京都昨今
25、 うすずみ色の、建仁寺の明かりの下        樋口一葉

一)
「隔ては 中垣の 建仁寺に ゆづりて」
樋口一葉、十九歳になる、第一作目の、『闇桜』をよんだとき、いまも、歳月をかけ、見ている、東山、建仁寺の、どの場所なのだろうかと思う。

一葉の、文章をみると、いつも、せめて、あと五年の命、あと十年の命があれば、どのような作品を、あらわしてくれただろうかと思う。

『闇桜』は、
「中村 園田と呼ぶ宿あり」、「梅一木に 両家の春を見せて 薫りも 分ち合ふ」
中村のほうは、「千代となづけし 親心にぞ見ゆらんものよ」となり、
園田のほうは、「良之助 廿二の若者 何某(なにがし) 学校の通学生とかや」となっており、これらの、若き恋心の、表現は、『たけくらべ』で生かされる。

建仁寺は、塀が、いまのように、高くなく、また、有名な建仁寺垣も、中学生のわたしには、視線がゆかず、枯れた寺としての所作、在り方へは、いつも興味はいった。

が、認識をたしかにしようと、記憶で、それらを、かいてゆこうとすると、時間がかかり、これであれば、四十年という、一葉が生きた、倍ほどの、歳月を考えると、すぐ、建仁寺へゆき、素描をしてくれば、いいとなる。

歩いて、見れば、わかるかというと、やはり、理解には、遠い。
わたし、自分自身につきつめれば、まったく、できていないものだから、同じ道を、おなじように、なんどもなんども、あるく。

境内に、立ち、歴史ある、ひとつの大寺院の在り方を、わかろうとすると、じっさい、どれほどの時間がかかるだろうかと思い、この暑いなか、陽に焼け、夏休みの宿題か、寺の池を描いている子供をみる。

後ろ姿、左手が、蚊による、足をかいている。
藪蚊は、この子を、どれほど咬んだのだろうか。

二)

一葉の文章は、とにかく、早い。
「家の間数は 三畳敷の玄関までを 入れて五間、手狭なれども 北南吹きとおほし の風入りよく、庭は広々として 植込の木立も茂ければ、夏の住居に うつてつけと見え」(「うつせみ」 22歳)
と、小石川の、生活する家が、夏に、風とおしがよく、木々があると、有様を表現する。
つぎに、人の動きの描写を、
「春の夜の 夢のうき橋、と絶えする 横ぐもの空に 東京を思ひ立ちて、道よりもあれば 新宿までは腕車(くるま)がよしといふ、八王子までは汽車の中」(「ゆく雲」 22歳)
と書き、
「おい木村さん 信さん 寄つて お出よ、お寄りといつたら 寄つても宣(い)いではないか、又素通りで 二葉やへ行く気だろう」(「にごりえ」 22歳)
と、小説で大事な、生きた、会話表現も、同じ、22歳で、覚えてしまっている。
ふつう、小説は、これらの、組み立てからになる。

栄西ゆかりの、大寺院である、建仁寺。
茶自体が、生薬だけれど、茶を伝来した、建仁寺かいわいは、いまや、大きい建物ばかりが目立つ京都だが、小さな、宿や、まかない所がある。

建仁寺どうよう、参拝、拝観など、むかしは、生没だけでなく、病気の相談所であった、本草学を知る、僧侶がいる寺だから、ゆかりのある寺を訪ね、泊まる場所としての、旅籠や食事処は必要だった。

茶自体が、どのようなものか。これは、自分自身で、栽培し、自分が、茶とすれば、いかに、手間がかかった、文化の代物かと、理解できる。

寺を、ゆっくり、ぐるっと、まわったら、絵を描いている子供を、池庭をおいて、見た。

三)

写真機が便利になってから、日本画家でさえ、写真をもとに、絵を描いている。
わたし自身、写真をもとに、風景画にのぞんだのは、写真が趣味の兄から、もらった風景、一枚をもとにした、中学三年生のときだった。

この写真をもとにした絵は、夏休みの宿題であり、水彩だったから、乾燥の時間をさほど考えず、なぜ、こんなに時間がかかるのだろうと、宿題の、仕上げへ、二週間もかかった。
しかし、八月の下旬に向かい、なにかの、欠落をかんじ、はじめて登った、イエの、二階の屋根からの、風景をかきだした。

