京都昨今
18、「剣道、柔道」 精進への道を解体させたGHQ   大岡昇平 

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昔、平安神宮の西北に「大日本武徳会」による「武道専門学校」があった。

異文化にあるものは、旅行者が、他所(よそ)の人が、わからないものなのに、欧米との戦いで、負けると、勝者であるGHQ連合軍は、日本にあった文化が、悪いことのように、処分という、事務手続きをとった。

このGHQ連合軍の考え方は、明治維新後の、白人種による、旅行記などが基になった。
日本のいたるところにある、竹による、尺八をはじめ、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)など、竹による雅楽の楽器、それらをも、不気味な音として嫌い、大きな音が出る洋楽の普及が、平和と考えさせた。

柔道は、素手による技の運動である。また、剣道にしろ、弓道にしろ、日本にありふれた材料、竹で、つくることができる。弦は、麻(あさ)でつくる。
ありふれた草花と木々による手間による工夫の文化だ。

「大日本武徳会」は、柔道、剣道などから、古式泳法もふくむが、戦後すぐ、勝利国のGHQに解体された。
占領国のGHQの考え方でゆくと、レスリングやフェンシング、水泳や陸上、力とスピードの競争が、良いのだろう。

柔道、剣道、弓道。わたしには、さきに、柔道着など、装束による、形と姿勢がでてくる。
このなかで、経験が、まったくない、弓道に、わたしは、生活の在り方のひとつをかんじる。
一本の竹、それを使い、練習から試技、そのふるまいの所作はきよらかである。

弓は、戦いもあっただろうが、自然民族にとって、鳥や魚などの、食糧をえるための、大事な道具だった。

太平洋戦争の勝利国アメリカを先頭にするGHQは、小さな国の日本人が、工夫に工夫をこらし、質素をもとにした、伝統というより、芸術に近く、真摯であろうとする、心を中心とし、形を象徴したもの、それら「形象(けいしょう)」を、奪ったというより、侮蔑に破壊したという表現があっても良いとおもったりする。

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戦勝国は、この、昔、「武専(ぶせん)」があったところに、関西での、洋楽の本拠地、京都市立音大を、おいた。

学生運動が激しくなる、1968年おわりまで、わたしたちは、あまり、何も考えることなく、「ここは、平安神社がそばで、演奏会場となる京都会館がすぐそこの、音大」とだけ思っていた。
地方からの、音大生、バイオリン、フルートなど、持ちはこびが簡単な楽器の学生は、大学から、河原町通りまで、音楽家であることに、誇りというか、きどって歩いていた。

東山通りの周辺に下宿する学生も多かった。学生による、地名のこまかな区分なのか、京都予備校のあった二条通りは、「予備校のとこ」、東山通りは、節句の人形屋が多かったことから、三条通りまでを「人形通り」とよび、魚屋、野菜、お茶、豆腐屋が、いくつも、あった、仁王門通りのことを、「市場通り」と呼んでいた。
白川沿いに、車力(しゃりき)と、リアカーをくっつけたものを引き、花と野菜を売る、大原女(おおはらめ)がくる、古川町は、交差して商店街となり、夕方ごろは、主婦が多く、わたしたちが入れない雰囲気の市場だったので、たんに、「市場」と言っていた。

ふつうの、音楽好きは、河原町三条、東を少し下がった所にあった小さな店舗の十字屋でレコードを求めた。三条通りを西への、京都十字屋本店には、音大生たちが利用し、楽譜売り場で会うと、明るく言葉をかわすか、目での会釈をしあえた。

これは、音楽をするものたちの、世界であって、音楽の基本は、声の文化であるし、日本の武術といわれる柔道の基本は、武具なしの素手によるもので、竹を合わせつくる剣道は、礼儀にはじまり礼儀におわる。

剣道は、すぐれた才能をもった人どうしが、相対すると、小手(こて)にしろ、面にしろ、瞬間で決まるため、素人には、わかりづらいし、少し経験のある人は、茶道や華道と同じく、「型」からはいり、できるようになると、つぎは、どうしても決まった「形」へ、近づき、ゆく、精進がまっている。
この型や形を覚えるまでには、修練という時間がかかり、じっさいの理解までには、同じことの繰り返しの世界である。

