い。

わたしは父からも、兄弟は、結婚した以上、他人のはじまりと習った。
血族であっても、結束というのは難しく、播州赤穂「忠臣蔵」はそこで、成立している。
大衆は、なかなかできない、結束に、ロマンをもつ。

尾張藩出身の山田忠男さんが、湯川秀樹さんが病気をいいことに、わたしの、イエを詮索した。
わたしは、沈黙を守ったが、講義でゆくと500時間は越えた。
付き合いが長いので、仕方なしに、跡継ぎの母方は、室町末期からの18代なら言えます。血縁が多い、父方はもっと古いですが、父方の母方は、と言い戒名をいうと、ロッキングチェアーをひっくりかえしそうになった。

倫理学の川島秀一(同大、経済卒)さんは、「ぼくのイエはねぇ、有名な哲学者と親戚だけどねぇ」
とだけ言った。
川島秀一さんは、福岡で、呉服屋のイエが倒産し、姉夫婦が、洋服屋の吉田謙二さんの世話になったとはいわなかった。
それで、修士だけの、吉田謙二さんを推挙したと言わなかった。
この川島秀一さんが、枚方市住まいのわたしを、150分以上かかる、左京区の三宅八幡まで、何度も呼ぶ。
理由は、市会議員選挙のことで、左京区の京大の票、300票という。

わたしは、未知の人の、市議選で、呼びつけ、もし、湯川秀樹先生が亡くなられたら、責任を取ってもらうからと言った。
「マツダ君は、カントを誉めるけど、カントは、くどくって、バカだからね。フッサールが原書で、すらすら、読め、何も言わなくても、本質がわかる相手でないと、仕事など、しないよ。若い研究生と、なんて、のも、無理だね」と言った。
後年、知己から、1990年代、大阪教育大の倉本香(同大、神学卒。1964年ー)さんとの、「カントの共同作業」を聞かされ、嘘が多い人だと、改め、思った。

このときも、自宅の、御簾にかけた「新島襄」の肖像へ向かい、いつもの「助けたまえ、新島襄先生」とやるので、その言い方は、他の宗教ではないかといい、わたしの育った地には、聖徳太子、弘法大使、法然、親鸞、石の宝殿の地蔵さん、大石神社、鹿島神社、門戸厄神、清荒神さん、マリア様にキリストの信仰が在ると言った。

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湯川秀樹さんは、(1907〜 1981年9月8日)亡くなられた。
わたしの手のライン、皮膚隆紋を解読し、書き上げた論文(1983)は、生前、まにあわなかった。

倫理学の川島秀一(同大、経済卒)は、このとき、川島秀一氏さんに、市議候補で応援をといったのは、いま、左京区の市議「鈴木正穂」さんという人物だ。
鈴木正穂さんのことは、鴨川夏の納涼祭で、「偶然」、知り合った、隠塚功(おんづか・いさお)さんがきっかけだ。

隠塚さんは、「福岡県」のところに居て、京都弁だったので、わたしが、ことばの抑揚をいうと、京都市議で、民主党というので、民主党なら、羽田孜(はた・つとむ)さんの後援会長宅とは縁があり、同じく市議で、民主党の鈴木正穂さんのこととなり、鈴木さんには、300票の貸しがあるけれど、言ってはいないといった。

隠塚功さんの名刺に、経歴がかかれてあった。
イエの縁で、昔、妻が勤め、いま、わたしの知己の大半が、理事となっている会社に奉公したとある。
また、イエの隣が、衆議院民主党の平野博文(ひらの・ひろふみ)さんの後援なので、以前、わたしたち家族たち、全員、平野博文さんへ、清き5票以上書いた。
礼は、「ほんとうに、ありがとうございました」である。
それでよく、わたしも、お辞儀をした。
どちらもが、松下電器産業や、松下政経塾出身だそうだ。

わたしの父方に、明治時代、養子にきた、わたしの、ひいじいさん(旧姓、松下)は、昔、小さかった、松下電器産業の、松下幸之助さんをひいきにした。

わたしが、羽田孜元首相の、後援会長の方に、「信州真田十勇士」、松代藩松平家の家老で、真田幸村の命を助けた、本家ゆかりがあるというと、父は、「松下九人衆(まつした・きゅうにんしゅう)」の話をしてくれた。

松下九人衆は、「死ぬも生きる」も、「幸之助」と同じで、松下電器産業は大きくなり、松下グループ30万人により、社会へ貢献できるようになった。
1970年ごろ、近所に、洒落た、オレンジ瓦の大きなスペイン風屋敷ができ、妹は、
「あんなイエがいい」と言った。
父は、「世の中には、お金持ちがおるの」と播州弁で言った。

