京都昨今
32、東山論T  東山前衛と鎌倉文士                 

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これと言って、読むべき書籍がない日々、東京も、京都も、大阪も、個性のある本屋さんが、つぎつぎ、消えてゆく。
音楽や美術でも同じだが、さまざまな読書家に好奇心を持たせ、専門家へ強烈な好奇心を抱かせる、新しい作品がなくなったのが、実際なのだろう。

書き手を見ると、実践をし、経験をつみ、ペンで、思考しながら書く言葉ではない。また、タイピング言語でもなく、井戸端会議以下の会話を、印刷物にした本が目立つ。

これは、歴史の、一時の過渡期と思いたい。
中国を由来とする、タテ書きの、活字は、ひとつの思想のあらわれで、そこに「ひらがな」を加えたのが日本のひとつの在り方であるが、それらを凝集した、書籍をあつかう、書店人に、活字への関心が出てくるとおもう。

書店の巨大化は、1970年代、大阪梅田に紀伊国屋書店ができたときと、1980年代、八重洲ブックセンターが、ひとつの、きっかけだろう。
新宿も梅田も紀伊国屋書店は人ごみで、「鹿島」による、八重洲ブックセンターは土日に人がくるとのことだった。
ただ、1975年という時代をあてたなら、わたしの、本さがしは、曽根崎の「旭屋」で、東京では、神田の「書泉グランデ」だった。
そして、1985年という時代になると、印刷物が膨張し、「旭屋」では、欲しい本を見つけることができなくなり、「書泉グランデ」は、従業員がただただ忙しい雰囲気となり、八重洲ブックセンターが便利になったと思った。が、これも、短い期間だった。

京都で、高校生のころ、よく利用した、書店に、四条の河原町通り、西側に、「オーム書店」があった。
いまの時代からゆくと、中型の書店だろう。わたしには、数学の基礎とか、工学系統の書籍は、充分で、入り口から、専門書のある、二階への吹き抜けのかんじがよかった。
兄の本箱にも、「オーム書店」のブックカバーがあり、同じところで買うのか、とおもったが、聞いたことはなかった。

「オーム書店」で、意外性をかんじ、印象的だったのは、巨大化から、さらに膨張した情報誌となった『ぴあ』の基になる、小さな『プガジャ』(プレイガイドジャーナル)が、一階のレジのところにあった。
流れゆく、情報を、てきとうに、あつめた、『プガジャ』は、広告ふくめ、きわめて、自由勝手なつくりで、これをパラパラ見ると、京都近辺の、ふつうの学生の動きがわかるかんじがした。

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戦後の鎌倉には、鎌倉文士といわれる、川端康成や小林秀雄、久米正雄、里見ク、中山義秀、中村光夫たちがいた時代があった。
いまの時代とちがい、かずかずの才能に優れた人があつまり、表現するものが異なり、個性を大事にしたせいか、文学談義も、行いやすかったのだろう。

高見順は、戦後の惨害地を、川端康成が、広島や長崎へ行き、その事実を、作家が行って、書こうと言ったら、みんなが、賛成したという。
東南アジアや日本の将来を思うことから、
「僕等はやがて右翼といふことになるかもしれませんね」
と、川端康成がいったとも書いている。
この高見順が、川端康成や新田次郎と、建長寺、明月院、円覚寺をあるいてかえっているとき、町の監視役の、「歩哨」に、
「こらっ」「こんなにおそく、どこへ行く!」『敗戦日記』
と言われたとある。

『敗戦日記』には、1945年8月15日の敗戦すら、すぐ、つげることのできなく、19日に「敗戦」と書いた新聞社を非難し、文士だけでも、どうにかしようとした思索と行動に、あこがれに近いものが出てくる。

京都のばあい、一休宗純による、「東山文化」というものがあった。
頓智でしられる、一休さんは、法然上人を、生き仏、如来さまといい、尊敬をした。
そして、東山の建仁寺での修行のころが、懐かしいといい、自分自身がかかわる、大徳寺だけが、栄える現状を、
「山林は富貴、五山衰う、唯だ 邪師のみ 有って、正師無し」
と、ほんとうの僧侶は、いないと、言い、自分自身も欲があって困る、このさい、釣り棹をもって、漁師になりたいと、いまに通じることを言った、一休宗純に、多少のおもしろさを感じる。

