京都昨今
21、「B型 ツツイの逆襲」                     川那部浩哉 

1)

テレビなどで、血液型と性格をあつかった番組が多く困っているという、文化人がいる。

となりの国、韓国で、B型の男性が嫌われているという。

わたしの書籍が、原因の一端に、なっているなら、事実をいれ、反論をしてゆく。

恩師たちとは、たとえば、良いB型、ダメなB型と、二進法で分類して行った。

さまざまなことがあった、学生時代、わたしに、礼儀があり、それを、維持したのは、良いB型ばかりである。

テレビが血液型番組をつくるのは、テレビ局に、予算がないことによる。
10年前、ほどか、なぜ、こんな低俗な番組をするのかと、形式上、正社員に、予算を聞いた。

1980年代と比較すると、60分番組の制作費が、10分程度の、料理番組や、天気予報ぐらいの予算になっていたのは知っていたが、総額は、若手のばあい、正社員ですらわからないと告白する。
60分とか90分の血液型番組を、15分区分で、割り当て、わたしの母が、兄に、禁煙するなら、この額を上げると言った程度なのだ。
そのため、わたしは、民放の予算は、営業ががんばっても、関西大震災で、避難し、仮住まいの、わたしの実家から、二軒分の受信料をといった、NHKの20%もない、総額を教えた。

祖父の知己で、東京、牛込に生まれ、京都帝大出身の、B型という、作家の大岡昇平さんは、自分の父親の血液型はO型で、人生を賭け事ふうに生きることが好きだった、良い人物と書いた。

また、B型の川那部浩哉(かわなべ・ひろや。1932年生まれ。京大名誉教授、動物学)さんは、エッセイのなかで、「本業」と「趣味」のことを上手く、表現されている。
川那部さんが、書かれたものを要約する。

戦後まもない、研究生のころ、京大、理学部、数学専攻、O型とおもえる、教授になった先生はじめ、
O型は、専業農家ふう、                「本業の学問」=「趣味」。
A型は、兼業農家ふう、分離の、          「本業」≠「趣味」。
B型は、農林水産、混交、連続の、         「本業」+「趣味」。
で、川那部浩哉さんは、この混交の、訳が分からない、B型の典型と言われ、心外だったと言いながら、この「本業」に、もし「独創性」を考慮するとしたとするならば、納得がゆくところもあると言い、この、活気ある創作を、1977年秋、アフリカ、ザイールから、京都の出版社へ送られた(「生物と環境」 人文書院 1978)。

深泥池を、「みどろが池」とルビを打たれる、京都生まれで京都育ちの、正しい京都人、川那部浩哉さんは、夏も毛皮の座布団を離さず、タクシーにのり、五分もたたないのに、座席に、水があふれるけれど、これを信じないヒトがいるという。
また、夏の教授会など、何も言う気がないから、洗面所で、頭から水をかぶって出席するといい、動物学専攻なのに、虫は動物でない気がする。「魚は植物、鳥は虫?」と意見を述べられる(「偏見の生態学」 農山魚村文化協会 1987)。

2)

京大、理学部そばの、山田忠男先生のシスAB型(A型→AB型)の奥様から「ヤマダが、すごく、不機嫌な日だから」と言われ、わたしは、百万遍までゆき、時間があったので、川那部浩哉先生の研究室を訪問しようとした。
「血が変わる」という慣用語があるが、遺伝学では、環境などで、しぜんに、A型→AB型→A型。B型→AB型→B型のような方向性は、よく知られる。

70年代の、理学部の食堂のラーメンは、過去、どれほど行ったかわからない、日本橋「たいめい軒」の「東京ラーメン」の味だった。

食堂へ行くと、東の隅にいた、学生たちが、ラーメンやうどんを、鼻から口へ入れているのか、口から鼻へと出しているようにも見える、演芸か、早食い競争風みたいなのを、していた。
見物か、審判か、女子もいたので、この学生は、川那部さんの教え子だろうかと、感心して、ぼんやり見ていたら、時間が無くなってきたのに、気づき、山田さん宅へ行った。

京都帝大時代からの、伝説か、定説か、「本業(人類学)」と「趣味(音楽)」が、まったく違う、A型の、山田先生は、奈良県立医科大を教えに行かれたあと、必ず、不機嫌になる。ところが、きょうは、ちがう日だった。

