京都昨今
27、 桜まい 松の緑も あらし山            清水紫琴

一)
夏目漱石が、江戸時代からの講談文体というのか、『虞美人草』や『坑夫』を、朝日新聞に、連載したのは、1907年(明治40)から、1908年(明治41)だった。
このころは、労働者が、決起し、政府へ抗議した時期でもあった。

夏目漱石は、『行人』をかいているとき、『明暗』を、書く、構図が、脳裏にあったのだろう。発表媒体が新聞ということもあり、時代ということもあり、仕事としては、きついものだったとかんじる。

漱石の『明暗』をよむと、わたしたちが知る著名な作品では、日本を、海外作品をふくめ、作家が、表現上で、難問とする、第三人称の書き方、それを客観描写にし、立体表現をとった作品がない。
尋常の意識をもった、評論家であれば、漱石を、こえたものが無いことがわかるだろう。

W.フォークナーが、アメリカがかかえる、社会問題をふくめ、さまざまな、複雑な意匠を小説で試みた。
ところが、W.フォークナーの手法は、第一次、第二次世界大戦で、大勝利をし、莫大な資金を得た、とうじ、文芸を理解しようとする、豊かなアメリカを、地盤にしてできたもので、自らを、「赤ちょうちん」と位置づけ、門下生を育て、自嘲した漱石とは、まったく、違うものを感じてしまう。

わたしが、漱石をはじめに、読んだのは、小学校六年から中学一年だった。
そして、授業中に、いま、京都、大山崎、離宮八幡宮の津田彰先生が、『明暗』を取り上げられた。

津田彰先生は、一年生のときは、高村光太郎の代表作、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 父よ」の『道程』を、授業中、朗読され、わたしたち、学生に暗唱をさせた。
また、学園の図書館の、そばの芝生の地に、自作で、黒板を思わせる、看板を作られ、そこに、白のペンキで、高村光太郎の『道程』をかかれた。

『明暗』は、W.フォークナーを、原典で読もうとした、高校二年のときにも読んでいたが、あらためた視線で、読んだのは、津田彰先生による、高校三年の「国語」の教科書だった。
教材として、断片が掲載されていた。

教科書は、活字が大きく、授業だから、スピードは遅く、学生が朗読し、また、先生からの、説明がはいるので、『明暗』への見方が変わった。
わたしの心身には、重苦しさが、ました。
そして、『明暗』は完成させて欲しかった作品と、なんども、考えた。

著名になりすぎた、夏目漱石が、生存中の、大正時代に、1000円札になったとしたら、とうじの1000円は、大会社の重役の年俸で、余は、京都のぜんざい、「赤ちょうちん」を、超越してしまったと言うだろ。

しかし、21世紀をこえ、平成という時代で、子供でも、手軽に持つ、1000円札は、まさしく、「京都はぜんざい、赤ちょうちん」と同じ存在で、新聞社が、だれもに、ちらばく、号外と同じで、わらうしかないと言うかも知れない。

二)
樋口一葉と同じ時代、小説でもって、夏目漱石より、10年先に、社会問題を、提起した、自由主義を唱えた、女性がいた。

そのひとは、清水紫琴(しみず・しきん。1868−1933)。12歳で、京都府、女子師範を卒業してしまった。京都の人。

清水紫琴は、「京は日本の公園なれや」と、京都は日本の公園であるともいい、小説でもち、社会問題をつきつけた。

幼いときの、京都が懐かしいのか、編集者となり、東京で執筆した、『当世二人娘』で、
「春は花 いざ見にごんせ 東山」
「弥生の春の花見時、雲か霞と 見紛ふは、花のみならで」
など、歌謡の表現をとりながら、清水紫琴の、自由と、正義主義は、強かった。

哲学徒であれば、清水紫琴の子息が、マルクス主義者の、古在由重(こざい・よししげ。1901−1990。没88歳。東京帝大、哲学。名古屋大教授)であるといえば、わたしをふくめ、やや年長の世代ならば、あの自由な哲学の古在さんの、お母さんかとなるかも知れない。

古在由重の父は、「足尾銅山事件」で、正しい判断をした、京都出身の、東京帝大総長、古在由直(こざい・よしなお)である。

29歳の、紫琴は、1897年(明治30)に、小説『心の鬼』を発表した。
『心の鬼』の舞台は、京都である。

この題名は、「心の花」、あるいは、小説の舞台が、西陣なのだから、「西陣の花」であれば、いまでも、多くの人に、読みつがれていた、作品になっていただろうと思う。

内容は、西陣や、京都にかぎらず、東京や、大阪の商家であれば、どこにでも、見られた、日常の生活にある、夫婦の、心の有り様、処世を描いた、名作である。
京言葉が、生きている。すべて覚えてしまってよい京言葉の表現である。

