京都昨今
24、 雪よさり 雲のむこうは 白山か        橘曙覧

一)
ずいぶん、歳月が行ったとおもうが、調査の土地は、どれだけの時間がかかるか、わからないので、ひとりと決めている。が、自然の厳しい山があれば、別になる。

わたしの、体は、山に合わないし、観光、見世物と、している町は、人の流れが、すんだころを、見て、歩くことにしているから、散策ひとつにしても、より、むつかしくなる。
むかし、信州、松代へ、行った。

町の端、ちいさな小川沿いに、こまやかで、ひとすじを貫いた正岡子規の、最後を看取り、医は仁術と心得た、宮本叔(みやもと・はじむ。東京帝大、教授)の生家があった。
万世橋近くに住み、伝染病に取り組んだ、子規門下の兄につづき、文芸を分かろうとした、宮本叔は、子規と同年で、同じく、慶応三年生まれの、夏目漱石の修善寺の大患にも、かけつけ、漱石の最後も看取り、我が身も、同じく、早く、逝った。
かれら、同窓を思うと、宮本家からの、子供たちの、明るい声が、わたしの行動は、無礼とかんじさせ、訪問はやめることとした。

この帰り、妻が、小諸に寄ろうという。
わたしは、名所とかが、めんどうなので、嫌という。が、泊まる町を、決めることができず、小諸となった。

島崎藤村の記念館へ行こうというので、嫌という。が、梅雨の時期、夜まで、手持ちの本で、読書という気分になれない。
天気がぐずついても、嫌だといいながら、外でまっていると、藤村の原稿があるという。
見たくないといったが、もどってこない。それで、調査も、思い出の、一片もないのもと考え、見ると、文豪といわれる以上の字があった。

四国、松山で、夏目漱石の原稿をみたのは、30年ほどまえで、このままだと、この原稿は、酸化してしまうと思ったが、島崎藤村のも、かわいそうな状態だった。
日本の文化はとおもい、不愉快になり、体に、より、悪いと、言う。

つぎは、藤村ゆかりの「一ぜんめし揚羽( あげは)屋」というので、嫌という。
有名なところへ、行きたくない性格が、わからないのかと、質問すれば、町のふんいきが、京都の、観光向けの、作られた、鄙びさ、とちがうという。
たしかに、さびしすぎる。

佐久名物の、鯉屋さんに、蕎麦屋さんと、観光ガイドにのっていない店へ、つぎつぎ入って行った。どの店のにも、しっかりした味があった。
それで、のこった、行き先は「揚羽屋」となった。

1990年ごろの、「揚羽屋」には、日本酒、「久保田」が幾種類も並んであり、東京のつづきを、信州でするのは、嫌とおもった。

枡での日本酒は、口中を、十全に、つつむもので、味覚点と、嗅覚点の位置が、久保田と、まったく、ちがうし、主人は、笑み、客は、わたしたちしか居ないし、ああ、困ったとおもった。

それで、このお酒は、知りませんというと、より、ほほ笑んで、「地酒です佐久の」「亀の海です」と教えてくれる。
わたしは、「亀の海」を、飲んだことがなかった。

日本酒は、保存を心得ていないと難しい。
そのため、土地の、味をしる料理屋で、飲むにかぎる。
料理の、揚げ豆腐。この味はというと、妻が、ここは、もとが、豆腐屋さんという。

つぎに、味噌汁、これにも、まいったので、三年ものですか、ときくと、
「いえ、いまの人は、三年ものは、口にあわなく、一年半のものです」といわれる。
年期のある、味噌をつかった吸い物は、透明で、風香(かざ)があり、ちがう。

わたしは、島崎藤村が、不得手で、藤村の本は、かさなってきたとおもうと、処分しているせいだが、同じ本は、二種類ぐらいと、あまりない。
島崎藤村のまえでは、緊張していたといわれる、川端康成は、中学一年のときから、そろえだし、同じ本が、五冊できかない。

妻の父の法要が、1983年夏にあったとき、57歳で逝ったひとなのに、法要か、祭りかわからない状態で、これは、体に、こたえるとおもった。

とちゅう、酒が変わったので、これは、なにと妻に聞くと、「ウチは、一本義(いっぽんぎ)」というので、一本義には、鼻腔での嗅覚点、口へとはこぶ、「のぼり香」が、これと違うという。これが、真実なのに、「ウチは、一本義」という。
さらに、口中での「ふくみ香」が、ふわっと軽く、味覚点がちがうので、ちがうといっても、「ウチは、一本義」という。

味覚学を、打ち立てている、専門家を、否定できるのが、わたしの妻であり、法要を見舞う人たち、だれも、異議をいわない。
朱一色の着物の妻が、中学から6年間もバトンをした、死ぬまでバトンガールの、碧に白の着物の義姉と話し、「ウチは、一本義」(福井弁)。
この福井の音韻を、科学哲学の言語に、置き換えると、「ウチは〜」と格助詞で、上がる。「一本〜」で平たく、「義〜」で、また、上がる。

福井弁での、論法は、「ウチは〜」の、自己肯定の部分の段階で、こちらが、否定すると、この、上がっている段階で、論理の方向、思考の着地点を、換えることができる。
つまり、否定にたいし、相手が偉いと、謙遜をこめた、自己否定へもってゆくが、相手が「ダラ」(福井弁でアホの意味。だらしないが語源ではないか)とおもうと、ダラにたいし、連続攻撃でき、降参させる、強さをもった言葉だ。
それで、どうしても、議論に負けそうな情況に陥ったばあい、「一本〜」という平たいところで、理論の方向を、転換し、負けといったかんじに、少し、変化する。

二)

一本義の味は、京都でいうと、「松竹梅」と「玉の光」をカクテルすると、よく似た、ふんいきになる。
酒は、一本義が切れ、「越の磯」と、台所が言い、「なぜ、わかったの」と妻が質問する。

日本酒の味は、京都の、錦市場の酒屋さん、ご夫妻に習った。
30年ほどまえの、ご主人は、「わたしは、これですが」と、しずかに、謙虚に、教えてくださった。
すごいのは、女将さんだった。
自称、東京からの旅行者で、酒通という人が、店に並べてある、全国でも有名な地酒を、あれこれ、講釈すると、「お客さん、よく知ってはりますな」と言いはじめる。
東京人は、これを、褒め言葉とおもうのだろう、酒通の、講釈が、より、加速する。
「ほんまに、お客さんは、通で」と言われても、東京人は、やめない。
わたしは、嫌味もここまで、洗練されると、文芸のひとつと、いちどは、うつむき、聞かせて、いただいた。

酒蔵から、新酒ができたという、知らせに、杉玉があるが、30年以上から、時間があると、静かな、奈良や滋賀をたずね、これを見かけると、酒を買いに、入ってゆく。
そのころの言葉でいうと、パートの女性は、「いったい、なんの、御ようですか」といった顔をした。
職人の手を止めさせるな、他人様(ひとさん)の時間をとらないようにと、教えられているので、杜氏(とおじ)や、店主の時間を、とらないよう、すぐ出ることにしている。

学問をするものにとって、ふつうの行為だが、習性で、時間がなくても、書店へは行く。
福井では、地下への、階段と、歳月の文化が、ともにあった品川書店。
ここがなくなったときく。
大書店ではなくても、品川書店は、充実した木の棚の書籍が、なにを読めばいいか教えてくれた。

書物のあとの、酒となり、「だるまや」西武百貨店の地下はじめ、酒売り場へゆき、てきとうに買い、飲んだ。
時間に余裕のないときの買い物だったが、義母から、先に教えてもらっていた「雲乃井」が一番だった。
何を考えてつくっているのだろうかと、思ったものに、南部酒造の「花垣(はながき)」があったので、この酒と、味がわかる義母に言った。

東京が、バブルとやらの時期、有楽町マリオン、西武デパートの力なのだろう、島根の「李白」、姫路の「龍力」がブームとなった。
どちらも、ワイン通などには、わかりやすい酒だ。
「李白」で、わたしが手にしたのは、一桁や二桁はじめの、番号が入っているものだ。

銀座かいわいが、人ごみのとき、「雲乃井」を教えてくれた義母が、「花垣」を送るという。福井日赤近くの、酒屋さんが薦めるという。
「李白」を、より、わかりやすく、できた酒だったので、東京のマスコミ人に贈ることにした。

