京都昨今
31、回復できる学校制度へ                      賛美歌106番
1)
学校制度を、小学校からでも、講座の単位修習制にし、転校をふくめ、どこへも行き、先生を選ぶことができ、友人との出会いを多くし、心身をあらたに、何度もやりなおせる、回復できる形にできないものだろうか。

1982年からの、熱帯からのエイズにはじまり、寒冷地帯からの鳥インフルエンザのウイルス関係など、緊急に学問を進める必要のある専門分野は、若い世代の頭脳が必要で、徹夜つづきとなり、男女差別と言われても、より厳格な意味での、男子だけ、女子だけの、研究の場も必要と、わたしは考える。

少し、なつかしさをかんじるのは、地方からの、男子高校在学生と出身者が、京都の予備校や塾で知り合い、できあがった、1970年前後の、京都で、鴨川の上流、田舎風モダニズムを構成できた。それは、男子高校出身者たちによる、気さくなものだった。

わたしのクラスの裕福なのは、上賀茂神社の東にあった、定員40人の、「樫の実学園」へ、京阪三条から、タクシーで通っていた。
これは、幼稚園の遠足のかんじで、学園で、補習をすれば、しまいじゃないかと思った。

加茂川の葵橋あたりは、とうじの三角州は土砂で、豪雨だと、すぐ崩壊する場所もあり、これは好きでなく、一度だけゆき、恥ずかしくなり、やめた。

出雲路橋の西側の、北か、南か、だれもいないとき、寝ころんで、夕方、数学か、物理の問題をといたりしながら、すごすのは、楽だった。
とうじは、まだ、堤防も、段差工も、できあがってない時代で、土手はまさしく、土と草だらけであり、空いた古い木製のベンチで、ときおり、勉強をしていた。
このゴロゴロし、ノートだけを使う、時間の経過を、男子高出身のものたちは好んだ。

1960年代から、見なれたものに、「ノートルダム女子」があった。
藤森(ふじのもり)と香里園の「聖母女学院」のもあった。
大学の工事の関係で、わたしの父が、感心したのは、ノートルダムのシスターと学生の行儀のよさだった。
「あの学校の、外人さんと、学生さんは、どうなっとるんや。みんな、挨拶をする」
と、一年に、400字も会話をしない、父がいう。

それで、神戸の方では、神戸海星にわたしの友人がおり、また、父が、建設工事へゆくのは、知っており、答えになっていなのでは、と思いながら、
「カトリックで、シスターがいるから」
と言った。

「神戸海星」はフランシスコ修道会により、わたしの学園は、入学時、イエズス・ゴンザレス校長だったせいで、わたしは、自分の学園が、ジャージや、ワイシャツなどに、刺繍がついていても、クラレチアン会と思わず、イエズス会と、ながく、思っていた。

人がもつ、言葉と所作は、通じるひとにはつうじる。
二、三年前の、夏休み期間だったか、わたしは、早朝、鹿ケ谷の、ノートルダム女子高の、マリア像を見学にでかけた。
「おはよう、ございます」と、ありふれた、言葉での礼儀が、あらたな言葉と所作と、かんじさせる方がいらした。
いま、京都ノートルダムのホームペイジをみると、下鴨の、理事長の表情と似ている。

こういった、生活の、基本である、礼儀をふくめての、宗教による道徳は、幼児から必要で、大学の、在り方を、追求するなら、女子大は必要となり、1970年代後半から、いわれた、女子大存亡や、大学崩壊の危機は、ふせぐことができるのではないか。

2)

枚方市の啓光学園での、光景で、わたしとブルネット神父は、いつも、世間で知られる、日本人風の、腰までかがめる、深い礼儀をくりかえす所作で、上級生も、他のクラスの同窓も、わたしとブルネット神父の挨拶を、ほほえみながら見て、英語の担当が、ブルネット神父とおもったらしい。
が、いちばん親しかった、ブルネット神父には、一度も習ったことがなかった。

わたしは、水泳部員のいないときの、プールサイドをふくめ、学園で生徒がいない場所を見つけると、そこで、キリスト教を批判する、R.ラッセルを読み、1968年12月はデカルトへうつった。

スーテル神父だけが、非常に厳しく、LL教室の、最後列にいるわたしに、「ミスター、まつだ。レスポンス。答えなさい」と、わたしに怒鳴っていた。

わたしは、LL教室の、最後列に座ってから、まえのクラスに、カトリックでの禁止事項をし、規律を守らない生徒がいるのを、知ったけれど、あまりにも不愉快で、席を換えることができなかった。
スーテル神父が、わたしのところへ来て、「(両耳用の)イヤホン、壊した」というので、わたしは、このままですと返事をした。が、「そんなこと、ない」と、また、怒鳴っていた。

発音で、何かとあれば、「ミスター、まつだ。前へ」と、教壇へよび、大声で言った。
「MとN」、「LとR」の違いで、スーテル神父は自分の口腔を、指でさし、見ろという。
違いがわかってからは、つぎは、アクセントのことで、「アクセント!」と、ずっと、わたしは注意されていた。