が、後年、父は、この松下九人衆のひとりだったご主人が亡くなられ、その夫人のため、ビルの建設の面倒をみた。
お金を使い切り、礼は、「明太子ひとつ」だった。
その後、倒産されたというので、わたしが、なぜ、止めなかったのかというと、
「素人には、ビルの維持ができんと言っても、なんぼ言うても、きかんかったんや」
と情けなさそうに言った。

わたしが、松下電器のことで、父が何回も、みにいった、別荘、東山の「真々庵」(左京区)は、どうなったのかと聞くと、
「まだある。動物園があるやろ」というのだけれど、場所がわからない。
会社のとちゅうで、父が、身なりを変えに、戻ってくるときは、「真々庵」に呼ばれるときだ。なぜと聞くと、下請けが、不都合をおこしたといい、
「むめの(幸之助夫人)の、おばはんに、叱られに行くんや」と言う。
どうしているのかと聞くと、
「じっと、直立したままや」という。
わたしは、この東山の「真々庵」を、さいきん、ようやく、見つけた。

2005年2月、父の誕生日のまえ、国際レートが動いた。
松下電器産業は、切り抜けられるというと、「そうか」と、父の声は、明るかった。

不況の、京都の話の中、市議の鈴木正穂さんという人物が、自分自身のことが書かれてある本を送るというので、はじめイエを告げたが、東山へもってゆくという。
それで、その日、仕事を中止にしたが、来ない。
それで、インターネットで注文をし、訪問は断った。

半月ほどして、仕事中なのに、とつぜん来る。
来ないでくれといっているのに来た。しかも、酒がはいっている。
菓子屋の袋をみせる。袋を、ぶらぶらふる。
推薦文が、「鶴見俊輔」さんで、京都は、僧侶だらけだ。墓地は、いくらでもあるのに、鈴木正穂さんがねむる場所が「この日本にあるのか?」となっている、酒谷佳子さんの本をサイン入りで持参したのかと思った、ビールといい、また、紙袋をさわる。紙袋に手を入れる。本をだすのかとおもったら、ちがった。
すごい、演技力だ。

偉い。京都市副議長というのは、大臣より、国会議員より偉いようだ。
父が尊敬している松下幸之助さんより偉いようだ。
選挙の票を、同志社、経済出身の川島秀一さんへ、頼んだのを忘れ、まったくの、他人の、善意を忘れ、
「そっちからメールがきた」というので、同時に、隠塚功市議や、京都府山田啓二知事にも送信したと言った。

ふつうは礼をいうのではないかと思ったが、傲慢な態度だ。
清水寺かいわい、八坂さん、祇園は大変です。酒どころの、伏見もというと、
「東山区なんか、関係がないんですわぁ。南のほうは、知らんなぁ。あんな厄介なとこ、関心ないわぁ」と言うので、
選挙区である、左京区の、銀閣寺かいわいはじめ、みやげ物屋さんも、困っていらっしゃるでしょうというと、
「そーですか? そんなことないなぁ、わからんなぁ」という。
あまりにいい加減なので、まるで「悪代官様だ」と言うと、
「なんだぁ、こりゃ」というので、
妻に、これは、悪代官以下で、警察と言うと、
「暴れたのか」と鈴木正穂さんはいって、紙袋をさわる。
本でも出すのかと思うと、ぶらぶらさせて、本をもって「また、来させて、もらいまっさ」といって、帰る。

乱暴な言葉による、わたしたちへの侮辱。
また、東山区、南区、伏見区の市民への、人権侵害発言がわからないらしい。

原爆二世の友人の、ケロイドや、「体細胞」を破壊してゆく白血病などの発症をいうと、
「二世はケロイド、でませんよ」という。
それで、わたしは、豊中市庄内小学校での同窓がおり、皮膚の柔らかい部位から発症する事実を言った。
年頃を向かえ、いまの気持ちが、恋愛であると知り、結婚をおもったとき、赤いケロイド斑点がでてきた、女性の苦しさが、わかりますかと言った。

広島大学医学部の原爆放射線、医科研を、ご存知でないのか、長崎大はと、強く言うと、原爆二世という鈴木正穂さんは、
「知らんなぁ。なに言っとるか、わからんなぁ」という。
わたしは、わたしの学問の基点は、欧米科学者が持ちつづけてきた、誤りを、言及するところにあるといった。

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サルトルが理解できず、思想をもった大岡昇平さんの姿勢がわからず、自己宣伝で、戦争反対と言い、読売新聞に「野上素一、盗作」と報じられても、1985年、岩波から朝日へ圧力をかけ報道を止めさせた「弥生子」の葬式にゆけ、口うるさい両親に育てられ、権威、権力主義だけで、文章力もなく、競争心、野心が強いタイプを抑制する効果抜群のノーベル賞をもらい満面の大江健三郎や、哲学がなく立命館や共産党を利用している加藤周一。

