京都昨今
17、盆、在りし命が、「復活する日」  小松左京

1)
哲学の方で、インド哲学は、受講しなくて良いと言われたが、わたしは、種智院大学の工藤成樹先生の「仏教学」を1976年、受講した。
工藤さんは、年中、紺の上下で、白のワイシャツに、紺のネクタイで、「講義書」を片手で持たれ、いつでも法要に行ける形をとられていた。
季節をかんじさせず、権力や権威とかは無関係ですといった、在り方にも、学生の信頼が高かった。
わたしは、以前から、会うと、遠い位置からでも、お辞儀をしていた。

工藤さんが、黒板にかかれる、サンスクリット(梵語)を、ノートにうつす事をしていて、3回目は、前列の右端で、出席して10分ほどか、わたしは、『これは、生涯かかっても、無理』と判断し、ペンを止め、サンスクリット語を読まれる、工藤成樹さんを見た。
工藤成樹さんも、わたしを見た。
いったん俯かれた工藤成樹さんは、顔をあげられ、
「ええっ、この、サンスクリット語は、意味がわからないところに、意味がありまして」と、照れながら、おっしゃり、教室中、わらいにわらった。
わらいながら、わたしは、迷惑をかけたと思い、出席を、最後にした。

日本人の由来の追究には、言語の学習は必須で、サンスクリット語の習得もと思ったが、わたしの能力では、不可能と判断した。
とうじ、日本人の起源は、北や、南の大陸から、半島から、ポリネシアの方からなどさまざまな、意見がとびかっていた。
1960年代の、人類学の歴史から、わたしがいそいでしないといけないと思った調査対象は、九州の長崎の島々、鹿児島の甑島(こしき・じま)と、台湾の南部の、言葉の採集と、遺伝子頻度率だった。

こういったことを、実証してゆくのに、言語だけでなく、過去の文化財からも、考え方をおぎなうことができる。
このことから、林屋辰三郎先生への弟子入りの話もあった。
林屋さんが京都国立博物館の館長をされているころだった。

2)
同志社で知己となった、マエダさんという、2006年まで、わたしに、父の学歴と経歴をごまかしていた人物がいた。
父親は九州帝大卒、じつは、夜間がある私立の中学卒。この程度はいいけれど、日本乾溜工業の御曹子ということが、ひっかかった。
わたしの父が奉公した会社と関係があるとおもい、父の会社に迷惑が、また、会社の規模は小さいけれど、マエダさんの会社の社員にもとおもい、わたしは、譲歩していた。

2005年12月に、京大アメフト、強姦事件があった。これは、もうすぐ、東大路通りから、消える、川端署へ、被害者の女学生が、05年暮れから06年1月と、勇気のある、届け出をしたことで、明らかになった。
このような事件は、自分は偉いと考える男子学生たちによって、昔からあった出来事だ。
今年、わたしと妻が、京大会館のそばを歩いているとき、3人から5人の取材人の固まりが、いくつもあり、なんの事件かと思った。

この事件も、きっかけのひとつで、 2006年春、父に、旧財閥の日本乾溜(2004年倒産)という会社でのマエダという名前を知っているかと質問したら、
「そんな会社は、知らん。なんで、そんな、情けない男と付きあったんや」と嘆かれた。
そして、わたしは、他人へ巧みに因縁をつけてゆく、言葉遣いが上手な性格から、初対面のとき、役人の子と、過ごしている時間はないと言った。

マエダさんたちは、冬はスチーム暖房で、タイルや窓ガラスが落ちてきそうな、広小路にあった立命館へゆこうとする。
それで、君たちは、立命に学費を払ったことがあるのか、級友がいるので、失礼な態度は止めてくれというのに、地下にあった、学生食堂にはいり、大きな態度だったので、さらに、注意をした。
「ちがうよ。父は日本乾溜の重役だよ」と言った。
マエダさんの父は、わたしが30年以上まえに指摘したとおり、鹿児島県庁の子弟だった。

京大アメフト事件と、同様のことは、昔、わたしにもふりかかった。
鹿児島の、市立、武(たけ)中、甲南高校1973年卒という、このマエダさんは、1978年、結婚相手を紹介して欲しいといい、わたしと妻が時間をかけ紹介した。マエダさんは、地方からでてきた、勉学をしながら、働こうとする、21歳の女性を、紹介した日に、大学の「大成寮(たいせい)」で襲うという事件をおこした。
この興奮しやすい、人物の行動により、わたしは、後始末に、大変だった。

大事なのは被害者の女性の心身を救うことである。
マエダさんは、一晩をすごし、「昨日は、ぼくの、リビドーにより、きみの暖かい内部へ、自己をつらぬき発射してしまったが、発射は意思でなかった。ぼくが実存する男を持つかぎり、これを抑えることができないのだ」「ぼくたちは、サルトルとボーヴォワールの関係でゆこう」と言ったそうだ。