「同女(どうじょ。同志社女子大)でね。講義中、編み物をしている奴がいたので、注意をしたら、そしらぬ顔をした」と怒られている。

わたしは、どうせ、聞いても忘れる、講義だし、教室は、暖房がきき、その女学生、賢いですねと言った。
すると、ロッキングチェアーを、一度ゆらし、「そう。賢い女学生だ」と、合わせ、わらわれる。

それで、わたしが、理学部の食堂光景をいうと、「川那部君に、何を?」と質問されたので、川那部さんが専門領域の、京都は美山の鮎と、滋賀県と福井県の境にある川の鮎と、奈良県吉野の鮎の、「香り」と「生息状態」の質問ですと言った。

兄が釣ってくる、鮎は、同じ河川でも、地域により、香りから、肉質、体型までちがうので、養殖もふくめ、河川の影響の質問があったのでと言った。

山田忠男先生は、「味覚・嗅覚人類学」を完成させようとした、わたしに、はじめ驚きながら、川那部さんは、京大生物学本流だから、会うことは許可されていたけれど、わたしとの議論の時間が経過すると、「まつだ君は、本流も、在野も、なんでも、いいんですね。君ほど、なんでも、かんでも、いいという人は、これまで、いません」と、これだと、川那部さん以上の、B型に近いAB型ではないかとおもった。

味の違いと言うと、味なんかどこも同じといいながら、奥様が、近所から、買ってこられた、ケーキにたいし、
「ドンクは、パン屋だ。まつだ君に、ドンクのケーキとは」と注意をされる。
わたしは、なんでも、いいですと言い、口にふくみ、このケーキは二番粉ですねというと、
「ほら、まつだ君は、一番粉か、二番粉の違いが、わかるんだ」と、また、注意となる。

思い返すと、70年代中ごろからの、山田忠男先生は、ご専門の、手のヒフ隆紋を、わたしに、見せ、「君が、手相の」といい、「何が、わかりますか」といい、わたしが、典型的なA型のヒフ隆紋で、上に姉さんが二人はいますし、なぜか、お母さんの影響が強いです。
と言っても、「ほぉー、そういったことが、わかるのですか」と、同志社の新しい図書館のまえで答えられる、余裕があって、たのしかった。

わたしは、理学部学生による、ラーメン、うどん、ごちゃまぜの、食堂光景に感心し、とうとう、川那部浩哉先生を訪問できなかった。

3)

このB型の川那部さんが、エッセイと論文では、精神状態が、まったく違う、その理由がわからないと、B型の、音を分析された、邦楽家、吉川英史先生と、同じようなことを書かれている。

これは、わたしも、同じで、要するに、学者という意識から、「論文」は、感情をまじえず、書けるけれど、エッセイとなると、感情が入るので、どうしても、緊張が先立ち迷う。

吉川英史先生は、わたしが、書き物を送ると、「わたしも、小説を書きたいです」と言う返事を下さる方だった。

同志社、文学部がある、寧静館の、教務室のまえに、文化学科の会報ふう号外で、12頁ほどか、うすいものが、1977年、春、山積みにされていた。

こんな光景は見たことがないので、なんだろうとおもい、冊子を手にすると、筒井康隆さんが、ゼミグループといっしょの写真がのっている。
血液型B型であることを、誇りに思っている、筒井康隆さんが、大学のときの、卒業論文が、「優・良・可」の、「可」だったと、先生を責めている。

筒井康隆さんの先生は、美学の、金田民夫先生で、「筒井君には、優を上げた」と言っているのだが、筒井さんは、いや、「可」だったと、筒井さんが書かれている。

名刺大の写真もあった。筒井さんの、同窓会が、1976年の秋ごろにあったと思える、内容だった。

筒井さんのエッセイをみて、「三尺去って(下がって)師の影を踏まず」という慣用や、「鶴の恩返し」の昔話が脳裏にうかび、「一尺、近づき、恩師を叱咤」という慣用や、「ツツイの逆襲」という今昔物語ができるとおもった。
筒井さんは、1934年生まれで、このとき、43歳ぐらいで、仕事に忙しい世代なのに、とおもったりした。