加藤周一の版元を利用し、盗作は平気、毎日新聞社の週刊誌で20年がかりの、わたしの著作をからかい、担当の編集者をノイローゼにさせた、立命館平和ミュージアムの安齋育郎。
この安齋に盗作を指摘すると、「ぼくは、東大時代に迫害をうけた、同情してくれ」といっただけで、学問への志向はなかった。

版元の、長岡京市住まいの、責任者が、千駄ヶ谷の出版社へきて、「京都新聞社に勤めていました」というので、わたしは、白石英司(「電通」修行→京都新聞)さんを、ご存知ですかときくと、「ええ」という。
責任はときくと、「これから、加藤周一」と会うといい、「うちの会社は、印刷の、田村能史が」と言う。
名前を忘れていたら、『ー懲りない面々』に著者、湯浅俊彦とある。
わたしは、湯浅俊彦さんたちのことを書かれているのかと思った。

また、別の書では、今西錦司、梅棹忠夫さんたち出身の「西陣」で苦労され、文化にと、『高麗美術館』をつくられた鄭詔文(チョン・ジョムン)さんに、たいへん、世話になった、岡部伊都子さんや、司馬遼太郎さんたちを、書いていると思った。

この嘘、不正が日常の安齋ファンといい、1994年、「業績のない詫摩武俊さんはガンでもう死ぬ。松井豊さんは要領と打算だけ」といい、以前の勤務先、福島大学には、「能力のあるモンは、一匹もいない」と人権差別発言が平気で、権力とゼニをもとめ立命へきた心理学屋、当たり屋で、たかり屋の佐藤達哉は、
「こんなとこ長いはしません、利用」と平気で言ったので、立命館出身の級友の心を踏みにじるのか、許さないと発言したと、わたしは言った。

また、鈴木正穂さんの、手のひらのラインを見て、あなたは、甘え育てられ、苦しむ「労働者」を知らない、猜疑心が強く、昔とちがい、責任などとれない短気な性格になったと言った。

そして、わたしは、いい加減な、社会学者で、「べ平連」の日高六郎さんも、注意をする人間と言った。
日高六郎さんに紹介された、悪党で、差別感と猜疑心だけで、弱者をふりまわし、権力をふるう好色の野間宏さんという作家とやらも、叱り付けた人間といった。
好色のべ平連、小中陽太郎さんは、NHKのスタジオで、野際陽子さんとやったというが、中庸な人間だったと言った。

が、野間さん同様、これほど、人権を無視でき、差別好きがいるのかと思ったのに、桃山学院大の沖浦和光さんが居たが、完全に、無視されたと言った。

沖浦和光さん、わたしだ。20数年前(1983)、野間宏さんとの桃山学院大文化祭を、思い起こせますか。わたしの人権を、弱い立場の心身を代表して主張した、わたしの言葉を、あなたほど、無視できた人は、過去いない。

そして、この桃山学院大の社会学には、「腹が立つ」ではない、原田達さんという、HPに、わたしが未成年禁止の画像を貼ったというものがいる。
が、わたしは、その画像すら見ていない。画像の操作を知らないものがどうして貼れるのか。証拠があるというので、証拠を出しなさいと、大学へ勧告をした。大学職員は謝罪した。
が、原田達さんからは無い。
この、原田達さんの、悪党仲間か、革命だ、破壊だとかだけで主張が、分からない、ただ、からんできた、有名マスコミ人病の、好色酔っ払いとだけは言える、大阪社会運動協会の、谷合佳代子女史もいた。

二日酔いだと、大阪府の職員は、何を発言してもいいのか。この谷合佳代子女史の発言は、そのまま表現しにくい。
類似の人をいうならば、社会学者の日高六郎さんの、暢子夫人である。
日高暢子夫人は、わたしが、電話のたびに、「山田忠男先生の紹介で」と言う、表現を、「あらっ、山本明(同志社、新聞、べ平連。1999年9月没、66歳)さんなのね」と、あげあしを、くりかえし言う人だ。

山本明さんは、1975年ごろの、文学部の集会でか、学生代表の、「田辺町移転、学問を失う、大学としての根本責任」という、質問たいし、「質問とは、すぐに、答えなくて、いいものなのです、、、」と、笑い、言ったので、「学生側」に出席を、と懇願されていた、わたしは、「わたしの知らない、山本さん。これまでの、あなたの発言には、誠意がない。地方から同志社へ学びにきた人の、真剣な質問で、即答できるものだから、答えなさい」と注意をした。

