京都昨今 |
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28 「坑夫」に、日の丸をみる 三条とおり 朝永三十郎 | |
一) 御池(おいけ)から、寺町通りを、さがった画廊に、いま、ジャン・ジャンセン(1920〜)の、リトグラフが二枚かざってある。価格をみると、1970年代の倍。 30年まえの倍? これはいいのか、わるいのか。安いのか、高いのか。 ジャン・ジャンセンの線をみて、思い出すのは、1969年の過激な学生運動をし、「東大」や「東京芸大」を頂点とした、学校制度とともに、画家のわたしたちは人間であると、スカウトにきた「日動画廊」に反旗をひるがえした、イトコの親友、高校生の山本君である。 山本君は、1968年暮れ、受験に忙しいとき、とうじ枚方市に住んでいた、イトコにも、年賀状の版画セット5枚を作った。 作ってくれたのは、いいけれど、5枚もの版画の板を、バレンで擦り、一枚の絵にできると、考えたのかと、わたしは、イトコに聞いた。 「やまもとは、うまいねん」とイトコは言う。 上手いのは、わかっている。 しかし、刷り師は、だれと聞くと、「ぼく」と、1970年3月、卒業式に、消火器を、壇上の校長と、着物姿のPTAにまき、バリケードで闘争しようとした、イトコは言う。 この予告がなかった事件で、わたしは、深夜、起こされた。 この大不況により、東京芸大の教員たちの発言力も、「日動画廊」も弱ってしまった。 銀座周辺のギャラリーを知っているものは、ギャラリーが弱体し、画家たちの生活が、困っていることは、わかるだろう。 すると、山本君は、強くなり、勝ったのだろうか? インターネットは便利で、山本浩二君を、検索すると、山本君は絵本作家と出てくる。 線は、16歳ころの、イトコがもらった、手のひとさし指に天道虫が載っている、ペン画のに似て、1980年、20代の終わり、大阪市で開いた、シルクスクリーンの、展覧会のときのと似ていた。 会場には、東京と同じく、1967年で、学校群が五学区と、入試制度が変わり、同窓の友人たちが、大人として、山本君に、挨拶をしていた。 わたしは、山本君の作品と、比べるまでもない、大学卒というアーティストを優先紹介した、新聞記事を見て、まだ、学歴の時代ですかと質問すると、山本君は、 「そうです」と、静かに返事した。 わたしは、先に、山本君を知る、叔母、つづいてイトコに、山本君の作品群を、「起立し、なだらかな棒」と命名した。 二) 版元に連絡を入れた。 山本君って、ジェームズ・ディーンとエゴン・シーレを混ぜた顔ですがと言うと、 「ええっ!? 昔は、痩せられていたそうで」と、編集女史はいう。 鼻筋はといって、わたしが、まっすぐの一寸二分でとおりと、言葉で表現すると、編集女史は沈黙されるので、山本君は、こんな言葉使いですがと、わたしが、ゆっくり話すと、 「もっと、パンチがあります」と言うので、スポーツを、バスケットから、ボクシングに代えたのかと思った。 山本君を検索してゆくと、2006年1月20日、神戸女学院の「内田樹」さんの、ブログに、「今回、新聞の方の挿絵は山本浩二画伯に頼んだ」と出てくる。 斉藤義重(さいとう・ぎじゅう。1904−2001、没97歳)を、好きといった人が、「画伯」では奇妙だ、大学制度を批判した人が女子大?とおもいながら、この内田樹さんの名前が読めない。 めんどうだから、編集女史に、この神戸女学院の、内田よまれへん、さんと、知己なのですかときくと、 「そうです。わたしは内田先生、知りませんが」とのこと。 この内田樹(うちだ・たつる)さんのブログ、2006年4月27日には、「1974年冬」、東大全共闘、山本義隆さんが、10畳ほどの特大の立て看を、ひとり、ひきづっていたとある。 「ずるずるとひきずってゆく山本義隆の手助けをしようとする東大生は一人もいなかった。目を向ける人さえいなかった。法文一号館の階段に腰を下ろしていた私の目にそれは死に絶えた一族の遺骸を収めた『巨大な棺』を一人で引きずっている老人のように見えた」 とある。 表現は、文学になっている。 矛盾は、内田さんは、山本さんを、見ていたのだから、正直にゆくのなら、私自身も20歳をすぎ、年老いて、同じく、塗り壁が落ち、リフォームが必要とかんじる「法文一号館」から、見ていたとか、この国は、みんなリフォームが必要と感じただと面白い。 