京都昨今 |
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26、夏目漱石が、赤いぜんざいの京都はさびしい 岡倉天心 | ||
一) とうとう、嘘をつけなかった、先住民、日本人の遠い、血縁、インディアンの国を占領した、野蛮な国、アメリカ経済も、2006年9月上旬に、最後をむかえるのか。 2003年からだが、アメリカとの同盟国のような、中南米が、アメリカへ異議を主張しはじめた。インターネットの時代で、即座に、中南米の市民の声も、読むことができる。 「米州自由貿易地域(FTAA)」を信条とした、アメリカが、自由貿易は、安い価格のものが流通して良いと言ってきた。が、食物など、第一次産業のものでも、価格が不安定になり、自国を滅ぼすと、中南米諸国にも、支持されず、中国と韓国からも、見捨てられそうな状態になった。 わたしは、機械が専門の父から、「機械ほど、恐ろしい、ものはない」「機械は、大事につかわないと、壊れる」と習った。 大不況下の日本の地方都市。これの改善は、機械文明、文化を、一度、見直すしかない。 夏目漱石は、「京都は、赤いぜんざいの町」と言った。 この赤とは、提灯のことだけれど、「赤い提灯のぜんざい町」、京都はこれで、この結びつきは、切れないと断言した。 「京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。ぜんざいを召したまえる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い因縁(いんねん)で互に結びつけられている」『京に着ける夕』 漱石の、この視点は、日本へ、何を問題提起しているか、思想家は、省察が必要である。 同じく、大不況下の京都については、1867年生まれの夏目漱石と、1883年生まれの志賀直哉では、ずいぶん異なる。 志賀直哉の代表作の『暗夜行路』ひとつでも、京都は、 「祇園に繋ぎ団子の赤い提灯が見られなくなると、京都も、もう五月である。東山の新緑が花よりも美しく」 をはじめ、観光案内が非常に多く、風土について、 「六月、七月、それから八月に入ると、よく言われるごとく京都の暑さはかなり厳しかった」など、表現する。 奈良と京都で生活をした志賀直哉の文章で、理解しにくいのは、土地について、東京は埃っぽく、夏、夜が蒸すが、春日大社を北にした、奈良の高畑は違うという点である。 これは、大正、昭和時代のはじめの、この地は、人ごみ、景観がちがったのではという感じしかない。 二) 奈良は、わたしの父が、1965年ごろにかけ、「学園前」へ引っ越す、とか言うこともあって、心身で、体感する、感覚が敏感になった。 先に、1960年の小学校二年生のときに兄弟で行った若草山、1963年の小学五年生のとき、父の会社が、近鉄の「あやめヶ池公園」の運動場を貸しきり、運動会をしたことがあり、走ったので、秋のさわやかさに、湿ったような空気をかんじた。 断片の経験だが、やはり、春日大社のそばであっても、盆地の土地であり、夜になると、樹木が、湿気を調節してくれるのかと、理解を、とどめるしかない。 自然との比較だと、志賀直哉は、関西が好きだが、人間を、「正直にいえば私はどうしても東京人の方が好きだ」(『奈良』)と言った。 が、これは、志賀直哉が、生活の場として、会うひとが、東京帝大や学習院という、とうじでの社会階級がちがう人たちや、言葉のちがいにもよる。 夏目漱石が『行人』で、表現した、機械科学批判、これは、志賀直哉も受け継いだ。 その一端は、よく、評論家から、問題になる、東山に落ちた、「陸軍」最初の、東京から大阪の飛行で、飛行機が墜落してしまった時代考証である。 「きっと落ちたぜ、円山へ落ちた。行って見ようか」(『暗夜行路』)の程度で、志賀直哉の文筆生活で、みるかぎり、漱石がいう、「高等遊民」への、鋭い批判の視線は見られない。 先進国イギリスへ1900年(明治33)留学した、夏目漱石は、イギリスの交通機関の、汽車なんかに、乗ったら、どこへ連れてゆかれるか、わかないので、乗らないといい、馬車ですら危険といった。 わたしなど、兵庫県印南郡の米田保育園へ行ったのが、村(町)で、一人という時代だったから、物差しを、尺貫法で、覚えてしまっていた。 姫路日赤での入院生活から、米田小学校へ入学したとき、センチやメートルになっていたので、少し、とまどった。 イエの仕事では、機械が専門の父は、「インチ」や「センチ」であり、機械と製図の両祖父も同じく、洋裁の母が、「尺貫法」と「センチ」とだったので、さほど困らなかったけれど、アメリカが、救われない不況にはいった、このさい、「尺貫法」を、日本の基準にして、欧米人が来たら、時代の先端は、小さく、利口に暮らす、「京間サイズ」と言えば良い。 だいたい、日本の、住居空間で、大事な位置をしめる、畳にしても、関東間、関西間と、京間は、大きさがずいぶんちがう。 