学界では、出世、たくみな教員は、自分に、反抗する学生で、とくに、良識ある教員からも、才覚を認められる、学生は、まず、落第点、×(バツ)をつける。

わたしは、1960年代後半、学生集会があった「出町柳」を、中心点として、その周辺の学者のなかで、一番、尊敬していたのは、フランス文学者であり、人権保護の立場を貫かれた、新村猛(「広辞苑」新村出さんの、子息)さん。
つぎとなると、多くなるが、法律学者、「滝川事件」の、末川博さんがくる。

新村さんは、「枚方の菊人形」でゆくと、まさに、貴族という、雰囲気の方で、末川博さんは、田舎の村長風の方だった。

金田さんは、百姓一揆での、その他大勢、鋤などを手にし、野良着(のらぎ)が、すごく似合う先生だった。

わたしは「優・良・可」の評価であれば、とにかく及第の「可」であればいい性格をしている。
わたしは、金田民夫さんが、代表作という、上製箱入りの「美と藝術への序章」を買ってよみ、これは、中身が入っていないのではと思った。

そして、教室で、素朴な表情をされた、金田民夫さんを、一目見、伊藤左千夫の「野菊の墓」から、教室の中央から、「民さんは、野道の、馬糞のようだった」と言って、教室中、わらわせた。
きょとんとされた、金田さんをみて、これは、満点かO点かわからなくなって、O点だったら、時間のムダとおもい、登録変更を申し出た。

筒井康隆さんは、昭和天皇の容態が、大事を、むかえられたとき、輸血のことから、自分の息子は、AB型だから、全部の血を、とっていってもよいと書かれていたのが、記憶にある。筒井康隆さんはB型で、血液型と性格の、ある部分を信じられている。AB型の息子さんは、天皇陛下と同じ血液型と言われ、「そんなら全部あげてもかまへん」と播州弁で言ったのだろう。

作家という、浮き沈みのある職業は、有名なときは、多くの人が近づき、無名になれば、多くが去ってゆくので、挨拶状など、そこの点を調べてゆけば、何らかの調査になる。

4)

わたしに、他人のための、頼みごとをし、わたしが、言われたとおり、行い、わたしだけの出費となった件で、二度と、わたしの目の前に、あらわれなかったのは、なぜか、AB型ばかりである。

京都でのことを書くと、今宮神社の門前に、あぶり餅屋さんがある。
「ゼミ、あぶり餅屋さんでしてくれへん? 一和(いちわ)の、おばあちゃん、寒うて、ひと、けえへん、言ってんねん。友だちとこ」と、烏丸通りの、西門で、24インチほどの、小さな自転車にのった、AB型のT君がいう。

大徳寺がある、北区紫竹(しちく)方面は、同志社、今出川からだと、市電もバスも、極端に、交通の便が悪い。往復、3時間以上かかり、午後からの3講時以降、すべて、つぶれてしまうので、今日ときいたら、
「いつでも、ええけど、早いほうが、、、。晴れてるし」と、うつむき、T君は言うので、外の店か?床机(しょうぎ)の?とたずねた。
「うん。床机とちゃうけど、外と、中もある」という。
わたしは、T君に、その自転車、君専用のとたずねると、「えっ。この、ママチャリ?」のことと、T君がいうので、ママチャリって、何と質問すると、「ぼくらとこ、こんなん、ママさんのチャリンコで、ママチャリ言うねん」と説明してくれた。

わたしは、科学哲学専攻の、AB型の吉田謙二先生を考えた。他の教員からの単位修得で、困っている学生のことは、吉田さんを、閉まりかけの、教務室へ、ひっぱりこんで、「良」ぐらいでいいから、頼んでと言っていた。

わたしは、一度、吉田さんの、講義にでたことがある。すると、
「君たち。ぼくの、講義に、まつだ君が出席してくれました」といわれ、授業がおわり、吉田先生、もう、講義に出れないじゃないですかというと、
「ぼくの、講義。ぼくが、何言ってるか、わからへんねんで。そやから、出る必要ないで」といわれた。

また、わたしを、ゼミに呼び出しながら、インスタントコーヒーをだし、
「まつだ君、コーヒー代だしや」と豊中高校出身の吉田さんは言う。
ネスカフェの、大瓶の、ゴールデンのに、「明徳館」生協の値札がついていた。
半月まえ、吉田ゼミへ、わたしが買って、持たせたものだ。