文芸の繁栄は、戦争でも起きる。2006年10月の、近い歴史を追っての原因は、「朝鮮動乱」にある。が、こんかいの問題で、損失する国家はどこなのか、繁栄する国家はどこなのか。
問題の本質ならび、回答はここに在る。
東西南北に在る、エネルギー資源による問題だが、石油中心に動いた文化も、ここ100年の歴史だし、ずいぶん、左右と、振りまわされたが、選択が可能な時代も近いだろう。

A.リンカーンが奴隷制反対の、南北戦争をしたのは、1860年代で、150年ほど前の歴史だ。
この、アメリカの原子力船が「エンタープライズ」との命名は、知識あるアメリカ人にとって、リンカーンと良く似た、意味合いだが、いまのに、「リンカーン」と命名したとき、賢い人がいるとおもった。
歴史の中国が、欧米ならび、日本の侵略まで、契機となった、人間をふくめ、形ある文化財と、けむりと化す、アヘンとを交換してしまった「アヘン戦争」を忘れるわけがない。
が、利口な人がいるアメリカだから、ありえないことと思うが、つぎの原子力船に、「ヘミングウェイ」や「キング牧師」と命名したら、中国をはじめアジアは、「周恩来」とか、「ホーチミン」「ガンジー」とかの、5人乗りの木造船ぐらいを作って、戦うしかない。

多人種国家の、アメリカは、わかりやすい、希望を与える義務のためか、いつも繁栄しておかなければいけない国家になった。
アメリカの親というか、イギリス経済は19世紀末、オックスフォードやケンブリッジ大学出身の、高学歴の人が未婚のままで、跡継ぎがいなく、イギリス経済の舵取りがあぶなくなった。
20世紀初頭、アメリカを中心にした経済は、ハーバード大学をはじめ、高学歴の人たちの未婚率が高く、イギリスと同様の現象になった。

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ただ、英米のリーダーとなった、W.チャーチルにしろ、F.ルーズベルトにしろ、残っている、手のラインの資料が正しければ、評伝とちがい、親子関係の距離が良い意味での放任があり責任をもたせ、日本の政治家の独占と甘えと、まったく違い、1975年、京都、北山にあった資料館、大阪、中ノ島にあった図書館で、あきらめが出た。
資料からだが、日本で、このような、深呼吸をする人と、思考が長い人では、「諦観による表現」をした、評論家の小林秀雄ぐらいである。

2006年10月から、欧米の新聞のトップは、イラクから北朝鮮となった。
アメリカ合衆国は、2005年、カリブ湾をふくめ、ハリケーン災害を連続し、アメリカのニュースキャスターが、ジャンキーフーズで太った、元気で主張するアメリカ人をうつし出したころ、「台風」で被害にあっている、中国南部の人々の様子を、
「イカダで、逃げる、彼らは、生活の知恵があります」だった。
中国南部の広東省や福建省の人々は、諦め、痩せ、財産もなにもない感じがした。

巨大な富は、巨大な人数が、効果的に働き、成立する。が、これらの操作だが、最近でも、日本の新聞が、アメリカの企業を買収と書くとき、アメリカ東部の新聞は、「日本に買わせてやった」とある。
この表現での、本質の違いは、どこにあり、武器をもたない、人たちの、心身の調整(文民統制)を、どこまで、可能と、考えているのだろうか。

中国やインド大陸を考えるばあい、アメリカ合衆国の10倍の人口がいることを考慮しないといけない。この100年で、中国とインドは、30億人という、3倍もの巨大な数となった。アメリカは調節しているが、欧米圏は、2倍で、総数10億人である。

欧米のこういった思考は、科学史の湯浅光朝先生(神戸大)は、よく周知されていた。
湯浅先生は、1980年ごろ、核が必要と発表され、反発をまねいた、清水幾太郎論文に触れ、「わたしも、意見を同じく、するところがあります」と言われた。
とうじと、いまとでは、まったく、違い、文芸での発言や表現が、自由にみえた先進国、前衛を許す、フランス、パリの新聞マスコミも、21世紀、武器製造会社に経営される時代となり、世界の色合いが変わった。

学習院大学の、清水幾太郎(しみず いくたろう、1907−1988年)さんが、左翼から変化したので、母校の東大でも、京大でも、博士号を取得できず、論文提出を、同志社にし、ドクターとなった。
京都大学での、記念講演は、博士号取得の、「A.コント論」だった。
終わったとき、京大生が、
「先生、ずっと、黙って、聞いていましたが、カントの間違いではないですか」と言った。
清水幾太郎さんは、演壇で、倒れそうになられ、周辺にいた、学者も、とまどわれたという。
清水幾太郎さんの後日談は、「なんのために学問をしてきたのか。脚の力が、抜けました」とのことだった。