そんなことができるのは、かれらと知己なのか、ハンドル名が、「あらし」か「あほらし」の、同志社大法出身の大橋さんとかだ。この大橋さんは、わたしに「マツダさん、2ちゃんねるも知りませんの?」と言うので、テレビはないというと、「その、2ちゃんねると、ちがいます」と、大声で笑ってくれた人物だ。

桃山学院大の学生諸氏、この沖浦和光さん、原田達さんの、本質を見抜き、的確に批評しなさい。
批評する視線と思考をもつこと、言葉へと表現すること、これが社会学の精神である。良い先生はいる。

鈴木正穂さんは、同志社大学へ行っているという。

わたしは何の関係があるのかと思いながら、いま、同志社大の狡猾な人権屋の浅野健一は許さないといった。

そして、同志社女子大の図書館は、わたしの町、高砂市、(むかし、曽根村一番の「持ったり屋(財産家)」で、建設大臣の渡海元三郎)さんの、お嬢さんが、同女に、居ることがわかり、できあがったと言った。

国会議員に、さわられると、「おぎゃー」という、乳児のわたしを泣かさなかったのは、いつも規律がある姿勢をされていた、渡海さんだけで、いま息子さんの渡海紀三朗さんがされているというと、
「聞いたことないなぁ、知らんなぁ。現役です、かぁ?」と言う。

ふつう、カァというのはカラスだ。
播州平野の、高砂市民、加古川市民、播磨町、稲美町の、渡海さん親子の支持者、この発言をどのように考える。
わたしの、祖父の友人、播州の社会党や民社党の元国会議員は、まったく分らない。
先祖ゆかりの、姫路、明石、神戸、尼崎市の人たち、東京圏、中部圏の人たちも、ふざけた発言には、抗議をして、とうぜんではないか。

母方の祖父の、友人の兵庫の知事など、言ってもわからないだろうから、黙った。
わたしの血縁が随行した、福田赳夫元首相や、母が応援した三木武夫元首相はわかるらしい。

鈴木正穂さんの、先生に、左京区田中、寿仙院の、竹田聴洲(たけだ・ちょうしゅう、日本文化史)がおり、いい加減な人物のように言う。
それで、文化史の竹田先生は、学者から評価され、文献学も本物で、講義中、自分自身に厳しい方と、わたしが言うと、受講した妻は、「立派な先生でした」と答えた。すると、
「竹田先生の講義、受けていません」という。

「べ平連」で、いい加減な人なら、風俗家で、哲学などできない、鴨川に流すと、よごれると、良識ある京都市民は怒る「鶴見俊輔」だと言った。
だらしなく責任を取れない、「左欲(さよく)」とかの、セーヌ川に流すと、きたないと、良識あるパリ市民から怒られる「日高六郎」だとも言った。

哲学の平石善司先生は、「ツ・ル・ミ・はー」と顔を紅潮させ、生き方の卑劣さを言った。おっとりされた平石先生の言葉にびっくりした。が、これは、同志社はもちろん、哲学界、皆、同じだった。

妻は東京から、もどってきたとき、左京区の会社の社長室へ勤め、世話になったというと、それは近所と、わかるらしい。
京大と、京都大学病院が、左京区にあるぐらいはわかるらしい。

それで、自分ひとり、ビールを飲んだ後、「ぐいっ、うっ」「ういっ」といい、
「お、おっ、奥さん、奥さん」となれなれしいので、注意しても、
「おっ、奥さん、奥さん、帰りますわ」と、お土産を用意しないと、いけないかの調子である。

あれから、月日が経った、とうぜん、責任を感じ、「必然」とし、京都市議は、辞職し、季節がら、これから、冬にかけ、清い鴨川で、禊(みそぎ)をされるとおもう。

と、書いていると、京都の桝本頼兼(ますもと・よりかね)市長が、京都の不祥事の数がたいしたことはないといい、議会は騒然としたという事をきいた。

市長も同じく、毎日、10時間ほど、鴨川で、禊をされるだろうし、市民からリコールの声があがれば、受けとめるとおもう。

大阪市では、2006年、町内会長の手当ての廃止となったというのだから、歴史は大阪に負けるが、京都も大阪を手本とし、先に、市長、市議の大半は、名誉職として、給与はいっさい無し、労働につぐ労働の方針をとることにすればいい。
大阪市など各自治体も、真似て行くだろう。



▲1965年度卒業アルバム。依頼で、「アクキガイ」を選び図案化、放課後、2ヶ月、未来へ夢が飛ぶ形にしたのは松田。ところが、岡先生は天地を逆にして採用し、出来上がり、反対ですというと、「これでいいんだよ」と言われ、ショックを受けた。
▼豊中市庄内小学校、6年3組、上、左から2番目、松田

◎松田の左、早川君(立命館OB)、右、山本君(立命館、理工OB)

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-10-22