戦争中、幼稚園時代で、仲良くあそんだ経験がないのかとおもって、黙っていると、
「まつだ君、飲んだんやから、コーヒー代。お金、出し」と、テーラー吉田さんは言う。

わたしは、哲学のゼミに、市場のお菓子ぐらいといい、出町の、「ふたばの餅」も持たせた。
とうじ、1000円ほど出せば、20個は買えた。
そのため、つぎに、わたしが、買って持たせた、「ふたばの餅」にも、「まつだ君、このお餅代、お金出し」と梅田地下に父親が、洋服店をだしている吉田さんはいう。

たしか、わたしと、一回りちがいと記憶する、吉田さんは、戦後、小学校がなく、「道徳」もなんにもなく、遊び友だちは、箕面公園のサルだったと言っていた。

動物学者には、おどろくひともいるが、1963年ごろまで、箕面の小猿にしろ、高崎山のボス猿一行にしろ、つぎつぎ寄ってきて、管理人がおどろいたけれど、わたしには、良い思い出となった。
高崎山のサルは、わたしには、大人しい。
SONYの瞑想するサルとは、有楽町マリオンのところで、2度あった。想像していたより、小柄だったので、おどろいた。

調教人が、曲芸をさせたあと、見学料をというのだが、これを、支払う、観客が、あまりに少ない。わたしは、まわってくるたび、払う。
「瞑想」をはじめ、曲芸をする、他のサルと、才能の差があるサルは、箕面や、高崎山のサルとちがい、わたしと、目をあわせることをしなかった。
動物で、曲芸ができる、才能をもったものがいる。が、かれらに共通しているのは、自分は本来、曲芸をする動物ではないという自覚なのか、わたしと、目をあわせない。

5)

哲学の吉田さんは、時間があると、工学部のそばにあった、小さな池の魚に、麩か、パン粉をやり、文学部で、気に入った、美人の女学生に、美術館や、美術の個展の案内状をくばるという、優しい性格をもたれていた。

それで、寧静館の研究室へゆき、医学系の分析論文をかかれていた吉田先生に、今宮神社の、餅屋さんで、ゼミしません。炭焼きの、あぶり餅というと、
「その、あぶり餅、食べに行こ」といった。1975年12月はじめだった。
ママさん白の自転車のT君は、バス停を、案内してくれる。
暮れ、烏丸今出川で、立っているのは、寒い。

なのに、通りがかりの学生も増え、25人ぐらいになった。

わたしが、後の、哲学関係の講義で、学生が一人もいない、授業が出ますと言っても、
「かまへんやん。ぼく、言うし」という吉田謙二さんだった。

バスが来なく、あぶり餅屋さんへ行くと言うと、学生は、より、集まった。
吉田さんは、寒いのか、身をかがめ、両手を、ズボンのポケットに入れていた。

今宮神社のほうに近づくと、吉田さんが、店屋の、10メートルから手前で、
「ここ、両側に、店屋さんあるで、どっちなん?」と、後方のわたしに、言うので、
東高縄町(ひがし・たかなわちょう)の、バス停から、沈黙のまま、自転車にまたがり、足を擦って、案内してきた、先頭のT君に、店屋さんの名前、吉田先生、たずねているよと、後方から聞いた。

この近所の、T君は、下を向いたままなので、わたしは、今宮神社の周辺を、観光している学生集団の方向を、定めるため、記憶の断片にあった、「なんか、和(わ)って言う、お店」といった。
「わやさん。ちくわ屋さん?」と、記号論が専門の、吉田さんは、店の手前で、立ち止まり、看板を見はじめる。
紫竹(しちく)のT君は、聞こえたのか、下を向き、北側を、指さし、すばやく、自転車を繰って、白い、割烹着をきた、おばあちゃんにも、手で、合図を送った。
T君が、行ってしまったので、「先生、北の、お店屋さんみたい」といった。
吉田さんが、看板を見て、たしかめようとした思考は、T君による、かんたんな、手の、「信号(合図)」で解消した。
「ほな、皆、こっち」と、じつに、かんたんな、論理実証主義の吉田さんだった。

