京都昨今
33、東山論U     文化をはばむもの         因縁と無関係    

1)
円山公園から、知恩院へと出たところに、吉井勇の歌が、刻まれた碑がある。
「かく大き  愛のすがたを  いまだ見ず、この群像に  涙しながる」
1934年9月21日、室戸台風での、災害のとき、小学生1年担任の松浦寿恵子女史は、自分自身の心身でもって、児童7人の、「覆い」となり、ともに、なくなられた。
教師はこうでありたいともいえる。

2004年7月18日、福井水害があり、一年に一回ほど電話がある、義理姉が、「足羽川が、氾濫して、親戚が」と、わたしに言うので、妻の血縁の位置は、記憶にあるので、みな、大丈夫だったでしょうと返事した。
それでも、妻と性格が違う、義理姉は、「親戚の親戚が」と、足羽川の中流域から上流をいう。そのため、そこまで言われると、仕方がないですといった。

機械と水が、専門の父に、この電話の話を言うと、妻の父の実家が「水に、つかるか」の一言で終わった。
後は、永平寺から三国、芦原を、父は、1960年代、旅行で数度行き、わたしも、知っているので、九頭竜川のことの心配と、足羽川からの、日野川が氾濫すると、地点では、「風巻(かざまき)」が、一番、危険地帯となると要約した。

父は、福井駅から、天井川の説明にはいり、妻の父の生家までの、12キロの地形の高低を言う。
妻は、「九頭竜川が福井に」「風巻!?」というので、梅雨から初夏の雨が、白山にたまっているばあい、九頭竜川水域が危険で、足羽川は弱くなると、地理を説明した。
地勢のことは、専門の会話となる、父とわたしとの関係に、おどろき、
「一度しか、通って、いないのに」というので、クルマで、往復したと言う。

父は、水準器のような心身をしており、わたしなど、まったく及ばない。
そして、父は、結納と、葬儀と、2回。往復で、4回しているから、心身に、地形は入っていると言った。

同年、2004年初夏から8月、わたしは、京都の人口減の北山周辺を歩いていた。
田畑(でんばた)を宅地に変えたため、雨を吸収する土地になっていない。

2004年は、1960年代のように、京都名物のにわか雨が連続し、琵琶湖疎水を、何を考えて、鴨川へ流出しているかと思う行為がつづいた。
この結果が、8月7日、鴨川納涼祭で、三条から四条の水域の氾濫に近い状態を引き起こした。
府警本部から、納涼祭を主催しているひとたちへ、緊急避難がだされた。
豪雨は、三条通りを、川のようにした。

2)
これらは人工でもあり、自然災害のことである。
人災のことだが、一休宗純は、三代将軍足利義満に、
「このはし わたるべからず」の、なぞなぞ問題、をだされ、真ん中を通ったというのは、
有名な話だが、
「この橋、ぜったい、わたるな。来るな」と書いてあっても、来てしまえるひとたちがいる。

2006年はじめ、大阪府警、吹田署の自称刑事課の警部から電話があった。わたしは、吹田市千里丘の中野さんが自首をしたとおもった。
ところが、ちがう。
わたしは、逮捕状をとれる「刑事課の警部が電話を?」と言った。わたしは仕事中ですよというと、
「わたしもです」と広兼警部はいう。わたしと、年齢が同じだそうで、すべて対等以上だそうだ。
この広兼警部の、口調や、論理でゆくと、府警本部長や、警視総監が、この警部より、年下であれば、この警部の言うことを聞かなければいけないと言うことになる。

はじめ、行くというので、「はい」と言い、京都府警に、きちんとしてくれないから、こういうことになったと言った。
そのあと、大阪府警本部へ注意をした。
2006年2月17日、悪党、広兼(ひろかね)警部は、「来てくれませんか」となり、
「そういう行為をしたんだな」と取り調べふうの、強圧的になった。
さらなる、確認のため、電話を切り、吹田署の警部というと、警部は不在と言い、
「広兼は警部ではない」といい、広兼さんしか出てこないし、署長名というと、言えないという。

大臣以上にえらい、川城清憲吹田警察署長は、いつも不在とのことだ。
大阪府警本部、生活安全部へ連絡しても、反応がない。すると、ここの前の課長が川城さんとのことだ。
天下り制度を、止めにする時期であるし、犯罪を防止し、犯罪者をつかまえるのが、警察の基本、義務ではないのか。
この金山工務店は、天満警察署に、表彰されたという。
いったい、どういう、構造なのか。

警察庁、特権を、不正に利用する、大阪府警の輩を、吟味する時期ではないのか。
警察は、市民の生命の守護、生活の維持が、本質ではないのか。

1975年、山田中学出身の中野さんたちが、わたしのイエに来て、川端康成、三島由紀夫などの、全資料を持って返ってしまった。
必要なので、返却をもとめ、中野さんに、わたした書籍は、1000冊ぐらいになるだろう。
これが、ふつうの数か。
わたしたち、夫婦して、千里丘中58のイエまで行った。が、返却しない。
この中野さんの、友人に、女学生に猥褻な行為を連続してできた、前田の博司さんがいた。
同志社大学のとき、手相の会をつくってくれといわれ、わたしのは占いではなく、学問だし、忙しいので断った。
夜中に、「河原町で飲んでいる、お金がない」との電話をしてくる。

