京都昨今
29、「ばばあ」で「哲学」                             田辺尚雄
一)
東京のひとで、中京区(なかぎょうく)を、「ちゅうぎょうく」という人がいる。
烏丸(からすま)を、「からすまる」という人がいる。

だいたい、勢いある東京人は、自分の読み方や発音が正しいとおもう傾向があるので、わたしは、訂正したりしない。

「保元の乱」は、天皇側が、京都生まれで京都育ちの、源義朝に、命令を下し、戦う家来を、奈良のほうから、京都の鴨川へ、1000人を招集した。
言葉は、どのように通じたのだろうか。

「南都より 大衆徒 大勢にて、吉野、十津川の者共 めし具して、千餘騎にて 今夜 宇治につく」『保元物語』
このときの1000人という数はすごく、この保元の乱で勝った、白河天皇は、上皇となり、「北面武士」を組織して、これらの結果、天皇政権がゆらぎ、武家政権となる。

とうじの、戦いは、すべて天文の支配と、「易経」に基づいた。

源義朝たちは、戦いのとき、
「朝日に 向て 弓ひかん事 恐(おそれ)ありとて、三条へ打下り」『保元物語』
と、弓を放つ位置を、変える事をする。

1976年、哲学の平石善司先生が、押さえておいてください、登録しておきますからと、わたしは、京都教育大の村上敏治先生の「中国思想史」の受講生になった。

京阪には、祖父か父が死ねば、すぐ古書店ができるという、イエ中、書籍だらけの、学者の子供が多い。
しかし、広島大学出身の村上敏治先生は、老荘思想から、孔子、朱子までを講義される。

講義のあいまだが、「わたしは、筮竹(ぜいちく)ができます」とかおっしゃり、わたしは、わらって、講義終了後、もってきて、して下さいと言っていた。

が、次の講義で、わたしと同じく、中国(北京)語をしていた、他の大学の聴講生が、
「筮竹はいいから、中国語で、正確にやって欲しいと言って」
と、わたしにいうので、村上先生、予習してきてくださいと言ったら、
「わたしは忙しいんです。こんな大学、二度と、教えに来ない」
と大騒動になった。

わたしは、平石善司先生に、もう出席しませんと伝えたら、
「はは、そうですか。村上君は、大学問題もあって、ほんとうに忙しいんです。彼は中国語ができます。来週も、ずっと出席してください」
と、わらっておられた。
が、北京語を学習していた、わたしのたちの前で、村上敏治先生の中国語での講義はなかった。

村上敏治先生の講義に、
「日本の風土は、夏が暑いので、北向きのイエのほうが良いんです」
と、易経と、風水が入る、内容があった。

この知識があれば、建築が専門の父に勝つと思い、言ったら、
「南向きの土地は、北向きでも建てられる」
と、実践家の、一言に、負けた。

1970年代、東洋一のホテルは、中ノ島ロイヤル(いま、リーガロイヤル)で、三番目が、グランド(いま、リーガ中ノ島イン)で、このグランド解体工事に、父は呼ばれた。

大阪は、水の上に建っているような都市で、大きな建築物の、基盤を見るためだった。
「松や。昔の人は偉い」、地震用の「箍(たが)も計算しとった。偉い人がおる」と播州弁で言った。
大阪グランドホテルは、水に強い、「松」で基礎を組まれ、地震も計算されていたという。

二)

父は、京都の有名なホテルの建築を、1960年代、学生運動が過激だった、横浜国大OBの部下にまかせた。
建築で困難なのは、L字状など、新しい意匠や、デザインがかかったところを、どのように、鉄筋で編んでゆくかにかかる。
「祇園の男(祇園では有名な人物)が、ほっぽりだして、逃げよった」
と、父が、オーナーへ謝罪に行き、担当となり、完成させた。

学理は別にして、言葉や意思をつたえるのは、難しい。

手紙でも、電話でもだが、通信によるものは、誤差が生じ、伝達手段が直接のばあいでも、多くの誤解を招く。
わたしのイエの伝達は、「他者(客)」から母や祖母、祖母から母、祖母から祖父、母から祖父、母から父といった方向性をとっていた。
伝達の文言は、電報文ぐらいに短いものでも、誤差が生じないように、行ったり来たりしていた。

インターネットの発達で、活字が、素早く届くようになった。
弊害はあるが、活字文化の崩壊のひとつは、1960年〜80年代、吉田拓郎、井上陽水、ユーミン、中島みゆき、喜多郎、姫神(星吉昭)はじめ、正直であろうとする、男女の天才の多くが、音楽などに行ったことにある。

わたしたち1951年、52年生まれは、無気力、無関心、無責任といわれた世代である。
学生運動をしたのは、100人のうち1〜2人と、極めて少数派で、継続したのは、もっと少ない。