いまはなくなった、京都の「丸善」が、東京、京橋店と同じく、古い、油引きの床のとき、二階へあがってゆくとちゅう中世哲学の高田三郎先生と会ったので、わたしは、会釈だけをした。
洋書の三階から、二階へ降りたとき、いま、同志社の哲学科の教員が、わたしを呼ぶので、挨拶をすると、「まつだ君、高田三郎だよ」と指さし、言うので、とまどった。
わたしたちは、高校のとき、町で、偉い学者さんと会ったとき、友人の父親でも、目礼だけと、習っており、それから、10年ほど歳月がいった、1977年だった。

父が教員という、哲学科の工藤和男さんは、北海道出身で、高校がない地域に育ったそうだ。文化は、地方からのひとの力により、できるというのは、憧れにあると思ったりした。
わたしは、さっき、お辞儀をしたとは言えなく、黙っていると、
「まつだ君が、高田三郎知らないの!?」と、おどろいている。
京大を退官された、高田三郎(1902-94)先生は、良質のステンカラーのコートを着て、視線を感じられたのか、専門書が並んでいるコーナーを、くるりと、教壇でも、こんな格好だったのかなとおもわせる、若く、粋な仕草をされた。

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1970年代になり、前衛という、芸術集団があり、作家寺山修司さんによる劇団の名前も、知られるようになってきた。
寺山さんは、故郷、青森をおもい、東京にあこがれ、東京が「一体何だったのであろうか?」と問い、科学哲学をしようとした九鬼周造の「偶然論」をよみ、「人生なんてどうせ偶然性に大部分をゆだねた『流れの旅路』だとも言える」といった。

とうじ、東京は、新宿から吉祥寺で、京都では、百万遍から今出川通りが、前衛を表現する場所だった。
わたしは、イラストレーターの横尾忠則さんとは、面識はないけれど、横尾さんの、芸術家の兄さん家族とは、近所で、もう、40年近い、つきあいになる。
1960年代後半、横尾さんの、芳名と作品を知っていたのは、高校生のわたしぐらいで、「前衛」では、ピーター・マックス(P.Max)の次に有名というと、横尾さんの義理の姉さんが、喜ばれていた。

安保反対運動からのつづきの、原爆問題では、各学界のトップでは、いつも、「有色人種への実験」という判断だった。
とうじの学生は、1962年の、ソビエトとアメリカでの、キューバ危機で、いま病中の、カストロが、自国の人民の存在を主張する、革命家、カストロを尊敬していた。

わたしの性格だが、父方の近所にいた、前衛より、田舎のおじさん、社会党の国会議員の田中さんに、2歳ごろ、「大きくなったら。どんな人になりたい?」と聞かれ、はじめて、言葉にしたのは、映画でみた、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)、だった。
着物で正座していた、母が、ハッとした表情をし、衝立の前を飛ぶ、わたしに、小声で「これっ」と言うので、なんか変なことを言ったのかと思った。

幼稚園へ行っていた兄の、雑誌とかには、尊敬する人として、野口英世、二宮金次郎、豊臣秀吉、リンカーン、エジソンとか、決まっていた。
つぎに、民社党の吉田さんが来たとき、同じ質問をするので、映画での、将棋の「阪田三吉(さかた・さんきち)」と言い、また、母に、「あっ、これ、これ」と言われ、父方の祖母に教えてもらっていた、将棋と花札は、この日で、禁止となった。

1977年秋、同志社の教員から、科学哲学の下村寅太郎(しもむら・とらたろう、1902〜1995)さんを呼んだから、学生あつめに、出てきて欲しいという連絡があった。
わたしは、仕事中だったので、大学へ行く、時間など無いと返事をした。でも、教授の川島秀一さんは、電話を切らず、学生50人ほどと言う。わたしは、下村寅太郎さんは、いまの学生は、知らないという。川島さんは、同志社を退任した、平石善司先生が、呼んだという。わたしは、文学部の政治好きとは関係がないと言っても、電話を切らない。
湯川秀樹さんといっしょに、「科学基礎論学会」をつくり、科学哲学は、時代の先端なのだろうけど、わたしが読まない、田辺元(たなべ・はじめ)と親しい、下村寅太郎さんは、体調の加減か、元気なく、何を言っているのか、わからない調子だった。
同じ年齢の、古典の高田三郎さんには、勉学を、触発されるものをかんじたのに。