この型と形を基にした、時間と空間ができたとき、誇りにちかい、心地よさが生まれるのであって、この精進による「礼儀」と「形象」がわからない人には、伝達が不可能なものである。

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「武専(ぶせん)」の学生は、同じく、聖護院近くにあった、旧制三高(いま、京大、教養課程)の学生を、相手にし、それが明るみになると、退学処分という学校だったという。
この武専出身の、柔道家や剣道家が、町や村の学校などにいれば、いま、道徳教育の気持ちでもって、礼儀を、次の世代へ、教育してくれたのではないか。

なにかと、いまだ、解決していない、第二次世界大戦の、日本の軍隊だが、わたしは、昔、大正、昭和時代の、日本軍隊が、20人、30人単位で、紅白のように別れ、貧しい道具で、真剣に野戦練習をしたという報告書を、国会図書館や、東京目黒区にある、防衛庁、防衛研究所で閲覧した。
報告書は、筆での、手書きが多く、和綴じの、ただ一冊のもので、「野戦」のときの食事形態などもかかれていた。

軍医たちの、報告の中心は、やはり伝染病で、つぎに食中毒。それらの予防対策だった。
食中毒のばあい、植物毒から、海が汚染されていないころからでも、アサリによる中毒、カキ(牡蠣)中毒などがあげられ、気象条件、海水温など、原因を研究しているが、わからないとの報告がつづいた。

先に欧米での、発行部数がちがう、印刷物の資料を調査した後だったので、日本は、こんなに貧しいものだったのか。身長は10センチから、体重は15キロからちがう人種を敵国とし、日本の婦女子をふくめ、軍需工場からの製品だけでなく、町や村、個人のイエにあったもの、すべてを犠牲にして、戦ったのかと、その記録をみるたび思った。

大国の、アメリカをリーダーとする、住む国を選べる環境にそだった、西欧の「列強」の人々は、戦争は、勝ったり、負けたりして、進んでゆくものなのに、日本人は、死を覚悟して、おかしいと言った。

東京帝大、京都帝大などと陸軍がした行為を責める。たしかに悪い行為である。
ABO式血液型をはじめとし、遺伝子分布で、わたしに、必要だったのは、「京城帝国大学」のものだった。この文献を、1977年、京都府教育委員長だった山田忠男先生たちに、「旧・ソビエト連邦のレニングラード図書館への連絡を」と頼んだ。
が、無理ですし、「朝鮮動乱」で破壊され、持っていないとの答えだった。

京城帝国大学はじめ、台北帝国大学、満州医科大への日本人医学者は、縁故や態度が横柄で、地位を占めた、日本をきらって赴任した教員が多く、大陸や半島での、教え子を大事にした。
これらは、中国や朝鮮半島の、医学徒の研究発表論文の手助けをみると、わかる。
せめて、この事実の断片でも伝わらないのか、わたしには、不思議でしかたがない。

盗作で、問題となり、謝罪された作家、津本陽(つもと・あきら)さんに、『真紅のセラティア』(1981 中央公論社)がある。
この作品の主人公は、抗ガン剤をつくる。が、武士道を好む、津本さんは、なぜか、とうじの筆力から、すぐ書き上げられる、作品を途中で、ほうった形で、終章とされた。
この、自然界にありふれた、セラティア菌は、抗ガン剤と成りえる。

日本の医学界は、なぜ、人類に役立つ、業績を認めないのかと発言したら、かれは、京都帝大時代、大学と、陸軍の指示どおりしたということだった。津本陽さんは、その医学者の人柄や、こういった言葉を不愉快に思ったのかもしれない。
事実の断片を知りたければ、舞台は、九州帝大だが、遠藤周作さんの『海と毒薬』をよみ、想像してゆけばいい。
20代のわたしは、役立つものは、別ではないのかと、湯川秀樹さん没後、わたしの後見人となった、元京大総長の平沢興先生に言おうとしたが、わたしの学問の事を優先されるに決まっているから、東大側の、科学史学会長の湯浅光朝先生に言った。