わたしは、おばちゃんに、わたしと吉田先生の一団は、一番後でいいですと、言った。

飴色の、ガラス窓からの、北側の、木々に、夕方の色があたってきた。
「T君、AB型か。まつだ君、ぼくもAB型やしな。きょうの時間、これも科学哲学やで」と、血液型と性格に、良識ある関心をよせる、吉田先生は言った。
座敷の奥にいた、わたしと吉田先生が、庭を、見つめているとき、あぶり餅が用意された。
わたしは、皿の上の、かわいい小さな餅を、串刺しした、あぶり餅を見て、これ、田舎の餅、一個分と言った。
すると、「うん、これで、いいんや。これも哲学や」と吉田さんが言った。
わたしは、これ、美学か、経済学ちがうんですかと言った。

6)

1977年だったか、「創造工学」の市川亀久弥さんが同志社の工学部長となった。
数論が不得手だった、物理学者の湯川秀樹さんの、解析頭脳をされた、市川亀久弥さんたちは、わたしを、1968年以前から、知っていた。
市川さんは、76年か、77年か、山田忠男先生の後継とし、工学部長となり、ハリス理化学館の、山田忠男先生が誇りに思い使っていた研究室へ、わたしを招き、「湯川さんに、全部、教えた」と言われた。
電気工学の教員から、習った、日本での、テレビを作ったとされる、高柳健次郎さんの仕事の大半をしたとは、おっしゃられなかった。

わたしと、市川亀久弥さんとの関係がダメになったのは、市川さんがこだわられた、ささいな学歴だった。
ヒフ隆紋とA型から、発言すると、絶交と注意をしたのに、市川さんへ、告げた経済学部男がいた。絶交をした。
1970年前後、京大、理学部から、同志社へ就職した教員の大半はA型だった。わたしが、識別してゆくと「ああっ、ダメなA型」と山田忠男先生は言った。このダメとは、勇気がない、保身という意味である。
これらの人材採用の過程は、同志社出身で、総長をされた、「湯浅八郎」先生を知ればわかる。

吉田謙二さんは1975年が助教授になった年と、後年知った。1977年から、一年の予定で、アメリカ留学をされた。
カリフォルニアで、すい臓をわずらわれ、帰国が遅くなったが、わたしとの約束は、78年初春には、帰国ということだった。
湯川さんが生存中に、わたしも生き、書き上げている論文を、活字、発表してゆければ、「すぐ、教授になっていただく。科学哲学の世界を変える。ソルボンヌ以上の哲学科をつくると」と、わたしは言った。
この言葉は、吉田謙二先生には、何度も言っていたので、記憶にあるとおもう。

わたしが、吉田さんと話しやすいのは、市川さんが学部長という肩書きがつくまえから、わたしと、なにか齟齬があっても、2、3秒も経たないまに、頭が切り替わり、「まつだ君。市川さん、ノーベル賞候補やったんや。ほんま、偉い。ぼく、直接、話したことないけど」といえる素直な表現にある。
これは、吉田さんが、「記号論」を研究され、習熟されていることから、記号による、科学哲学を進展しやすかった。

■否定 ー 排斥    ¬A 。 A≠B。 A what!?。 A!?。
◎連言 ー 集積    A andB。 A∧B。 A=B。 A→B。A←B。A⇒B。
○選言 ー 選択    A or B。 A∨B。 A・B・C、、、。
△条件 ー 願望    A⊃B。 A ifB。 A?B。 A〜B。
●同値 ー 調和     A and only B 。A・ID・B。 A≡B。 A⇔B

わたしは、吉田謙二さんとは、論理学の初歩の記号が使え、わたしが疲労しなかった。

「幼稚園児向け」の「血液型と性格の論理学」が、
A型    アホ     AHO
B型    ボケ     BOKE
O型    マヌケ    MANUKE
AB型   パー     PAR
であれば、相互が、傷つかない。また、アホとボケ、マヌケとパーなど、いっけん、トートロジーふう言語を考える練習をする。

これら言語表現だが、「バカ」はない。いつのまにか、関西圏にも、東京弁の「バカ」が進出してしまった。バカは、「×」に近く、人格の否定であり、所属集団からの排斥を意味してしまう。

アホ(AHO)、ボケ(BOKE)は、単に、音と、それぞれ、O遺伝子との関係で、それを当てた。
O型のマヌケは、象形文字ふうというか、「O」の真ん中が、開いて、抜けていることからの、マヌケ(MA・NUKE)であるが、作家大岡昇平さんが書く、「父は血液型もO型、一生山気が抜けなかった」好人物と、人生を賭け事のように生きてゆく、単純でもあり純粋でもあるとの視点は多かった。