日常に、ありふれた風景は、生活をする、ひとたちや、自然のなかにいる、動物や生物も加わる。そのため、日常を、いざ、理解しようとしたら、いろいろと複雑で、これらが、合わさったものを、わたしたちの生活であり、味わえているかどうかにかかってくる。

屋根と屋根は、生活の断片を、教えるもので、これは、描きやすく、一週間もかからず、写真のより、しっかり、していると思って、安心をした。

建仁寺の屋根の、うすずみの、上等な瓦をみて、播州の叔母の、嫁ぎ先を思いだした。
本瓦の本家の分家に嫁いだ、叔母のイエへ行きなれた、兄は、中学校の宿題を、瓦職人にたのんだ。
1962年夏、東加古川へ、それを、とりにゆくというので、親族中、だれとも顔を合わさない、「へんこつ」と言われる、後を継がない、画家の兄さんと、一度、会えればと、おもい、行った。
跡継ぎが消え、本瓦の時代でなくなり、もう、商いをやめるというので、本家の佇まいの見学もかねたが、出ては、こない。
広い庭に、商売用の、本瓦が、「入」の形で、いっぱいに、干してある。

瓦職人は、木造の、明かりが、火だけかとおもえる、あつい作業場のなかから、兄へ、70センチはある、素焼きの、舟形の花器を、「ぼっちゃん」と差し出し、兄は、両手でかかえた。

兄が、大学ノートに描いた、デッサンは、花瓶、船のような形などの小さなもので、会話のやりとりは、知らなかった。
すみ色とおもった、焼き物は、茶に赤がまじった、備前の色合いで、花器の大きさと、指さきで、触れたとき、職人というか、大人の作品に、畏れをかんじた。

わたしに、「おぼっちゃんは」というので、いいえ、いりませんと断った。
どうやって、作るのですかと聞くと、「これで」と、一片の、板箆(いたべら)を、だす。

どこにでも、ある、長さ、二尺、幅、一寸半ほどの、使いこなしたもので、これだけですかと聞くと、「はい」と、余裕をもち、ほほえんでくれた。
一片の木片による、職人の、手による、この時間はとおもった。
兄に、それを学校に出すのと言うと、「うん」という。

わたしは、小学校の工作の宿題をだしたのは、この、小学四年生がはじめなのだし、本職による、手馴れと、手間がわからない、すみ色の瓦や、器のようなのは、諦めることにした。

四)
1950年代、小学校の高学年生たちが、銅線をまき、つくる、ラジオが流行した。わたしのイエでつくれば、銅線などの部品を使っても、子供の遊びに、父は、何もいわないので、イヤホンなどつかい、ジージー、ガアガアという、雑音だらけの、鉱石ラジオは幼稚園のときから、作り方がわかっていた。
それで、電気のもので、なにをつくろうかと考えた。

兄に、ヤマハの、赤と白のカラーからなる、モーターボートをつくるといったが、わたしが作ってばかりいる、プラモデルに飽きた、兄が、まったく、興味をしめさないので、良いとおもった。
できあがり、公民館の噴水というか、水槽で、浮かべ、走らせていると、中学生たちが、関心を寄せてきたので、これは、宿題としては、高価すぎるのではないかと、やめることにした。

日時がなくなり、イエにあった、ありあわせのもので、懐中電灯を、作ることにした。
工作の本をみると、エナメル線が必要とある。

イエには、「ダイナモ」もだけれど、それ以前の、自家発電用の銅線がいっぱいあるので、エナメル線って、銅線ではと考えながら、働き忙しい母に聞くと、はっきり、わからないというので、前の、松下電器の専門店の電気屋へ行き、買った。
電気屋のおじさんが、
「まつださんとこから、こんなもので、お金、もらうわけには」と言うけれど、嫌なので、10円渡した。

家にある銅線と同じなので、もし、同じなら、なぜ、「イエにあるよ」と、言ってくれなかったのだろうと思いながら、会社からもどってきた、父に、エナメル線は、銅線?と聞くと、「そや」と言い、前の電気屋で、買ったというと、店子の関係だったと知らず、「あほか」と叱られた。

スイッチの部分は、ゼムピンにした。ボール紙で、筒をつくり、外装は、デパートの包装紙などを、寄せ集め、糊で、三重に貼り、コラージュなものにした。
とうじは、パラフィン用紙と二枚になった、チョコレートの銀紙は、「森永」しかなかったので、それを、反射光のにした。
このありあわせで、作った、ハイカラな懐中電灯を、川西小学校へもって行ったとき、男女とも、同級生がよろこんでくれた。