父の教えに「タダより高いものはない」があるが、東京に棲息する、マスコミ人は、いつのまにか、文芸人や学者より、偉くなり、タダで当然とおもっている人種ばかりとなった。

本物の文芸人は、働くのが定めの人間なのだ。が、帳面屋の編集者に、本物と偽者の区別がつかなくなり、生涯の歳月をかける、本物もタダで使い、帳面屋の自分たちは、豪勢な生活が当然と思っている。
1970年の学生運動の結果、社会から、本物の、文芸人が、少なくなったというのに。

しかし、わたしの、言動の、効果は、早く、翌年、わたしが、蔵元に頼むと、パートのひとから、わたしが言う、花垣は、「ありません」と言われた。
それで義母となり、「花垣」をすすめてくれた酒店が、「花垣」の酒粕を分けてくれたといい、わたしに食べるかどうか尋ねるので、はいと答えると、「花垣」の上等なのに、他のも加わり、「酒粕」だらけとなった。

バブルとやらの後、大不況がきて、保存が難しい、しっかり生きようとしている日本人が、日本酒の蔵元が弱ってきた。

残しておきたい、人や物が、消えるのも、歴史の形のひとつだろうが、困った感じがする。

文化の減退をかんじたのか、考えに考えられたのだろうが、知己をとおして、高度な頭脳をもった都会人が、故郷の福井への、知事選につぎ、市長選にでたのを知った。
高度な頭脳の、同窓が居なくなった、福井に、友人がどれほど、残っているのか。
たいへんな試みである。

これは、「女大学」の、京都にまなんだ、貝原益軒先生にでも、登場してもらわないかぎりダメなかんじがした。
貝原益軒は不得手だが、「本草学」がある以上、仕方がない。

わたしの書架での、日本は、地動説、物理の本質を哲学した、思想家、山片蟠桃(やまがた・ばんとう)が中心になっていた。35年以上まえ、しらべはじめ、印南郡米田町、わたしの、生家から、歩いて、すぐの人と知った。
高校生のわたしは、「ふーん」としか、思わなかった。

働き、考える、山片蟠桃が、不況への脱出を考案しても、武家という、他人様が作った、帳面をながめる役人と、商売人という、他人様が作ったものを、帳面で自在にする人たちが、多くなってしまった時代の弊害を、のりきることは、難しかった。

教育の弊害で、福井だけみても、いつのまにか、高度な頭脳が、東京では世田谷区、大阪では枚方市でも、同窓会が開けるほどに、流出し、棲息している。

福井の市長立候補者へ、わかりやすい「ガラス張りの政治」を求めた、長野知事が応援にゆき、長野の文芸の知事は、マスコミの在り方が悪いと、正しい注意をし、謝罪に登場した、新聞社の頭を下げているのが、福井市長の立候補者の同窓だ。
こんなことをするのなら、盆のころ、グルメの文芸知事は、その土地の日本酒で、親友交歓をして、言葉を通じさせる方が先決ではないか。
それが、できる世の中でなくなったというかも知れないが。

平成の改革というならば、各地の、知事、市長立候補者は、まず、才人を、故郷から出さない、「関所」をつくった方がいい。才人を、海外へ出さない「関所」をつくった方がいい。
平安京は、20万〜40万人までの都市で、この人数で、文化ができた。
都は、地方からの才人を、生かしたときに、都となる。
が、歴史を、調べにしらべると、正しさを、たもった、都の命は、短い。

1980年ごろ、東京、中央線、高円寺で、偶然、すれちがった、アメリカ文学を好み、いつも手にしていた、同窓の女性が、「アルバイト先」と、知己に言ったと、聞いたときは、彼女にしては、勇気がいった言葉で、遊んでいるなら、少し、時間をさき、就職先を、さがしてあげなかったのかと言い、そんな、すれちがいは、人として、ないと注意をした。

三)

