京都昨今
22、北斗七星がみえますね                村津末雄 


1)
村津先生。いまの、川西小学校の校長先生から、月曜日(一四日)電話、いただきました。
川西小学校へは「校歌」のことで、連絡をさせていただきました。

校長先生との会話をさせていただいた後の、次ぎの日、村津先生が、八月一二日(土曜日)こられたということを、うかがいました。

いまの時代は、インターネットで、過ごした、学校を、見ることができるわけですが、川西小学校の円形校舎は、説明に、困るものでした。
机は、バーム・クーヘンを、分割したような、台形の変形で、くっつけると、輪の状態になる教室だったということ。
妻が、見て、1961年という、いまから45年以上も、このようなモダンな学校だったのと言いました。
とうじは、近隣では、大阪にひとつあり、全国では四校しかないことを習ったこと。

校舎、正面、入り口の、東側、加古川のほうに、ウサギ小屋、鳥小屋があったこと。
1962年、四年生のとき、ウサギ当番で、ウサギが好きな、大根の葉っぱなどを、確保するのに、冬は、たいへんだったことなどいいました。

大阪府へ引越してから、また、東京でも京都でも、どこでもですが、わたしが、稲作など農業に詳しいのに、おどろかれました。

1961年9月16日、第二室戸台風が来ましたね。父は、姫路など播州が直撃の可能性があるということで、昼には、もどるといい、大阪の会社からもどってき、叔父と、イエを、裏庭に用意されていた材木で、打ち付けていました。
第二室戸は、加古川などの直撃はなかったものの、川西小学校ちかくで、同じクラスで、農家をされていた、伊藤君のイエ近くの、水田の稲が倒されました。
翌、17日、村津先生は、台風、直後の、水田の様子を、見学に連れて行ってくださいました。

「稲が高いと、台風などの、風に弱く、このように倒れます。これから、稲刈りなのに、倒れ、水につかったものは、使えません。お百姓さんが困ります」との説明でした。
農林100号(コシヒカリ)。北陸120号、寒いところは農作に大変で、改良種がつぎつぎ作られています、などの説明をしてくださいました。
だれかと、いつ習ったのかと聞かれるたび、三年生の社会の教科書にかいてあったし、川西小学校の村津先生に習ったと言っていました。

ウサギ当番のことですが、ウサギ用の、大根の葉は、集団登校のとき、駅からの通り道に松下の八百屋さんがあり、母にいい、わたしが、通るとき、年間契約という形にしてもらいました。
八百屋さんが、「捨てる、大根の葉なんかで、お金をいただくことなど、できません」と言っていたのが、記憶にあります。わたしは、お金を渡してと母にいいました。
イエと、八百屋さんとの、関係を知りませんでした。1962年、家業との関係で、まだ、非常に高価だった、バナナなどを、買っていたそうです。今年、知りました。

八百屋さんから、大根の葉をもらったのは、一度だけでした。
あとは、川西小学校の周辺で、とっていました。

八百屋の大西さんグループ以外の当番は、気疲れしました。
イトコたちには、わたしひとりでは、無理なので、協力をしてくれと言ったのですが、ウサギが怖いと言います。

なぜと訊くと、足で蹴られるというので、四羽のうち、一羽、後ろ足が小さいのが、乱暴だから、それ注意すればいいと言ったのですが、これがわからないとのことでした。
わたしが、その乱暴というウサギの足をとり、脚全体が、すこし小さい、じっと見ればわかるといったのですが見ようとしませんでした。

わたしが、ウサギにエサを、あたえつづけることから、ウサギ四羽が、つぎつぎ、だいたい六羽ずつ子供を産みました。
冬をむかえるころ、先生は、他校へ、あげると、わたしを呼びました。
悲しい思いでした。が、このウサギ当番のおかげで、白のウサギの個体識別ができるようになりました。
白のウサギの個体識別は難しいそうで、「動物学会」での発表をと言われましたが、発表するために、当番をしたのでは、ないことから、拒絶しました。
また、ウサギ小屋の南に、鳥小屋がありましたね。

今年(2006年)に入り、高齢の、両親に、小学四年生のとき、加古川を去る、1962年秋から、いろいろな、お別れ会を、小学三年生〜中学三年生までが、別々にしてくれたことを、言いました。

米田町で、養鶏所を経営していた、小学三年生の、多田君から、「鶏の飼育が、大変なこと」を、ききました。
多田君は、両親から、わたしのイエが、業務用に、タマゴを買っていると告げられていたのだとおもいます。
ご両親が、朝から夜まで働かれていたことを、きいていましたから、多田君の家業をいうと、わたしのイエへ、卵を、配達してくれていたのが、多田君のところと、伝えられました。わたしの両親(父)は、このようなことは一切言いませんでした。多田君のところにとって、わたしのイエの引越しは、経営に響くものだったのだと、わかりました。

1996年にも、川西小学校へ、校歌のことで、連絡をいれました。
川西小学校のひとたちですが、1963年春、加古川市をはなれてから、イトコはじめ、だれにも会っていません。
伝聞では、イトコが結婚したとかは、父の妹、二度ほどあった、叔母からききました。
女性の校長先生でした。

2)

もう、朝鮮人の人たちが少なくなったというので書きます。
村津先生は、わたしが、川西小学校在籍のとき、川西小学校の東側に生活されていた、同級生に、日本人名、安田君という小柄な男の子に、ずいぶん気をつかっておられました。
この、ケンカをし、すぐ泣き出す、安田君は、わたしに、「ぼくは、朝鮮人だから」と言っていました。
わたしは、中学生用の地図帳をだし、朝鮮半島のどこからきたの?とききました。
「わからへん」との答えでした。
朝鮮語ってどんなのときくと、
「いま、ハングル語を、お母ちゃんも、みんな、習っている」とのことでした。
安田君をいじめ、泣かすのは、西原君でした。
そのほか、日本人名、古川君、近藤さんたちがいましたね。西原君も、ずっと、日本人とおもっていました。

先生は、わたしを、かれらと、代々、米田町出身の生徒との、間に、席を、位置させました。このせいで、いわゆる、在日の生徒と、日本人の生徒とのケンカは、少なくなりました。

川西小学校、独特の、「グループ学習」がありましたね。土曜日の午後でした。
1970年代でしょうか、新聞に、大きく掲載されていたのが記憶にあります。

大昔の記憶の断片でかきます。
大病院とちがって、宝殿病院の看護婦さんが、優しかったというと、「あのひとは、岩田君のお母さん」と母は言います。
加古川市駅の南のテントとカーテン屋の金沢君、岩田君、平田君。
女子は、イトコのヨシコちゃん。ケイコちゃんの親戚の姉さんと同じく、大阪音大へ進学したときく下田のキミちゃん。

平田君の家は、ひと間でした。トイレが共同の形で、水も井戸から、ポンプでくんでいました。
「グループ学習」で、小遣い、平田君ところからは、お母さんが留守で、一人10円をもらう形でした。姉も、弟も、川西小学校に通うから、お金に、大変だということでした。
わたしのグループ七人でしたから、七週間に一度になりますね。
キミちゃんところは、お母さんから、説教をされるから、グループ学習をしたくないともいわれました。

キミちゃん、ケイコちゃん、ヨシコちゃんですが、三人とも、加古川と志方へ、ピアノや学習塾へかよっていたそうです。
また、男子は、学習塾へ通う子が少なく、女子と差がついて、当然と思いました。