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日本の哲学徒は、もちろんだが、他の国からの学徒で、日本の思想をしようとする人にも、わたしは、夏目漱石と同じく、R.ケーベルを恩師とする、波多野精一の代表作、『宗教哲学』、『時と永遠』などは、古典をふまえ、前衛となりえる、テキストであり、英独仏の言語にあてはめ、全文記憶するぐらいにすれば、科学哲学の基本はできると答えてきた。

この、1977年秋、田中泯さんだと思うが、烏丸通りの、学館前の石段のところで、全身を白く塗り、「前衛」の彫刻のオブジェをされていた。わたしは、前衛の舞踏家、田中泯(たなか・みん)さんの演技は、1980年代、東京で見た。
形は、ハンマー投げをする、競技者が、両手で、ハンマーを持ったような姿だった。
わたしは、立ち止まって、この舞踏家の訓練された、筋肉をみて、おどろいた。鍛えにきたえないと付かない背筋が、幾筋もついていた。
尋常でない精神と、尋常でない肉体をもたれていた。
髪も白の絵の具類で、染め、硬くし、眼を閉じ、微動もしない。
この「行動」までの準備は、どのようなものだったのだろうかと、わたしが見学していると、女学生たちが集まってきた。
科学哲学専攻の下村寅太郎さんの多くの「言語」より、田中泯さんの沈黙の「心身」のほうが、学問を進展させる上での糧となりえた。

わたしの仕事場は、実家から、電車で、20分ほどのときもあり、歩いて、15分ほどのときもあった。学問をしているとき、さまたげは、まず、電話である。
一日の大半、机に向かう日々をすごしていた。いつもだが、テレビ、電話、新聞など、いっさい、無い生活だった。

1980年2月20日21時ごろ、昔からテレビ付きの、前衛チックの電車が走る、京阪沿線で、置石による、沿線事故がおきた。
これは、とつぜんではなく、1970年代後半から、置石をする中学生たちがいて、京阪は「電車が脱線する」と抗議をしていた。

中学生がわの、PTAとやらの反論は、線路があるから、子供が近寄れるからだった。
京阪電鉄は、鉄条網をし、それでもダメだから、金網のフェンスを設置した。
それでも、乗り越えて、置石をする。

この置石をされる、御殿山の、地勢は、「く」条になっており、高台から低い方向へ電車が走る。
わたしは、ラジオで、ニュースを知り、急な判断がいるかも知れないとおもい、実家へ行った。京阪電鉄は、乗客をバスで、京都方面へ、ピストン、運送した。

近所に住む、義理姉が、兄がもどってこないといい、来たので、わたしは、たぶん乗りあわせ、救助活動をしているといった。
モスグリーンのトレンチコートの兄は、夜11時をすぎ、自宅ではなく、実家へ来た。

白い息の兄は、二両目で、横転し、飛ばされたが大丈夫で、同じく、40歳ぐらいの男性の乗客が分担してくれ、31歳の兄は、電車の下で、負傷者を、抱きかかえ、運ぶ、役目をしてきたという。兄も父に似て、言葉が少ない。
母が、「早く、イエに帰ってあげなさい」と言った。

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1980年6月25日、わたしは、いま管長の、天竜寺の平田精耕(ひらた・せいこう)和尚と会っているが、父方の祖父に似ていたので、無駄な言葉を必要とせず、地味な勉学しかないと安心してしまった。

同年、6月29日朝、八王子市在住の、湯浅先生に至急、ABO遺伝子と音楽論文の活字といわれ、夕方、わたしが、1977年の第3論文からの第5論文を、最終校正をしているときで、新幹線が、地震で止まった。

いまも、伊豆半島東方沖のでは最大(M6.7)、網代M5により、新幹線の車両は、洗濯機の脱水機がまわっているかんじとなり、新幹線のガラスにヒビがはいり、割れた車両もあった。

高速にたえる新幹線の窓にヒビで、映画の世界のようで、まさしく、前衛だとかんじた。が、わたしは、遺伝子、論文の校正途中で、こんな派手な、事故で、死んだりするのは、恰好が悪いとおもった。余震の心配があったが、乗客は声も出さなかった。

乗客は、弁当を買いにいった。わたしの隣は、急に消えた、フジサワ(薬品)の営業マンで、「弁当」を二人分持ち、「買いにゆかないと、無くなりますよ」と言ってくれた。弁当は、すぐに、売り切れた。
わたしは、とちゅう、静岡や浜松で、臨時に停車させると思った。が、止まらず、京都まで、8時間以上かかった。