LL教室をつかい、語学教材を、同時録音をするので、テープの提出といわれたが、わたしは、ポップスをかんたんに聞くため、カセットを使っていた。カセット使用は、全校でひとりの時代だった。
それで、提出しなかった。スーテル神父は怒った。

「なぜ!」というので、わたしのは、カセットというと、「カセット、なに?」と聞きなおし、説明をしても、理解できなく、テープレコーダはないのかと聞いた。

オープンリールは、1963年春、母は中学生の兄と、東芝の東京に注文をかけ、大阪営業所まで、カレッジエースの新型を受け取りに行った。
赤れんが色の、カレッジエースは、五年生から、ビートルズを聞きすぎ、1967年、壊れていた。
1967年の暮れに買った、SONYのステレオ用のテープデッキはあるけれど、兄のだし、医師に、20歳までは、無理と、余命を宣言されている事実を言い、外人と話す気がないと、わたしは言った。
スーテル神父は、「わからない」と、真っ赤な顔をして、わたしを叱った。

わたしは、水泳部に登録されていたけれど、中学のアメリカンラグビーも指導していて、いろいろなクラブへ行っていた。
第8期体操部の根来部長は、マット(床)はできない、鉄棒もできない、わたしが、吊り輪だけ、はじめて握った日、基本姿勢ができたので、このときは、体操部一同、おどろいた。

中学生相手のは、こんな程度でいいのかと、中等部から高校への進学組みに聞いていた。
「ええねん、怪我したら、あかんし」が返事だった。
努力というか、試みというか、わたしが考えているものは、とうじの啓光学園にはなかった。陸上部へゆき、スパイク相手に、わたしは、運動靴で、短距離を競争した。かれらは、運動靴で、10秒台後半で走る、わたしを嫌い、競走は、一回で終わった。
走り高跳びのとき、バーを、もっと、上げてくれというと、「ぼくらは、これで、練習をしているねん」が、返事だった。

英語の暗記は、父に、頭をつかいすぎると、また、病気になるといわれ、イエでは勉強ができなかった。
英語は、哲学の原書を読むことぐらいにしていた。父は、学校の教材の暗記より、もっと頭をつかう哲学書を読んでいると気づかなかった。

そのため、1969年1月になっても、スーテル神父は、ずっと、叱りつづけた。
通知表は、10段階の「4」だったので、平均点91点以上のものに、手を上げさせた。
すると、グリークラブの、父は日比谷高校OBという、中川君が、「俺や」と、手を上げ、94点で「10」というので、わたしは、2番の91点で「4」かと思い、これが、カトリック精神とおもった。
これを、身長185センチからの、プロレスラー向き体型の、スーテル神父は、わたしが2番だから、怒って、「4」をつけたといい、また、怒っていた。

わたしは、中学生の水泳部も、アメリカンラグビー部も教えて、くだらない学校の英語の暗記なんかする時間がないといいたかったけれど、黙った。

デカルトは日本語でだったが、この哲学書を、精読すれば、かれら哲学者は、宗教の下にあったとわかるのだが、いま考えると、懸命に、デカルト批判をしていた、ロドリゲス神父も、20代という若さのようだった。

わたしが、デカルトを読み出し、ロドリゲス神父に、デカルトは、決定的な、宗教批判をしていないと言うと、わたしの日本語が通じなかったのか、1968年末の、道徳(聖書)は、10段階で「3」という、最下位の成績となった。

わたしたちが高校生の、1960年代後半は、フランスを先端にし、宗教への、懐疑が投げられたときであり、同志社香里は、聖書の時間を廃止した。

『存在と無』により、自己表明した、J.P.サルトルを読んでいたのは、他校をふくめ、わたしだけだった。わたしの「道徳(聖書)」の点数は、ずっと、低かった。
が、成績に、関心がないのが、わたしの性格だった。

3)

1968年後半は、修学旅行廃止の考え方が広まり、大阪府の京阪沿線では、大学の教員などが住む、10万人の香里団地をひかえ、立地上からも、新設の枚方高校のレベルを上げる予定だった。
が、親友の中村君たちがいうのに、この計画は、ビール好きで、授業中も飲んで、ビール瓶で生徒をたたくという、いまだと、社会問題となる、ひとりの体育教員、戸田氏により、こわされた。
修学旅行廃止の方向は、まず、枚方高校から実地された。
グループ単位での節度ある行動として、信州へ、数人単位で、旅行をしたという。

啓光学園の修学旅行は、8日間と長く、経済面でも、わたしは、ひとりでも、参加しなければ、不参加と申し出た。
計画調整は、1969年4月から、はじまった。一年近い、委員が、わたしということで、断った。

これには、大山崎の神主、国語の津田彰先生と、数学の吉武先生たちが、わたしがいる、いちばん端の理系のE組まで、説得にきた。
わたしは、体力がつづかなく、後で長期欠席になりますと言った。