AB型のパーは、1970年代。男子も肩までの、ロングヘアー(ロンゲ)の時代。今出川通り、「出町柳」を中心に、生息していた、とくに工学部生だが、実験の邪魔なのに、なぜ、ロンゲを結ぶか、くくらないのか、それを指摘したとき、AB型は、ほほ笑むだけの反応で、なんだか空気のような感じ、「AB型=パー説」は、1969年東大入試中止の余波があった、1971年春ごろ、とくに工学部生には受けた。
1951年生まれの、わたしの友人たちは、気難しい、文学部、法学部、理学部生は相手しなかった。
従来の、血液型と性格説が正しいのであれば、これら学部は、A型ばかりになる。

学歴時代ではなくなるといわれた、東大入試中止のあとだが、わたしをつれた、友人たちは、京大の工学部へゆき、大声で、「アッホー」と呼んだ。すると、10人のうち、7、8人は、振り返り、笑った。これは、その中に、同級や同窓がいるからできたことだが、まだ、心に、余裕のあった学生が多い、なつかしい時代だったと思う。
そして、この「幼稚園児向け」を、書いて気づく事があった。

川那部浩哉さんの、京大理学部の血液型と性格説は、川那部さんが、散逸する概念を、「抽出」したものでは、ないか、これは、九鬼周造をこえた方法論と思った。

これらに、慣れなく、苦手というひとのために、神仏の道理は、物事の損得(そんとく)で、考えればいいかもしれない。これは、父からもだが、母方の、祖父からの教えである。

物事の進展で、だれが、「得」をし、だれが、「損」をしたか。

コンピューターの世界は、二進法で動いてゆく。
二進法というと、難しくかんじる人もいる。
ようするに、「○と×」、「プラスとマイナス」のような、「1セット」と思えばいい。

この「損得」を、短期間でのもの。長い歳月でのものと考え、これらの「時間」を、ありふれた記号、「○と×」「+と−」などへ、置き換え作業をする。
また、これら、人間関係への「接点」と、「距離」も考え、「○と×」などに数値を加え、より、記号化してゆく。
このように、複数の考え方に、記号化してゆくと、「血液型と性格」の考え方すら、変化する。

兄の級友の父に、受験参考書でも有名な、「中村幸四郎」さんがいた。
中村幸四郎さんは、「数研出版」とかの受験参考書で、わたしたち、1951年世代でも、著名だった。
兄の担任の数学の先生は、母に兄の名前をいい、「一年のまつだ君は、弟さん!?」と驚いた。高校も同じだった。
わたしが数学を専攻すると思った、京大の左翼ドクターは、「いったい、いつになったら、ノートをつくるの」と言っていたが、30年後、近所とわかった、京大を退官された先生は、わたし同様、すっかり、老人となられ、大学病院で、長高齢の母に「わたし、数学の」と挨拶をしてくださるそうだ。

7)

マスコミや学者社会で、名刺をもらって、苗字が、多少かさなっても、顔かたちが、似ていても、年齢がちがうので、わたしは、ぼんやりとしている。
「親→子」ぐらい、気づくのがふつうと、友人、知人に言われるけれど、わたしは、そういった、性格をしていない。

わたしの両祖父は、A型で、両祖母は、B型である。
同じA型でも、父方の祖父は、そういったものにこだわらないというより、こだわっている、ヒマな時間がなかった。
長女の、母方のは、内務省土木局、局長という官僚だったためか、官民ともに、依頼が多かった。
A型の祖父は、「頼む」、A型を知っていた。

長女AB型
次女A型
三女AB型
四女B型

四番目のサキエ叔母さんは、アッサリというか、ザックバランというかんじだった。
母に、サキエおばさんは、B型だったのかと聞くと、「そう。B型。人のいい、サキエちゃんは、かわいそうな亡くなり方をして」と、20代で逝った、妹をおもう。
わたしのイエでは、いまだ、「鉄道院」という、旧名が生きていて、「鉄道院の偉い人に片付いたのだけど、あの亡くなり方はね」とも言う。
A型の祖父は、次女のA型に、「二宮尊徳」をもじってか、計算をして動く、「損得(そんとく)先生」というアダナをつけた。                                              

神楽坂に、吉川英史先生が館長をつとめられた、宮城道雄記念会館があり、血液型O型の宮城検校の「手のひら」が、1985年あった。
手のひらは、夏型の、音楽家ジョン・レノンと同じ、線形をしている。

宮城検校が、汽車から、落ちられたところは、わたしの学園と姉妹校で、大学受験に合格し、成績は、5番なのに、入学金、500万円で、寄付金もいることなどをしり、電車から河川へ、飛び降りるという、抗議をしたところのようだった。
この事件は、大きな新聞記事となり、医学部は、外部からの入学金を発表するようになった。

公立高校へゆき、いま、大学の教壇にたっているときく、先に入学していた、A型の友人は、同じ大学で、2番入学、同額の500万円だった。1番は、最高難度の国立大学に合格していた。それで、わたしに、
「なんでや。なんで、入学金知らんと、受けるんや。なに、考えているんや。ニュースで、大学、たいへんや。私立の進学高に行ったもん。貧乏人に生まれた、オレらの気持ち、わからへんわ」と、叫び、怒鳴った。

啓光学園第9期3年E組は、医師の子弟が多く、わたしたちは一年から、10番以内合格の入学金は、知っていた。
あのころの、私立公立、医学部系の額面を書いておく。
東大医学部が偏差値82で、公開模擬テストで、満点以上。京大医学部は、偏差値が80で、公開模擬で、満点をとれば入学できるという、非常に過熱した受験時代だった。
基礎医学を専攻すると、とにかく、研究で出費の連続となる。研究に失敗すれば、なにも残らない。
臨床でも、臨床の研究を兼ねると、長期の無給医はふつうだ。

京大と同じの、慶応医学部、正規入学900万円相場のころだった。教授夫人が、むかえに来てくれた、関西医科大は800万円だった。わたしは、自分が値札の付いた人間かと思ったが、偏差値が73と、東大理二と同じ、大阪医科大の300万円には、安いのかとおもった。
わたしの同窓の最高では1500万円というのがあった。が、これでも成績が良いほうで、入学すると、学費などが加算されてゆく。
山田忠男(理学、医学博士)さんが、遠くて、現役の基礎医学(解剖)の教授も知識がないと、講義を嫌がった、奈良県立医科大は入学金140万円にプラス・アルファと小額だった。

紀州出身の、B型の叔父は、大昔、仕事中、ぬけ、慶応大学の日吉校舎を案内してくれた。

B型の叔父が、
「のぶちゃん、ここが、慶応だよ」というので、こんな、灰色の校舎は嫌というと、
「これは、GHQ、進駐軍の(利用した)跡で、すぐ建て、変わるんだよ」というので、今年とか、来年は、無理でしょと、わたしは言った。
「そういうことじゃ、ないんだ、慶応は出るとちがうんだよ」とも言ってくれた。
が、わたしには、自分自身が、在学しようとする、目の前しか見えなかった。

東京、横浜は、「富士見」という地名がつくところが多い。
叔母は、料理が下手ということになっているが、上手なので、おいしいと言うと、
「パパのために、わたし、舞子(神戸市、垂水区)の料理学校に通ったのよ」というので、
舞子(まいこ)は、国鉄(いまJR)の駅と、浜辺しか記憶がないので、料理学校があったのときくと、
「あったのよ」とAB型の叔母は明るくいう。

富士山がみえる、高台に住む、叔母が、わたしに、「ここね。富士山がきれいに見えるのよ」と洗濯ものを干しながら言った。
わたしは、中学のときの修学旅行でも、行ったんだけど、これまで、一度も見たことが無いといった。
「ええっ、富士山を見たことがないの」と親戚一同が、おどろく。
一ヶ月以上、たっても見えなかった。
「ほんとうね。おかしいわね」と叔母が言った。

富士山は、じっさいに在るのだけれど、1970年前後、わたしに、じっさい見えた事が無かった。



           盂蘭盆会(うらぼんえ)  ちらちら 
           灯篭(とうろう)ながし  水あかり
           蒼い夏に  祈りあり
           いつか滅びる この海が 
           肌をじりじり 焦がすので
           今夜 きっと 
           寝つかれぬ でしょうね    
                                     「蒼い夏   岡本おさみ」



▲  東山  万灯会   (写真:松田薫)
▼  東山から  しずむ太陽  (写真:松田薫)

                                                

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「京都昨今」松田薫(2006-08-15)