夏目漱石は、志賀直哉に、小説の発表先を、『朝日新聞』ではと、紹介したとき、まだ、志賀直哉自身が、表現方法を確立しておらず、断った態度は、いさぎよい。 小説家に、哲学や社会学は不要で、この程度で、いいというならば、志賀直哉でもいい。 それよりも、京都経済、また、京都がかかえる社会問題は、夏目漱石をテキストにすれば、より十分に、まなぶことができる。 自ら、高等遊民で冷笑的な、夏目漱石は、「赤いぜんざいの大提灯」の町が京都といった。また、「京都博覧会による七条駅」の町とも言った。 この京都博覧会による七条駅周辺の、繁栄と没落を、漱石の文章から、追ってみる。 皮肉だらけの、高等な漫談のような文章の、『虞美人草』で、漱石は、 「眠る夜を、生けるものは、提灯(ちょうちん)の火に、皆七条に向かって動いて来る。京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束(じゅっぱひとからげ)に夜明けまでに、あかるい東京へ推し出そうために、汽車はしきりに煙を吐き」とかいた。 この意味だが、明治維新により、政治だけでなく、文化の中心地も東京となり、京都は、淋しくなった。 欧米資本の導入で、経済の成長、体格の成長が正しく、ひかえめな、経済などの在り方、欧米人に比べ、小柄であること、有色人種であることが、悪いことのように、いつのまにか、日本人は、体格のいい、プロテスタントの十字架のもと、洗脳されてしまった。 おなじキリスト教でも、カトリック圏内は、東洋人と、あまり変わりないけれど、なぜ、背丈や目方を計らないといけないのか。 欧米主導の経済論、一見はなやかで、祭りの後を考えないために、社会問題が発生してしまった。 祭りや博覧会が、「金」や「銀」という金属でなく、兌換紙幣という「紙」に価値をおく、人間がふえ、これが、欧米の侵略政策の考え方だとまでは、華やかな場が好きな、人民のことを考えない、政治家も学者は、とうぜん脳裏になかった。 祭りは終わる。 文化国家のイギリスは、19世紀のはじめから、「機械化」で、重工業に必要な、石炭、その、炭鉱労働に、10歳ぐらいの子供をつかい、繊維工業に必要な、綿花、羊毛、その工場に、女性を使った。 都市部での、使い捨てがおわると、地方。地方からの女性と子供がいなくなると、近隣の国から、「労働力」と称し、かれらを使い、生命を奪った。 白人社会に、人間がいなくなれば、インドをはじめ、アジア、アフリカに、類人猿に近いと判断した人間(奴隷)はいくらでもいる。 これが、欧米の資本主義者の考え方である。 この考え方で、いま、アメリカ合衆国の経済が、各国から、拒否され、破綻をむかえようとしている。 夏目漱石は、この、機械経済がもたらす、ゆがみを、心身で経験して帰国した。 機械が中心の、欧米の祭り。 「博覧会」は、1851年、侵略国家、ロンドンで最初に行われた。つづいて、NY。つづいて、パリ。 日本は、1862年、ロンドンに、江戸幕府が参加した。 江戸幕府のなかで、これへの参加が、日本が、欧米の奴隷下になり、「米と梅干」で生活する、つつましやかな日本が破綻してしまうと、幕府の思想家は、思わなかったのだろうか。 ロンドンでの10年後にあたる、1872年(明治5)の春に、「京都博覧会」が開催された。 期間は、80日。 「知恩院」や「建仁寺」など、東山を会場にし、二ヶ月半ぐらいで、白人が数百人、日本人が数万も、観光客がきたので、毎年、実地することとした。 東山では、祇園「都をどり」、先斗町「鴨川をどり」も、はじまった。 観光客が来るので、旅館や料理屋が増え、土産物などを売るための、労働者たちの求人がはじまった。 「京都博覧会」という、春と初夏の祭りはいいけれど、気象条件もあり、祭りはいつも成功するわけでないので、京都駅のある、七条と、東山での、地方からの「季節労働者」は、祭りが失敗すると、後の生活が困った。 同じ現象は、名勝、「嵐山」を中心とした周辺にも見られた。 経済の法則をまったく、考慮しなかった。 これこそ、祭りの後の、後の祭りである。 夏目漱石は、文芸の親戚の芸ある「芸妓」ではなく、いまでいう風俗嬢の氾濫もかいた。 京都批評は、漱石の全集を、十回ぐらい、読みに読めば、超天才、漱石の、科学や機械文明、風俗批判が、わかってくる。 その文化、文明とやらの、吐き出すものが、マイナスの要因となって、「博覧会」という見世物だけの町、観光だけを頼りにした町が、作り、生み出したものが何かわかるだろう。 都市。これは、京都におき、御所の位置の変遷もはじめ、大寺院でも同じだが、流行によって、大きく栄え、やがて、衰え、また、別の地域での大寺院が栄え、終焉をむかえる。 同じ、平安京であっても、文化の中心地は、政権の移動により、変遷した。 親友、日本新聞社に勤務した正岡子規と、朝日新聞社専属となった自分自身を「新聞屋」といい、この比喩で、「京都は、小田原提灯だけの町」であり、どこまでも、小田原提灯に、「ぜんざい」と筆でかいた、「しるし」、その印象だけが残る町、それが、京都であるといった。 