が、わたしが統率しないと、阿蘇のホテルで、大阪の汎愛(はんあい)高校とあい、帰路となる大分からの船便で、大阪の城東工業高校といっしょになり、
「ケンカをします」と津田先生がいうので、修学旅行でケンカ。なぜですか?と、わたしは聞いた。
「するんです。神父さまの命令です」と津田先生はいう。
このときも、イエに帰ったとき、もう、高校をやめると、わたしは言った。

学園は、伝説のエサキ君がやめ、マスダ君がやめ、他にも、ずいぶん、やめていた。
時代に、傷ついた彼ら、安易な作りものの、学校制度に、傷つけられた彼らは、何をかんがえているかと思うと、わたしも、やめたかった。

このとき命令をした神父が、わたしが会ったと、記憶にない、デ・ラ・ローサ理事長なのか、わたしにはわからないが、わたしは命令される必要はないですと言った。

修学旅行の、日時の調整にはいり、1970年2月下旬、どうしても、全員、「特急寝台」がとれないというので、「中止」と、わたしの2年E組から意見がでた。
この正等な、意見で、わたしはまとめ、級友たちの意見といっても、
「学園が決めたことなんです」と、また、大山崎の神主、津田先生が、駆けてこられた。

それで、わたしのクラス、E組は、わたしが、あとから九州へつく、「急行寝台でもいい」との判断をした。
すると、「ほんとうに良いのですか」と津田先生たちは言いはじめた。

わたしは、1960年代、わたしが通った、啓光学園の存在も知らなかった。
学園での行事という、行事は、わたしのクラスが、調整役というか、いつも犠牲となった。

わたしの学園へは、1969年秋、大阪市立大学の過激派がくるということだった。
わたしたちのE組みは、運動家はいなかった。
が、文系のB、C組、理系のD組から10数人集まった形となった。

どこで、わたしを知ったのか、1968年、一年のとき、梁原君は、生徒会長になりたいと言い、わたしは、三年の川上さんに相談し、選挙で、梁原君を生徒会長にさせた。
が、学園は、一年で、生徒会長は、無理ですと言い、梁原君は会計役になり、二年のわたしと同じく寝屋川第一中学出身の、公開模擬テストで、6割ほど、第8期の栗田君が、生徒会長になった。
この栗田君は、寝屋川第一中で、1966年、剣道部、大将、松井さんより、成績が良かったけれど、受験にあがり落ちた。

1970年は、成績が良くない、文系C組みの、父親が、北海道新聞勤務という、竹川君が、三年なのに、生徒会長になりたいというので、席次をきき、あまりに悪いので、無理と、わたしは言った。
が、それでも、生徒会長になりたいというので、わたしの保証で、選挙で、生徒会長にさせた。
結局、学園のため、なにもしなかった名誉欲だけの竹川君のため、公開模擬テスト8割以上が多い、3年E組み、1971年の受難となった。

大阪市立大学の過激派、啓光学園、襲撃のときは、本来第8期の生徒会、経験者がするはずだったが栗田君はじめ、1951年、うさぎ年生まれは、ぴょんと逃げたので、サンチェス校長が、わたしを指名し、わたしは、いやいや、学園側と、学生運動家側の両方の立場となった。
栗田君は、在学中、言葉をかわしたことがなく、わたしとの視線も避けた。

この1969年夏、ケンブリッジ大学帰りの、サンチェス神父の、一年につづき、二年の授業と、補習により、わたしは、いつのまにか、とうじ大型の英語の辞書、カレッジクラウン(三省堂)の大半を記憶してしまっていることに気づいた。
秀才中の秀才といわれた、サンチェス神父の英語の講義は、自然のながれで、なにか、不思議な力をかんじた。

学園との団交は、言葉が漏れないようにと、図書館の事務室を使った。
学園側へ、わたしは、津田彰先生にして欲しいと言った。
津田先生だと、「諸君、いま、何をするべきか、それが一番重要なことです。それを考え、速やかに、行動しましょう」で終わるからだ。
が、津田先生は大山崎の神主だから、学生運動家に、右翼というラベルを貼られて、出席も、ダメという。
学園サイドは、週7時間あるのに、受験に必要な日本史を、三年時、「応仁の乱」で終わらせた、アダナが「ぜっぺき」の小林先生ひとりだった。
わたしは、小林先生で、大丈夫かとおもったら、案の定、小林先生は、わたしの意見に、「そうそう」と、相槌を打つだけだった。

こんなの、運動会のヨーイドン係り以下で、時間だけかかると思った。
せめて、ちょっと、マルクス主義の政治担当の丸山先生だと、「赤旗もね。朝日もね、少し読むにはいいですよ」だと、面白いとおもったけれど、学生運動家に「君たち、バカですよ。啓光学園の職員室といっしょ。わたし、帰ります」とか、気だるく言い、怒らせるに違いないから、真面目な表情の「ぜっぺき」の小林先生の選択は、上手いのかなぁと思ったりした。