西陣の糸屋町、ここの近江屋の主人に、「庄太郎」がいた。が、庄太郎は、金がありながら、
「五厘の銅貨を 二つにも三つにも 割りて 遣ひたし といいふほどの 心意氣」
「金さえあれば 夫(そ)れでよし」
「吝嗇(けち)を 生命の 京童(きょうわらべ)も、是には 皆々 舌を巻き」
と、ケチを生活信条とする、京都人であっても、ふつうの、ケチでない人物、庄太郎を言う。

このケチと言われる、庄太郎の、妻「お糸」の母が、病気というときは、西陣から、六角までの、人力車をつかうとき、店の者をよんだ。すると、
「ヘイ アノ 人力車どすか、なんぼ位で 応対致し 升(ませ)う」と使用人の言葉に、
「馬鹿め、なんぼでも えゝわ、達者そうなを 呼んで来い」
と、金銭のことなんか、どうでもいい、元気なのを、という、判断となる。

京都は、1970年代でも、土道(つちみち)が、多かった。
この文脈には、泥濘(ぬかるみ)や、坂なども、多く、体力のある、人力車でないと、とちゅうで、休まれたり、立ち往生されては困るという意味がある。

『心の鬼』は、西陣の、機織業、近江屋の庄太郎のところへ、後家として入った、23歳ぐらいの「お糸」が、庄太郎の、焼餅に、困りはてる、有り様をかいている。

焼餅(やきもち)と、執着や、愛情のちがいについては、これで、倫理学の論文が、いくらでも書ける。

お糸が、庄太郎の、言いつけ、約束事を、おろそかにしてしまうことで、庄太郎から、折檻(せっかん)ということになり、これを、「鬼」としたく、ふつうは、これで、読了ということになるかもしれない。

ところが、『心の鬼』での、清水紫琴の、表現は、こまやかさが、重なっている。

家の使用人たちにも、桜の季節は、暇をやり、夫婦でも、嵐山へ行った。
嵐山で、妻、お糸の、小学校の女友だちの兄、幸之介と会う。

ここで、幸之介が、「可愛らしい お子様の、いつの間に 出来やしたの」と嫌味をいい、先妻の七歳の娘、「お駒の頭撫(つむりなで)など」をした。
夫の庄太郎は、大事な娘の頭を、かんたんに触る、無神経で、無礼な、有り様、これに気づき、「苦々しく」思った、けれど、お糸は、気づかなかった。

こういった、ことで、夫婦が、いさかいをおこす。
また、お糸の実家は、母が内娘で、お糸の、養子にきた実の父はなく、「入夫(にゅうふ)」をとり、ここらの、人間社会の、「しきたり」への、無知と無理解で、摩擦がおきる。

結局、妻、お糸を大切にした、夫の、庄太郎は、京都に、日本最初に岩倉にできた、精神神経病院の、「癲狂院(てんきょういん)」へ入院した。そして、妻の、お糸と、先妻の娘、お駒が、看病するというところで終え、愛情にみちた小説と、とれる。

このような、表現体をとる、作家、清水紫琴の誕生は、一度目の結婚相手が、人権をいう弁護士でありながら、愛人をもつ生活ができる、在り方に、疑問を抱き、離婚したことから、女性としての、新たな人生がはじまる。
16歳で、この弁護士と結婚したが、20歳で、離婚をし、男女は平等であるといい、「一夫一婦制」を宣言した。

清水紫琴は、男女差別がひどいと、明治時代なかごろから、平等をさけび、東京で、編集者となり、小説も、てがけるようになった。

清水紫琴の父は、漢学者であり、化学者であった、清水貞幹だった。
日本の化学は、津山藩松平家の藩医、江戸詰めの、宇田川玄真へ養子にいった、日本橋生まれの、本草学者でもあった、宇田川榕菴(うだがわ・ようあん)にはじまる。

清水貞幹は、江戸時代のおわり、京都に、舎密(化学)工場をつくり、経営に失敗した。
同じく、幕府側の「舎密局」に、大分豊後の、大井憲太郎がいた。

大井憲太郎は、明治維新後、自由主義者となり、とうじだと、47歳で、老人の枠組みにはいるのに、自由を標榜しながら、言動をともにした、22歳の清水紫琴を、襲った。

「堕胎罪」に問われることから、清水紫琴は、屈辱の中、子供を出産した。
その子供は、兄、清水謙吉がひきとり、真なる、自由主義者というか、兄の友人であり、農学を専攻する科学者、古在由直の求婚で、26歳から、二度目の結婚生活をすることになった。