3)
この原因は、啓光学園で、わたしが勉強などをみた下級生が、同志社に数人いて、メンバー3人になったという「古美術研究会」の復興を求められ、わたしが、勧誘し、大きなクラブとなり、その礼というか、啓光学園OBが、前田さんたちに、おごったことによる。

あまりにも、わたしの時間を奪うことがつづくので、観相会というのを、前田さんによる登録でした。
が、学生会館の前にゆくと、責任者はわたしとなり、会への出費も、すべて、わたしで、文化祭では、わたしが働き、収益の使用は、前田さん、中野さんだった。

これらの経過をみていた、軽音クラブで、ウッドベース担当の大橋君と、少林寺拳法部の橋本君が、わたしを、神学部のまえによび、文化祭の構造を説明してくれた。
他のクラブは、大学から、数十万単位をもらい、そこから、場所代を払い、あとはコンパに使っているという。

わたしのように、ひとりが出資し、ひとりが中心に働き、わずかな利益を、参加者に与えているのは、「いません」と、食事抜きのわたしに、「おでん」をもってきてくれた桃山学院出身の大橋君が言ってくれた。

1976年、わたしの父が、大阪医科大から、肺ガンと言われた。いまでいう、「アスベスト肺」である。

イエ中が心配しているころ、吹田市の、中野さんの父親、中野敏人さんから、電話があった。
「逸人(はやと)が、十二指腸潰瘍で、入院しましてん。単位のことで、来て欲しいいうてますねん」という。
わたしは、仕事中ですし、もう一年してください、教務部へ行かれたらどうですかと断ると、
「なに言うてますねん。逸人が、言うとりますんやで。だれが言うとるんか、わかっておりますんか」「もう一年やて、もったいないですやん。わかりませんのか。わたしも仕事で、忙しいねんで」という。

この1956年生まれ中野さんは、いまでいう、ストーカー行為、窃盗を連続してする言動には懲りていた。わたしが断ると、
「ちょと、待ってくださいや、ハヤト、ハヤトに聞いてきますわ」という。
また、電話をしてきて、
「逸人は、友だちやから、してもうて、当然と言ってますで」と言うので、わたしは、ふつうの学生ではないし、友人ではないですというと、
「マツダさん、逸人より、年、行っていて、何いうておりますんや」というので、電話にでたのが、肺ガンと言われた、父が出たので、父のほうがあなたより、年下ですがというと、
「年上のいうことを、年下は聞かんといけませんわ。わたし軍曹でしてんで、中国の南で、なんにんも、やってきましたからな。二等兵は、上官の命令きかなあきまへんわ」という。

わたしの父は、1941年軍属で、45年、召集となった二等兵だった。
そして、再度断ると、つぎは、ハヤトさんの母親中野文子さんが登場し、得意の「マツダメー」とか叫んで、電話を切る。

これが、冬場へつづき、「うちのハヤトは、セガレは、そんなに、バカですか。女の子に、ハヤトは、あんなとこ見せて、強要するなんて、情けない。そんな悪いことするんですか」というので、はいそうですがと、注意し、反論ができなくなると、
「わたし、いま、ももひき、半分で、ぶらぶらの、スッポンポンで、寒いんで、切りますわ」という。

中野さんの母親に「マツダメー」といわれるのは、わたしが中野ハヤトさんに、泥棒だけはしないように、各種の生理現象はトイレでするように、女学生を付回さないようにと、注意したせいである。

また、中野さんの父親が「ちょっと、待ってくださいや。ウチとこ、マツダさんに、世話してますやろ」と言ってきたので、まったく反対で、それは、鹿児島の前田さんとちがいますかと言った。

「何いうてはるやら、マツダも前田も、おなじような名前ですやんか、わたし、鉄道弘済会の、キヨスクの京都の課長で、偉いんでっせ」という。
わたしは、そんな偉い人とは、まったくの無関係といった。

が、大学へ行くと、「女の子に、なにするかわからんよ、鹿児島男児だ」と、県立甲南高校OBの前田さんがつきまとうので、わたしは、大学の恥とおもい、中野さんの、単位取得を、各教員にあい、前期も後期もしてきた。
礼など、まったくない。

4)
1977年、科学哲学の下村寅太郎さんの講演のことで、川島秀一さんに呼ばれたが、おなじころ、東大の科学哲学の村上陽一郎さんが、大学のフェスタのゲストで、チャペルに来演された。
わたしは、川島秀一さんに約束を破られ、時間があき、東北大学の日本倫理思想の村上さんだろうとおもったけれど、若いし、内容が、近世哲学から現代へゆくので、「?」とおもった。

しまったと思ったのは、チャペルの中央部に、中野さんたち学生が来ていた。

村上陽一郎さんの講演内容を、
「この人、東大の有名な先生やのに、まちがっている」と、中野さんがいう。
わたしは、大学での、現代哲学の講義は、みな、ぼんやり聞き、ぼんやり退席することにしていた。
そして、聞き手が、華やいでいるので、これは、このゲストの方の解釈で、これで良いと、いった。

いや、まちがっていると、脚をガニ股にし、ドタドタさわがしいので、中野さん、あなた自身、質問しなさいと言うと、
「ぼく、でけへんもん、マツダ、わかってるやんか。マツダに注意されるされると、出てしまう、う、う、うんこ」
と、お稲荷さんのキツネをデフォルメした顔が、河内弁でいった。
チャペルでされると、大変なので、わたしは、濃い茶の皮ネクタイの、村上さんに質問する形となった。