春が中心の、「京都博覧会」が終われば、閑散とした町、京都。 この京都を、1892年(明治25)の7月、学生時代に、無駄な文章をはぶいた表現法をとり、思索にすぐれた正岡子規と、まるい月の夜、清水寺や円山公園を、なににつれ、しずかに笑う、子規と、散策した、懐かしさでしか、戻れない町だった。 正岡子規との時間と比べると、どうしようもなく、淋しい町、「ぜんざい」と筆でかいた提灯のあかりだけがある町。 子規がいないと、面白くも、なにもない町、それが京都であるといった。 夏目漱石にとって、東大で、先に哲学を専攻し、確固とした思考力と表現する言葉をもった正岡子規に代わる相手は、いなかった。 誰と、歩こうが、京都は、正岡子規と、考えながら歩いた町だった。 そのため、京大で、流行哲学者フッサールを紹介し、カント哲学を教えていた、桑木厳翼とでも、思考の本質がとりとめなく、面白くなかった。 京都はそれらと同じで、いまだ、汁粉などとちがい、食べたことがないけれど、「ぜんざいは京都で、京都はぜんざい」の町と、科学哲学というか、「実証主義」と「現象主義」の言葉で言った。 京都の町は、すべてが、昔のままの、野原と川で、「一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り」『京に着ける夕』と書いた。 正岡子規を失った、つらさからの、漱石の、京都論を読むと、京都への視点が変わる。 漱石は、比叡山についても、『虞美人草』を読むと、すぐ、そばにある山として、とらえ、「叡山? 何だ 叡山なんか、たかが 京都の山だ」と表現する。 京都に暮らすと、比叡山は、高層の建物の関係だろうか、意識して眺めようとしているのだけれど、年齢のせいか、年々、遠い所の印象をもつ。 三) 夏目漱石の日記や書簡などは、わたしが、日本の医学の歴史を、検証してゆくときに、必ず、目をとおす。 事実を端的に、表現した、漱石のものが、考証のもとになるとは、他の歴史家や著述家は、どうなっているのかと、情けなさもあるが、仕方ない。 漱石による、透徹した比喩でもって、昔の都は、性格をあらわされた。 漱石の観察と、表現は、現在、京都での、社会問題となっていることを、歴史検証するには、一流の資料となる。 この種の、祭りは、つづくわけがない。 庶民出身の夏目漱石は、昔の都のはかなさを、鋭く指摘し、歴史の本質と、繁栄や流行は、何かとつきつめ、多くの表現をのこした。 この漱石が逝っても、省察なく、先祖代々、由緒ある人々がいるとかで、京都を、栄えさせなければいけなかった。 悲しいことに、漱石のいう「赤いぜんざいの町の京都」は、町の弱さ、力なさに、気づかなかった。 京都を近隣とする、豊かな地方では、農家の秋の、豊作祭りの後、京都見学だけでなく、小学生まで、歴史の学習とやらもかね、「修学旅行」という、手段をとった。 夏目漱石は、ロンドンで歩いていると、前に、黄色い「一寸法師」みたいな猿がいると思ったら、鏡にうつった自分自身といった。 わたしが、人類学(医)をはじめるまえは、データを知らず、夏目漱石の身長が低いのかと思ったが、学問をはじめて、漱石の背丈は、160センチ弱と、江戸時代の末期に生まれた日本人だと、ごく、ふつうで、同じく文豪、森鴎外も160センチで、どういったこともない。 たんに、イギリス人が、世界の中で、このころ、平均172センチほどあり、高身長の民族だったにすぎない。 夏目漱石が、かわいがった猫でいえば、日本の猫と、大きなアメリカンショートヘアーと比べるようなものだ。 世田谷区に、耳だけが、黒色の、細身の日本猫を飼っている人が、隣にいて、どうやって、交配させたのか、知りたかったけれど、話すのが面倒になり、やめた。 欧米に徹底して、反骨精神で示そうと思ったら、日本の公共施設などを、江戸時代のサイズ、できれば、一番小さな、「京間サイズ」にもどせばいい。 物差しも尺貫法にもどせばいい。 わたしは、欧米の記者に、日本なんか、どこにあるか、欧米では、わからない人が多いと言われ、沈黙をした。 が、これからは、夏目漱石をならい、アメリカ合衆国って、フランスって、どこにある国ですかと返答しようと思っている。 「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国 と見なしていたものである。しかるに、満州の戦場に大々的 殺戮(さつりく)を行ない始めてから文明国と呼んでいる」 「茶の本 岡倉天心」 ▲ 二宮忠八ゆかりの、飛行神社(八幡市) (写真:松田薫) ▼ 則天去私しかないかと、省察する 建仁寺の漱石猫 (写真:松田薫) |
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「京都昨今」松田薫2006-09-07 |