京都昨今
19、景気へのきっかけ、鴨川納涼祭        深尾須磨子

一)

闇にちかい夜、なにげない散歩のとちゅう、ひとつの会社が、閉じられているのに気づいた。そこに石碑があった。
「洛中の 五色の辻に 家居して み祖の業を いまにつたふる」 吉井勇
わたしは、猫が、獲物を、凝視するようにしてみつめた。

「五色」という言葉から、わたしの好きな五色豆など、一軒の、和菓子の会社が、閉じたのかと思った。
「家居(いえい)」は住まい、たたずまいのことで、「み祖(みそ)」とは、先達である父母はじめ古くから伝わる知恵である。そして、「業」の読みは「しごと」と思える。

五色は、中国を起源とする色で、「たなばたさま」の「♪ 五色の短冊わたしがかいた」の歌詞でわかるとおり、織物も意味する。

日本は、文化の、「み祖」として、一番大事な中国を、左に、二番目に大事な朝鮮を、右においた。雅楽では、左楽が中国、右楽が朝鮮になる。

この左右を、理解しにくいのは、判断や裁きが必要なとき、天皇を中心に、左大臣、右大臣が鎮座し、意見をいうもの、ときに裁かれるものが、証左する必要があるとき、意見や事実を申し出るものが、自分自身の、右から左へ、並べてゆく。
この行為が、天皇や、大臣からは、左の位置となる。

文学をはじめとする、書籍は、右から左に開くが、欧米の表現方法で、右から左に書く、表現方法は、「看板」はじめ、日本文化の伝統をまもってゆこうとする店以外からは、消えた。

社会が繁栄し、会社ができる。
この基本は、経営者、従業員のどちらも、理解が必要である。
1990年代からはじまった不況のとき、不況を覚悟した、京都の知己の、良き、経営者は、「いっしょに、景気を乗りきろうといったけれど従業員は去った」といい、別の会社では、良き、従業員が、「ついて行こうとしたのに、ご主人が」と、わたしに涙をみせた。

二)
「五色の辻」は、後日、「千吉」さんとしった。
和服の世界では、千治(ちじ)、千 総(ちそう)、千吉(ちきち)さんは、だれもがしる。

先に、西陣は、まわった。川端康成の「古都」を生みださせた、「とみや織物」はじめ、これまで知っていた、会社が、どのような状態かは、外観をみて、理解したつもりだった。

文化は、生産の余剰により成り立ち、才覚のすぐれた人の方法、ないし文芸人の発案ひとつで、より繁栄したりする。

ふつう歌人を、文豪とはいわないが、恩師は、吉井勇を文豪と、尊敬した。
「五色の辻」は、京都の町並みを表現した、すぐれた言葉使いである。
辻をまわったとき、角をまわったとき、その町の風香(かざ)を知り、その町の繁栄がわかるともいえる。

わたしの父は、昔、法をはみだし、許せないことをした、血縁に、「角をも踏むな」と言った。
角に「を」と「も」の、二重の格助詞がつくと、強く、父の生家の「角」を歩かないと、町へ、行くのに、不自由する。
その原因を、わたしも年齢の行った、2006年になっていうのだから、どうして良いのかわからなくなる。
実業家にたいして、抗議できるのは、同等以上の力をもった実業家である。

学問を虚業といい、俳句や短歌を、素人でもできる、「第二芸術」とフランス文学者の桑原武夫さんは言った。
これは、第一芸術は、専門家しか入れないが、俳句などは、素人と専門家の作品との区別がつかないということだった。

「桑原さんの意見を、どう思われますか?」と恩師が質問したとき、正しい部分はありますが、音楽の専門家は、いくつものアレンジができますし、まちがいは許されない。歌人は、一日に、いく首も読めますが、素人はできませんと返事したとき、
「そうだぁ、まつだ君。そのことに、だれも、気づかなかった」と、驚き、言った。
わたしが、桑原武夫さんを訪問しなかったのは、イエの、他人様のする商売の邪魔だけはしないようにとの教えで、文芸の世界は、自由であり、俳句にしろ、詩も、第一芸術という考え方が大きい。

現在、京都一の花街、祇園に、人の流れを見ることは少ない。
よい方法はないのだろうか。

わたしは、昔、「京舞」、四代目、井上八千代(1905年―2004年、没98歳)さんが、「眠狂四郎」の作家、柴田錬三郎(しばた・れんざぶろう)さんに、「先生、祇園は、大丈夫ですやろか」のような質問をし、柴田さんが、無言になった本を知りたく、兄が所有していたので連絡をした。

「いったい、何の本?」というので、上製の箱入りの、風景というか、観光案内というか、その種を20数冊もっていたね、というと、「いつのこと?」と、それで、35年ほどまえ茶色の本箱に並んでいたと言った。