このあと、生協で、わたしが知らなかった、村上陽一郎さんの書籍を三冊ほど買ったが、書く、趣旨が、わからないので、同志社図書館の前で会った、いま、哲学科の工藤和男さんに、村上さんを知っているかどうか尋ねると、
「知っているよ」と、ごくふつうに言うので、一元論と二元論で困らせたことをいうと、
「そんな学生の言葉にのったら、いけないよ。これは村上さんの書き方だよ。教員だよ。村上さんは、わかってるよ。ぼくらは教員なんだよ。学者のまつだ君からの、議論はダメだよ」と言う。

わたしは、騒ぎをおこしたと思い、平石善司先生にいった。平石先生は、
「日本は、紹介の哲学ですからね。哲学談義とかにも、なりませんね」とほほ笑んでおられた。つぎに、1976年退官されても、まだ、同大と、同女に、講義をもっている、山田忠男先生にも報告した。

昔、科学史学会にいた、山田忠男先生は、
「科学史の村上陽一郎君がゲストで、来てくれたのですからね。病的な学生は居ますが」といい、知己の司会進行役が悪いとの判断をされた。

5)
この中野ハヤトさんというひとは、特殊で、1975年は、いま、J.ジオノを訳されている、妹さんがいる教室では、後方に、さらに、下宿先まで追跡する、いまでいうとストーカーを、ずっとしていた。

わたしは、女学生から相談されるのにも、時間をうばわれ、疲れていた。
中野さんのは、迷惑行為だが、授業中はじめ、日常、「心―身」を離脱させ、いろいろなものを出すときき、大学の恥だし、どうすれば止めるのかと、同志社の正門の、新島襄の碑があるところで注意をした。
「一度、デイトしたいねん。そしたら、止める」というので、この山本女史に、大阪フェステバルホールでの、ポールモーリアをつきあってもらった。

「お礼を、どうしよぉ〜。困るし〜」と、鼻濁音が入る、わたしが苦手とする、播州弁でいわれたので、モーツアルトのジュピターにすればと、わたしが言った。
すると、この中野さんは、つぎに、また、ポップ音楽の外人オーケストラの切符を買ってき、
「なに言うてんねん、恋人やん。そやから、デイトするねん。親にも言うた」という。

山本女史、WU女史、和田さんほか、魚住さん、加納さん、池田さん、葉山さん、田沢さん、KO女史、斉藤さん、岩倉さん、同志社も同女も、京都市立大、英文科、文化学科、音楽科の女史は、中野逸人さんは変態とのことだった。

また、山本女史に、つきまとっている、中野さんを呼び、注意すると、
「マツダにダマされた。ぼくのここ、山本さんに向いて、興奮してんねんで」と、中野さんは、大声で言い出した。

わたしが、資料の返還と、注意をいうと、
「えっ、なんで、もろたらあかんの、マツダとこ、本いっぱいあるやん。なっ、かまへんやん」と聞かないので、警察へ届けると言うと、
「ちゃうねん、ちゃうねん。返すやんか、そしたら、ええんやろ」と、泣くような表情をする。
「わたしの生原稿や生楽譜」も返還がまだで、この種の犯罪を、30年ほど、わたしはされており、京都府警には、連絡している。

違法行為なので、大阪府警本部へ、吹田署の、自称、広兼警部と、中野さんの木島喜一弁護士(大阪北区06-6360-6601)とやらも、逮捕して欲しいと連絡した。

中野ハヤトさん&ケイコきょうだいは、わたしにも、わたしの妻にも、被差別発言はするし、1976年は、前田さんと、わたしの妹や妹の親友にもハレンチ行為をした。
1977年は、音楽祭に出たいと懇願するので、京都市立芸大に協力してもらった。最低のルール、弦代は、エチケットとして、礼をして欲しいというと、
「うぇーえっ、マツダ、めぇー、ウチの子は、若いんやで。アテは、むかし、物売りや、なんでも買うでぇ」と、大正区で、スッポンポン踊りの名取という、わたしが知らない、民俗芸ができるという母親が、怒って電話をしてくる。

1977年の秋は、田中泯(たなか・みん)さんの、前衛の芸能をみているときは、わたしの後方に来て、しゃがんだ、逸人さんは、わたしの脚もとに隠れ、油手の性分なのに、わたしのズボンを持ち、「あかんねん、あかんねん」と絶叫しはじめる。

わたしは、前衛の演技をされている、最中で、あなたは前衛に、理解も関心もないのだから、去りなさいと注意した。それでも、
「あかんねんいうたら、あかんねん、ぼくのと比べられるやんか。ぼく、困るやんか。ぼく、ここ好きやねん」と幼児性の性器だけの感情だけを言う。
この舞踏家は、プロテクターをはめていると、説明しても、「ちゃうやん。ちゃう。見えてる。わかってくれへんのか、みんなに見られているやんか」と地面に座り、地面をたたき、中野さんは怒る。

6)
1980年2月下旬、京阪電車が置石されたとき、自称、大阪大学理学部の、赤堀四郎(あかぼりしろう、1900年―92年)さんの、後継という、バイオケミカルの世界的権威、「蛋白質研究所」の所長という、未知の河合清三(かわい・きよぞう)さんが、妻の、勤務先へ、朝から、電話を何度もかけてきた。
「大阪大学理学部の研究所長」「大切な娘が、行方不明で、自殺のおそれ」とか、言っているという。
これで、京都の四条通りにある、妻の会社の本部は、人命救助と、大変な、情況になったという。