五)

大寺院は、東山かいわいでも、いくつもある。北から、南禅寺、知恩院、建仁寺、清水寺、泉涌寺など数えきれなく、それぞれの寺は、それぞれに、役割をもっているように思える。

京都時代の、速水御舟の絵で、美術評論家が、解釈できない、部分があるというので、わたしが見た。
叔母の嫁ぎ先の、瓦屋の本家でも見たので、これは、煙突と行った。
京都では、西山、物集女(もずめ)に、1960年代、見ることができたし、北の大原のほうへゆくと、まだ残っている、在り様と言った。
墨色が出てくる、木々を焚く、匂いある、山あいの光景ともいった。

認識し、知っている光景だと、判断できるが、それでも、見えていないもの、気づかなかったもの、これらが連続したものを、認識するのは、不可能で、見失っているものが、ほとんどであると、あきらめ、また、おなじように、あるき、とどまり、見る。

建仁寺の法堂から方丈を、上弦の月の色が、鮮やかになってきたと、思いながら、見ていると、また、池のほうとなった。

わたしだと、一箇所でも咬まれると、逃げ出すのに、いくつも咬まれながら、鉛筆で、正確に、建仁寺のなかの、有様の一角を、描こうと小学生は、作業を連続する。

夜が近いので、母親が向かえにきた。それでも、描いている。
背筋をのばした母親も暗くなるのを知ってか黙って見ている。
暗くなり、鉛筆をとめ、絵をしまおうとしたとき、絵を見た。
構成自体はしっかりしていて、母親に会釈をしてから、子供に、学年をきくと、
「五年生、十歳」という。

ああ、これかと、ためいきがはいる。

建仁寺は、茶で知られる。茶については、岡倉覚三(天心)が、中国は8世紀から、遊びのひとつ、日本は、15世紀に、美学としての茶道をつくってしまったと表現した。

種類が多く、難しいといわれる、中国茶だが、明確な、味をもった形での、種々さまざまの茶であれば、非常に高度な文化である。

わたしが、中国茶に凝った歳月は、普通ではない。どんなものでも、「石の上にも」の言葉どおり、それぐらいの年期をいれれば、だいたい、わかってくるだろう。
中国茶を、薬用もかね、かんたんに、味わおうとおもえば、かるい神経痛とかに、すぐ効く、いわゆる緑色した、葉ごと食べられる、「岩茶」を選んでゆけば、間違いない。

岡倉天心は、茶について、「茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない」と、詩にしてしまった。

茶を考え、夏の太陽に焼け、やぶ蚊に咬まれながらの、五年生の女の子が、苦労だらけだが、希望の進み方をすれば、茶を扱った家に生まれた、「上村松園」のようになるのかと思った。

建仁寺での、大きな、関心は、現在の保存は、京都国立博物館となるが、やはり、風神雷神図の屏風を所持する寺として在る。

風神雷神図は、思ったよりも小ぶりで、これを言うと、おどろかれる。
西洋の美術関係者では、本物を見たことがない人が多いので、わたしは、これに、おどろく。
生まれ、生き方すら、わかりにくく、わたしに、良い人生で、良い歴史と思わせる、俵屋宗達は、何を考え、ここまで、デフォルメしたのか。
絵の素描をかきながら、主題の風神、雷神が、動き出すのを感じたからか。それとも、この作品のまえに、動く風神雷神のような、神々を、描いたことがあったのか。
現存のは、黒かびが生え、退色がみられる。が、できあがったときの、金色は、どんな背景の役割をしたのだろうかと、考えさせる。

六)

俵屋宗達を見たのは、雪舟と同じ、京都国立博物館だった。
1971年、雪舟は、荒いとおもい、7メートルほど、はなれ、絵の活動に、おどろいた。
とうじは、日本の絵画を見て、声を出すひとなど、いなかった。が、いまは、絵を見るまえから驚いているひとがいる。

同じ芸術家、同じ絵ばかりで、見飽きた人が、多いのか、本来、見るべき人が見ていないのか、いまの、博物館、美術館の空気に親しむ気にはなれない。
じっさいの、わたしは、中学一年から、ひとり、京都市立、国立近代などの美術館へかよい、とっくに、見飽きてしまった。