清水紫琴は、真摯な古在由直との生活で、求めていた、人と人との信頼を、感じたのか、文筆での、手法は、実際をそのまま描く手法をとった。

批判というのは、なんでも拒否してゆけばいい、かんたんな手法で、清水紫琴の明治時代は、暗黒ともいわれながら、21世紀の、現代より、文芸では、自由に感じられる時代である。

そのため、清水紫琴の、小説での社会問題の視点は、男女平等だけでなく、夏目漱石が、「京都はぜんざい、赤ちょうちん」「東京へとつづく、にぎやかな、赤ちょうちんの七条駅」、この京都駅と、「京都博覧会」で、観光客からの恩恵をうけた、東山、知恩院、建仁寺、祇園かいわいへも行った。

三)
欧米の列強による、武力による、江戸幕府の崩壊、西洋方式の生活が正しいとする、新たな明治時代にはいった。
ただでさえ湿気の多い、京都で、下駄や、草履(ぞうり)の生活様式を捨て、官僚はじめ、兵隊ほか、洋式での、皮革製品の利用が、正しいと考えてしまった。
それで、水虫ができ、西洋式の病院が、流行ることとなった。

これが、文化か。一時、流行った、爪水虫。
白癬菌(はくせんきん)と呼称される、カビ類のものですと、バカな医者に言われれば、なんか難しそうな、病気にでもかかったかとおもう。
が、これらは、鴨川でも、淀川でも、庭のあちこちに生えている、本草学で、十種の効用があるとされる、十薬(じゅうやく)、ドクダミの葉を、錬りに錬り、それを、爪の間へ入れればいい。
このほか、センブリ、ゲンノショウコにはじまり、なんでも、いいから、そこらへんに生えているものを使い、西洋生活からの、病気は、治せばいい。

わたしも、保育園児から、登園のときは洋風で、鞄はしかたなくても、履物が、革靴。小学校も革靴で、周囲と異なった。
大阪や神戸での生活には支障がなかったが、時代が変わり、小学校三年生のとき、加古川市川西小学校で、革靴を履いているのは、わたしの兄弟ぐらいと、上級生の幼馴染に指摘され、あれっ?変かと、気づき、イエに帰ると、こんどは、夏の浴衣(ゆかた)はもちろん、病院ではパジャマ、イエでは寝間着と、着替えばかりのイエで育った。
いつのまにか、いにしえからの、伝統が失われてしまった。生活の基本を、風土にあったものにすれば、かからない病気が、ずいぶんある。
病院がつぶれると言うかも知れないが、つぶれればいい。
そのとき、大切な医療は、何か、医療の本質がわかってくる。

清水紫琴は『野路の菊』はじめ、東京や、大阪の金持ちの姿を、あれは、難波の鴻池の、ヤカン頭の、ズルそうな、浅野健二なのか。文筆業成金の、遅筆のときは、妻を、編集長にかして、浮気だとした井上久志なのか、学問屋で成功した、金持ちには低姿勢、貧乏人は、人でない扱いをする梅原武なのかといった調子で、男を批判した。

なにしろ、小説という手段をつかった、清水紫琴の、社会批評は、すごい。31歳の作品、『移民学園』は、いまも、社会問題を考える上でのテキストとなっている。
「七条の停車場(すてーしょん)といへば、新橋梅田の、それ程にこそ雑踏せざれ。四時の遊客絶え間なき」
「はあ たしか、柳原庄、銭坐村と いふんだよ。へい あの柳原、それに違ひは ござりませぬかと、恠訝な顔に 念押せる、これも京の名物か」(『文芸倶楽部』一八九九年八月)と、夏目漱石と同じく、京都博覧会の繁栄、春を中心とした、食品や衣服など、季節の商いが、終わると、淋しい京都に、不況がくるということを、社会主義という立場から、描いた。

が、女流、自由主義者の、清水紫琴の活動は、子供の世話をはじめ、家事炊事がおろそかになるということで、ドイツから帰国した、古在由直が、1901年(明治34)、清水紫琴に、断筆をさせた。
清水紫琴が34歳のときだった。

この、清水紫琴の、自由主義は、夫である、古在由直が、引き継ぎ、東京帝大教授という立場から、市民側の立場で、発言をして行った。



▲  東山 2006年9月9日  満月の翌日 19時  (写真:松田薫)
▼  祇園 花見小路 母がよく行く店の 赤ちょうちん
  (写真:松田薫)

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-09-10