自転車で10分の距離、母や、妹が電話と呼びにくる生活をしていたわたしは、もう、どんな相手でも、電話で、バタバタしないようにと言った。「まったく、無関係だ」と言った。
それでも、来る。わたしの妻が大変だと言っているというので、妻の、友人でもなんでもない。まえに、迷惑をかけられただけと言った。

あまりに、異常な電話の連続で、リルケやゲーテの翻訳で知られる、京大、縁故や生まれを嫌い、才能を重視された、大山定一さんの、門下(夭折された、京大、本郷義武助教授)の弟さんから、注意がはいったという。

仕方がないのかと、大阪大学へ電話をすると、「ナカノ」なんとかに、「いて、、、、、。ここでいえない」のような言葉をいう。

正確には、「いてこまされて」だが、意味論上、分析すると、「行く」と「困らせる」が合体した言葉なのか、由縁がわからない。
この河合さんが、すぐ電話しますと言うので、実家で待った。
電話があったのは、6時間半ぐらい後だった。
河合清三さんは、娘さん、陽子さんどうように、池田市井口堂2丁目で、敷地400坪から、との電話だった。

わたしの脳裏には、とうじ、数種類の、世界の遺伝子頻度表があったので、これが乱されないように、注意をしていた。

また、京大の「河合」とも言うので、京大理学部の河合三兄弟のひとりかとおもった。
手のラインが同じのせいか、思考パターンは良く似ている。

そして、夜、8時半ごろの電話のとき、「なぜ、わたしに」と聞くと、河合さんは、「いちばん、しっかりしてそうで」という。
中学や高校で信頼できる同級生は、どうなのですかと聞いても返事をしない。わたしは、あきれて断った。
阪大の生物には、今堀宏三先生がいらっしゃるというと、「あのアジテータの男」というので、山村雄一(医)総長だと、紹介状を取りますがというと、無言になる。

いくら断っても電話を切らない。中野さんとの、人間関係を聞くので、わたしが一方的な被害者という関係だけですが、と言うと、
「娘から聞いているのと違いますね。ウチの娘は賢いんですよ。どんな親ですか。ほんとうですか?」
と、中野さん親子にあえばいい事を、理解しにくくいう。
そのため、賢い娘が、なぜ、妊娠されたのですかと、婉曲的に聞くと、
「このことは内密に、沈黙は金です。学問に、秘密が大事なように、黙っておくのは、大事です。娘は賢いです」と説教をしてくれた。

このあと、中野さんは、岸和田市岡山町の河合清三さん宅へ行き、実家が、「山崎製パン」のオーナーと聞いていたのに、「山直(やまだい)パン」や、「騙された、へんなもんと、してもた」という連絡をしてきたので、あなたは、人間でなく、会社と結婚するつもりだったのかと言った。

中野さんは、わたしが、1980年6月29日の、新幹線の地震の事故で、疲れ、印刷所とで忙しいころ、
「マツダ、論文欲しいねん」と、何度もやってきた。
わたしは、何も関係がないものには、この論文など、白い紙以下だというと、
「なに言うてるねん、ぼく、マツダのこと、認めているねんで」という。

中野さんの子供の、出産のときは、この陽子女史が、誕生祝い品と、ずっと電話をしてきた。
金を貸すと、「ウチや、岸和田とこ、3割返しやねん」という。
つまり、大阪の岸和田や吹田出身であれば、10万円借りると、3万円返せばいいという論理だ。
この陽子女史も、わたしたちの、時間と金銭は、いくらでも、奪う。

7)
1980年10月7日、夜、妻の母が、工場で、指を三本切断した。
この前後での、電話連絡で、妻は、8日に、金沢大学病院へ輸血のため、行き、母を思う、看病につかれ、帰宅したころだった。

中野さんの奥さんに、わたしたちは関係がないし、疲れているからと断っても、
「えっ、わたし、いっしょと思います。ファミリアの毛布欲しいんです。わたし、会陰切っての出産で、血だらけでいっしょです、偉いでしょ。ほめてください」と言える人だった。
わたしは、精神状態が、変になっている人と思った。このとき、いままで、わたしをかばう発言をしたことのない母が、
「産婦の顔など、他人の男の人が、見るものですか」と注意した。
この母の声が聞こえていても、中野さんさんの奥さんは、平気だ。
「中野とこは、お母さんも、お父さんも、中野もだれも来てくれません」という。
中野さんが言うのに、すべて、嘘だそうだが、それは、中野さん宅の出来事である。これが、わからないと思っていたら、2006年になって、全部計画したとおりという。