二年生のわたし一人と、学生運動家たちとなった。生徒会長とか役職だけ希望のものは、あくまで、1969年は、参考だったが、内申書向けに欲しかっただけのものだった。

わたしと議論しはじめたとき、わたしが、学問を徹底しないと、領土問題は、解決できないし、高校生に何ができるのかと言い、世界史を選択し、専門書で補強し、受験勉強を終了させていた、わたしは、歴史検証をこまかくしはじめ、琉球は独立と言うと、「極左翼だ」と運動家たちは敬遠しはじめ、「学園当局の責任と、領土」と過熱してきた。

そして、わたしに発言をもとめると、北方領土は日本のものというと、こんどは、「極右翼」といい、ロシア史を近々の、18世紀ごろから検証しても、シベリアはモンゴロイドの領地になり、北海道だけでもアイヌの領土というと、「右か左か、わからない」と言われた。
わたしたちの議論は、午後3時半から8時40分までつづいた。

わたしは、いっさい、イエには連絡していないので、母が、はじめて、午後8時30分、学園へ電話した。
「サンチェスです。ご心配かけて、もうしわけありません。様子をみてきました。もう、終わります」と、答えてくださったという。
母は、ファーザー・サンチェスの、日本語に感激していた。

わたしは、冷ややかに、議論をしていたつもりで、物音に、気をつかっていたつもりだったが、サンチェス神父が、階段を上がってくる気配など、わからなかった。

4)
大阪市立大の過激派は、10人単位で、枚方市の、禁野(きんや)の山をのぼってきた。彼らは、禁野が、何を意味する土地か、知らず、やってきた。

わたしの学園の、学生運動家たちは、覆面に、ヘルメットの、ゲバ棒の大学生をみて、逃げ出した。
啓光は、学園を守る側、わたし一人となり、わたしは、ぼんやりした気持ちになった。

スペインから運ばれてきたという、マリア像を破壊するというので、わたし一人で、10人からと、戦うのかとおもったとき、斉藤先生が、スリッパで走り出してきたのがわかった。

長身で痩身の、斉藤先生は、十字架のキリストのような形で手をひろげられ、
「君たち、その、生徒に、手をだしては、ダメだ」と、わたしの後方から、大声で叫んだ。
正門まえとなった、わたしの、前に、寝屋川市のとき、イトコのそばに住まわれていた、斉藤先生は、
「わたしは、大阪市立大、地理の斉藤だ。諸君、ここは、禁野だ。一歩も入るな、かえりなさい」
と命令した。
禁野は、歴史上、天皇家の領地であり、何が出るかわからない、これは、故郷、印南郡、石の宝殿、わたしの父が「そんなもん、知らん」という、ツチノコ伝説と同じ土地だった。

彼らに言葉がつうじたのか、学生運動家は、黙ったまま、啓光学園への坂道を、下っていった。

わたしは、斉藤先生から、理想的な社会主義について、6項目ならい、共に生産し、共に分配し、共に自治体(町)をつくる、一番理想社会の構築は、どこまでも理想ですと、1968年春にならった。

1970年、春の修学旅行は、わたしに迷惑をかけないようにが、わたしのE組みからの、他のクラスへの、掛け声だった。
旅行先は、北九州か南九州かがあり、わたしの意見が二番目で、わたしは「長崎だけ行きたい」と北九州を指定した。

とうじ免許は、16歳から可能で、議事は、啓光学園中学からの、教員より、高い小型車にのり、学校へは、タクシー通いが「博多や長崎は、将来、仕事で行くだろうけど、鹿児島なんか、一生、行かへんわ」とか言い、これが決議となった。

こんなとき、D組みの中沢君という、名前ぐらいしか知らないのが、家出騒動をおこした。
学園を中退して、このころブームになった、高卒の資格が得れる、「大検」を受検するという。
「大検」は、難しいと聞いているし、学園の体裁上、問題がふえるから、やめさせて欲しいというのが、神父からの、わたしへの、命令だった。
わたしが説得の時間をとる形となり、中沢君は戻ってきた。

こんな騒動がすぎると、また修学旅行問題で、わたしは、ぽかーん、としていたが、数学の吉武先生が、わたしへ、「南九州は、疲れるしぃー、変更してえー。あかんしぃー」と佐賀弁で言ってきた。
イエが、いまや、有名な食品メーカー子息の、物理の担任の高岸先生もいうので、わたしは北九州の意見を言い、決議の順序は、見ていたじゃないかと、言ったが、責任を、わたしにした。

学校へは、タクシー通いの「京都組み」連中は、熊本城を楽しみにしていた。
が、わたしのクラスが、一番後なので、熊本城は、見学する時間がギリギリとなり、これは、中止と、前年あたりに来た、物理の高岸が言うので、「こんなときだけ、意見をいうな」と、京都組みは、抗議したが、中止となった。
まるで、貴族風なのと、勤皇の志士と、新撰組のようなのが居た学園生活だった。