「グループ学習は、お金がかかる」と平田君に言われ、グループ学習は、すべて、わたしのイエですることにしました。
すると、二年生の妹も、わたしのイエでするといいはじめました。
これは、目立って、問題がおきるから、止めて欲しいといいました。が、母たちは許可をしました。
毎週、12、13人の子供が、ココアに紅茶、ケーキにクッキーなどを食べてかえるのですが、わたしは、三週目、妹たちのも、合わせて、うるさく、飽きて、グループ学習が終えると、自分の部屋へ上がっていました。

問題は、1962年5月ごろでした。四年生になり、わたしは、集団登校の引率係となりました。
四年生と二年生の、平田君、男の子たちは、イエに石鹸がひとつしかないといい、六年生の姉さんと、いっしょに、銭湯へゆくとのことでした。

平田君たち兄弟が、ジロジロみるということから、一年生と二年生の女の子から、わたしに、注意をしてくれといいました。
一年生と二年生の男の子からも、男の子として恥ずかしいからと、言われました。

わたしは、母にいい、平田君に「石鹸」と石鹸箱をあげるといいました。
すると、平田君の姉さんがでてきて、「貧乏人あつかいをするのか」と、郵便局のまえで、わたしに言いました。
わたしは、小学一年生と、二年生の女の子が、体をじっと見るとか、嫌がっているのだといいました。
すると、つぎに、平田君の、兄、宝殿中学の二年生が、わたしを、市場まえで、つかまえました。「見ていないし、見えるものだし、見てなにが悪い」と言い、市場中ひびき、たいへんでした。
兄弟、中二男子、小学六年の姉に、平田君、小学二年生の弟。連日、嫌な記憶としてあります。

この中ですが、中学二年生の平田君の兄さんは、わたしの兄たちのグループと同じ中学でしたから、わたしは、助けをもとめました。
兄と同級の中学二年生、そして、三年生たちも、「平田は、中学でも、ケンカが多く、授業中まで泣いてうるさく、先生も困って、相手ができない」といいました。

3)
6月の中ごろごろからでしょうか、第二平津の、八百屋の大西さん、横山さん、ナカタニ?さんたちのグループが、村津先生に、PTAで抗議したそうです。
「わたしたちの娘をいじめる」と八百屋の大西さんの、お母さんがいったそうです。
村津先生の答えは、「松田君は、いじめるような子ではないです」と返答されたそうです。
つぎに、印刷屋の横山さんの、お母さんが、娘もいじめられていると、いったそうです。

わたしは、八百屋の大西さんとは、三年のとき、近くの席になりました。たしか、ハギノかオギノ君という男子が親戚だそうで、この二人は、よく、明るい、口論とかはしていました。
大西さんのグループに、とちゅうで引っ越しをした、勉強ができた山城君がいたとおもいます。
横山さんとは、一度も、話したことも、席が近くなったこともありません。

PTAには、母には仕事があり欠席で、これにたいし、数年まえ、亡くなられた、黒田のおばちゃんと、第二平津のナカタニさんたちが、「よしのぶちゃんは、そんなことを、せえへん子よ」と反論してくれ、終わりとなったと思ったら、横山さんの母娘が、「まつだ君の、お母さんがいじめる」など、さまざまなことを言いました。

わたしには、「あなたが、仲良くしないから」と叱っていた母ですが、自分自身のことになると「わたしが、面識もなにもない娘が。どうして」といい、この町には、居ることができないと父に、引越しを、相談しました。
秋祭りの季節になり、運動会の練習のとき、イエに、さばの姿寿司が、20本はならび、わたしは、夜、発熱しました。いまの言葉ですと、アレルギー性のものです。
このときはひどく、わたしは、日光にあたってはいけないといわれ、教室にいました。

はじめ、古川君ですが、中学生で、ぼくらと遊んでくれ、舶来の自転車を乗っても良いって、「まつだ」という、名札をつけた人がいるというので、「青のサイクリング車」だと、兄といいました。
このあと、古川君、西原君たちです。「まつだ君には、本当のことを言おう」といい、「ぼくたちは、朝鮮人だと」いいました。

おどろきました。わたしは、そうすれば、朝鮮語が話せるの?とききました。
「話されへん」というので、理由がわかりませんでした。

安田君は、古川君、西原君と、わたしとの会話で、気持ちがゆるんだのか、アレルギー性の蕁麻疹(じんましん)で、38度近い、熱があり、ふらふら帰る、わたしを、後ろから、蹴るという行為をしました。

「あそぼ」というので、わたしは、きょうは、無理といいました。
三回目、蹴り上げてきたとき、わたしは、安田君の足を、手で払いました。
とうじ、川西小学校は、グリーンのピータイル張りでしたから、安田君は、すべり、ころびました。

そして、「待っていろ」といい、職員室へ入り、五年生か六年生の担任の、ハシモトという先生でしょうか、そのひとに、「急所をけられた」と言い、泣きました。
ハシモトという名前とおもいますが、顔が、骨ばった、四角形の、浅黒い、教員にいきなり、
「おい、ダボ。来い。おまえ、急所を蹴るとは、なんでや」と、わたしは、播州弁があまりききとれませんが、いきなり、左頬から、左目を、殴られました。

安田君の、悪戯のある、わらった表情は、いまも記憶に、鮮明にあります。

イトコの、ヨシコちゃんを、縁側によび、朝鮮人のことを知っていたのかとききました。
「みんな、知っている」といいます。
なぜ、言わなかったのかときくと、
「いじめられるから」とのことでした。
このことが原因で、わたしは、イトコと生涯、口をきかないと、決めました。

母にだけ言い、三日、休みました。
学校へ行くようになっても、安田君が話しかけてきます。
妻が、朝鮮人の子供は、どうやってからかわれていたのと聞きます。
「汚い、臭い、嘘をつく」と言われていたというと、そうすると、どうなるのと言います。
いつも泣いていたと返事し、日本人の同級生には、
「安田君は、汚くもないし、臭いもしない」と言っていたといいました。

安田君が、いきなり暴力をふるえる、教員のハシモトに嘘をいったことで、わたしは、話を二度としない。勉強だけは、いままでどおり、教えるといいました。
このときからの緊張は、これまで、安田君をいじめていた体格のいい西原君、やや小柄で温厚な古川君に、はしりました。

近藤さんたちがグループ学習は、西原君のイエだけは嫌といっていました。古川君もいいます。西原君は、恥ずかしそうに、わらっていました。
近藤さんは、わたしに訴えるのですが、かれらが言う、言葉の意味がわかりませんでした。

わたしは、大半が病院生活で、イエに帰ると安静状態で、床についているのがほとんどで、読書も禁止されていました。

哲学と医学を選択しながら、50歳という年齢がゆき、近藤さんたちの、あのときの言葉、西原君の両親が、グループ学習をしている半分ひらいた板の、隣の部屋で、性行為をしている言葉とわかりました。

ココアや紅茶を飲んだことがないというので、母にいうと、母から父へ伝わり、母が、イエにつれていらっしゃいといいました。
かれらは、イエの近所まで来ました。わたしが迎えに出て、母とともに、入ってというと、加古川のほうへ、駆け出しました。

4)
秋、11月。村津先生は、校内放送をするというので、作文が、安田君、「紅葉」のハーモニカ演奏が、わたしでした。
昼、放送室にはいりました。安田君の作文の内容は、
「ぼくのお母さんは、朝4時半に起きます。仕事があるからです。お母さんの、仕事は、ボロをリアカーにのせ、はこぶことです。ぼくも、起きて、後ろから、引っ張るのを手伝います。加古川の土手の坂になると、力をいれます。朝、起きるのは、つらいです。でも、お手伝いをすれば、お小遣いをもらえます」と言った内容でした。

わたしは、とちゅう、悲しくなり、旋律をまちがえそうになりました。
放送室からでるとき、安田君は、「ぜんぶ、嘘や。ぼく、朝、寝てるもん」と言いました。
わたしは、これは恥ずかしさからの嘘ではないかとおもいました。

今年(2006)、両親にきくと、ようやく、あの時代は、繊維が不足し、着古しを、さらしていたと説明をしてくれました。
それで、朝鮮人たちは、悪いことをしなかったのかと聞くと、
「家族で、(半島や島から)来たから、悪いことは、せん」と父は言いました。

わたしの存在で、川西小学校ちかくの、イエが農家で、勉強もできた伊藤君が、わたしを、睨むという、できごとがつづきました。原因が、わたしが朝鮮人に勉強を教えるからと言うのですが、わたしは、理由が、わかりませんでした。

四年生の秋の運動会、わたしは、「部落対抗リレー」の選手に選ばれました。
いまの校長先生がおっしゃっていましたが、加古川では、いまも、部落という言葉が、生きているそうですね。

イエで、「部落対抗リレーの選手に選ばれた」というと、成績では、なんの反応もしない、家族ですが、両親たちは、おどろいてくれました。
播州では、部落は誇りある言葉でした。
ただ、その瞬間だけで、わたしのイエは、共働きですから、運動会へ来る余裕などありませんでした。

部落対抗リレーのあと、PTAの会長をされていた、金沢君のお父さんが、「がんばったね」と言ってくれました。このあと、金沢君が、加古川市駅の、イエに来てくれないといわれ、両親に許可をもらい、行きました。

金沢君のお父さんは、「まつだ君が転校してきてくれてから、学校でいじめられ、泣かされたことがありませんでした。ありがとう」「このままだと、朝日新聞や毎日新聞など、大阪から、東京へ行ってしまい、関西から、新聞機能がなくなってしまうから、情報がかたより、大変な時代になります」との小学生四年生には、難しい内容を、1962年に言われました。この意味がわかったのは、1970年代中ごろからでした。

六年生と中学生たちによる、お別れ会は、秋祭りの「生石神社」のとちゅうまで、連れて行ってくれました。はじめて、石の階段を少しのぼりました。
わたしに、万が一のことがあってはと、階段の上と下に、小学六年生と中学生たちが、居てくれました。

村津先生への迷惑は、文部省からの視学官たちが来るので、予習ということで、授業の話題は、「テレビ」ということ、知能テストのようなことがあるということ。それで、テレビのない人がまだ多かったので、わたしは、休みました。
村津先生が困っておられるだろうと思いました。
このときの視学官(旧文部省、東大)の人には、いまだ、現存のひともいるそうです。

また、学芸会は、三年、四年時とも、主役でした。兄や妹は、その他大勢でも、母は、衣装をつくっていました。が、わたしのは、兄がひがむということで、わたしは村津先生に断りました。が、主役ということで、母が、講堂で、学芸会の練習中、村津先生に相談しに来た事がありました。村津先生に迷惑をかけ、恥ずかしいとおもいました。
学芸会の当日、「お父さん」役のわたしに、村津先生は、黒の絵の具をつかい、指先で、ヒゲをかいてくれました。

学芸会は、大阪でも、ずっと、主役でした。私立へ進学する級友たちが、一度は主役をしたいというので、わたしは出ませんといい、担任の岡重信先生は、劇を三つ、作成してくれました。
一学年六クラスの学校で、学芸会は二日となり、当日近く、セリフが覚えられないというので、三つとも、わたしが主役をさせられました。
わたしは不愉快でした。主役をしたいといっていた、級友たちは、元気がなくなりました。このときも、わたしの両親は、来た事がありません。

1962年夏、盆のころですが、村津先生は、各部落をまわることをされました。
村津先生は忙しく、わたしの方は、一番後で、加古川市公民館に、来てくださるのかと、心配していました。
先生は、余興のひとつで、「なぞなぞ」を、用意されていました。
問題を言う前に、わたしが答えるものですから、先生は、ほほえみながら、「まつだ君には、いつもこうです」と言われました。
母には、村津先生が用意されてきているのだから、最後まで聞いてから、ゆっくり答えるものですと、注意されました。

5)
四年三学期、通知表をわたすことをかねて、わたしは理科室へよばれました。
先生は、「まつだ君が引っ越すので、ほっと、しているのです」と言われました。
わたしは、なんのことかわかりませんでした。八百屋の大西さんのことか、印刷屋の横山さんのことなのか、とおもいました。
また、四年生のとき、朝鮮人の一年生に、遊んでといわれ、遊んでいたことなどはじめ、朝鮮人の同窓のことや、ウサギ当番のことが、褒められるのかとおもいました。

先生は、「東平津部落」の、女子のPTAのひとたちが大変でしたと、おっしゃられました。
わたしは、なんのことかわかりませんでした。
「まつだ君が、オール5をとってしまい」とおっしゃいました。
「他の科目は、すべて一番ですから5より仕方ないですが、国語は一番でないので、残る生徒のために、5をあげて、4°でいいですか。これは5です」とおっしゃられました。
意味がわからないので、はいとだけ返事していますと、「まつだ君が転校してきてから、平津のグループの成績が上がり、東平津部落から、なぜなのと言われつづけていました」と言われました。

東平津部落の方は、まったく、知らなく、意味がわからないので、そんなに5がよければ、みんな5にしれあげればいいですというと、5は一クラス3人ときまっているんですと、おっしゃられました。
理科室の年表の右端、窓側に、湯川秀樹さんの楕円の形をした肖像がありました。
世の中には、恥ずかしい、生き方があるとおもいました。後年、関係してくると思いませんでした。

たのしい思い出というのでしょうか。カミナリで、雨がひどいとき、「金具のついた傘は、危険です。まつだ君が、引率して、カミナリが鳴ったら、どこのイエでも、名前をいって、入りなさい」が、あります。
教室の後方にあった、番傘を、借りました。
このために、油のにおいがする、番傘をさしながら、集団で帰りました。

いちばんの思い出は、川西小学校でした、キャンプをはった林間学校風のものでした。
予算のないことから、銘々、缶詰をひとつ、ご飯は、学校が用意しますというものでした。
わたしは、母に、缶詰といい、母は、五つほど買ってきてくれました。わたしは、大きめの缶、マグロのを選びました。わたしのグループは、小さな、よく似た大きさのものでした。

給食代、給食は、塩分の関係で食べませんでしたけれど、三年、四年、払っていました。
30年のつきあいになる、妻が、給食の時間、どうしたのとききますが、あまりに悲しい時間だったのでしょうか。
わたしの記憶は、生後10ヶ月から、断片にありますが、給食の時間は、記憶にありません。
この川西小学校での、林間学校は、わたしにとって、はじめて、学校での食事でした。
朝鮮人の子供たちが、何ひとつ、持ってきていないので、イトコたちに、何が食べたいかと聞くと、わたしのマグロというので、イトコたちのを、朝鮮人の子にあげました。

食事のあと、休みを一時間ほど、テントの下でとりました。
わたしたちの地域が一番遠いので、村津先生は送ってゆくといわれ、夜空を見ながら、まつだ君、あれが、一番星、北極星ですととおしえてくださいました。北極星、ポーラスターの位置から、ひしゃくの形をした北斗七星を、おしえてくださいました。

病院生活がながく、窓の外ばかりながめ、いつのまにか、ベッドからでも、観察できる気象学が好きになりました。
そして、村津先生の教えから、わたしの関心は、夜空の星にゆきました。
星空から、農業まで、くわしいことに驚く同窓生がずいぶんいました。
そのたびごとに、加古川市の川西小学校の村津先生にならったといっていました。

わたしが、豊中市庄内小学校へ転校したとき、村津先生は、五年三組の岡重信(おか・しげのぶ)先生に、わたしの紹介の手紙を送ってくださいました。

岡先生は、わたしの成績におどろいていました。大阪での進学は、五年生からは本格的になりますが、わたしに「満点病」とアダナをつけた岡先生は、どうかして、灘中学へゆかそうと懸命でした。
灘へゆかし、東大へゆかさないと、大変なことになるが口癖の先生でした。
卒業近く、中学入試のときになり、せめて、付属池田はそのままで通るからゆきなさいと言ってくれましたが、母は、あなたに手をやけるとしかりました。

社会問題となった、教育大、付属池田への進学は、小学校へ復学するときにも、豊中市小曽根小学校の先生たちから、言われました。また、加古川から、豊中市への転校のときもでした。
付属池田は、担任の先生が、休み時間も教室にいて、給食の時間もいっしょで、とても安全な学校ときいていました。


灘中学と高校の校長が、父方の僧侶の、勝山正躬さんとは、わたしが、学術論文の作成で、悩んでいるときなど、枚方市まで、きてくれ、知りました。わたしは、西神吉村大国の、僧侶姿の勝山さんは、幼児から見ているので、わかりました。が、洋服姿の勝山さんは知りませんでした。

中学進学ですが、ふつうの中学へゆき、寝屋川市へ転校しました。第一中学を見学した日、下駄箱や、運道具、理解できない便所の落書きをみて、異常をかんじ、この学校だけは、行きたくないと、泣いて、親に頼みました。
子供のころから、麻酔なしの外科手術で、涙ひとつ流したことがない、わたしの訴えに、父も、沈黙しました。
ただ、とうじは、どこへ通うのも、不便な時代でした。

わたしは、電車通学で、生活、地域がちがいました。
時代の変化で、大阪の市中から、一年間で、第一中学に、150人ぐらい転校してくる新興住宅地となりました。
社会問題となった、寝屋川中央小学校のあった位置が、とうじの寝屋川第一中学です。
越境入学禁止をさせるため、内申書重視となり、市中の進学中学からの、転校組みが多く、競争がさかんになりました。

1967年、大阪も、まだ、2割近く、中卒で、松下電器や、関西電力とかに就職していた時代です。これも、3年になり、わかりました。加古川のとき、叔父が、入社問題を作っていたのを見ていたので、一学期の休憩の時間は、「就職組み」の勉強を見ていました。二学期は、夜間高校へゆくという級友たちの勉強を見ていました。
ダイキンや、オンキョーの工場に季節工がいて、会社の看板が、ベニヤ板のときです。

級友との、摩擦の、発端は、11月下旬に、学校から配布された住所録からの「年賀状」でした。わたしの住所には、大字(おおあざ)がついており、これを、大文字の送り火との関連とおもい、書いていました。

そして、12月、暴力事件の連続のなか、校庭で日本刀の太刀を、振りまわし、教員と、やりあっている生徒が出ました。翌日、この生徒が、わたしを待っているとのことで、いっしょに、帰りました。日本刀による暴行など、いっさい会話はしていません。

「年賀状」のことから、第一と第二部落だとか、地元で親戚同士という、わたしの周辺がいい、騒いでいました。わたしは加古川のつづきと思いました。
加古川とおなじく、親戚同士の騒ぎでも、教室がもめていると、わたしの責任になることから、一言でおさめるため、「オレも、部落だ」といいました。寝屋川市という町は、「ぼく」というとダメで、「オレ」と言わなければならなく、これに困りました。
転校して、この「オレ」と言うのに、半年ぐらいかかりました。わたしが止めると、「その部落ちゃうねん」という河内弁のニュアンスは、理解しにくいものでした。わたしは、「静かに」と強く、グループの男子にいいました。

6)
期末テストがおわり、12月後半から、一ヶ月だけ、受験勉強の許可をもらっていました。この寝屋川市第一中は、大阪府の模擬テストで、トップクラスでも、学年一番でも、教員の採点で、どうにでもなる学校でした。
なにしろ、テストを返さない学校でした。2年間で、三年生だけで、100人の転校生。新興住宅の「転校組み」どうしの競争で、競争相手は、近所の2年次で同級、晩秋に大阪府でトップになった友人の島君でした。

島君とは、転校してきたとき、わたしが、中学校の案内役になったからです。
この島君を、中学案内がおわって、島君が、ひとりで、職員室のほうから、もどってきたとき、成績のいい小西さんが、「島君って、成績が良くないと、見ることが、できない、顔ね」と言いました。

島君は、ショックで、体が硬直し、靴箱のなかへ、倒れかけたとき、わたしが、持ち上げました。小西さんに、君とは、生涯、口をきかないからといいました。
寝屋川第一中学の靴箱は、一枚板に、10人単位並べた、埃だらけのもので、貧血状態の島君は、気がついたとき、わたしに礼をいいました。

父親が大阪市港湾局勤務で、無理をして、一戸建てを買ったという、お母さんが家にいる島君は、わたしのイエにきては、役所勤めだから、金がないといい、雑誌や本を借りてゆきました。
役所を知っており、転校のとき、姉さんが、「物」をもって、挨拶にきて、わたしが職員室へ連れてゆきました。島君に、お母さん、若いねと言うと、
「ぼく、末っ子で、お母さん、年、入ってるから、お姉ちゃんが来てん」と、わたしには、正直なので、まちがえて、ごめんと、謝りました。

教員へ、物をもってゆく習慣のない、共働きのイエの、わたしが、平凡社の「世界大百科事典」を購入しているから、島君は、配達が数日遅れになる、旺文社の「時代」と学研の「コース」を、11日に配達してもらえと木村の本屋さんに言えといい、わたしの「時代」と「コース」を先に読み、必要なところは、貰ってよいかと言い、必要なところを破ってかえすことのできる人でした。

立命館のイトコに家庭教師をしてもらい、就職組みの面倒をみない、運動ができず、高飛びで、右手を骨折し、わたしにカバンを持てと言えた、島君の模擬テストは平均85点以上でした。
でも、寝屋川第一中からは、平均75点の大手前高校への進学は無理と、自覚してきました。

1966年、ようやく、京阪本線、特別区間、京橋から天満橋へ、地下鉄が通ったころです。
この第一中は、丸坊主でした。が、三組の島君が、長髪をスローガンに、生徒会長になったら、大手前へ合格できると、わたしに、いいました。
わたしのクラスは、父親が教員という、山中君が、三年最初、「先生、このクラスは、トップ経験者ばかりで、五番以内に、絶対、入れません」と、机に泣き伏した、不公平な、学級でした。
わたしは、登校が、遅かったですが、新学期の日、三年一組のクラス表をみて、他のクラスが、騒然となっていました。

担任の正井満先生は、「そうや、ぼく、去年も、三年の主任で、校長に、疲れるから、職員室に、一番近くて、成績のええ生徒、集めてん」と言いました。

大阪市からの、転校生の門脇君が、帰り、「泣いて、おかしいわ。ぼく、前の学校で、トップクラスやった」というので、アチーブメントテストの成績をきき、三年一組でも、10番以内か、わからないと言うと、「ええっ、こんな学校あるんか」と、怒りはじめました。

わたしは、この第一中学で、二年以上、委員会に一度も出席せず、二年、三年と、同級の西村さんに迷惑をかけた、経歴付きの生徒でした。なにか発言したとき、問題になる学校とおもったからです。

わたしの友人の中村君や田伏君、門脇君たちは、「島は、長髪にしても、ぶさいくだから、迷惑をかけるな。自分でしろ」と怒りました。
わたしも、島君に、わたしが進学できなくなるから、止めてくれといいました。が、聞かなく、剣道部と美術部に入っていた、わたしに、毎日つきまといました。

大阪府、団体、個人一位の寝屋川第一中では、転校して、まもなく、剣道部の顧問から、「松田、副将、師範」と言われました。これに、寝屋川は、小学校から、剣道を長くしており、抗議する生徒が出ました。
それに対し、「松田には、時間がない」と顧問の先生は、公平でした。
剣道部は、二年になっても、床の、雑巾がけをしている、わたしに、同級生が注意をしだし、母から、体がこわれると、口うるさくなってきたので、退部しました。
それで、応援演説はしないけど、票はまとめる。当選後、友人たちの意見を聞いてくれとの条件で、島君は生徒会長になりました。

島君は、生徒会長になってから、性格がかわり、選挙に協力してくれた、わたしの級友たちを、無視するので、地元の、兄が国鉄勤務の中村君が主導で、国鉄と大阪市の対決といい、「わからへんのか」と、口論しはじめました。
この険悪な状態を、副担任で、体育の阿部先生が気づき、「おい、こらっ、ナカムラ」と、声をかけました。
この声で、中村君は、恥ずかしくなり、気持ちを、抑えたようでした。
わたしは、なぜ、阿部先生が、中村君の名前おぼえてるのと聞くと、「一年のとき、担任で、オレ、男で、トップやったから、あたりまえやん」と自慢していました。
恩師の、声の、威力は、大きいと思いました。

島君に、わたしは、選挙に、協力してくれた、三年一組の、皆に、謝罪をといいました。けれど、無視しました。
昼休み、わたしは、野球部やバスケット部と混交のドッジボールをしていました。
運動ができない、島君も、生徒会長になったということで、ドッジボールをしはじめました。わたしたちは、10クラスで、寝屋川第一中学は、野球もできました。わたしのボールは、ここの中学、一、二という速度がありました。
二年まで、それぞれ、クラスでトップだった、三年一組の男子五人が、「島を、制裁する」といい、島君を当てようとするので、友人のわたしがするといい、偶然ですが、ホップした、ボールが顔に当たり、島君の、体が宙をとび、落下し、制服が、土だらけになり、下級生も、わらう出来事になりました。
島君は、「生徒会長なのに、格好が悪い」と、ヒステリックになりました。わたしは、一切返事をせず、黙っていました。

この男同士の事件の決着は、高校、大学に入ってまで長引きました。

7)
わたしは、少し離れた平均70点ほどの旧制男子で、自転車通学の、四條畷高校にしようと思いました。が、父は、自転車は禁止と言いました。べつに希望する高校がありませんでしたし、とにかく、模擬テストだけと思い、一学期から、島君に、三学期には抜き、大阪府トップと言ってました。
初秋、平均90点を連続して越えた、生徒が、他校から出ました。

受験過熱で、テスト業者が、儲かった時代でした。内申書で、採点できる、教員が、儲かった時代でした。
学年主任、教頭、校長だと、家、屋敷が建った時代といわれました。

360満点中、334点で、過去最高。これは、無理だと、島君と、わらっていました。獲得点、「334」「331」は、進学先の、啓光学園で、同窓となった、伝説の生徒でした。視線で、教員に抗議できる人でした。

島君は、旧制女子の大手前から京大へゆき、在学中、司法試験に落ち、役所勤務をしましたが、この秋、獲得点、「329」点で、大阪府トップになったと、わたしに、知らせにきました。

わたしが、模擬テストの選択問題の30点分の答えは、考えず、確率論といい、鉛筆でつくった、サイコロで答えていました。これが、ほとんど、外れるのです。三学期には、まじめに競争するからと、島君に、言っていました。

12月に、成績のいい、島君が好きだった、外海(とのかい)さんたちが、わたしのクラスに、遊びにきたことからか、1月にある、大阪府の、模擬テストが原因なのですが、暮れ、わたしに、差別の発言をしたと主張する夫妻がきたと、留守番をしていた兄がいいます。

わたしは、就職組み、夜間進学組みの勉強もみないし、差別発言をされていたとき、止めた、礼を言いにきたんだろうから、いらないと言いました。「ちがった」と兄はいいます。
そして、理由がわからなくなり、まず、中村君に電話をしました。
生まれて、はじめての電話です。ダイヤルをはじめて、回しました。

中村君から、田伏君たちの電話番号をききました。田伏君に、出てきてくれというと、「熱があって、出られへん」というので、むかえにゆくから、中学のところで、待っててくれといったら、「お母ちゃんが、出たら、あかん、いうねん。あかん、いうねん」といいました。
それで、田伏君の家まで、ゆくから、道を、教えてくれといいました。
この電話が終えたとき、小西さんの父親が、「おまえか、まっとけ」と言う、電話がありました。
父が、「わかった。おまえは関係ない。もう、寝る時間や、ベッドへゆけ」と、わたしに言いました。

小西夫妻がきて、階下で、わたしに、「出て来い」と、大声を出していました。母は、「二年間、同じクラスだったのですか。うちのこは、難病ばかりで、病院生活が長く、わたしたちは、共働きで、参観日へ一度も行ってませんし、何も聞いていません」といいました。

小西さんの両親が、わたしと会うまで、帰らないというので、階下へ、降りてゆきました。
わたしは、「親戚同士でも、教室がさわいでいるため、役割りで、ぼくも、部落といっただけです」と返事しました。
すると、小西さんの父親が、
「部落出身者とわかって、娘をたすけるため、言ったなといいました。娘は、おまえが、正義感が強いと言っているんだ」と父親がいいました。

わたしは、この話しの内容だと、ふつう礼を言うのではと思い、よけいにわけがわからなくなりましたので、小西さんを呼んでくださいと言いました。
わたしは、小学校から、社会科の授業をうけ、憲法での、基本的人権の自由、個人の大切さ、個人の心の大切さを、習ったといいました。
すると、「憲法など、関係ない。娘は受験勉強中だ」といいました。

この小西恕一さんという人は、後年わかったのですが、小学校教員で、とうじは、寝屋川市の教育委員会に勤務していたそうです。
小西さんの母が、「西村さんと、仲がいいですね」というので、委員会のことでと返事しました。

小西さんところは、父は医学部出身で、家がレストランやガソリンスタンドも経営して、金持ちだそうで、2年のときの同級の、家業が食堂で貧乏を気にして、金持ちが好きになると言っていた、野川君は、夏前、小西さんが好きになりました。
小西さんは、野川君に、クラスの中で、貧乏人、成績が良くないとか、ののしりました。

わたしと走って、わかったのですが、100メートルで、中学新記録の10秒台は、出せる野川君に、君とだと、豊中市第六中に勝てるから、陸上をしようというと、「小学校のとき、寝屋川一で、練習すれば、10秒台って、言われているけど、ぼく、勉強、せなあかんねん」といい、「ぼくとこ、お父ちゃん、戦争で、中国へ行って、抑留され、その後、新潟で、生活をして、新潟で、一回結婚して、大阪まで、来た」と家庭を説明しはじめたので、わたしは、戦争中の話は、嫌いだと言いました。

1966年秋から3ヶ月以上、両親に相談して、小西さんは、「わたしの家は、相手が貧乏でも、いいから、自由にしなさい」と言われたことは、ききましたけどというと、小西さんの、お母さんは、「野川君は、知りません」との答えでした。
このとき、野川君とのことは、2年生から、3年生まで、一年以上かかったことですよと言いました。
寝屋川市の大会で、100メートル走、1963年1位がイトコ。1964年度1位が野川君でした。
共通しているのは、わたしと違い、「走るの、嫌い」というところでした。

母は、わたしのイエに遊びにくるのは、大阪市の東中学からのイトコや、近所の、転校生グループ、島君、門脇君、はじめ、中卒で働く、山本君たち男子の6人ぐらい、母が外で会うと挨拶をする、中川さんたち女子の数人を言い、小西さんたちのことは、名前も町も、知りませんと事実を言いました。

8)
わたしの近所に、娘の成績を自慢する、転校生の原口さんがいました。
母が、「原口さんは、成績がいいの?」と聞き、わからなかったので、同級の田伏君にたずねると、「原田とちがうか。小学校から、居(お)んで。二年のときいっしょやった。お母さんも、おとなしいで。成績、ええよ。80番ぐらいやから、寝屋川ゆける」と、転校生でない言葉でしたが、田伏君の返事が優しかったので、母に、賢いとだけ言うと、「あなたも、しっかり、しなさい」と言われました。

翌日の、土曜、原口さんの、お母さんが、あわてて、「ウチの子、競争の激しい、一中で、150番になったというので。すみません、ほんとうに」と謝罪されたそうです。
この日、母は、「桜餅がすきだったわね」と、はじめて、三時のおやつを、市場で買ってきてくれました。

わたしの男の友人同士は、学年トップクラスでないと、関心がありませんでした。
そのため、小西夫妻に、わたしたちは、寝屋川第一中学の教員に、採点や通知表で、悪い点をつけられ、差別ばかりされている、転校生たちの、新しい生活地域の、生徒ですと言いました。

相手は酒にずいぶん酔っていて、わたしのイエの玄関に寝ころびました。近所の体裁上、ずっと黙って、聞いていた、父が、「わかった。帰れ」といいました。
そして、「あの男は、そういった出身とちがう」「教えんかったか」と、イエでは、機械や設計のことだけの会話の、自分自身を反省するように言いました。
わたしにはわかりませんでしたが、父も、親戚同士の揉め事と思ったようです。

話が、ひどいので、寝屋川市第一中近くの、叔母にいうと、「わたしも、知らなかったのよ。いまの住所だと、寝屋川一中で、(大阪市の)東中学に、越境入学してなかったのよ。だから、姉さん、阿部先生に、話をと、注意したのに」と母に、意見を言っていました。
体育の阿部先生は、2年の担任で、阿部先生のイトコに、わたしの親戚は、家庭教師をしてもらっていました。

出世だけの望みの、担任は、文句を言いに来た、小西という夫妻は、「負けず嫌いで、とにかく、松田に、負けたくないんだ。」と、何度と来るので、わたしは、関係がないし、社会の授業の、人権の大切さはどうなっているのですかと、正井先生にきくと、
「そんなんは、寝屋川には、ないんや。ぼくも、ここに来て、知ったんや」と言いました。

わたしは、話ができないのなら、時間の無駄で、関係がないから、もう来ないでくださいといいました。
すると、「関係があるんや。小西が関係あるゆうとるんやから。松田君の希望は、医学部進学やったな、それや」と言うので、小西さんのお父さん、医師免許があるとかというと、「嘘や、レストランも、ガソリンスタンド経営も」と正井先生は、いいました。
そして、母がとった、寿司を食べ、「お母さん。校長になりたいんです」と頭を床につけ、「黙っていてください」「(来年、定年の)三木校長に褒められました」といいました。
どこまでも、正井先生は、小西さんの父の職業が、寝屋川市教育委員会勤務の、教員とはいいませんでした。

母が、「わたしも知らずに育ち、この子は、まだ、意味がわからず、調べています」と言うと、正井さんは、わらいました。それで、小西さんは、朝鮮人部落のひと? でも、日本語が自由な人だし、金持ちと言っていると言うと、正井先生は、「ちがう」「小西は、これで、一生苦しむ」と、わらいました。
わたしは、社会の授業は、明治維新で、平等の社会になったと習い、そんなことは、ないですと断言しました。正井さんは、また、わらい、「なにも、わかって、ない子で」と母が合わせるので、母に、もう口をきかないと言いました。

委員会へ、ずっと、ひとりで出てもらっていた、西村さんと、クラスで、二人っきりになったとき、西村さんに聞きました。小西さん友だちとちがうのときくと、「ちがう」「松田君、かわいそうね」「ラジオは」ときくので、テレビも、ラジオも聞いたことがないと言うと、「いま、岡林というひとの、手紙がかかってる」と言って、くれました。

ラジオは、就職組みの河田君が、就職の手助けをしたのに、秋、遊んでというので、わたしが、家に帰る時刻といったとき、家に来てというので、嫌々ついてゆくと、父親や兄が、ダイキンの工場で働く、河田君ところは、8人で一間でした。テレビやラジオなどない生活でした。それで、ラジオも聞かなくなりました。

わたしは、雰囲気から、進学が危なくなると思い、寝屋川市には、大阪府警の官舎があり、1965年ごろから、戦前に警官となった人たちのリストラ期にあたり、悩みや、転校は、聞いていました。
いきなり、東大組みというのか、旧帝大を出た、若い人が、署長になってくるので、嫌だということです。

同級の、父が府警の上部という、桑原さんは、日ごろ、わたしの2年次の、級友、野川君が、2学期に転校してきた、議員の娘が、前の学校で、妊娠したと風潮を立てていると、わたしに、うるさく、注意できたひとでした。
が、このときは、無反応でした。

それで、2年次同級の、坂上君も、府警の上部と知っていたので、相談しようとしたら、転校した、ということを知りました。
島君にいうと、「役所勤めの子は、わかっていても、言われへん」と、わたしへの、冤罪は、無関心のふうでした。