そして、ファミリアの毛布をあげると、つぎ、「結婚祝い、まだもらってません」と言える人だ。

そして、「真吏、撮るから、カメラ貸して」
といって、盗っていったままが、この夫婦だった。

この河合清三さんは、所長ではなく、助手から、「おなさけ講師」になり、京大理学部で有名な人と聞いた。奨学金は限定されているのに、複数分とったので、有名な人らしい。

わたしは、この、人権を考えない、中野さん夫妻に、あなたたちの騒動で、同年、わたしたちは子供を失ったと、言う気持ちもなかった。

この中野さんは、1988年、わたしが小説を活字にしたときも同じ調子だった。東京まできた。

「真吏を私立の学校やらせたいねん」と言った。

8)
中野さんは、就職先の社長が、
「日本人の戸籍を買った在日で、中竹周吾って、高槻高校の同級生で、悪い奴やねん、京都産大、ナイフで人おどして中退や。朝鮮の父親、戦後のどさくさに、東淀川区で日本人殺して、土地と戸籍、パクリよってん」と、病気で、ベッド状態のわたしに言い。
「新大阪住宅建設株式会社、2000年11月に、200億円の負債で、倒産したけど、芝居や。中竹(なかたけ)、金、家中、隠してるねん。枚方市くずはの分譲なんか、カスみたいな土地に、2950万円、バブルや言うて、一日で、3950万に上げよってん」と告げた。
後年、現在の妻との、
「仲人してくれた、副社長、首つって死んでんで、ええひとやってん」と夫婦していい、いまは、「中竹、なんにも、悪ない。キーセン旅行つれて行ってくれてんで。ぼく、韓国女、大好きや。副社長、自業自得や、女、いっぱい買ったし」という。

わたしは、いつも、就職先など、選べるし、雇ってくれた社長は、偉いのではないかと言うと、
「ぼく、みんな、気色悪がって、採用されへんねん。ぼくが、気色悪いの、ぼくのせいか。違うやろ、世の中がおかしいねん」という。

とうじのわたしは、脱脂粉乳の、ミルクだけの生活だった、

わたしは、中野さんと共に、成城学園駅へきた、同志社の学生のとき、女性をみると、痴漢、暴行行為をする、前田さんに、あなたも、わたしと、何の関係があるのかと言った。

2002年2月14日は、いまの「金山工務店」さんという社長たちが、わたしと、京都、東山の不動産屋と、設計について、話をしているとき、佐野友彦さん、金山隆興さんたち三人は、良いクルマでのりつけてきた。
金山隆興さんたちは、わたしへの挨拶なしに、京都で「不詳」として、有名な土地、京都府管轄で、地上17階、地下5階のホテル設計と建設権利を、譲って欲しいとの、話にきたが、とうぜん、無視された。

このあとの来客は、歩いてこられた、とうじ、日本で一番の、著名な工事関連の会社のオーナーさんだった。
もちろん、お辞儀は、しあった。
静かで、忍耐のある方だった。

中野さんが、会社を作ってくれたら、こんなヤクザの「金山工務店」なんかやめるというので、わたしは、合資会社につぎ、株式会社をつくった。
言うセリフは、「社長になりたいねん。株式会社なんか、一円から作れる時代や」である。
2000年、2002年、一円で作れる、会社など存在しない。

「会社ができたのだから、給与をくれ」というので、仕事はというと、「ぼく、総務しかでけへん」という。
そして、中野さんは、「ウチの金山工務店、それに賭けているねん、お願いやわ」というので、重機準備ができないし、京都市の勾配の地勢をいい、ゼネコン最大手が、リストラの連続で、利益率が1%をはじき出せない時代に、周旋率20%など、法外であることを説明した。

そして、この物件、2030坪は、わたしが行っていた不動産屋では無理で、大手の会社と、警察と検察が動くと、意見をした。すると、
「ウチの会社の重役、ヤクザが顔負けするぐらい、ケンカが強くて、執行役員、イトウさんの友人なんか、日本刀で、人殺し、してきてんで」
と常識はずれのことを自慢する。
「200人の会社なのに、アンドウさん死ぬし、スガさん死ぬし、若い子死ぬし、堺の警察に火つけるし、こんな会社ないでぇ、警察と結託してなぁ。河内長野のに会社の分譲のイエやいうて、高く買わして、支払い大変なんや」といい、2005年、願望の課長になると、
「ぼく、大幹部やでぇ、就職したい子ぉ、なんぼでも、おるもでぇ。会社のほうが犠牲者やんかぁ」と言い出す。
そんな時代ではないというと、
「なにいうてんねん、関西アーバンがついてんねんで、Y組いて、皆、知ってる」という。

9)
以前(2001)、同志社(法)OB、オオハシの龍平さんに、編集を教えていた。
いろいろ、あるが、龍平さんには、小さな子供が3人おり、父親との家業が破産し、ウェブ(WEB)作成など才能があった。
あと、1ヶ月ほど、というところで、詐欺、ストーカー常習の中野さんは、いままで、連絡をとったことのない、龍平さんへ電話し、暗躍した。体格はいいが、繊細なところがある、龍平さんは、わたしたち夫婦が犠牲とした、月日を、生産する、人間関係をつぶした。

なにかと、「愛知教育大出身で、教師やってた、オフィス・ワールドの鈴木祐孝がぜんぶ、悪いんですわ。奥村三智治はちがうんですわ。西本浩美さん利用されているダケですわ。だんなさん、西陣の滋野浩毅いいまんねん。『京都ものづくり塾』やってまんねんけど、頼りないねんでん、たかりやの悪ですわ、がははは」と、河内弁でいう、龍平さんの言語も、理解しにくい。

というのは、西本浩美さんというのは、他人の金は、自分のものと考え、礼儀なしの「たかりや」の人物なので、わたしが、理解に苦しんでいるとき、
「ぼく、ぼく。だって、マツダ、オオハシさんのことばかりやもん、ぼく、オオハシさんに、嘘つかれてんで」と言った。
ナカノさん宅には、わたしからの書籍、1000冊はある。各界の人の、サイン本があるので、家宅捜査されればいい。