1948年までの団塊の世代とちがい、1949年〜1952年のひとたちが、大卒の学歴をかくし、労働者としてはたらいていることにもある。
学生運動に参加した、かれらが、23歳を越え、就職が必要となった。

世間を騒がせたことで、一労働者としての、孤独な生き方を選んだとき、東大や京大卒という学歴での採用など無理だった。そのため、余裕のあるものは、もう一度、大学へと、私立大へ行ったが、大半は、高卒で就職をした。
わたしは、このことを、明確な社会問題化するマスコミを知らない。
また、わたしの友人たちは、沈黙しておいて欲しいとの希望だ。

三)

わたしが、まったく面識のない、孤独とは無縁のような内田樹(うちだ・たつる)さんだが、わたしは、内田樹さんのタイピングをみて、女子大の広報係りを兼ね、30歳代なのかとおもった。
文章が若い、いまが青春かとおもった。

この内田さんが、長年、あこがれの作家と、食事をかね、対談し、それを公開日記(ブログ)にして、問題になったという。

いま、現れている、「2006年9月15日のブログ(日記)」から、哲学をしてみる。

内田さんによると、「おばさん」という意味の中国語であったのだが、内田さんはそれを理解することができず、音の似た日本語と勘違いして、間違ったまま書き記してしまったとある。

内田さんは、大学のときから、フランスの現象主義などの哲学をされ、「構造主義」を論じられているようだ。
すると、「言葉」は、何層もの、構造をもち、言葉、その本質についての、考察も深いはずだ。

内田さんは、参加者が少なくなった、学界の事情を知ってか、2005年5月23日のブログに、
「日本記号学会会長といえば泣く子も黙る山口“大熊猫”昌男先生」
とタイプしている。

東京と、京都のアカデミズムは、学会員と、学会費をあつめるため、1970年代後半、パンダ(大熊猫)として、山口昌男さんを、人類学会長とする計画をたて、実行した。
内田さん、いくら、パンダでも、直喩だと、山口昌男さんに、失礼ではないか。
ひょっとして、本物のパンダが怒るかも知れない。が、この「大熊猫」の子が、1969年秋、客が、高校生のわたしだけの、近所の書店で、注文品を、先払いしようとしたとき、「おばさん、ぼく、アサダです。ぼく」と、わりこんできて書店の奥さんを困らせた、浅田彰さんという、お子さんだった。

「ばばあ」で「科学哲学」。

内田さんの、尊敬する作家が厨房へ、
「おい、ばばあ、 これでなんか作ってくれ」と声をかけた。
作家は、じっさい、こういったのではないそうである。

ここでの、命題に、「ばばあ」と、「これで」の、代名詞、指示代名詞の、「所与、所持(データ)」が可能となる。
「これで」の指示代名詞を取り上げると、規律が入り、難解となるので、「ばばあ」の代名詞に絞る。

1983年ごろから、新聞紙面から、「老女」「老婆」というような表記はなくなったはずだ。
これは、交通事故で、被害者となった、現役で働くわたしの母へ、警官が、なにかと、「おばあさん」と言い、事故調査をする言動がなっていないと注意し、わたしを枚方署までゆかせ、改まった。

わたしが枚方署の事務室へ行くと、全員起立した。
わたしは、憤慨する、発言をした警官は、どなたですかと、次々聞いた。が、沈黙を守る。

母方は、父方があって、存続しえたが、旧内務省、司法省の高級官僚を、父(わたしの祖父は、大正天皇から、式典で、「金時計」をいただいている)や、伯父にもつ母の、識別はすごく、「この人」と指した。
このとき、一致していた「周囲」は、ひとりの人物を、排斥(疎外)し、緊張が生まれ、排斥から、否定へ、現象が変わった。
「はい、わたしです」
と枚方署の警官は自白した。

人権を考えるなら、「無職」という表現も、あらためる時期とおもう。
たとえば、農家での、高齢者ないし、軽度の病人でも、留守番という、役割をもっていることが多い。
新聞記事は、留守番役の、だれだれさんにすべきだ。

四)

内田樹さんが、日本語の音韻に聞き間違えたという。
聞き間違いなど、日常なのに、それで、深く、謝罪されている。

この、「ばばあ」の、「存在と認識」を表現できなければ、哲学の一端に、居るとは、いえないので、思考をすすめる。

これが、いまでも知られる、俳優、松田優作の「探偵物語」の、一シーンだと、どうするのだろうか。

「ばばあ」とは何か。
もし、18歳の、黒曜石カラーに、スリットが入った、チャイナ服をきた、ミス横浜のばばあだと、どうなるか。
もし、20歳の、18金ラメ付き、孔雀柄をきた、ミス・フェリス女学院の美人ばばあだと、どうなるのか。

