京都昨今 |
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30、決定した、異なる意匠へ、連続する憧れ 蕪村 | |
壱) 同じ日本語を地盤とする文化でありながら、ずいぶん身近にあるものなのに、服装から、仕草、いちばん重要な「言葉」すら、それらを、わたしたち日常と、かなりの違いを、この国は、いちようにみえる文化として、維持しようとしてきた。 いまは、欧米とかわらず、洋風であることが日常であり、日本のものとされる和風のものをはじめ、他とおもえる「服装」であれば、異なったひと、他者としてあつかわれてしまう。 わたしたちは、日常に、「あいまいな境界」をつくっているのだけど、それを、「あいまい」であるものと認識していないため、数々の問題を、おこしてしまう。 夏目漱石は、平安京をひらいた、桓武天皇の時代に、「ぜんざいが 軒下に 赤く染め 抜かれていたかは、わかりやすからぬ 歴史上の疑問」『京に着ける夕』 と、自問する、自分自身も、わらう存在として表現した。 また、「常に生よりも 死を尊いと信じている 私の希望と助言は、遂に この不愉快に充ちた生というものを 超越する事が出来なかった」『硝子戸の中』 とも言った。 漱石が、注意する歴史として表現した、桓武天皇の時代は、空海、最澄といった、才能のある、高僧を、遣唐使として、おくったときである。 すぐれた宗教家により、決定された生を研鑽すること、決定された死を恐れないこと。これらの考え方を広めゆくこと。 政治、思想をなすものが、心身の在り方による「宗教」の必然をとき、それによって、あらたな、国家を作り上げたというのは、「桓武天皇」自身、および側近が、想像をこえた才能集団であった証(あかし)となる。 また、「空海」、「最澄」の宗教が、いまだ、大きな対象として在ることは、日本のひとつと、おおくが認識できるとおもう。 彼らが、築いた宗教を、密教ともいう。が、これは、ヒンズー教など、他の宗教同士の競争で、大事なのは、同じ集団どうしでの、意味をもつ「暗号(言葉)」であり、これらの宗教の、高度なものの理解の一段階として、「曼荼羅(まんだら)」が、命題のように、象徴されているが、じっさい、どのように、分析できるのか。 科学哲学者、大森荘蔵さんは、自説の、一元論を「曼荼羅」という、ひとつの手段でもって、分析しようとした。 わたしは、大森さんが、先に、物理専攻だったので、数理式を理解できるとおもった。 それで、たとえば、「豆腐」を投げたとき、これを一つ(一元論での対象)として、措定としての、パラメータの立て方、ないし座標軸の決定は、どのように、わかりやすく、してゆくのかと、議論したとき、 「そのことは、つぎの機会にしましょう」と大森さんは言った。 ここで、「京都らしいもの」を哲学してゆくばあい、「京都をひとつ(一元論)」として、なにが京都らしいものなのかとなる。 弐〕 むかし、大きな神社や寺の境内であることは別にして、博覧会でにぎわった「知恩院」や「建仁寺」の領域から、30分も、歩きゆけば、そこは、もう、日本のどこにでもある、盆地の、田園光景が広がる地帯だった。 日本のどこにでも見かけることができる、盆地の、田園光景は、観光客を満足させるものではなかったはずだ。 「観光客」という他者であるばあい、ふつう、日常だと拒否ができ、日常と離れたものに、関心という、近づく意味がでてくる。 欧米での博覧会は、機械文化が中心だった。それにたいし、京都の博覧会は、より京都であることを要求された。 意匠では、大きな神社や寺院があるのであるから、それらが、古典を資料に、より、古く、厳密にいえば、「より伝統がありそうな、立派な古さ」を用意したものであればよかった。 京都の博覧会といっても、第一の客は、東京の政財界や、高級官僚になるが、近郊を中心とした、町や村での、富裕層を対象にしたものでもあった。 町を代表する、豪農、豪商は、充分に、豊かな品々をもち、その人たちの関心を呼ぶものは、京都らしい豪華さであった。 が、そのような、豪華さの、究極は、平安朝が栄えたときのものという、「天皇家」に権威と権力が集中したものであり、これが、京都博覧会の文化とするならば、持続は、非常に、難しいものだったと、想像がつく。 そこで、変化の色合いのためか、舞妓の踊りをはじめ、文芸を、博覧会へもってきた。 「万博」や、機械の「見本市」のようなものだが、「内国勧業博覧会」は5回開催された。 文芸の部分もあった。 第4回目は京都で、1889年(明治28)に、この写真(▲上)は、大阪での、第5回目に展示された、ひとつで、1903年(明治36)に、出品されたものである。 着物を選択し、装飾、仕草を完成させてゆくこと。 子供が無邪気をこえ、大人の意匠にあわせ、複雑な感情をあらわしたしぐさ。 日常をこえ、かけはなれたものに、文化を理解しようと、訓練してきたものは、対象が人間であり、この瞬間の行為での、写真に、はっと、おどろきをもってしまうのではないか。 ふつうの写真としてみれば、富裕層の、「吾が子」への、思い出の、上品な遊びととれる。 この人物は、わたしが所有する、「血液型と性格の社会史」の、関連者の資料の断片といえばいいのか、モデルは、血清学や精神医学の研究者、長崎大教授、浅田一(1887ー1952年)の夫人である。 浅田博士の、美知子夫人(1894ー1994年。島津藩出自、家系は医師)は、1912年(明治45)、大阪府立堂島女学校(大手前高校)出身、同年「プール学院」入学、中退の学歴で、これは、幼いときの写真である。 美知子夫人は、わたしが、調査中の、1990年代、生存されておられた。 ふつう、わたしたちが、わかるのは、いま在る、「大手前高校」、「プール学院」という、概念である。 ひとつの学校は、決して、「いちよう」でなくても、わたしたちは、それを、決定事項のように、「ひとつ」と考える。 旧制北野中学、第三高(京大)を首席で通した、浅田一博士は、東京帝大医学部一年のとき、日本の、精神医学の基礎をつくった、呉秀三(くれ・しゅうぞう)博士に、才能をみいだされ、精神医学を専門とした。 そのため、血液型と性格を考えられた。しかし、病人と、通常の人とは違い、知能がすぐれた人たちの検査を、教育学や、心理学専攻のひとたちにまかせた。 浅田一博士は、血液型と性格の関係は、従来の、個人をみる心理学の調査表では、明確にならないけれども、複数の人間関係の間では見出せると判断した。 京都の有名な老舗から、医師の妻を選んだ、浅田一の、息子さんたちは、浅田一を教育者と、謙遜して見ていた。 このひとつは、浅田一の恩師に、仏教学者の河口慧海(かわぐち えかい)にあったことが大きい。 浅田一の教育者としての性格だが、教育費を負担しても、弟子を育てることにあった。 長崎大で、研究論文として、評価されたものの、大半は、浅田一教室から出たものだった。 ここでの、思考対象は、写真の美知子夫人であり、この写真に近いものは、東大路、三条通りを、北に、節句用の、1970年ごろであれば、人形屋で、高さ、30センチぐらいの小さなものでも、数十万円単位で、高価格帯だったが、かなり見ることができた。 これらは日常であるかどうか。 京都へゆけば、どこにでも、みることができるものか。 1970年ごろ、東山三条にあった、人形の町を、20歳ぐらいで、見学していたのは、わたしぐらいだった。 わたしとしては、古美術の町と同じく、造形は、興味の対象だったが、第一の関心は、節句用の人形の、装飾品というか、衣服をはじめ、備品という、あくまで、儀式めいたものだった。 が、わたしの視線と、周囲との、一致を、見ることはなかった。 節句は、言葉の響きもだけれど、季節の折々での、造形を、見ることができたからである。 これらの造形には、服装という、かんたんに見えるものでも、理解までに、段階を追わなければいけないものがあり、古美術をもふくめ、いつ、少し、理解したと、思えるのだろうかと思った。 節句人形は、和装であり、それに近く、人間が中心となるもので、能や狂言などがある。 能や狂言は、日常とちがい、どのようにすれば、近づけるのかと思った。 知己に、家元があったが、そこから、近づくのは、無礼をかんじて、質問すら、できなかった。 彼らの在り方は、着る物もだけれど、所作で、心身の在り方も、わたしたちとは、まったく違った世界に、居る存在だった。 人形が中心となるもので、浄瑠璃も、日常との、距離が、あまりにもあり、大学の専攻で研究していても、そこで演じる専門家たちと、相当な、知識や力量の差をかんじた。 これは、30年ぐらいまえの、1970年代でも、同じことで、能や浄瑠璃を、わたしの日常とは違う、高度な文化として、上演される、催しの、言い回しである、言葉を暗記ほどに、予習して行き、見学しに行っても、理解へは遠かった。 どうしたらいいのか、わからないほどの遠さをかんじた。 古文学者は、1970年ごろの、関西の学者の程度は高く、かれらにつき、習っていたからといって、じっさいの演劇の理解に、どれほど、役に立っているのか、わたし自身、なんのための、古文や日本思想の学習だったのか、日本語、あるいは、日本文化の構造はどうなっているのかと思った。 日本文化の代表としてある、行事や式典での、神主による、言葉は、大和言葉で、これは、とくに予習をしなくても、ふつう、大学で国文を専攻していれば、そのまま理解できる程度のものだ。 しかし、大学や研究所で、国文を専攻という、条件をみたさないと、ぼんやり、わからないものが、日常からつづく、日本の儀式とは、いったい、なんなのだろうかとも思った。 哲学や科学をするのに、これらが、どう役立ったか、わたし自身に、どのように役立ったのか、わからない。 ただ、専攻が、科学であっても、必要とかんじたのは事実である。 また、趣味の延長のような、西洋音楽関係、これらは、オペラやバレエなどと同じ、段階を追って得、選択された、知性や意匠の高まりにあるのだから、これらも、理解するには、かなりの準備がいる。 いわゆる、国立の芸大関係者は、レベルが高いことになっている。 