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そして、じっさいに、原爆を、広島につぎ、キリスト教徒の多い長崎へ落とし10万人単位を殺戮した実験行為はなんなのか。つづき、数十万人以上の、日本人の、とくに、知能が高い下士官を中心に、人体実験した、シベリア抑留を、列強は、どのように、弁明するのか。

わたしの小学生からの同窓には、原爆二世があまりに多い。思春期に、原爆の斑点であるケロイドが、ヒフの柔らかい部位から発症した人たちに、アメリカは、どのように、弁明するのか。
音楽をする親友の父も、「長崎の鐘」などの著作で知られる、永井隆博士も、長崎医科大出身で、子女は、枚方市の人である。

なにかと、京都帝大、医学部、病理の清野謙次(きよの・けんじ)と、門下の陸軍医の石井四郎を標的とし、ここから進まない。
だから、同じことを繰り返す。京大病院の医師は、患者を、マウス実験のつづきと考え、実践する、不祥事は、いまも、連続し、マスコミが動かないかぎり、謝罪などしない。

わたしは、わたしが尊敬する、金関丈夫(かなせき・たけお)先生を、日本から、追い出し、人類学の発展を遅れさせた責任を、清野謙次だけでなく、清野を甘やかせた、文献や資料を渡した、解剖の、足立文太郎(あだち・ぶんたろう)博士にもあると、1970年代から発言した。いわゆる、京都学派は、だまって、聞いてくれた。

ドイツの医学界で、高く評価された足立文太郎博士の、義理の息子は歴史小説家である。
わたしが尊敬する、作家、大岡昇平さんに、歴史をただしく表現しなければいけないと指摘され、改めた、ノーベル賞候補とさわがれた井上靖(いのうえ・やすし)さんである。
お二人とも、受賞されてもいい作品をもたれている。
大岡さんは、いらないと言う方だろうが。

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この井上靖さんが、小説家への、きっかけは、野間宏さんという。
野間宏さんの文壇デビューは、大岡昇平さんたちの力による。
野間宏さんは、わたしの知己の一流大学を出て、大手に勤務する、野間さん自身が小説のテーマとした地域出身者の、「名前を言え、そんなことは無い、会社に確かめる」という、悲しい性格をもたれた人だった。
執着される性格は、作家安岡章太郎さんとの、「差別・その根源を問う」(朝日選書 上下 1984)をよめばわかる。
野間宏さんは、京都出身で、作家を育て、この時代、大手出版社の重役になった方を、指摘したかったのだろう。

ドイツは、19世紀後半から、生命を守る、学問である、西洋医学において、イギリス、フランス、イタリアなどが追いつけない、業績を積み上げてきた。
学問の力の差は、驚くしかない。21世紀を迎えた、ドイツの新聞の論調は、他の国々とちがい、不況の打開は、「発明が必要」とあった。
この、ドイツは、第一次において、第二次世界大戦も、敗戦をむかえた。
連合軍の敵は、唯一、日本となった。

哲学と文芸は乏しいが、フロンティア精神はあふれる、若い国アメリカは、日本の、「零戦」や、「人間魚雷回天」など、即死の攻撃の方法が、理解できないと言った。

脚本家がいるのだろうが、欧米列強から、太平洋戦争における、日本人の野蛮行為が指摘される。しかし、武器がなく、体格のまったくちがう日本人が、素手にちかい行為の、どこに野蛮性があるのかとの意見をもった。

ブッシュJr.大統領は、イラク攻撃のとき、米軍兵に、
「太平洋戦争により、わが国は、無知で野蛮な日本という国を破り、教育により、日本を、いまのような発達した現代国家にしあげた。この、大いなる事実が、対イラク戦争であり、聖戦であるから、諸君の、活躍をいのる」と声明をあげた。