問題は、この中野さんは、先のパン屋とは、離婚し、二度目の、結婚をしている。が、1980年10月に、誕生し、2005年秋、いま26歳の娘が、いきなり、マスコミの取材風で、不詳な男性をつれてきた。
真吏さんと、男性いわく、母は、滋賀県、信楽のほう、岡原幸代さんという、有名な、創作、洋服家だそうである。
真吏さんの顔は、中野さんの生き写しである。

わたしの会社と時間を奪うので、請求額は、他社の指導によるし、中野さんたちに説明してある。警察は額面どおりと指導されているが、多額になるので、小額の請求をした。が、中野さんの娘は、中野さん同様、金の無心と、就職のことを言う。

わたしは関係がないことをいうと、父は著名な音楽家でと、わたし、「松田薫」が、弟子のように言う。
作曲は、わたしが無料で教えましたがというと、驚くが、瞬間に、もとへ戻り、岸和田高校出身の河合真吏さんは、わたしと妻に説教をする。

これを、中野さんに言うと、
「ぼく、プロの音楽家や。ちゃうやん。ぼく有名やもん。15日やん、真吏の誕生日忘れたんか。お金ぐらいあげや。ぼくが作曲家なんは、陽子と決めてん」「ちゃわん。ぼくのほうこそ、転職先、紹介して欲しい。真吏美人やったやろ、べっぴんやろ、したいやろ。ぼくやったら、するで、マリも好きやねん、男の。うへっ、うへっ」と、いつもの憑依状態の声で言う。
音楽家?おかしいのではと注意すると、

「なんで? ぼく、オッコちゃんと友達や、ぼくオッコちゃんトコ行ったことあるけど、かわいいねん」という。
「?」の状態になっていると、
「二期の、福永修子知らんのん。高槻高校のときの、高間(たかま)の、ほら、阪急十三の風俗へ連れて行ってくれた、ええ奴やねん」という。

わたしが「?」の状態をつづけていると、
「風俗好きの、台糖の、高間やん。高槻高校のは、みんな風俗好きやねん。その高間の、二度目の奥さんやんか、それぐらい知っとかな、マツダ、音楽やってるていわれへん」という。
そのため、専門がちがうこと。あなたは、クラッシックのプロの音楽家でないことは、確かだというと、
「ちゃわん。ぼくとこの、佐野友彦さんの、姉さん、敷島博子いうて、金山工務店の援助で、大阪シンフォニカーつくって、中野君、作曲家やろって、ぼく、招待されんねんで」
「えへっ、そやから、プロやん。敷島博子って、佐野さん、そっくりやねん。いま、ぼくとこ、大和ハウスの服きて、仕事してんねん、そやから、大きいねん」という。

シキシマばかりいうので、ヤマザキにつづき、製パンとの関係で、
「シキシマ・パン?」ときくと、
「そうかも、知れへん。ぼく、パン好きやもん」と言う。

ふつうの思考論理ではないと、聞いていると、中野さんは、わたしは、河合真吏さんという娘に、「情愛」をもっているといいはじめる。
「情愛」という言葉に、考えさせられた。
愛情だと、聞くが、この転倒した言葉は、聞いたことがない。
わたしところの住所などは、中野さんが教えたという。

それで、わたしと妻を、脅しに来た。
真吏さんという娘の、勤務先の教育会社公文も、その連れも、法外な性格だった。
「ぼく、真吏と、お風呂で、ちゃぷちゃぷしたいねん。あそこ、ぺろぺろしたいねん。マツダなんかには、わからんわ」と言う。
なにか奇妙なものを感じ、この、幼児性と思える原因を聞くと、小学校5、6年生以上になっても、母親と風呂に、40〜50分入っていたという。

中野さんは、二度目の結婚をし、小学生の男子もいるが、50歳で、26歳の娘と風呂に入るのが希望らしい。

わたしなど、風呂は、兄といっしょで、2、3歳のころ、父に「10まで、数えて」といわれたことや、底の板が、ひっくり返ると、あつい、五右衛門風呂だったから、わたしたちが、風呂に沈むと、父が、大きな手で、つかみあげたことしか、記憶にない。

10)
最初の結婚したおり、音楽を仕事にしたいというので、京大オケと、京都市民管弦楽団の山田忠男先生と、指揮者の朝比奈隆さんから、「梶本音楽事務所」の紹介を取るまで、待ちなさいというのに、わたしの面識がない、興行の世界で、いちばん、おとなしいとの評判の梶本尚靖さんを怒らせた。

わたしが、こういった準備をしていると、中野さんと、母親は、生け花、「未生流中山文甫会」の三番目で偉いというので、その紹介といい、すべて失敗する。
「中山文甫(ぶんぽ)」は、戦後、わたしの母方のイエに嫁いできた、おばたち、五人が中心に起こしたと聞いており、妹も、大阪のできる人に習っており、名簿に中野文子さんの名前はないし、なぜ、三番目になるのか、わからないと言っても、答えない。また、母に聞くと、生け花は、桑名藩出自の祖父が、祖母に、大正時代から教えたという。

わたしが、まえの、京都十字屋の会長に頭を下げ、依頼したが、それを無視する。
そして、現在、十字屋の会長、田中義雄さんを、「ヤクザみたい」と言い、わたしも、どうして、いいかわからない状態にさせた。
中野さんが、20代のときは、就職の世話を、何度もした。
中野さんは、2003年、若いアーティストの心身を傷つけることを平気でした。また、詐欺は、いまだ、働いている。