学問をしていると、100年、200年がひとつで、わたし自身もその中にあり、35年は一単位なのだが、兄には、一年、一年、それが30数年つもっていた。
大阪経済の本拠地は、昔は、「堂島」(いまは西梅田とも)で、若いときの兄は、月給をもらうと、一週間以内で、飲み屋で使い切り、あとは母に、なんとか、かんとか言っていた性格だ。その会社員を、我慢に、我慢して、してきたという、感情が、脳裏に、たまってきたのか「あほ。あんな、昔の、本、とっくに、捨てた」という。

三)

祇園の舞妓、芸子さんは年々少なくなり、ふつうは、ならわしを知る、市中出身だが、1970年代に、丹波地方からの採用となり、京都も嘆いた。わたしも、このときは、報道しなければいいのにとおもった。

このようなことを、歴史家の奈良本辰也さんは、1913年生まれという大正時代の初期の生まれだが、祇園のあかりが、ひとつひとつ、消えゆくことになると、明治時代の先生方のようになる。
日本酒つうでもあった、奈良本辰也さんが、自分の先生たち、社会学者の黒正巌や、哲学者の九鬼周造たちが、祇園であそんだことを、祇園は、教員も学生もゆくので、何もかも、明白なことで、
「素晴らしいことなのだ。いや、祇園らしいことなのだ。その頃の祇園の遊びは、いまの遊びとはずっと異なっていたように思う。第一、社用族というのがいなかった。だから、もっと大どかな遊びだったようである。すべてを公用領収書で、遊興飲食税までこと細かに書きこんだやつを請求し、月末に会社にとりに来いという」
『京を綴って』(駸々堂 1970)
と、「大どか」に遊ぶ、ならわしを知らない、不躾への連中への、叱りと怒りがあふれる文章は、いま、見られない。

受験参考書をはじめとするが、新しい事に、挑んできた、いまはない、「駸々堂」書店による、奈良本さんの文章は、60年代の学生と、学者が持っていた、叫び、反対する、特権を知っていたものには、なつかしく、あの学究の奈良本先生がとおもう。
そして、この「京の舞妓」の章の字面を追うと、立命館はじめ、悪しき会社員だらけのようになった大学と、なじめなくなり、去られた理由もわかる。

四世、井上八千代さんは、一昨年、「都をどり」を、伝統ある、祇園の花ある春を、待ち、焦がれながらか、3月19日にゆかれた。
祇園甲部は、井上八千代さんを、うやまい、しのび、甲部のあかりを消した。甲部には、同窓の、お茶屋さんもあり、わたしは、町をながめる、気持ちもなくなった。井上八千代さんの、京舞の指導の中心は、茶道、華道も同じだが、武道でいう、臍下丹田(せいか・たんでん)へ心身を集中させることにある。

このことは、今年亡くなられた、哲学者、邦楽家の吉川英史先生も、同様で、研究に集中すると、無呼吸状態になりますね、とのことを言われていた。
わたしは、邦楽の作品一曲を、吉川先生に、ささげようと思ったが、宮城検校が考案された、「琴」だと、演奏が可能だが、ふつうの琴だと、三度高く、低音をそのままで、音を下げると、最初から、作りなおしが必要とおもい、数年がすぎてしまった。

三世、井上八千代さんの墓石は、三条京阪近くの、「超勝寺」にあるが、江戸時代に生まれ、戦前、100歳で亡くなられた、三世の、身長は165センチと、男子以上の体格だったという。その体格で、舞台を、足で踏みしきるのかと、踊りでの風切る、みやびな音は、一度聞くことができればとかんじた。

去年、五世、井上八千代さんとすれちがったが、まだ、悲しみなかにいるのかと思う表情をされていた。

歌手の、郷ひろみさんがデビューしてきたとき、テレビ局で、会った父は、「あの子は、ひっくり返さんと、男の子か女の子か、わからん」と、曲名のようなことを言っていた。
そして、郷ひろみさんとのことで、話題になった「桂つ乃」さんと、心理学者、多湖 輝(たご・ あきら)さんの弟子になる、妻の東京の上司が、いっしょの写真を、見せてくれ、「いま、京都はすごいですよ」と言うので、よくも教育の編集者がというと、「いいんです。横が、桂つ乃さんの、お母さんですから」といっていた。
だれが、用意したのか、この話題を、成し挙げた人は、祇園に貢献したと、わたしは思った。