この正井さんという教員は、母の友人の知己でした。大阪府の市岡高校の夜間からがんばり、教員となった過程をしっていた、母は、それを信じました。

母には、加古川での村津先生のような人がいると信じたようです。

この後、12月終わりから、わたし一人、追試や、美術も一人、絵の提出をさせられました。

1968年三学期、最初、三木義造校長が、朝礼で、転校生で、差別発言をしたものがいたといいました。1968年入試から、内申書が絶対となり、わたしは、差別発言をした生徒と、伝聞され、内申書にかかれました。

この発言には、全容や、断片を知る、寝屋川第一中学へ進む生徒が多い、寝屋川市で歴史のある「南小学校」出身の一年、二年生たちが、わたしがいる、三年一組へ来ました。
わたしが、この中学で二年間、昼の休みや放課後、ドッジボールで、遊んでいた、下級生たちです。成績は、学年で、トップクラスの下級生だったと、高校三年ごろ、ききました。

かれらは、教室と、職員室に向かって「小西出て来い」「どんな顔や、みせろ」と、叫びはじめました。
小西さんは、この騒ぎを知り、わたしの前に来て、おびえた態度をしめしました。

仕方なく、わたしは、まず、下級生に、ここの、三木義造校長は、みんなが知っているとおり、ふつうではない、成績を下げられる、田伏君たちを、職員室へつれてゆくから、と、教室へもどるように、言いました。
差別発言をした、同級の田伏君と、和田君を、職員室へつれてゆきました。
地元の田伏君と、和田君は、「ぼくたちが、言いました」と、職員室中、ひびく声でいいました。
それで、正確には、田伏君は、顔がぶさいくだとか、和田君は、成績がよくない、貧乏人だとか、差別発言をしていたのは、小西さんだと、説明しました。

一年生の担任、英語の松尾澪女史、二年生の担任で、三年はわたしの副担任の阿部武俊先生が、となりで、相談をはじめました。
豊中市庄内小学校の岡重信先生も「ラガー」で、阿部先生もでした。

阿部先生は、大分国体出場のとき、わたしに、土産(みやげ)もの、何がいいというので、切符みたいな紙と、返事しました。大分県のシンボル、象嵌に金字で、「梅」を浮き上がらせた、国体記念バッジを、2年9組、全員にくばってくれました。
英語の松尾澪先生は、「どうしましょ、できますか」と、小声で、わたしには、理解しにくいことを言いはじめました。

わたしは、副担任の、20代の阿部先生に相談するというと、同級の中村君が、阿部武俊先生が、正義感をだすと、首にすると、三木校長が言っていると、いいました。

わたしは、順序として、小西さんから、貧乏人、馬鹿と、春から言われ、我慢していた、田伏君が、12月、はじめて言い返し、和田君は、その後で、「ちがう、ちがうねん」と言った、発言だけだといいました。和田君は、「松田君は、大手前の成績なのに」と言いました。
わたしは、高校のランクのことは、いいと、和田君にいいました。

9)

すると、正井先生は「もう、終わったんや。松田の、内申書、こんなんや。どこを受けてもあかん」と言いました。
田伏君は、「なぜ、成績の悪い、AZ君が、四条畷ですか。AZ君、学年で、ぼくと30番以上ちがいます。ぼくの成績、四条畷なのに、寝屋川ですか。先生、おかしいです。和田君も、いい学校へ行けるのに」と、正しいことを言っているのを聞きながら、わたしは、正井先生、ぼくの人権は、ないんですかと質問しました。
「人権、そんなもん、ははは、なに言うのか、わからん」と正井満先生は、言い、美術の京都画壇「一水会」創始者の鍵野さんや、国語の藤田女史さんも、わらっていました。

田伏君の成績で四条畷高校は十分でした。進学先があわないことが、この第一中学の、とくに成績の良いものが集まった、三年一組の不満でした。30歳なかばの、正井さんは、「ぼくが、学年主任やから、はは」と言っていました。

田伏君たちの言葉で、わたしは、一年次のは、豊中第六中の成績があるでしょというと、「そんなん、どこにある?関係がない」と言われ、公立高校他、受験が不可能と言われました。

田伏君、中村君たちは、不良から、よく、脅されて、勉強にも支障がありました。担任の正井さんたち、だれも、生徒を救わないのが、寝屋川第一中学でした。転校生たちは、不利なのを自覚していました。

1967年はじめからですが、不況のせいもあり、朝礼のあと、小柄な生徒を、校舎の陰につれこみ、ナイフやチェーンで、脅す行為が、ふつうになりました。
三菱鉛筆のユニが流行り、一本100円の盗品を、買えと、脅す、中学でした。中三の秋、わたしには、パイロットのキャップレスで、一番高価なペン先14金の、金色軸3000円を、寝屋川市駅まえ、文具と書籍の中村屋さんからの盗品を、買ってほしいと言いにきたので、兄に相談し、梅田の阪急百貨店へ行き、同じのを、すぐ、買いました。

大阪府と、寝屋川市の方針が、少年院でしたから、不良と呼ばれている生徒の行為の大半は、止めていました。
1967年12月は、2年次の級友のヨシカワ君が、日本刀の太刀を、校庭で、ふりまわす事件があり、ラグビー大阪府教員代表の、阿部先生は、体当たりで、追いかけ、その後、YOS君は、わたしには、誤解されたくないのか、次の日、後門で、わたしを待っていました。

この日本刀の太刀、大振り事件が問題です。わたしは、なぜ、YOS君が、真剣を抜いていたのか、いまだ知りません。
校長や担任は、「こわい、こわい。少年院や」と、こういった暴力事件からは、逃げました。
わたしの事件に関しては、公開すると言うと、母が、妹のため、我慢をしてと言いました。
母は公立を受験しなくて良いと言いました。
受験は、内申書が参考の、平均75点ほどで、合格する、付属天王寺高校とおもいました。が、入試制度のわからない父が、ただ、遠いということで叱りました。
それで、近くの寝屋川高校は平均60点ほどでした。正井さんたちによって、寝屋川高校の受験は、ちがう部屋でさせられました。不合格でした。

このあと、定年した三木校長が、次ぎの勤務先の大阪帝国女子高で、「体育の時間、女子高生のブルマーをみて、興奮して、死んだ」と、同級生だった中村君から、知らされたとき、あの老人校長の専門が、体育かと、不愉快になりました。
念願の校長になり、定年した、正井先生は、わたしが連絡すると、自分ところは、いま、枚方市で、「小西が、悪いんだから、説明するから、会おう」というので、断りました。
どこまでも、担任だった、自分が悪かったと、謝罪しない教員でした。

同じ、1996年、寝屋川第一中学へ連絡すると、「あんた。そんなん、ひどないわ。あんた生きてるもん。死んでからいい」と女史の教員がいうので、自殺されたひとがいるのですかときくと、「そうや。あたりまえや」と、いうので、転校生にしろ、地元のひとにしても、小学校や中学校の生活は、たった、一度で、大事なものですよと言うと、「なにゆうとんのん。そんなこと、だれでも、知ってることやん」と、このひとたちは、教員を、聖職と考えていないと思いました。