京都へ着いたときは、6月30日の日付になっていた。なにも、食べていなかった。

日本は、私企業と、官営企業との言動の差が、あまりに、大きい。
この新幹線の地震は、三島あたりの情況は、1980年6月30日の朝刊にある。

が、1980年代でも、そんな地震がありましたか?と言われた。

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1980年10月7日、夜、妻の母が、工場で、指を三本切断した。
義姉から連絡があり、「ふつう〜、そんな場所へ、ゆかないし、怪我を〜、するなんて〜、そんな構造には〜、なっていないのに〜」と福井弁で、言う。

わたしは、いまの情況を、言ってください。お父さんに聞こえるように、わたしの言葉を「範唱」、声をあげて、ください。わたしは、「復唱」してゆきます。

まず、止血、止血です。
腕、腕の上腕は「日本てぬぐい」。なければ、ヒデコ叔母さんが、試験に編まれていた、ポリエステルの、撚糸(ねんし)。
やわらかに、二重で、結構です。二重です。姉さんの、ひとさし指、くすり指の、二本が、入るぐらいに。肘(ひじ)、襷(たすき)がけ、お母さんの骨は、ふつうの人より、硬いです。そのため、骨にあたる部位は、強め、強めに。
手首、手首部位は、やわらかめに、一重。切断部位、一本ずつ、やわらかめに一重です。

つぎ、生理食塩水の作り方、イエにひかれている、清流、「山水(やまみず)」です。
洗面器、二つ、大き目のボール一つ。そこに、ふつうの塩を、涙より、うすいぐらいのもの。

ボールへ、いま、そこに、ある、切断指は、すべて、拾い、付着ゴミを、さっと、洗い、ポリエステルの袋に。
そして、つぎ、冷蔵庫にある、氷を、ポリエステルの袋に、入れること。
温度は、冷たいと感じるぐらい。これは、冷たすぎても、いいです。そのなかへ、指の袋です。

止血した部位、上腕部からのを、40分ごとに、流すこと。流血は、多すぎると思うぐらいに。
それで、大学病院まで、2度の流血です。お願いします。

クルマの中では、切断の左手がわを、上。
右側ですが、右肩を、姉さんの、左肩から、胸、右手で、かかえ、よこたえるように、してください。

電話、お父さんと、代わって、下さい。号令、復唱して言って下さい。
お父さん、あなたは、普通の人ではない。しっかりされた方です。
まず、県警、福井県警。姓名を言って下さい。県警は、教官、恩師の声は、すばやく、認知します。パトカー、緊急先導。

金沢大学への運搬、福井県警から、石川県警への、県境での、応援、要請お願いします。

金沢市へ入れば、救急車が先導してゆきますから、お願いします。

お父さんなら、2時間以内に到着できます。
それでも、1時間の余裕があります。後は、金沢大学医学部、東大系です。
金大(きんだい)の、医師たちには、充分な技術があります。
医師を、信じてください。お願いします。

お父さん、復唱してください。「輸血順位」、7日はケイコ姉さん、医師たちは、確認の、血液型検査をします。

その後、両親は、0型どうし、その娘、ケイコも0型と言ってください。医師たちが安心します。

姉さんの輸血は、となりのベッドになります。
8日早朝は、0型の、お母さんの妹、「ユリ子叔母」さん。
8日午前中には、フミエが、金沢につき、輸血です。これで、充分です。お願いします。


このころ、妻のイエは、義理父の妹、シゲコ叔母さんが、白血病で、金沢大で逝った。
義理母方の、祖父たちも逝き、不幸がつづいた。

金沢大学医学部病院の、医師たちにより、義理母の指は、縫合できた。


人災も、自然災害も、被害者がわには、とつぜんのことである。


わたしには、同年の、文芸の友人がおり、いま、アーティストが、大変な情況で、絵画のばあい、沈黙をとる作家が多く、日本画は、60歳から、熟練した才能を開花する性格をもった、かれらには、作品だけを見る、立場をとっている。




▲ 東山 知恩院 三門 二代将軍徳川秀忠によるもの  (写真:松田薫)
▼ 知恩院  「衝立」 左 宗紋 「月影杏葉」。 右 三代将軍徳川家光 葵紋(ふたばあおい) (写真:松田薫
 


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-10-16