11)

わたしたちが、さいきん有名な歌手か女優か、倉木麻衣さんが住むという、高層の分譲マンションに、20年以上まえ、住んでいたとき、いつも、
「マツダ、出てしまう、出てしまう」「出てしまう、自分が悔しいねん」と、ドアや床を拳でたたき、生理現象を、わたしに押し付けることができる人だった。
高層マンションの上から、排出物を出されたら、分譲を買っている、わたしは、共同生活が無理と判断し、ドアを開けるより仕方なかった。
このあとは、いつもどおり、トイレに閉じこもる。最長、半日以上の記録をもっている。

どれも、「川端康成と三島由紀夫などの資料」「わたしの生原稿」の返却のためというと、わたしの欲になる。

いつもの言葉だが、金山工務店は大阪では、「10社の会」に入り、大林組や、大成建設より、大きな会社で、一級建築技師60人からいて、すごい会社やけど、「金山工務店」は、ヤクザ風だから、会社辞めて、生活を改め、まえの妻の、世話をしたいとのことだった。
そういうので、大林や、大成、竹中は、1万人単位の従業員がいるし、東芝や三菱など電気は、10万人単位というと、「えっ、そんな大きな会社あるの」という。

ところが、離婚はとっくにしており、再婚の予定だったと知ったのは、2005年10月だった。
「えっ、マツダ、知らんかったん、アホや」と中野さんは、猥褻が趣味の前田さんという。
わたしたちの希望は、第一に、真吏さんたちの、わたしたちへの謝罪である。
第二は、なぜ、自分の娘に、嘘をついていたのか、その嘘への、謝罪である。
これを言っても、通じない。

鹿児島県には、「日本国憲法」ではなく、鹿児島独自の「県法」があり、女性を襲ってもいいと、海の仕事のマエダさんはいう。
海難救助で、「SOS」が出たばあい、船や乗客に女性がいたら、鹿児島の「県法」は、勤務先は、サービスが専門だから、なにをしてもいいとのことだ。ここの社員さんは、宮崎のソープが大好きという。結構なことだ。

このマエダさんは、横浜転勤のとき、船舶への案内を、一年以上、拒否するわたしたち夫婦を、金港タクシーで呼びに来て、日石丸で、なにをしたかというと、青葉台の3DKの寮の家賃5000円を、1000円にしろ、と本社関連の総務の人と談判をする。
「マエダ君は、ちがう会社だし」と言われても、2時間以上している。自分は酒をのみ、わたしたちは、水だ。夜中の9時まで。

2003年8月上旬、新日本石油(旧・興亜石油)大阪高石市、高圧ガス管、無検査、社会問題がおきたとき、深夜になるから、来ないでくれ、こちらの都合があるというのに、経団連の渡文明さん、新日石マリンの杉山暎一さんと同等だとかいう。そう日石関連者を言われても、わたしたちには関係がない。
通産省など、金まみれだ、「庶民など、廃棄物で死ねばいい。ぼくは、偉いのよと」と、公害と日付をごまかし、命令して、来た。

大阪府警本部に、大阪府は、「不法、府法」が成立しているのかときくと、全国一緒です「犯罪です」という。

12)
中野さんだが、2006年はじめは、いまの奥さんと、わたしのところへ来て、「わーん」と泣き出し、「子供がでけへんのを、ユウコのせいにして、不妊治療にゆかせてん、嘘ついてん」「わーあ、ああー」と、言い、両手を大きく開き、手をつき、手と手の間に頭を、ペタッ、とつけた。
脂ぎった、頭を、わたしのところの、テーブルに、ごしごし、押し付け、「ユウコごめん」「ウフッ、えへっ、ユウコ、ニコッ」と妻に謝罪し、「うえ、うえへっ、マツダ、何のようやった?」「韓国のキーセン旅行、よかってん!」とか言って、「高間との阪急十三(じゅうそう)も」、「えっ、マツダ、難波ライオンタワー知らんの?」と、わたしを、笑う。

わたしは、ライオンタワーというので、天王寺動物園との関係かと思った。

そして、「ユウコ、ぼく、ええ男やろ、ハンサムやろ、そやろ、うん。、女は、皆、そう言う、ぼく、金山の、大幹部やからな」とか言っている。
むかしは、下半身を、コンクリートの電柱か、丸いガードレールのようなのに押し付けて、
「えへっ、えへっ、気持ちええねん」というのが、中野さんだった。
先斗町で、得意の自慰行為を披露し、ふつうの同志社の学生たちの顔を青ざめさせた。

この異常な中野さんの、経歴や学問業績は、わたしと同様らしい。

「風俗好きの高槻高校へ行っていなかったら、同志社へ行ってなかったら、こんな性格になってないわ」といいはじめる。ノーベル賞をとった川端康成は茨木高校出身で、「茨木高校へ行っていたら、京大で、ノーベル賞をとれててん」と理解しにくいことをいいながら、1975年、作家の筒井康隆さんが、同志社出身とわかると、「大変や、大変や、筒井康隆、同志社や」というので、わたしは、あなたと何の関係があるのかというと、「マツダなんか、どうでもええわ」といい、文学部の校舎へ行った。