が、肝心の、ドイツ語やイタリア語の学習がなっていない。それに、ドイツ、フランス、イタリアの経済力、文化力の衰退が、語学学習の気持ちを、そいだ。 学習は、音楽の実践にたいし、時間がないことにつきるが、歌劇での、理解のためには、日本人には、とても不利で、ドイツ文化も、ドイツ語も、地域によって、異なるが、理解の必要性は感じた。 ただ、それらが、貴族社会の産物のため、理解をしようとするならば、見る側にも、しぜんに、知識をつんでゆかないとなんのことか、わからなくなる。 能や歌舞伎の装束で、コンサートホールや文化会館であっても、内でなく、外であれば、日本の装束であっても、あくまでハレの舞台での、装束のため、どういう、意味あいをもたせ、その場の、人間関係を処理、解決しようかと、ふつうのひとは思ってしまうのではないか。 家元たちは、いまだ、舞台に必要な教材までも、わたしが知らない意匠の風呂敷のなかにおく。 そういえば、わたしが、風呂敷に、画用紙とか、工作とかなどをつつんでいたのは、1961年ごろまでだったかとおもい、それから、10年もたち、1970年代となり、自在に包める、風呂敷文化がきえてしまったと思った。 周囲の学生が、ただの見学でなく、能や狂言の多少の知識をもち、彼から、ほんの数秒でも、能や狂言の家元からの空気にふれ、文化とは何か、学ぶと、いいのに、もったいない時間だとおもったりした。 かれらの生活の中心は、しっかりした、板の間であるし、能など内容の種類によって、舞台の飾りがかわるが、基本は、板の間で、言葉と舞を同時にすすめる、演技であって、これは、本来が、上流階級のもののため、伝播は難しいとかんじるより仕方なかった。 1970年代、能より、難しさをかんじたのは、浄瑠璃のほうで、この文化伝播は、どうすればいいのか、楽しむまでには、あまりにも、高度な予習が必要な文化と思った。 小さな空間、箱庭風の空間を、日常の大きな空間としてみて、そこで演じられる、こまやかな所作や、約束事は、基礎教養がなければ、見学が、不可能なのに、これを平気でしてしまっている。 これら、観客は、自分たちが、正しく、中心に存在していて、演じているほうを、他者とかんがえてしまうので、正直、非常に面倒な気持ちにもなる。 知っている、見たことがあるからではなく、これを、身近にし、どれくらいのひとが、言葉や気持ちをかわしたことがあるのだろうか。 わたしたちは、これら、目にし、知覚できるものを理解しようとしたとき、どういった行動、判断をしてゆくか。 この、じぶんたちが生活している日々、じぶんたちの部屋にみなれたものでなく、圧倒して離れ、日常でないものに、憧れといったものを思考し、選択行動にでてしまう。 この、一見、あこがれに見えて、これが、金銭で、どうかなるものであればいいが、金銭ではなく、これは、好きでしている趣味の世界のものであれば、いまの時代、法律において、自由にはできない。 これは、下にある写真の、舞妓においても、町をふくめ、この構図を、日常と、認識できるのは、京都のうちで、どれくらいの範囲のものなのか。 京都を知るものであれば、いかに、短いものであることがわかる。 よく、見かけるものであっても、刹那のものであることがわかる。 芸妓が居る世界は、京舞や、長唄、小唄、笛、太鼓、三味線はじめ、あらかじめ、精進に近い、基本知識の学習がなければ、ついてゆけない。 文化は、近寄りにくい、遠さ、距離をもつことで、価値を発揮する。 かんたんな文化であれば、尊敬などいだくわけがない。 なにもかもが、段階があり、別の世界にすみ、別のことをしてきた人たちには、特別なものとなる。 この京都の一角には、その、境界が、厳としてある。が、周囲の理解、せめて、自分たちとは、ちがった修練をつんだ人の世界であることを認識しないと、あっというまに、こわれてしまうものである。 「祇園会の はやしのものは 不協 秋風 音律」と、蕪村は、祇園祭りの音は、夏に合い、秋風がもつ、さびしい色彩とは合わないと、そう言われると、そうだと考えてしまう、決定した言葉で、詠んだ。 このような解釈を、進行させてゆくことにより、新しい現象学の哲学になるとは、ふつう、理解しにくいだろう。 消えゆくのも、寿命であり、運命というなら、それも自然であり、ここでの判断は、自由になるが、この町にはいり、見学や拝観という行為にでたのであれば、そこには、姿勢をはじめ、規律がともなってくるのではないだろうか。 このように、わかりにくい表現になったのは、むかし、わたしと、理解に、難しい、日本文化について哲学をし、白衣となり、清らかな、板の間をふみ、玄関まで、見送りに、出てきてくださり、生ある心身を、わたしにみせ、周囲を驚かせた、日本を代表する高僧が、いまわの、さかいにいると、きいたからである。 ▲ 第5回、内国勧業博覧会(1903年)出品 浅田一博士、美知子夫人 ▼ 祇園花見小路 (写真:松田薫) |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-10-06 |