また、全共闘の山本義隆代表をみつけたから、後ろから、労働者風に、江戸言葉で、 「こら、ヤマ公。てめえらの、おかげで、オイラ、受験生が困ったんだよ」 と言って、反対方向に、引っ張ってやったとだと、わたしは、喜ぶ。 とうじの、立て看の、金額をかいておくと、10畳ぐらいのは、3万円〜5万円で、表がしっかりし、頑丈なのは5万円した。 いま、新入生に「来たれ ジャグリング」「いっしょに アロマテラピー」とか、畳一枚半ぐらいのは、5000円で、畳4畳くらいのは1万円した。 あの特大立て看を、ひとりで、引っ張っている人など、わたしは見たことがないので、事実なら、その点、山本義隆さんは、えらい。 しかし、山本さんの、美術家の奥さんはどうされていたのだろう。 三) 社会問題では、少し似た点があるが、夏目漱石の『坑夫』は、1908年(明治41)年、元旦から、4月6日まで、朝日新聞に、連続掲載されたものとなっている。 文章は、電話送信が可能な時代となり、小説の挿絵は、すぐれた画家、野田九浦(のだ・きゅうほ)が、朝日本社の大阪に住んだ。 とうじ、足利銅山の事件をめぐり、「田中正造」は、1890年の、第一回衆議院総選挙に当選すると、翌年、国会で、銅山からの鉱毒問題を質問している。 『坑夫』は、とても難解な作品なのに、新聞という、媒体に、掲載され、途中で、打ち切りとならなかったものだと思う。 100年まえの、読者は、この小説を、どのように、受け止めたのだろうか。 福岡では、豊国炭坑爆発、銅山では、愛媛の別子、銅山川事件で、数百人単位が死亡する事件がおきた。関東では、足利銅山事件がおき、稲が枯れてしまい、生活ができなくなり、農民が抗議する社会問題となっていた。 『坑夫』は、1907年秋に、「坑夫」をしてきたという、鉱山の仕事を知っているという青年が、小説の題材を、漱石に売りに来たということになっている。 機械文化がもたらす、大きな公害、これに対して、とうじの小説家はなにができたか。 ヨーロッパでは、市民革命など、数々の社会運動がおきて、イギリスでは、文学者だとバーナード・ショーたちによる、1884年「フェビアン協会」などの社会運動で、農民や坑夫までの労働者に、選挙権が与えられるようになった。 明治時代の、日本が、どのような情況だったかは、理解しにくい「幸徳秋水事件」に要約できるはずだ。 いまの、日本に表現の自由があるかどうか、「修辞」ではどうかは、桐山襲(きりやま かさね、1949−1992)の、1983年の『パルチザン伝説』(1983『文藝』)事件を追えばいい。 このときの真実は、田中康夫さんの、草稿のような原稿に、才能を見出した、若いときから、埴谷雄高『死霊』のような表情の、長田洋一(おさだ・よういち)さんたちが、そのような「修辞の明喩」ではないと、週刊誌をもつ、大手出版社へ抗議できなかったと、覚えておられるだろう。 『坑夫』は、「明喩」と採られるが、「暗喩」であるかのような工夫をした。 前半部、後半部のふたつにわける。 前半部は、足立区千住住まいの、19歳の青年が、夜九時に、家出をし、松原のほうへと、歩き、長蔵さんという、就職の斡旋業の人と出会い、話をするという、長い頁を、一日という手法で描いている。 この間の、19歳の主人公は、自分自身が何をしようとしているのか、「心理状態の解剖」という言葉を使い、「人間の性格は一時間毎(ごと)に変わっている」「人間の性格には矛盾が多い」と言う。 人間の心を分析する学問であろうとする、心理学には、実際の経験が基になるという考え方は、学問として、何ができたかは、別にして、J.F.フーリス、A.コントから、F.ブレンターノを追ってゆけばいい。 就職の斡旋をする、長蔵さんは、道で、出会う少年たちを、 「おいらと一所に御出。御金を儲けさしてやるから」と声かけ、呼び止める。 漱石の19歳の『坑夫』は、家出してきたために、金に困り、金により、行き先がきまってしまうことから、「金」について考える。 19世紀のドイツでは、マルクスや、M.ヘスが、人間社会は、「金」で支配されてしまったと、貨幣の考え方、その価値観へ、疑問をだしたときでもあった。 夏目漱石も、「金」が中心となってしまった社会を考える。 ここを、漱石は、「昔は神妙で 今は横着なのが 天然自然の状態である」と言った。 また、社会は、分析や批評しにくい、さまざまな、生業(なりわい)で成っているのに、人間の、価値観が、「帳面」を中心とした、一列化のものとなってしまい、 「みんな平面国に籍を置いて、活版に印刷した心を睨んで、旗を揚げる人達である」と言った。 