それに、比べ、人がつくる道々にある、生活や植物など、自然への造形物は、飽きさせない、複雑さが、占めている。

兄へ、備前焼き色の花器をつくってくれた職人に、わたしが、別の意匠のを依頼し、わたしたち兄弟が、しっかりしていて、保存する、気持ちがあれば、後世の人が、「芸術品」と批評してくれるかも知れないともおもったりする。

が、わたしの彫刻の、熊を、庭に置き、「ほら、お母さんが乗っても、つぶれない」と、踏み台の扱いを、長くして、作ってから、30年ほど経ったころ、とうとう、壊れた。

左甚五郎のような、ねむり猫でもつくれば、「猫は、嫌い」と言われるに決まっているから、作らない。なぜ、捨てるのかと聞いたとき、
「あなたの、作ったものを、とっておくと、イエ、いっぱいになる」と母が言い、父も、美術は禁止と、頑固で、わたしの作品は、焚き火の連続だった。

こんな環境にわたしは育った。いつのまにか、わたしも、枯葉が落ちるのと、同じく、なくなればいいとおもい、変化し、なくなったとしか思わない。

七)
建仁寺をでたとき、よくあう白猫にあった、カメラを向けると、通る人たちのせいか、ちがった、表情になった。
これを見て、この表情は、彫刻にして、残しておいても、いいと思った。

「五年生、十歳です」という、子供の声が、反射してき、樋口一葉の、作品がうかんだ。自分の門下、死にゆく病気の、樋口一葉のため、斉藤緑雨が、治療を、陸軍軍医長、森鴎外に頼んだことが記憶から出てきた。

才女の、看護は、病気と、文芸のわかる、30代はじめの森鴎外の力が大きかった。

結核の、樋口一葉の、最後を看護したのは、1894年、助手の宮本叔(みやもと・はじむ)とともに、伝染病(ペストなど)の研究のため香港へ行っていた、内科学での最高権威、37才の青山胤通(あおやま・たねみち、東大教授、第一内科)だった。

結核菌を発見したのは、1882年、R.コッホであり、この学理の応用まで、歳月がかかり、また、病原菌に対抗できる、抗生物質の、思考による創作と発見、完成をみるには、1941年まで、かかった。

文人、樋口一葉を看取ったのが、とうじの、医学と文芸での世界で、最高の知識をもち、権威者たちだったことを、確認する必要がある。

が、このころ治療の方法は、清潔さと、滋養のあるものの摂取、牛乳だけの、時代だった。

使命感のある医師たちは、病原について、試行錯誤した。
牛乳もだが、母乳などが安全であるかどうかの検査は、芥川龍之介たち文人を大事にした、東大第三内科、入沢達吉が関わった。
入沢は、自費で、ドイツ留学をし、細菌学と人類学が専門のR.ウイルヒョーにつき、まなび、もどり、1895年、30歳で、東大助教授となった。

この、翌、明治二十八年(1895)二月、東京顕微鏡院に、入沢達吉を責任とする、母乳検査科ができた。
母から子へ、結核をうつしてしまうこと、あるいは、他の人の乳による、伝染などの可能性を、医学者は思考した。

結核は、「遺伝病」ではなく、「伝染病」であること。
結婚はじめ、自由な人生につながる、この真実を、打ち立てることで、どれほどの、人々が、救われたか。この視点を見失っては、困る。

明治二十九年(1896)十一月二十三日、樋口一葉は、23歳の生涯を終えた。

樋口一葉の学歴というのか、10歳になる、小学校四年生までである。
森鴎外の、外国語(オランダ語、医学)、学問の開始が、8歳であり、東大医学部入学が、12歳という時代である。

芥川龍之介の自殺で、心痛み、芥川の父親へ、見舞い状をだした、医学者、入沢達吉(いりさわ・たつきち。東京帝大、教授)の、東大医学部入学は11歳という時代である。

基礎となる、知恵や良識というものは、10歳前後で、十分であることを、知らないといけない。そして、学芸の開始も、そのころでないと、遅い。

わたしたちが、樋口の「一葉の日記」をみることができるのは、27歳の斉藤緑雨が余命をしり、樋口一葉を見舞った島崎藤村を同窓とする、友人の馬場孤蝶へ依頼したからである。

みな、それぞれが、20代と、若く、貧しくても、文化に役立つ、才能にたいしての、責任と義務が、はりつめていた時代だった。






▲ 建仁寺垣  夕暮れ  (写真:松田薫)
▼ 建仁寺   金色の眼をした白猫  (写真:松田薫)



                                                           

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「京都昨今」松田薫2006-09-03