1970年2月2日、科学哲学者、B.ラッセルが亡くなった。
緊急の朝礼があり、サンチェス神父は、「サー・ラッセルが亡くなられました。黙祷」と言い、サンチェス神父による、短いが、いまも記憶に深い、「聖霊」が行われた。

5)

阿蘇のホテルでは、宿泊場所がちがったけれど、大阪汎愛高校のバスが、到着したとき、わたしは、汎愛高校の男女の生徒たちに、まず、手をふり、合図と、お辞儀をした。
かれらも、明るく賑やかに、バスの中から、お辞儀をして返してくれた。

なにもなく終わろうとしていたとき、別府温泉についたとき、津田先生が、「まつだ君、このままだと、なにもないので、夕食のとき、余興をしてください」と、急な注文をしてきた。

わたしは、文系の、落ちこぼれに、暴力を振るわれては、困る、岩田君たち、二人を入れ、先に夕食をとり、わたしが脚本をかき、教員たちの物まねや、流行しているポップスを、替え歌にするなどした。

A組みの余興は、水を入れたバケツを用意し、そこを、目隠しの教員たちを、歩かせるというもので、バケツを移動させ、水をこぼしたら、ビニールを敷いていても、水がおち、廻り舞台に、サビがゆき、修理代100万円は必要といわれたので、それだけはしないようにと、わたしも注意したのに、A組みのラグビー部員たちはした。

でも、教員が、バケツに足を入れる行為は、無気力、無関心な生徒に受けた。しかし、責任のため、A組みは、一晩、起立したままと津田先生は叱った。

それで、明日は、船で、徹夜になり、疲労がかさなり、ラグビー部員は、試合があるし、体に堪えるから、中止にとわたしは言った。
が、津田先生は、「ダメです。まつだ君、だまっていましたが、かれらは、宮崎で、外出し、スナックへ行きました」と言われ、反論できなくなった。
わたしも、責任をとりますと、大広間の端に、わたしは、立つことにした。

一時間以上立ったまま、10時をすぎ、ひょっとして、わたしが、居るから、津田先生も起立したままかと思い、「退出します」と言って、部屋へもどった。
次の日、大阪組のUE君や、京都組みのTU君に、聞くと、「まつだが、帰ったあと、すぐ、解散となってん、ごめん」と言った。
彼らは、わたしには、いつも、素直だった。

帰りの船では、津田先生の言うとおり、大阪の城東工業高校が、集団で、ケンカを売りにきたので、わたしが、ひとりで応対した。
望みをきくと、「自分たちは、2等で、毛布もない」というので、啓光学園には、君たちが考えているより、貧しい生徒もいるから、何ができるかと聞くと、「床に敷くものが欲しい」というので、あまっている、1等の毛布類を、城東工業高校の生徒に、渡した。
このときも、最初から、最後まで、わたし、ひとりで片付けた問題だった。
非常に疲れ、休学する日々が長くなった。

このあと、大阪、エキスポ、万国博覧会は、啓光学園は、2年生たちが、太陽の塔で、コーラスをし、サンチェス校長は、モルモン館へ挨拶にゆくというので、わたしは、理系D組みとE組みの英語を話せるものを連れて行くことにした。
引率がサンチェス神父だったので、気持ちが、やわらいでいた。
万博についたとき、白人がいたので、あっ、外人!と、わたしが言うと、「ははっ、ははっ」と三年全員が大声でわらった。
それでも、わたしは理由がわからない表情をしていたら、「まつだ、啓光は、外人神父の学園」と同級が言った。
サンチェス神父は、頬を赤らめ、わたしにほほ笑んだ。
長老派の、身長190センチの細身の人との、会話が思い出となり、このあとは自由というので、わたしのグループは、平屋作りの、東南アジア館だけ、まわった。

自由にしてきた、同窓が、どこへ行ったと聞くので、モルモン館と東南アジアというと、「まつだらしい」といい、モノレールに乗ろうという。

モノレールには、和歌山から来たという、多少、酒のはいった人たちが、「学生さん、聞いてくれるか。わしらは、百姓や、日本もこんな先進国になった。わしらは、難しいことはわからんけど、原爆だけは、許せん、湯川秀樹は許せん」とわたしに涙声で言った。
ひとり文系の学生運動家が、「ナンセンス」と批判したら、「そやろ。わしらは、無学や。でも、学生さんは、わかってくれた」とわたしに言った。
わたしは、ただ、頷いていた。

1968年、啓光学園の生徒は、IQが異常に高く、心理学や、保健の生理学でのサンプルとなった。
湯川秀樹さんたちのもあって、また、湯川さんか、科学者には、発見と開発の名誉を受ける以上、責任が付きまとうとの判断は確固となった。