それで、女性は、わたしに、「サルトルとか、ボーヴォワールを知りません」と号泣した。
わたしは、知らないで良いことですと返事をした。

わたしの文学部の恩師は、76年度で、退任し、文学部へは、ほとんど行っていなかった。
それで、文学部の教員に知れると、めんどうなので、湯川秀樹さんの、弟子の工学部長室がある、ハリス館の裏へ呼び、マエダさんに抗議した。
「ぼくのリビドーが、エレクトさせたのだ。その実存がなぜ悪いのか、論理実証せよ。酒を飲んでの、合意なのだ。なぜ、大げさにいうのだ」と、バカげたことを言う。相手の人権を考えよというと、
「ぼくは、ぼくの人権で、行動したのだが、わるいのか。喜ぶべきことではないのか」とマエダさんは言った。

3)
工学部の評議員からの、大学サイドは、即時退学で、事件の多い、この大成寮を、壊すとのことだった。

ゲンゴロウ虫に、コールタールをかけ、メガネをした風貌のマエダさんは、1975年、図書館で、個室に近い、ブロック状になっているフロアーで、女学生を、下半身で、ふさいだ事件を思い出した。

あのとき、わたしは、評議員の教員に、研究生は、別の入り口をつかえ、複雑になっている、図書館の構造を変えるように注意した。
また、1976年は、わたしの妹たちの手をさわり離さず、顔に押し付け、
「ぼくの好きなタイプの女が前に、実存し、その手を、無意識にとって、顔を近づけたのだ。ぼくは、顔ごと、中へつっこみたい」といって、これも、大変な出来事だった。

この権力、権威主義のマエダさんたちは、わたしが紹介する、大学の教員のまえでは、小さくなる。
が、女性を襲った加害者の行為で、
「しゃべるよー。大声で言ったものが勝ちなのだ」と、わたしを強要する、態度を連続した。

この年齢は3歳下になる人物が、わたしの遺伝子の印刷物で興奮して、1980年夏、 妻の祖父が亡くなった日に、いつもの荒っぽい、命令口調で、
「マツダ、マツダ、明日ゆく、ぼくは、財閥の御曹子で、偉いのだ」
「東大は、昔にやめにした。IQは160なのだ。鹿児島の図書館で勉強をしていた」の文言をいう。

このため、妻の祖父の、葬儀も欠席した。
わたしは、このマエダさんたちで、社会学者の日高六郎さんとの出会いものばしたし、林屋辰三郎さんへ会いにゆくのも、一年以上、のばしてしまった。
このマエダさんは、寮で襲った女性に「会って、あやまりたい」「電話したい」と、50歳をすぎだし言うので、先に、1975年、図書館での、被害者、わたしの妻や、妹たちに、謝罪してくれるかと言った。

4)
林屋さんは、学者というより、1970年ごろの、政治家といった風貌をもたれた方で、わたしは、苦手だった。

わたしは、林屋さんが京都国立博物館で、公開講義のある日、行って、静かなというか、モゴモゴというか、漢字の多い言葉づかいをきき、林屋さんの人脈と門下一同の顔が浮かんできた。

現在は、文化財がいっぱいだが、1980年ごろの京都国立博物館は、中国大陸からなどの、埋蔵資料が少なく、研究所としては、どうかと思った。が、どうせ、すぐ、辞めるから、いいと考えた。
一般への公開講義なのに、林屋さんの、濃く偉い表情をみて、中世か近世の、文化史を専攻しなければ行けなくなるのではないかと思い、めんどうになって、止めと決め、林屋さんの部下になる研究員に、今日、来た事も無いことにしてくださいと、言って、帰った。

妻が、仕事で、会った、林屋さんの門下の森谷剋久(もりや・かつひさ。武庫川女子大)さんが、京都市役所で、歴史を研究されているころだったとおもう。
森谷さんは、しずかなかたで、書籍と資料の中に居て、動かれない状態だったということを聞き、わたしの理想はそういった状態の方で、そういった方だと、なんにも話さなくてもいいけれど、と思った。

わたしは、先に、山田忠男さんから、仏像学の佐和隆研(さわ・りゅうけん。京都市立芸術大学長)先生を紹介されていた。そのころ、佐和さんとは、近所だった。
近さは、心を変化させてしまう。わたしは、極度に、緊張をしてしまった。

「仏像学」は、大学で3講座以上、60講義から、受けたけれど、佐和さんは、仏像学の大家も大家だから、予習をしておかないといけないと思い、紹介され、三ヶ月ぐらいして、「佐和さんが、待っています」と言われても、もう少し勉強をと言って、佐和さんの著書や論文を再読し、京都の寺院の仏像を、じっさいに拝見しに行ったりし、半年が経ち、思いっきって、連絡を入れたら、なんだか、不機嫌だったので、実家の住所で、詫び状をだした。