20世紀終わりごろから、雑誌だけでなく、NYタイムズ、ワシントンポスト紙においても、J.D.サリンジャーの文体を、真似した、
「困ってんだよ。朝、起きたら、大雪で、クルマが出せないだ。イラクは、降参しないだろ。べつに、黒人やヒスパニックの部隊を先頭にさせているんじゃないけどさぁ。不況だし、つぎは、まえから考えていた、ほら、地図でみると、中国にくっついた国だよ。この、ちっぽけな日本を、踏み台にしてさぁ、わがアメリカの領土、朝鮮半島が問題だよ」と言った、甘えというか、ふざけた、三流の文章が流行り、この低レベル文体は、気になっていた。

イギリスは、もう少し、成熟した視点からだろうと思っていたら、「バクダードを攻撃したんだけれど、古代からの秘宝もなにも見つからなかったよ。せっかく、大英博物館にスペースつくっていたんだけど」という、「タイムズ」などの記事を読んだときには、これらの、国々の伝統の形式とは、「略奪」をいうのだろうかと考えた。

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わたしは、遺伝学では、優れた辞書、オックスフォード、OED20数巻での、初期出典の、誤記はわかる。
アメリカにしろ、イギリスにしろ、多人種国家となり、いろいろ言語表現がふえ、発音の難しい子音が多くなり、学習が難しくなりすぎ、もはや、意思の伝達が困難となったのかと思った。

わたしの父のすぐ下の叔父は、16歳で、海軍へ、人間魚雷回天の搭乗員として志願した。日本軍隊の歴史を追うと、陸軍とちがい、海軍は、絶えず、船の沈没という危機があるため、また、船という限られた空間を同じくし、伝染病への注意は高く、結束が大事で、上官たちが、柔軟な思考をもったひとたちで、構成されていたことが多い。
叔父は、ふつうの成人より、大きく、音楽がすきだったため、片手で、「日章旗(にっしょうき)」をもち、ラッパを吹き、行進する、役目だったという。

日章旗は重く、腰に、支えの、頑丈なベルトをつけるが、ひびく音をだしつづけたのか、肺をやられ、臍から、腸をだしたという。
父は、海軍、呉(くれ)の、弟を見舞い、姫路からの、播但(ばんたん)線で、三朝(みささ)温泉へ、療養に連れていったと2006年になっていう。
これを聞いたとき、「日章旗」を持った、17歳の少年の義務感は、それほどにも大きいものかと思った。

1961年、小学三年生の春。わたしは、加古川市駅の南、東側の楽器屋で、母に、高音がきれいな、ミヤタの赤のハーモニカと、大人用の楽譜集二冊を買ってもらい、居間で吹いていた。
おくどさんには、母が居た。

無口な叔父が、黙って、土間で、立ったまま、わたしを眺めている。つぎつぎ演奏してゆく中に、軍歌があった。はじめての光景だった。
そして、父が帰ってくる時刻になった。

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玄関から、父の、むかしの、仕事場あたりで、すみきった音色の、ハーモニカが聞こえたのだろう。叔父どうよう、無口な父からは笑顔が見える。
イトコは同学年だったが、真剣に見つめていた叔父は、わたしに、「よしのぶちゃん。その、楽譜、読めるの」ときいた。
わたしの読譜力を知る父は、「ワシらは。それは、無理や」と、ほがらかな声で言った。

姫路の第10連隊だった父も、わたしが、つぎ吹く演奏曲に、軍歌があったためか、直立への、姿勢となった。
そして、「戦時中の楽譜は、イロハと、1、2、3表記で、ドレミ表記ではなかった」といい、先に、わたしのハーモニカを鳴らし、手ぬぐいで拭き、叔父に、軍人のような声で、名をいい、「吹いてみ」と、ハーモニカをわたした。

恥じらい、背筋をのばし、直立姿勢で、ハーモニカを手にした、叔父の、かなでは、アコーディオンかとおもう音だった。わたしは、圧倒された。
となりに住んでいても、叔父は、わたしが四年生のとき、ひとこと声かけ、わたしは、笑み、それが、最後となった。
血縁では、父のイトコが、播州の同じ村で生まれ、40年以上まえから、近くの寝屋川市に住んだ、マレー半島、バターンの、死の行軍から生還してきた人がいた。