「探偵ちゃーん」とか「工藤ちゃーん」と呼ばれた、松田優作であれば、「こら、こら、うるさい、ばばあ、まとわりつくな、向こうへゆけ」となる。

また、25歳の性格ができそこない「ばばあ」と、60歳の美人で金が豊かだが、性格も少し変な「ばばあ」だと、それらへの「価値観」はどうなるのだろうか。

工藤探偵の、松田優作であれば、60歳の美人のばばあへ、アプローチをかけるだろう。

内田樹さんの「音」の聞き違いを考察する。
中国語では、ふつう、「ばばあ」に似た音韻は、父のバーバーである。

中国語      父        バーバー
韓国語      兄        オッパー
ベトナム語    おばさん    バー
タイ語       おばさん     パー

昔、河原町で、オッパーという、女性の会話で、「OPA」という、ショッピングセンターの存在はわかったが、わたしが、認知するまで、一年以上。
これで、解決したとおもったら、どうも違う。

正解は、日本の近隣諸国の、各国語の列にあるだろう。
いずれにしても、近隣諸国の、音韻や概念が似ていることに気づく。

海辺や、鴨川からの釣り。釣り人、開高 健の、「オーパ!」との関連かと、二年ぐらい思っていた。
が、どうも違う。この意味、記号では、絶対ないとおもっていた。

言葉は、反応する、「共鳴」する、社会環境で、どんどん変化してゆく。

市民、大衆の判断というか、わたしが、開高 健(かいこう・けん、1930−1989)さんが、亡くなられたのを知ったのは、新宿、中央線のプラットフォームだった。

夕刊新聞、得意の折り方で、「健 死亡」とあって、東京人たちは、「きゃ、健(1931−)さんが亡くなったわ!」と女性たちが言っている。
それで、新聞を買い、手にし、「カイコー。なに? 作家 だれ?」とか言っている。

この光景を、開高健さんが見られたら、
「本望ですね。あの、日本を代表する、男もあこがれる、高倉健さんに、ぼくが、間違えられるなんて」といい、それじゃ、スコッチでも一杯、やりましょうかとなるだろう。

内田樹さんが、開高健さんクラスの、記事になるのは、勤務先の学園祭で、福原へゆかれシャボン術をマスターされ、シャボンで居合いを披露されるか、手鏡でなく、姿見か、三面鏡のような羽をつくり、体中にもラメを貼り、空飛ぶミラーマンだとやれば、夕刊紙に載るかもしれない。

2002年、わたしが、京都、中京区で、新しい楽器づくりのため、相手をしてもらったのは、21歳の音楽をする大学在学中の料亭娘「ばばあ」と、70歳ちかい女性オーナー「ばばあ」だった。

新しい楽器をつくるためには、素材や、知識と予算など、金にまつわることの判断が大事で、70歳の方は、人格がしっかりされ、いきおいもあった。
どんなものでも、用意いたしますという。
わたしのほうが、無謀な質問で、相手も楽器は不案内で、保留という形で、丁寧に断った。

わたしは、会社には、うといので、この「ばばあ」を、父にきくと、「幕末と明治を、戦中を、のりこえ、いまどき、そんな人が、河原町にいるんか」と播州弁で、驚いた。

正体というか、真実は、多くの著名な作家を知己とする、「老舗ばばあ」だった。

この「ばばあ」の存在を知り、べつの老舗の店であうと、ばばあより、格段若い、ご主人が、「お嬢さま」とやっている。

言葉は情況で、変化する。

ショップのは、「O・PA―」で、近隣諸国の女性は、向かい合い「O―PA〜」と語尾が上がる調子で言っている。
ふんいきからゆくと、目上とか、血縁関係など間柄での、親しみをこめ、使っているようだ。
わたしにそれ以上の経験も、知識もない。

江戸時代の音楽で、田辺尚雄先生は、京都には、「同情」があるが、「共鳴」がないと言った。
「共鳴」とは、文化の表現を、心身で受け止めることで、共鳴により、人々は行動をともにする。
田辺先生は、武家政権にうつった、鎌倉時代の、音楽の価値観を追究され、このように要約された。


    「この期は 日本音学史中、最も低級な 最も堕落した  時代である。
    それ故  最も外観は 貧弱である。しかし  実は  この期において、
    日本音楽の性質が 一変されたところの  過渡(かと)時代であって、
    音楽史の研究上 すこぶる面白い ところである」       
                                          「日本音楽講話     田辺尚雄」



▲ わたしは 「共鳴」を求めるという 六角子猫  (写真:松田薫)
▼ 京都市役所の、ハートの形をしたカラジウム  (写真:松田薫)


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫 (2006-09-22)