京都昨今 |
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20 北白川小学校 ふるさとの校歌 富田砕花(とみたさいか) | |
1) 大阪府寝屋川市第一中学の、副徽章などは、1966年の暮れから67年のはじめ、わたしに、配色とデザインがまかされた。 わたしは、こういったことが嫌で、その作業をしはじめた、美術部の教室へゆかなかった。 一ヶ月ぐらいして、美術部の副担当の松田女史が、「まつだ君を、呼んでらっしゃい」と何度もいい、美術部員の男子が、わたしをつかまえにきた。 「徽章」は、七宝焼きにするというので、発色しやすく、予算に、負担のかからない、白と紺にし、トリミングした、わたしのが、決定となった。 もし、いまだ、「白」を上にした、希望への、矢印のような形が、寝屋川第一中学にのこっているとしたら、それは、寝屋川第一中学にのこしてきた、わたしの作品のひとつである。 1963年の暮れ、大阪音大のある、豊中市庄内小学校、5年生のとき、わたしがいる3組のT君に、副校歌の作曲が依頼された。T君は、作曲家になりたいとの希望を言った。 T君の作曲のラフをみて、サビの部分がないので、サビの4小節から8小節をどのように作るか、わたしと検討した。2ヶ月ぐらい、このようにすればいいねと、していた。 ゴミなどを、「♪ 勇気をもって 拾う手に ツバメもすいすい ごくろうさん」、これが決定の詩となり、曲作りの検討となった。 決定のメロディは、大阪音大出身の先生が、作品を短くし、音程を安定させたものとなった。わたしによるものは、譜面を、和声進行のまま、部分転調をかけた、5度移行したもので、消され、この作品には、複雑な感情が残る。 T君は、作曲家予定だったが、1965年、中学一年の春のとき、「お父さんが亡くなったので、母のふるさと、岡山へ帰る」「音楽家への道は断念する」と、わたしへ挨拶があった。 同じ時期、豊中市から、池田市へ転校した、勉強も運動もできた庄内小学校の、同窓からも、「父が死んだから」と挨拶にきた。 とうじ、豊中市の小学校は22校あり、美術など、文芸でもだが、「連合運動会(いま、連合体育大会)」での、新記録は、庄内小学校が大半で、豊中市一位は、全国一位のレベルだった。わたしは、体をこわすからと、親から禁止されたが、走り幅跳びに、エントリーさせられた。 全国放送陸上で、気になったのは、陸上に強い、兵庫県、米田町の、宝殿中学だった。が、豊中市立第六中が、短距離、エントリー3人制限で、1位が3人いて、独占した。 100メートル、11秒1で、手時計では、松川さんも全国1位で、第六中は、陸上部員が眼で計測できるので、同じく1位の和田さんとの競争では、体半分の差があり、何度しても3位だった。 しかし、棒高跳びも、全国1位、3メートル80センチの記録を持った。2位との差は、1メートルもあった。 親切だった、3年生の松川さんに、なぜ、1メートルの差がときくと、「オレ、ガラス屋の子やから、グラスファイバー、安く買えるねん。皆、竹や。まつだ君、するか。おやじに言っとくけど」と言った。 「竹の棒」とちがい、グラスファイバーの棒は、重かった。松川さんは、「慣れるよ」と言ってくれた。 竹の棒での、棒高跳びは、一度、体を、垂直に、あげたとき、二度目は、包帯でくるんだ、先端に、利き手を当て、そこから、バーをこすための、体を曲げる、運動をしなければ、いけなく、包帯をまいた「竹の棒」を握ったとき、日本は、貧しいとおもった。 一年生1位は山下君で、わたしは2位。リレーは、山下君へバトンする、3番ランナーで、宮田先生は、骨折が予想される、走り高跳びすら、禁止させた。 大正時代に生まれた、わたしたちの父の世代は、空襲の跡と、戦争で死んでいった、同窓のことが、いつも脳裏にあったのか、休むことなく働く事を、とうぜんとし、1965年、わたしの同級や同窓だけでも、4人、父親が亡くなった。 つぎの転校さきとなった、寝屋川第一中学の、アマチュア無線クラブは、地域コール「JA3YKA」だった。わたしは、兄がしていた「ハム」に興味をもち、入部したが、「こちら、JA3YKA、寝屋川第一中学、一年六組」は、マイクを前にすると、声がだせなかった。TO君が、「まつだ君、言えるよ」と、やさしく何回も何回も練習をさせてくれた。それでも、無理だったので退部した。 2) 大阪は、堂島周辺となると、1965年ごろも、空襲による、焼け野原跡が目立った。 駅から、2分歩くと、田圃だらけから、新興住宅地となった、大阪の寝屋川で、わたしを無線クラブに誘ってくれた、TO君の父が亡くなった。代表として、わたしが、お通夜へ、行ったとき、TO君は「ありがとう。まつだ君」と、寒い日、玄関まで、送り出し、お辞儀をしてくれた。 小学校の校歌は、転校がなければ、通常6年間も歌い、良い校歌であれば、心身にきざまれる。 連合軍B29による、京都攻撃は、市中の、ところどころでおわった。 北白川、瓜生(うりゅう)山、近くにGHQは、拠点をおいたが、そばの、京都市北白川小学校は、校歌の予算も、なにもなかった。 そのため、ユダヤ系の白系ロシア人、作曲家、エマニエル・メッテルの弟子、京都府教育委員長の山田忠男さんが、京都府知事の蜷川虎三さんの、俳句をもとに、校歌の作成となった。 山田さんの子供も通う、北白川小学校へ、日本のどこにでもある、竹を笛にして、子供に音楽を、元気を、あたえようとした。 わたしの手元にあるのは、原曲というか、緑の、ソノ・シートのもので、 「ふるさとの春 ふるさとの春 花さく道に 鳥うたう野に」が一番、 「ふるさとの冬 ふるさとの冬 もずが きこえる 炉ばたにつどい」が四番、 ではじまり、それら歌詞最後のほうに、「おとなもこどもも 肩くんで」が同じくある。 山田さんが、「何かおかしいところがありませんか?」というので、別にありませんが、と答えた。 山田さんのは、音の並びが気になったぐらいだった。楽譜を読んでいると、 「同じ山田でも、ぼくは、やまこう(山田耕作)では、ないですからね」と、山田忠男さんが言うので、わらった。 すると、山田忠男さんは、歌詞での、「大人と子供が、肩を組めるのか」とのクレームがあったという。 わたしは、詩とは、気持ちをあらわすものでしょうと言った。 現在、「北白川小学校」の作詞は、「細川隆司」、作曲が「山田忠男」となっている。 「朝だ みどりだ 東山 むねがなるなる 光をあびて」が一番のはじまりで、 「ゆめだ力だ 比叡山 風は吹くふく 希望をのせて」が二番、 「そうだ 白川 水の里 たまと みがかれ 心をあらい」が三番となっている。 北白川小学校へ連絡したら、「山田忠男」が、だれか、わからないという。 そのため、教員に、電話口で、てきとうに歌ってください、採譜しますからというと、恥ずかしがり、譜面をファックスで送信してくれた。 音符は、小学生が歌いやすいように、一列でなく、複数になっている、そのため、音の配列の意味を、説明をした。 先の校歌と、歌詞の配列も、似ていて、山田忠男(京都帝大、植物)先生の、工夫が、わかる。 全国の校歌では、山田耕作(1886−1965)によるものが多い。 イギリス人宣教師の、G.ガントレット( Gauntlett)を義兄にもつ、作曲家、山田耕作については、たくさんの人が書かれている。 わたしは、山田忠男先生に、わたしが、在籍した、学校と、わたしが知る、小学校歌では、兵庫県加古川市の川西小学校のが、すごい作品でしたと言った。 1961年、三年生のとき、朝礼で歌うのだけど、「光あふれる 印南」を、なんて歌っているのか分からないので、イトコにきいたら、わからないという。 このイトコは、後年、「山下汽船」につとめ、「ミス神戸」となったというので、「そんな、みっともない」と、わたしの家族そろって、爆笑していたら、叔母が「仕方ないやろぉ。頼まれてん。だれも出る娘が、おらへんねんもん」(播州弁)というので、より、わらった。 現在、ネットで、川西小学校の校歌を、MIDIで、聞くことができる。 「印南野(いんなみの)」となっている。 校歌は、音域のちがう、一年生から、六年生までの男女が歌う。 とにかく、歌詞がすぐれている。C「むらさきけぶる遠い山」からはじまり、G「光あふれる」C「印南野の」F「あかるい空を」C「ふるわせる」C「加古(かこ)の川水(かわみず)」「金色の」「光の」「中の」G「川西」C「校」と、段階して上がるメロディを、小学生が歌っているのをきくと、おどろく。 加古川の、うつくしい景色のおもいでは、四年生のとき、わたしの転校が決まったとき、父が日本毛織勤務という、山田君が、加古川へ連れて行ってくれるというので、親に許可をもらった。 わたしは、サラブレットの馬、5頭、6頭が、加古川の、反対側の土手を走るのを、見て、感動をした。また、イエとの関係か、養蜂屋のおじさんが、黙ったまま、わたしに、蜂が、蜜を採集し、蜂蜜となる過程を見せてくれた。 MIDIでは、まったく、わからないが、この歌詞での、区切りは、音の列が、いまの世代は、コードを知っており、ハ(C)長調でいえば、主和音の、メジャーCを軸で、メジャーFからC、そしてメジャーGへの和声進行をたもっている。 マイナー音階はない。つまり、力強く、明るい、メジャー和声だけの進行である。 わたしたちの時代、クラッシックは、旋律を中心に、音を編曲してゆく。すると、装飾音で、アクセントのDm系をつかうと、より高度な、部分転調の繰り返しのメジャー・ポリフォニック・アレンジができ、サビにつぐサビの、非常に明るい作品となる。 作詞がだれかわからないので、小学校にきくと、「富田、なんとか」と言う。 科学史家の湯浅光朝(東京帝大、物理)先生は、詩人、石川啄木、宮沢賢治が好きだった。が、「賢治(けんじ)」と同じく盛岡のひと、「富田砕花(とみた・さいか)」と知り、おどろいた。 作曲は、「橋本喬雄(はしもと・たかお)」という。 小学校の教員は、どちらも知らない。 橋本喬雄は、山田耕作に知己をえた、兵庫県柏原(かいばら)高校の教員である。 橋本喬雄は、自分が勤務する高校の校歌の作詞は、富田砕花で、作曲を、山田耕作に依頼している。 わたしが、校歌のなかで、気になっていた、ひとつに、兄が入学した、高砂市の宝殿中学校のものがある。歴史は、宝殿中学のほうが古い。 楽譜は、小学三年のわたしの方が読めるので、兄は、だまって、渡し、深刻な表情をしている。 わたしが、この作曲は、おもしろいと言った。なにしろ、はじまりの2小節で、みごとに、オクターブ移動を成功させている曲だった。 川西小学校と同じく、メジャーC音と、G和声が、上手すぎる。 どうやら、宝殿中学のを手本とし、川西小学校のができたようだ。 男子と女子の声では、オクターブちがうので、その歌声を聞きたかった。 それで、兄に、これはオペラみたいで、学校で、歌っていると、きれいではないのというと、「うん」とだけ、おとなしく言う。 わたしが、米田小学校一年生のときの遠足は、石の宝殿だった。 道に、20センチ、30センチぐらいの、かわいらしい、小さな地蔵が山沿いに、並び、「生石(おおしこ)神社」へとつづく。 この山のひとつは、いま、平成天皇が、ご成婚のとき、村として、山をくずし、磨いた石とし、村から、トラック10台をだし、東宮御所へ献上した。 生石神社は、氏子(うじこ)、8ヶ村からなる(1973年、米田町の「東平津」部落が脱退で、7ヶ村)。 父が記憶の、播磨、印南郡の豊穣の秋祭りは、屋台(やたい)の神輿がでる。 わたしの記憶では、どこも、子供のための祭りとも言える。 父方の「神吉八幡神社」の祭りは、11ヶ村の青年団が持ち回り、11年に一回の担当のとき、それぞれの村が、村ごとに、赤、青(碧)、橙、白、黒鬼など、めずらしい衣装を、工夫し、子供へ、良識への伝えか、やさしい鬼、こわい鬼など、仮装し、道徳をおしえる。 祖父は、守り神を、生石神社、神吉八幡神社、鹿嶋神社(父方の母方、いま高砂市。わたしには、いま、平成天皇の、東宮御所へ献上の石は、祖母方が入っていた記憶がある)としての、米田町の独立を、1960年近くまで、めざした。 米田町の、同じ村の「阿弥陀」(あみだ。祖父の、この地での商売は、祖母の出自による)には、社会党の田中さんがいて、祖父は、町立米田小学校へ通えなくなった村(町)の子供のため、寺子屋をつくり、学年は授業により、2、3区分とした。 勉強で、わからない箇所は、先生から、高学年に。高学年から低学年にとの順だった。 ここでは、ケンカなどみたことがなかった。 祖父は、京都への修学旅行に、神姫バスをつかい、小学生全員、ゆかせた。 わたしは、幼稚園児だったが、行くといい、母に、「小学生の旅行なの」と言われた。 小学三年生の兄が修学旅行から、戻ってきたとき、京都の光景、金閣寺などは、とうじ流行した、「幻燈写真(げんとう・しゃしん)」で、見た。 この、地蔵信仰がさかんな、石の宝殿での、「宝殿中学」の校歌の作詞は、著名な「竹中郁(たけなか・いく)」さんで、作曲は、さいきん、再評価されはじめた、山田耕作と竹中郁と、学び舎を関西学院とする「大澤寿人(おおざわ・ひさと)」である。 校歌の三番目の歌詞は、「照りみつ丘のその上」からはじまる。 神戸に生まれ、関西学院出身の竹中郁、大澤寿人たちは、B29による、空襲につぐ空襲で、戦争と関係のない、老人から子供まで死にゆかせ、塵芥の都市となった、神戸や姫路の、つぎの世代となる、学生へ、これまでになかった、かがやき、勇気をもたせる、宝殿中学の校歌をつくった。 いま宝殿中学には、ホームペイジがないが、校歌のいったんは、竹中郁、大澤寿人による、兵庫県淡路市の、津名(つな)高校のホームペイジから校歌が流れる。 川西小学校校歌 C F C CM7 G C G7 むらさき けぶる 遠い やま C G7 C CM7 F C G C よべば こたえて 近い 丘 G CM7 C CM7 G ひかり あふれる 印南野 の F CM7 C CM7 あかるい そらを ふるわせる C CM7 F G G7 加古の 川水 金いろ の C F C C G7 C 日差しの なかの かわにし こう コード進行 松田薫 ▲ 左はし、山田忠男先生。ピアノとハープ指導者、慧子(けいこ)奥様。右、北白川小へ通われた御子息 ▼ 北白川小学校の、最初の校歌。蜷川虎三知事の詩に、山田忠男、府教育委員長、作詞作曲 |
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「京都昨今」松田薫(2006-08-11) |