わたしは、原水禁(社会党)、原水協(共産党)の摩擦や分裂も嫌だったし、感情だけでの「インターナショナル」のコーラスで、解決はならないという考え方だったけれど、なぜ、受験をひかえる高校生へ、ここまで、問題を負担させ、その責任は、だれが取るのかと、大学生が中心の集会のとき、問いただした。
が、彼らは、いつも、「インター」を歌い、終わりとした。

6)

校内暴力だけは、反対とやってきたのに、啓光学園で、秋の運動会で、騎馬戦と組み立て体操をするというので、いまの時代、だれが考えたのかと思い、質問したが、いろいろ、なにをしても問題がおきるとのことだったので、運動会を止めたらどうかとも言った。

こんなとき、1969年の学園祭で、白雪姫をし、大阪音大、ピアノ科を、スケール(調性)二つ演奏を、一音が鍵盤をかすって、落ちた、グリークラブの上級生がきた。
わたしは、大阪音大のピアノ科はやめたほうが良いと言いながら、グリークラブと、はじめて、音楽室へ行った。
サンチェス神父が、聖書をはじめ、日本語は、訳ができていませんと言っていたため、わたしは、読み方を注意するようになっていた。

楽譜に強い、5人が、ミサ曲の、「賛美歌106番」日本語訳「荒れ野の果てに」をはじめ、生徒手帳にあるミサ曲を、斉唱していた。
賛美歌106番は、同じく、シューベルトの、「野ばら」と同じ構造だが、歌詞は、「天使はみもとに」がふさわしい訳である。
日本は、天皇の「天子」と、「天使」がかさなるためか、訳を変化させ、奇妙になっている。

ミサ曲は、すぐれた作曲家によるものだけに、良い歌が多く、音楽好きにとっては、楽しい時間になるが、不得手なものには、奇妙な嫉妬も涌いてくる。
このとき、階上から降りてきた、写真部のものと、合ってしまった。

組み立て体操は、ピラミッドやタワー(塔)では、下から二番目が、犠牲となるので、わたしたち、運動部員がするといい、身長どおり、一番上は、小柄な人といっているのに、小柄が多い、運動嫌いの、貴族風「京都組み」は聞かず、わたしが、一番上になり、二度、鉄棒がある方向へ、放られた。

わたしは、水泳部で飛び込みと、体操部へ行っていたので、とっさの、回転で、逃げた。が、このときは、失敗していたら、鉄棒にひっかかり、大怪我になるところで、「京都組み」に注意したけれど、貴族風なのは、「恐い」と、言うことを聞かなかった。
このあと、啓光学園で、歴史上、いちばんの問題となった、「騎馬戦事件」がおきた。

文系と理系の対決となり、理系は、体格が良くても、無抵抗主義なので、面白くないと教員が判断し、これも、E組みのわたしが上に乗ることになり、わたしが、A組みの半分を倒すということになった。
ラグビー、一年、No.15番の、記虎敏和君が、「まつだ、本気でも、かまへんかぁ」と言った、かん高い声が、まだ記憶にある。
ラグビー部やサッカー部など、運動部の連中は、加減を知っているので、問題が起きなく、A組みの記虎君たちとの、戦いは、最後まで、決着がつかず、楽しい思い出だとおもったとき、文化クラブの同志たちが、問題を起こしていた。

小柄な写真部のを、3年間、級友だったのが、激しく、落下させたということで、口論となっていたので、わたしが、情況をきくと、「ひどかった」と、わたしのE組みが証言する。
NO君は、その場で謝罪したが、おさまらないないという。わたしは、NO君に、相手の体格を知らなかったかと確認した。それで、わたしと共にNO君は、また謝罪し、E組み、そろって、運動場で、謝罪をした。

加害者となった、NO君と、三日間、いっしょに帰ったが、四日目は、もう大丈夫とおもい、柔道や空手経験者たち体格のいい6、7人と帰らせたら、大阪歯科大、天満橋の、大学病院へ運ばれるという、事件が起きた。
枚方市民病院はときくと、はじめ、運び、処置ができないので、大阪歯科大になったという。

NO君が襲われ、歯が5、6本やられ、二本は飛んだという。柔道や空手経験者は、どうしたのかただすと、恐かったと言う。
それで、ふつう、空手やボクシングをしていても、高校生は、受け身の、反射をして、そんな事にはならないので、情況をきくと、土下座させ、NO君の頭をもち、膝で蹴ったという。
3年A組みがしたのかと聞くと、2年生が加わったというので、2年生?と、わからなくなった。わたしは、落第生がいることに気づかなかった。

事件の内容をきき、わたしが黙っていると、教室がさわがしくなり、物理の担任も、逃げるので、いったい、どうすればいいのか?ときくと、「警察」との返事だった。
A組みへ抗議となり、いっしょに行ったのに、A組のまえで、わたしひとりになった。

大阪組みのUE君、京都組みのTU君、記虎敏和君はじめ、ラグビー部全員が、起立した。
わたしは、親しい、大阪組みのUE君と京都組みのTU君に、出て来いと怒鳴りつけた。
「ごめん、無理やってん」と、大阪組みのUE君、京都組みのTU君が、理由を言う。

NO君に、暴行を与えたの連中を聞くと、即時、停学処置で、登校していないという。
内容がわかり、わたしも仕方がないのかとおもい、E組みに戻ると、また、京都で、親が無料診療をしている医師の子弟がおさまらなかった。

警察への報告というので、とうじ枚方公園にあった、枚方署へ、いっしょに行くと決議し、まず、職員室へとなり、職員室をまえにすると、また、わたしひとりになった。
神主の津田先生が、わたしを神父室の風紀の部屋へ呼んだ。

津田先生は、騎馬戦は中止というので、そういった判断は、生徒をより傷つけると言ったが、「神父さまの命令です」が答えだった。
そして、事件と関係のない、「大阪組み」のUE君や、姉がノートルダムへ通う「京都組み」のTU君を、退学処分にさせると関係ないことを言いはじめた。

わたしが、かれらは、中学生を守るため、していることでしょうと言った。
この、UE君や、姉がノートルダムへ通う新撰組風「京都組み」のTU君は、とうじ、暴力が日常で、啓光学園の中学生たちを襲う、他校からの不良を、体を張って、守った一員だったけれど、学園の神父は、それを理解しなかった。

新撰組風のTU君は、1970年初夏、わたしに、格闘技で、何が強いというので、何のための格闘技ときくと、ケンカというので、ボクシングとわたしは答え、ボクシングをマスターしに行った。
そして、同志社香里の、啓光学園の在籍を、登校のたび侮辱する、連中4人を、枚方市駅の線路へ、クロスカウンターで、叩き落としたという。が、特急通過のときと重なり、事件となった。

わたしは、新撰組風「京都組み」のTU君に、偉いと褒めたが、神父たちも、大山崎の神主の津田先生たちも怒り、京阪電鉄の枚方市駅の駅員たちは、もう少しで、4人死んでいた、同志社も啓光も、京阪の客だけど、首どころでないと、怒った。

勤皇の志士風「大阪組み」のUE君には、何をしたと聞くと、とうじ浪速商業(なみしょう)が、高槻の方にあり、浪商30人、啓光5人、「淀川の合戦」をし、淀川の草むらに、チェーンとナイフを振り回す、浪商30人を、追い込み、道具は改造カバン中心で、倒してきたと告白した。

わたしは、大阪を意味する、浪速(なにわ)商業が、なぜ、高槻にあるか理解できず、説明ができなかったが、1970年秋、枚方市の踏み切りで、浪商のに、囲まれた、原因がわかった。
それで、同志社は、少人数だから、いいけれど、浪商は全校2500人からいるというので、止めてくれと言った。

浪商のケンカレベルを知らない、新撰組風と貴族風「京都組み」のイエが病院経営のは、とうじ高倉健の、「唐獅子牡丹」が流行り、京都の刀剣屋で、小刀(ドス)を買い、彫刻をする、わたしに、どうやれば磨けるという。
それで、わたしは、「樫の実学園」へ通う、新撰組風と貴族風「京都組み」に、小刀をふりまわしたら、京都府立医科大の職から、日赤部長の職も、イエの病院も潰れるからやめた方がいいといった。

もう、いい加減、わたしは、疲れにつかれたと思っているとき、NO君と、お母さんが、わたしに話があるという。津田先生と、吉武先生がクルマで、香里団地まで案内するので、ついてきて欲しいというので、わたしは、わたしが起こした問題でないし、受験勉強もなにもできないと言った。が、まだ20代の津田先生は、「神父さまが」というので、わたしは、嫌々、香里団地まで、行った。
NO君の病状は、ひどく、NO君から、わたしへは、「警察への通報と、暴力をふるったひとへの抗議もやめて欲しい」との伝言だった。
同行の数学の、25歳の吉武先生は、わたしたち9期以降の下級生たちの暴力事件や、違法行為を、わたしが、知ったら、おどろくという。
わたしは、医学部進学とちがい、文系進学は簡単だから、啓光学園の立地上、いつでも、進学校へもどせるといった。

7)

1971年となり、卒業式の答辞で、規律では、生徒会長の竹川君だったが、わたしのE組みの岩田君へ使命がきて、岩田君の父、京都府立、鴨沂(おおき)高校の、数学の教員がよろこび、事件が起きた。

生徒会長の竹川君には、君たちC組みの発言で、学園の方針を訂正させるべきだといったら、できないという。
わたしは、また、小学校や、中学と同じことかと、黙った。それで、竹川君に、両親にでも、来てもらったらといったら、北海道新聞の、仕事があるとのことだった。
小学校でも、問題をもってきたのは、親が新聞社勤務という、となりのクラスのものだった。
わたしは、そんなに大事な問題だと、自分の親が勤務する、新聞に、社会問題として、扱ってもらったらどうか、甘えてどうするのか、わたしや、わたしたちE組みの、時間の干渉をやめて欲しいというと、C組みは、「まつだ君が生徒会長にさせた」とバカらしい、反論をしてきたので、成績が上がってないじゃないか、と津田先生からの報告を言った。