また、京都の隆盛には、「京セラ」の稲盛和夫さんが、祇園の、芸妓はじめ、それぞれに、花をもたせ、また、重要な人と人が、緊張した場では、自ら、女装し、学生運動の時代、洛南高校生徒会長OBの山科区市議、富きくおさんにも命じ、ロートレックのMoulin Rougeの世界を演じ、わらわせ、蜷川虎三知事に、「女のももひきを作って」といわれた、「ワコール」の塚本幸一さんは、会社の玄関に、頭がある、虎の毛皮をひき、社員に頭を踏んづけて入ってこいとの、粋な、はからいが、わたしたちまで、聞こえた時代でもあった。

京都では、「一乗寺」で知られる、武芸家、宮本武蔵は、「景気を見る」ことの真理を、相手の全体を、我が身の心身全体で知るということと言った。

日本を代表する、経済学者、高田保馬(たかた・やすま)は、経済原理を、数値に置き換え、わかりやすく説明し、経済の根幹は、相手の身構えにたいし、こちらも、心身の準備をすることといった。

2006年、夏、京都の、大手メーカーは、景気を模索している。
京都は、東京オリンピック以降の1965年からの不況、1967年の造船不況につづき、68年か、西陣ショックをむかえ、河原町丸太町から、クルマが激減した。
そして、四世、井上八千代さんたちが、どうなるのかと、思っていた、祇園は、1970年の大阪万国博覧会により復活をした。京都は、この読みを、できなかった。
現在は、1972年のオイルショック後の、1974年と、よく似た、かんじをもつ。
リストラのあとの、売り手市場はいいけれど、優秀な社員の確保に、企業があくせくしている。

四)
政治の根幹は、祭りごとで、人をあつめ、その心いきを、良き生産に、集中させることにあり、わたしたち、市民は、祭りごとをしてもらう、政治家へ、せめて、心だけでも向けていかなければならないと思う、このごろ、今年(8月6日、日曜日)の鴨川納涼祭で、わたしに、
「福岡の天然カブトムシどうですか」という人がいた。

福岡県は、多少知識があるので、福岡のどこ?ときくと、県庁が近いところを言うので、あんな都会に、カブトムシはいないし、京都弁を指摘すると、「わたし、左京区の市議です。民主党」と言い、事務所が、亡き恩師宅に近い。

大昔、哲学者フッサール研究の川島秀一さんが、1977年、ドイツから帰国してきた。
聴講すると、テレビのイレブンPMでのヌードにふれ、「ぼくは、あれぐらいでは興奮しません」と言い、わたしをあきれさせ、受講を一度でやめた、48歳の川島秀一さんが、実家へ電話をかけてきたので、わたしのイエは電話がないし、仕事中と言った。
「大事な話が、まつだ君にある。どこまでも、むかえにゆく」というので、用件は電話でというと、「会うまで言えない」という。

それで、なんの用事かと思ったら、将来、京都府知事になる予定の、「駱駝館」に、京大の票を300票というので、3000票のまちがいではというと、市議は300位で、決まるという。また、著名人が応援しても、票はあつまらないという。
この「駱駝館」とは、大昔、共産党の社会学者、日高六郎さんや、フォークシンガーに応援してもらった、「いつのまにか民主党」の左京区市議、鈴木正穂さんのことだ。

それで、わたしは、羽田孜(はた・つとむ、80代総理)さんの、お母堂さんの、信州での級友とは文通していたこと。おなじ町内の後援会長宅は、妻も訪問したことを言うと、
「あんな、あんな、偉い人、ここは、前原誠司です」というので、イエのとなりは、「元、松下電器」で民主党のと言おうとして、やめることにしたら、京都府知事が、あらわれ、「そうそう、羽田さんと言ってはダメですよ。ここは、前原さんですよ」とおっしゃる。

山田啓二知事は、学歴、経歴は、高いというか、硬いというか、しかし、とても、人なつっこく、あったかく、ぐうぜん会った、左京区の、民主党、おんづか功市議に、わたしが撮った写真で、「いい顔。つぎも、当選だね」と言われ、おんづか市議は、党派がちがうのに、救世主に会ったかの表情をされた。

知事の奥様は、柿木坂幼稚園時代、同級と、いさかいをし、御付が止めると、「ぼくが、悪いんだから、いいんだ」とおっしゃった秋篠宮さま、その妃殿下、紀子様ふうねと、妻が言う。 



          山と川に育てられた  この都
          長い歴史の  そのときどき
          壊されたり  焼かれたり
          荒らされたり  とり残されたり
          そのたびごとに
          都はますます新しく
          造りかえられ  みがきぬかれ
          いまは  このとおり
          温故知新の  自由の都だ    
                                  「京都   深尾須磨子」





▲  中京区、左、武蔵ねこ、右、小次郎ねこ (写真:松田薫) 
▼  左、京都府知事山田啓二さん、右、左京区市議おんづか功さん  (写真:松田薫)

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松田薫「京都昨今」2006-08-8