「大勢のやってる事が当然になって、一人だけでやる事が余計の様に思われる」 と、いまに通じることを表現している。 そして、坑夫が、危険な労働で得た、大切な金が、いまと同じく、「達磨(だるま)」へと、消えてしまうことも書いた。 『坑夫』は、このような、前半がおわり、後半に入る前、「小説になりそうで、まるで小説にならない所が、世間臭くなくって好い心持だ」といい、「もっと云えば、この一篇の『坑夫』そのものがやはりそうである」と前半を終了させる。 いったい、何を主張したいのかが、不明な状態で、「小説の様に拵えたものじゃないから、小説の様に面白くはない。その代わり小説よりも神秘的である」と言った。 この、抽象的な思想、哲学表現に、読者は、ついてこられたのだろうかと思う。 漱石の、『坑夫』の構成は、19歳の青年が、「坑夫」という労働者は、死を覚悟したつらい仕事だから、かんたんと思っていたら、「万」という単位の人数がおり、食事は、ふつうの日本の米とおもったら、南京米(外来の安い米)で、食べるのにも困る。 漱石流の、自嘲か、 「偶然の事がどんな拍子で他(ひと)の気に入らないとも限らない。却(かえっ)て、気に入ってやろうと思って仕出かす芸術は大抵駄目な様だ」 と、また、小説を、折る。 『坑夫』における、「修辞」や「創作」を検討してゆくと、上品な文体による、高等遊民たちが成す、サロンでの、ゆるやかな時間の流れを描いた、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(1913〜27)より先であるし、同じく、英語での子音が爆裂したような言葉による、知識人階級用の、J.ジョイス(1882−1941)の『ユリシーズ』(1922)より、先である。 『ユリシーズ』後の、『フィネガンズ・ウェイク』(河出書房新社 1991)は、編集者が、ジョイス没、50年で、「版権」を判断し、アイルランドへ契約にゆかれ、翻訳のため、成城大学を辞められた柳瀬尚紀(やなせ・なおき)さんが、工夫した日本語にされた。 1970年代後半、わたしが、“Finnegans Wake”は、翻訳がされないと思って、読んでいたら、全共闘の山本義隆さんの、友人が、「なんで、そんな、おもしろないもん、読んでんねん」と言うので、世の中が、面白くないから、読んでいると返事した。 英米資本により、日本は、日清戦争(1894−95)、日露戦争(1904−05)で、勝利し、町は日の丸、提灯行列だった。 また、大正天皇(1879)、昭和天皇(1901)の、ご生誕も、日の丸、提灯行列だった。漱石は、これを知る世代だった。 わたしの母は、いま、平成天皇が誕生の、1933年12月23日。宮城かいわいを、日の丸をもち、提灯をもち、「♪ 皇太子さま、お生まれなさった」と、行進したといい、幼児のとき、12月23日が来ると、ご生誕の詩を、歌ってくれた。 心理学者は「実際の経験に乏しい」と言った夏目漱石は、『坑夫』の最後で、念をいれ小説を壊すような文言を、 「自分が炭坑夫に就ての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る」 と入れた。 このように、自分自身は、日の丸一本にすぎない、提灯ひとつにすぎないと自覚した、夏目漱石が、京都へきたとき、京都には、ひとりの哲学者がいた。 京都帝大の、朝永三十郎(1871−1951)は、19世紀に流行をし、大杉栄が獄中で翻訳を読んだという、ビュヒネルは通俗で、ショーペンハウエルも同じと批評した。 さらに、日本の哲学界に大きな影響を与えた、フィヒテおよび、ヘーゲルさえも、汎神論観念論であり、形而上のものであると、哲学であることの欠落をいい、哲学には経験が必要であると批判した。 そして、断言した。 「哲学は 多様の特殊的なる 規範を導出さんが為には どうしても経験的材料に頼らざるを得ぬ。また学といふ 体裁を損せざらんが為には 更に細慎の出発点を要する」 (近世に於ける「我」の自覚史 朝永三十郎) ▲ 夏目漱石碑 御池大橋のたもと、西南 (写真:松田薫) ▼ 三条通りの旗日。 2006年9月15日 (写真:松田薫) |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-09-16 |