親がマスコミや役所勤務の連中と、親が医師とか自営業の連中との判断のちがいはここにあった。
親がマスコミや役所勤務の連中は、いつも、胸に勲章かプレスの腕章をつけ、目立ち、特権階級であるかと思い、社会問題の責任が他者なのだ。

この欲だけの連中のなか、多少の正義感をもち、事件を先導したのは、伏見区で、父親が、貧困者へ無料診療をしていた、TO君だった。
日本は、どうして、両極端かとおもった。TO君ところも、わたしのイエも親が休みなく働いているイエだった。
岩田君へ、わたしの苦労を注意しても聞かないので、受験ができないように、暴力を振るうという。
わたしは、暴力だけは止めて欲しいと言ったが、決行するという。一週間ほど議論した。そして、わたしの目の前でしてくれと言い、決行は、雪が積もった日の、体育のラグビーの時間となった。

スクラムからの攻撃で、大田先生は、わたしが、出したボールを蹴るとおもい、スクラムから離れた。
ところが、スクラムからの、ボールはそのままで、岩田君は、タックルを、味方のTO君にされ、雪の中に倒され、引き回された。TO君たちは、攻撃を、敵側のわたしたちに、もとめる。

指揮が、わたしとなった。岩田君は、雪どけの中へ放りこまれ、クラス中から、運動靴で、顔を踏まれ、体をけられても、岩田君は、黙ったままだった。「おーい」と、いいながら、大田先生が、走ってくる。

「やめー。やめー、やめんか」体育担当の信州大出身の、大柄の大田先生は、体当たり攻撃をしてきた。
先生は、顔を紅潮させ、白い息をだし、岩田君を、起こそうとした。が、まわりは、怒った表情の生徒ばかりだった。
「忠臣蔵」か、「桜田門外の変」のようなのか、何が、起きたのか、理解できなく、わたしたち、ひとりひとりを、高校生のような目で、見渡した。

大田先生に、なんの反応もしない、わたしの表情は、暴力をふるった側のもので、冷淡だったと思う。
わたしは、歴史の事変というのは、こんなものかも知れないと、考えた。

学園中の生徒が、冬の窓から、顔をだし、第9期、3年E組み、IQ天才値の集団による、暴行の、激しさを見ていた。
このままだと、大田先生も、30人を敵にして、負傷するので、離れた位置から、中止と、わたしが言った。
かれらなりに、加減をし、岩田君には怪我がなかった。
暴力とは無関係な日々を過ごしてきた、岩田君を、足蹴にした連中の、息は、荒かった。

文部省は、学生運動家の防止のため、1971年から、内申書を重視する方向をだした。
どこまでも、時代にふりまわされた、わたしたちの世代。目立つことを嫌い、物理化学の実験が、楽しいと考える3年E組み。静かに分かれゆく、卒業まぎわで、答辞という、たんなる行事の役を望み、クラス中の気持ちをバラバラにした岩田君への、思い切った行為のためか、多くのものが、長距離でも、走ってきたような息を出していた。

担任の高岸は、わたしに、「内申書、わかっとるやろな」といった。
首謀者は、わたしとなった。

1970年という、過激な時代、予想ができない、問題がつぎつぎ、投げかけられた。
学園紛争がすぎ、1971年から72年となっても、わたしは、生涯で、一番の恩師と、いまも、尊敬している、とうじ20代のサンチェス校長から、留学先で、なんらかの連絡をまった。が、なかった。

ファーザー・サンチェスはじめ、ブルネット、ロドリゲス、スーテル、ロメロ神父など、わたしの恩師たちは、わたしたち以上に、過激な言動をしたと知った。

「ローマ教皇」、法王庁相手に、教義の変更を、抗議し、5歳から学問をつづけ、得た、司祭職を辞めたという。

このことは、わたしが、一年のとき、啓光学園のプールで、雨の日は、ひとりで、泳いでいたのを知っていた、1968年は、修道士だった人が、本部代表となり、1996年、サンチェスは、ファーザーでなくなりましたと伝えてくれた。
「第二バチカン公会議」で抗議をおこしました。が、サンチェスは、いまも、神のみもとにいますと、電話で教えてくれた。


          賛美歌106番 「天使はみもとに」

          天使は そばに
          高い空から 声が
          山へ 里へ ひびく
          喜びを 歌に
 
          Gloria in excelsis Deo ! グローリア イン エクセルシス ディオ
          Gloria in excelsis Deo !  永遠(とわ)なる栄光の 神よ  
                                  
                                          訳 松田薫



▲  恩師 マヌエル・サンチェス神父
▼  物理教室 前列左から2番目が松田


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫(2006-09-29)