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わたしが、枚方市の啓光学園へ入学したとき、中学第6期で、D組みの、西占君が、A組みにいた、わたしに挨拶をしにきてくれた。2年、3年は33人の同級で、隣の席にいた。
彼の父は、ハンセン病治療に生涯をかけられた、京都大学、皮膚科特任教授、西占貢(にしうら・みつぐ)先生である。戦中は、東南アジアで、現地の言語をまなび、治療にあたり、在任中、給与すら不要、研究だけといい、年一回の講義で、許諾された方だった。
「お父ちゃん、変わってんねん。語学ばっかり勉強して。ぼくとこ、お母ちゃんが、働いてるねん」と西占君は言った。1970年の学園祭では、緑のアーガイル模様で、そろいのワンピースをきた姉妹を紹介してくれた。たたずまいから、礼儀まで美しかった。
わたしは、「聖家族」と批評し、役割の、中学と高校の模擬店の見回りへいった。

日本は、東京帝大、京都帝大出身のすぐれた才能をもつ、人たちも、一兵卒として、戦地へ送り出した。
北方、満州などへの、軍事訓練を拒否した30歳近い、帝大の研究生たちは、強制による学徒出陣で、寒さと飢えと伝染病に、倒れ、逝った。
ゲリラで負傷し、赤痢にかかった山田忠男先生は、ぐうぜん、チフスで死んだ、旧制中学、高校から、京都帝大まで、同窓だった、陸軍病院の個室に寝かされ、夜をむかえるごと、死は自覚されたという。

国家はつづくものであり、戦後、荒れはてた国の再建を考えると、高度な知識をもつ人を、一兵卒で、最前線へ送ることは、欧米人はじめ、どの国も理解できなかった。

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1988年の秋がおわろうとするころ、世田谷の町で、わたしは、第二次世界大戦で、激しい戦いの地、フィリピン、レイテ沖へゆき、一兵卒での体験を、えがいた作家とあった。京都帝大出身で、わたしが幼児のころ歩いた場所に、疎開されていた。祖父が親しく、軍人で下士官だと、予備役となろうとする、35歳に召集された方だ。
文章力は、同じく、戦争をえがいた、流行作家ヘミングウェイより、格段まさっている。

杖をつかれた大岡昇平さんは、お嬢さまといっしょだった。病床ときいていたが、元気になられたのかとおもった。

大岡さんは、新しくできた、雑誌だけをおく、書店へはいってゆかれる。
とおりすぎるとき、大岡さんの方を見ると、大岡さんは、わたしと、視線をあわせることなく、ゆっくり、雑誌の欄へ顔をもどされた。
大岡さん、どうよう、背丈のある、お嬢さまは、だまって、つきそわれていた。

わたしと妻が、スーパーで、買い物をおえ、でてきたとき、大岡さんがいらした。
大岡さんは、うごかれ、大岡さんの著書を、たいせつに、手製のダンボールの本箱に入れて、かざる、吉田書店のまえをとおり、家路へゆこうとする。
ふり返られた、大岡さんは、立ちどまり、夜がくる武蔵野の空を、顔をあげ、みつめられた。
大岡さんがみつめる、冬をまえにした武蔵野の空は、曇り、夕焼けの赤みも、にごっていた。それでも、みつめられていた。




     雨のため頭上に飛ぶ米機が減つたかはりに、敗兵の列は自動小銃を持つゲリラに
     よつて、側面から脅かされた。
     道はレイテ島を縦走する脊梁山脈の西の山際に沿って居ゐた(略)。
     比島の女ではあり得なかった。私は彼女を殺しただけで、喰べはしなかった。(略)。
     「なんだ、お前まだゐたのかい。可哀さうに。俺が死んだら、ここを喰べてもいいよ」
     彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。

 
                                        「野火(のび)  大岡昇平」



▲  八幡市 発明王エジソンの碑、湯川理論による原爆は、電灯の下で日本も開発に向けた。  (写真:松田薫)
▼  左京区 平安神宮、北西、大日本武徳会  (写真:松田薫)


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「京都昨今」松田薫(2006-08-6)