高校一年のとき、東大入試中止がありました。これも、意味がわかりませんでした。学生運動など、わたしは、まったく理解できませんでした。が、カトリックの学園を選んだのは、川西小学校で、「よしのぶちゃんは、いじめることはしません」と言ってくれた黒田さんの友だち、第二平津のナカタニさんがキリスト教信者だったからです。

神父が、わたしを指名し、わたしが、統括する役目になり、わたしは、受験勉強もなにもできなくなったので、親に、学園をやめるといいました。親は、ただでさえ、学年が後れているのにといいました。
学園側は、わたしが便利なときは、特別扱いでした。また、近くの大学や、教授から、成績で、医学部へとなりました。
が、拒否しました。わたしは、なにも、信じなくなっていました。

高校で、水泳をしました。水泳は、手のひらで、泳ぎます。夏まで少し、水泳部、それから、ボールを手のひらでうけとる、ラグビーとか思っていました。
1968年、高校大会がありました。大会の会場は、関西大学吹田キャンパスで、関大のプールにいました。
水泳大会出場は、わたしに原因のひとつがありますが、二種、エントリー、でも、公言どおり、出場しないと、言っていました。

啓光学園の、できたばかりで、旗もなにもない水泳部でした。
わたしたち男子、あいさつだけの、小さく、ほほえましい一団に、小西さんは、「大手前高校、水泳部」。エンジの旗がなにをしてもいいのか、小西さんは、男友だちと、さわいでやって、来ました。
水泳大会にアベック。ふさわしくない状態に、啓光学園の、水泳部員は、緊張しました。 わたしは、黙ったままです。啓光の部員たちに、すまないことをした、気持ちになりました。
わたしは、明るい関西大学へ、二度とゆけなくなり、他のクラブ活動もやめようと思いました。

この中で、ぼんやり、見学しているとちゅう、わたしが、ひとつの、人間関係の、現象に気づきました。
データのひとつですが、学生運動をしている長男の多くのヒフ隆紋(指紋のようなものです)が、わたしのような次男とちがうことからです。
それで、イエに帰り、「手のひら」のデータから行くと、わたしか妹が、第一子になるといいました。
この、科学現象の識別で、イエが大混乱しました。

父は、「よしのぶは、教えんでも(学問を)やってしまいよった」と親族を叱責していました。
学園紛争で苦しんでいる、わたしのことなど、わかりません。そのあとは、わたしが医学部へゆき、基礎医学をすることを、反対しました。科学が完璧なものとの誤解からです。


10)
1971年3月2日、国立一期の受験まえ、小西さんは、丘の頂上にある、枚方市の啓光学園のまえに、家庭教師と腕をくみ、寄り添ってやってきました。結婚禁止のカトリック神父の啓光学園です。
神聖なマリア像にわたしたちは誇りをもっていました。神父や、教員も、同級たちも、見たことのない光景に、たじろぎました。わたしは見世物ではないと思いました。

わたしの家系は、どこまでも、情けのイエで、被害者であることを、我慢してきたイエと知りました。
これにより、社会への接し方が変わります。父も母も絶対的な被害者の方です。
世間様は知っているという考え方の、父方は、ひいじいさんの時代の、心の余裕でしょうか、すべて我慢してきました。

医学での、学問分野は、本来、細菌、ウィルス学など、発生学をするつもりでした。
が、この冤罪という事件で、科学哲学と人類学(医)を選択し、新しい学問をつくりました。
大半は、20代はじめにつくり、学位や賞は拒否しました。

わたしの恩師というか、戦前、「15円」を支払い、京都帝大を卒業し、教授になった蜷川虎三さんと親しく、この蜷川さんの知事時代にほしいまま、文部省へ意見をした、京都府教育委員長だった山田忠男さんが、70歳になり、別の役職が欲しい、勲一等が欲しいと、20代のわたしに言いだしました。

あきれました。そして、山田忠男さんの嘘により、正義感だけは、強い、妻は、勤務先をやめるという事態になりました。どこまでも、犠牲でした。

山田忠男さんを、わたしは1982年に破門をしており、1983年ですが、「山田さんところへ、行ってあげたほうがいいよ」「平石善司さんは、どうして、梅花学園長になれたのかな。聞いてくれる。聞いてよ」とか、疑問や、挑発したのは、いまの、同志社文学部長、倫理学担当の工藤和男さんです。わたしがいたのは、こんな程度の社会です。

インターネット社会のおかげで、学び舎、川西小学校の円形校舎を、かんたんに見ることができるようになりました。
少しずつ、世の中が、変わってゆくのかも知れません。

「鳥インフルエンザ」問題がありますね。
鳥インフルエンザ、「狂牛病」、これらが、ウィルスへの防衛、哲学でいう「界面(抵抗)」理論の作成してゆくことが大事です。
これが、「界面」「境界」作業です。細菌やウィルスに対し、こうした理論を作成してゆけば、防げるものです。

医療での、順番でゆくと、クスリなどをつかい、患部、その部位から、病原菌をのぞくという作業、それより、抵抗力というか、ヒトの体に、「界面」「境界」を作るという作業です。
川西小学校での、朝鮮人の子供たちと、日本人の子供たちの間にいた、わたしのような存在が、「界面」「境界」を形成するということになります。ただ、科学哲学でいう「界面」に位置する、「客体」が弱くなるというマイナス事項がでます。

この学問体系がしっかりしていると、各ウィルスの病原にたいし、抵抗のある、境界をできあげる学問になるともいえます。
できあがらないときを予想して、できるかぎり、とちゅうの段階を、次ぎの世代にわかるまで、仕上げておくつもりです。

村津先生が、お元気だということで、手紙をかき、さしだすことになりました。

村津先生からの注意ですが、高砂は阪神タイガースのキャンプ地で、宝殿中学の野球部にアドバイスします。宝殿中学の生徒は、小学生のわたしに野球を教えてくれ、小学校で野球をしたとき、わたしが投手で、真ん中に投げるのですが、そのボールに当たってくる同級生がいて、先生が、「こわがっているから、ピッチャーやめなさい」と言われました。
兄は、ソロムコ、小山選手のサインをもらってきました。中学生たちは、スター選手に、より、あこがれ、尊敬していました。

また、給食代と子供貯金などを入れた袋で、「おつり」と呼ばれたとき、わたしが、いりませんと言ったとき、村津先生は、教壇まで、呼び、注意してくださいました。
先生と、生徒の、心の距離が近い時代でした。

ただ、10年前の、女性の校長が、大玉校長、村津校長先生が、わたしたちの模範ですといわれたとき、数少ない、先生に、習ったとおもい、ありがたく感じました。

松田好信から薫へ、法律変更したのは、多少の正義を知る、東大へ進んだ米田小学校からの幼馴染、京大へ進んだ同窓の女史が新聞社へ就職して、わたしのことを、気遣っていたのを、母から教えられたからです。

わたしを取材する、欧米のマスコミ人には、いつも、原爆の責任を問いました。そして、もし、記事掲載のばあい、姓名を逆にしないで欲しいと言ってきました。

このような主張をせず、川西小学校のままの名前だと、村津先生も、教え子の、説明に困らないと思う、このごろです。

星が美しくなる、秋が近いです。
                        
         2006年8月23日                    松田薫              
                                                    
                                                  謹言      

          

▲   夜をむかえる東山  (写真:松田薫)
▼   あじさいの木での夜、北斗七星の話をする猫
   (写真:松田薫) 
                                                                   

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-08-23