書籍もだが、酒は、日本の文化はどうなっているのかと、福井の「雲乃井」に連絡をすると、じつに、ひかえめで、正直に、自ら酒を仕込み、はたらかれている、吉田和正さんが出てきてくださった。
わたしが、先の味をいうと、先代とは、味をかえましたと、社長の吉田さんは、いわれる。
わたしの、勝手な言葉が、通じるひととかんじた。
うまみ、やわらかさが加わるようにという言葉をうかがっていると、通には、わかりやすいともいえる酒の原点、池田の酒、あるいは新潟へ、向けたのかとかんじた。

先代の、竹の皮でつつんだ「雲乃井」は、美しい山岳地域にある水とおなじ、口中への、味ある質感をもった酒だった。
注文した、同様の、竹の皮のは、父が愛飲した、子供のころを思い出させ、甘酒の風香(かざ)がある、灘の名酒を、少し加味し、朧色ある「雲乃井」となっていた。
口中、舌への味覚点、三箇所が、飲むにつれ、強くなってゆくのかと思ったら、先代の「雲乃井」どうよう、まったく、ならない。

つぎに、町会議員をしていた、妻の祖父が、89歳でも、病院から、自転車で脱出していた、福井日赤近くの、酒店へ連絡すると、お嬢さんの代となっている。
どれでも、いいですから、客が、置いてゆく言葉を、教えてくださいと言ったら、跡継ぎは、言葉を知るひとで、要所があるものを、ひとつひとつ、言い、教えてくださる。
幾つもの、蔵元のは、飲めないので、客が、「花ある」といったものを、注文した。

とどいたのは、花垣で修行された、「白岳仙」、当主の手による限定酒だった。
まろやかさに、「のぼり香」「ふくみ香」が、上品(じょうほん)、甘露とはこのことだろう。

酒店のお嬢さんと、妻との会話に、「足羽小学校」が出てきて、妻は、一学年、四クラスあった、足羽小学校に、一年少し、通ったといい、校歌が、記憶に残るという。
こんなことをしていては、校歌評論家とおもいながら、それは、いい校歌だといった。

ホームペイジをみると、MIDIによる伴奏が流れる。
歌詞がないので、学校へ連絡すると、FAXで送ってくださり、譜面がついている。

作詞、中村研三。作曲、望月敬明となっている。
一番は ♪ ときわの松の 色映える 足羽の山の みどり風 と歌う。
三番を ♪ からだだわる〜で止め、「この、だわる〜の、校歌は、恥ずかしい」と、妻は、役人風の標準語でいう。
そのため、合っている〜と、福井弁で言おうとして、「真」と哲学の言語でいった。

だわるなとは、体はなまけさせてはいけない、鍛えなさいという意味ではと説明をした。

なぜ、知っているのと聞くので、30年前の、わたしの書架を言ったのだが、記憶にないという。日本思想体系、文学大系は二種類以上あり、いまは、ダンボール箱に断片があると答える。

「♪ からだだわるな うそ言うな もの欲しがるな 橘(たちばな)の 曙覧(あけみ)の歌を くちづさみ 足羽の子らは 足羽の子らは 心 健やか 育ちゆく」

この三番の言葉は、江戸の歌人、子供たちへ、「嘘いうな、物ほしがるな、体だわるな」の教えを残した、素朴で、ふつうであろうとした、橘曙覧(たちばな・あけみ)を尊敬したもので、橘曙覧は、正岡子規が、再評価した文人と説明した。

このあとで、妻へ、わたしの専攻は、言葉が、心身へ伝わる構造が、解明できない、科学哲学なのですが、と言った。

調性をFとした作曲家の譜面に、今風に、和声(コード)進行をつける。
ここでのG7は、D音(レ)に中心をおいた、Gの音である。

    F                G7C7  B♭   F
   ときわの松の 色映える  足羽の山の  みどり風 
    C7       F        G7        C7            
   学びの窓に  吹きいれて 足羽の子らは 足羽の子らは 
    F         B♭F    C7F
   心ほがらに    そだち   ゆく




                       たのしみは 雪ふるよさり 酒の糟 あぶりて食て 火にあたる時  
                                                                橘曙覧
                              



▲ 越前、 雲乃井  白岳仙 (写真:松田薫)
▼ 石清水八幡宮 奉納御献酒  (写真:松田薫)

                                                 

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「京都昨今」松田薫2006-09-1