そのため、そういった発言は高槻高校や同志社出身者に失礼ではないか、高校や大学は、一通過点にすぎない、学歴と創作は違うと、わたしは言った。

それにたいし、現在の中野さんの妻ユウコさんをまえに、「ちがわへん」「ちゃわん」という。
「ぼく、湯川秀樹に、なろう思てんねんで.。相対性理論わかるもん。ノーベル賞とるつもりやってん」をよく口に,し、わたしの先生が、自分の恩師で、親しそうに言うので、湯川秀樹さんの右腕、市川亀久弥さんの研究室は連れて行ったことがあるか聞くと、現在の妻裕子奥様の前で、
「あるから、あるねん、いや、ちがう、ある。だって、ぼく、知ってんねんもん。本もってんねんもん」とのことを言う。

哲学では平石善司先生の部屋へは、連れていったようだが、議論となると、過去、だれひとりする学生はいなかった。
そして、学費がまったく違うし、講義内容がわからない、工学部の部長室があった「ハリス館」や、学者のイエには、わたしが、わたしの体調に合わせるので、誰もつれて行っていったことはないと、わたしは言った。

そうすると、同夜、中野さんの母親中野文子さんからの電話で、「まー、まー、まー、わぁーおー。ぼく、ぼく、どうした、どうしてるー。わぁーお」と、自分の子供が、誘拐にでもあった被害者のように、泣き叫んだ。

そして、現在の妻、ユウコ奥さんに、電話をわたそうとし、断られた。
それで、言う、「ユウコが、来てんや、ねんでー、用件は何や、何やねん」と、現在の奥さんは、どこかの令嬢だそうで、大声で怒鳴り、脅す。

2000年、わたしは、有名な作曲家中野さんの、長女の真吏さんも、作曲家の希望だそうで、わたしに、20曲ほど、批評の仕事を依頼した。わたしは、半月はかかるので、今回も、1988年同様、労働費をもらうと告げた。が、1988年のも、2000年のも、未払いであることを言った。

そして、いまのユウコ奥さんに内緒だと言うので、こういった秘密事項はやめてくれと言い、有名な作曲家中野さんと、娘真吏さんとのメールの一部を見せてくれないか、「勤務先の公文、大きいんですよ」と、あまりにも法外な、恐喝言語を連続したから、言った。この「公文」という会社も、道徳などないに等しい会社だ。

この異常さの原因は、父親の中野さんではないか、それがわかるとこちらも、情状するが、それでないと、真吏さんの行為を犯罪で、届けると言った。
それで、秘密メールとやらを、持参すると言ったので、わたしと妻は仕事を休み、待った。

資料と原稿の返却はと言った。
しかし、約束は、いつもどおり破られた。
後で、いったい、いつまで、子供なのかと言うと、現在の、裕子奥様が、
「夜、相手をしてくれへんから、こうなってん。ここ、淋しいねん、てへっ」というようなことを、グロテスクにいう。

わたしが、「中野さん、あなたは、なぜ、いつも、他人を脅し、たかるのか」といい、阪急沿線をしる、わたしが、1975年に、ないと言っても、河合陽子さんは、ウチは、池田市井口堂2丁目400坪と言った豪邸のことなどは、いまの奥さんに悪くないのか糾すと、
「えへっ、あれ、20数坪くらいのや、売って、ないねん。400坪は、成田町の佐野友彦さんや。帝塚山の金山隆興のあと、息子の大和総研の平井や。なんで、マツダええ年して、わからへんのや。陽子は元妻で、やはり、妻やん、えへっ」といい、あとで、「ウチとこ、稲田禎一の(株)グレースといっしょになるんや、稲田禎一は、イーホームズ(株)の藤田東吾と仲ええねんで」という。
この中野さんの会話を耳にすると、わたしの脳裏は混乱する。

12)

わたしは、手のラインで、人間を、大きく、5分類しているが、この親子はじめ、娘も、連れも、皆、同じ手のラインをしている。

この大阪市中央区内淡路町の金山工務店は、国会喚問された、
1 「末野興産」、末野謙一氏
2 「安田病院」、安田基隆氏 と、
3  最近、話題になった「飛鳥会」高槻老人ホーム「博乃会(ひろのかい)」、小西邦彦氏、
などと、密接な関連がある。まえの社長も、中野さんと同じ手のラインだ。
が、なぜ、国税と、警察、検察が動かないのか、わたしには、わからない。

中野さんが言うのに、「ウチの会社、『金』がつくやろ。マスコミに、在日とおもわれてるねん」である。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckahk600/
これが、かれ中野さんのホームペイジで、大阪万博のとき、中学三年生で、同学年と中野さんがいう、大阪府警本部の佐藤一郎さん、地検の宮崎章治さんたちが写っているそうだ。が、わたしの見るかぎり、中野さんはいない。
わたしを揶揄した箇所もある。

犯罪をするタイプの、心身の一端がわかると思う。
以上は、中野、前田さんたちの、言動の一部で、まだ、時効が成立していない、大きな犯罪がある。

こういった人間のために、迷惑防止条例ができたのに、再三連絡した、大阪府警本部と吹田署はどうしているのかと思い、2006年11月13日、連絡すると、「広兼は転勤しました。署長の名前は言えません」とN刑事がいう。



▲ 室戸台風での、被災師弟慰霊。歌、吉井勇   (写真:松田薫)
▼  円山公園のアヒル  (写真:松田薫)


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-10-18