山田忠男さんは、「しまった。梅原猛(うめばら・たけし。思想家)君と、まったく違う性格なのに、このあいだは、梅原君と同じように、言ってしまった」「まつだ君は、詫び状まで、だしたのですか。これは、大変だ」とか、おっしゃっていた。

5)
林屋さんの「京都」(岩波新書 1962)のなかに、「六道さん」の項がある。ふつうのひとは、「盂蘭盆(うらぼん)」のとき、清水道から下りてゆくけれど、林屋さんは、「松原坂をゆっくり上がってゆく」のが好きとある。

林屋さんの言葉どおり、松原坂あたりから、ゆっくと、細い道や「路地」を有効につかい生きる東山のひとたち。

家それぞれにある、香(こう)の匂いに、音や色合い。指物(さしもの)をはじめ、手間のかかる仕事を、だまってしてゆく職人町への、知識があれば、手のあいた人たちと、いつでも会話がはじめられそうな町である。
盆地である京都の夏は、暑い。坂をのぼり、汗をかきながら、開け放たれた、夏の、玄関や軒(のき)で、自由であろうと、休息するひとたち。これは見飽きないものであった。

わたしは、高校生のおりから、この京都の、町の年配の人たちに、ふかぶかとお辞儀をされ、よく話しかけられた。
こういった経験は、1960年代後半の京都のあちらこちらで経験した。

わたしは、わたしと目があった、職人さんの、それぞれの仕事自体に尊敬の念をもち、ひとつ、ふたつ質問をする。
残念なことは、わたしには、かれらの、「生活からの言葉」を理解する知識が大きくかけていた。
すまなく思って、礼をすると、反対に、謙遜のお辞儀をかえしてくれるから、お辞儀の繰り返しという、じつに、日本人ふうな光景だと自覚しながら、していた。

東山での道は、陶器を買うのが趣味だったため、五条の陶器市からも、よく行った。わたしの器の持ち方をみると「お祖父さんに、似て、、、」というのが、祖母の口癖だった。

法律では、ひとりひとりが商人で、この考え方は正しい。
わたしは1951年生まれで、だれが見ても、20歳ごろなのに、1970年ごろ、陶器を、ぼんやりと、みていると、鋭い眼光をもった何人かに商人から、「あなたの付ける価格で、売らせてもらいます」という時代だった。

他のひとを案内するばあい、林屋さんと、ちがい、どうにか「六波羅」のほうへ、たどり着ければいいと、思いながら歩くので、いつまでたっても、東山の地理が不案内なところがある。

1970年ごろ、祇園のほうからは、150センチほどの、古くなり穴が開いた「建仁寺」の「土塀」に、とても風情をかんじ、この方向はよく歩いた。

高校生のおり、中京区や下京区での、大店(おおだな)の商売人の、同級生からは、「四条通りは、まっすぐ歩くこと」と教えられ、それを守っていた。
21世紀という年代にはいり、商人になっていると思った、ふたりの店を、訪ねようとしたら、ふたつともなかった。
京都一という米屋と酒屋で、他にも経営をしていると聞いていたが、時代とは、こんなものだろうか。

6)
京都で、忘れ去られている光景のひとつに、1960年代の学生は、京大の法学部などを受験し、不合格だと、学費が、ふつうの、私学の半分の、河原町広小路にあった、立命館へ行き、矜持(きょうじ)をただし、寡黙なまま、勉強をするというのが、ひとつの形と誇りとしてあった。
苦学をし、向上をめざす学生から、高額な学費などは、取れない。

この姿勢は、末川博(すえかわ・ひろし)さんからきていたのかもしれない。
国家が、自由な考え方の広がりが、基盤となる学問まで、干渉をした、1933年の「滝川事件」がある。
滝川事件を、かんたんに表現すると、とうじ、日本は不況状態だった。その状況下、京都帝大の滝川幸辰教授の、いまで言う、法律家どうしでの、イデオロギーの表現論が、政治家、内務省、文部省、司法省までがからむ、大問題となった。

京大法学部への圧力があらわになったとき、滝川幸辰は、ひるんだ。
それにたいし、末川博さんが、滝川さんに意見をいい、ひっぱりだしたと、わたしは、どこからみても、日本の、あらゆる山村にいる、おじいさんが、ぴったりの末川博さんと、生真面目な学者風の末川さんの門下に習った。

末川さんは、司法試験など、一所懸命やれば、かんたんなことですという先生だった。それにたいし、わたしの友人は、一所懸命になれる方法をおしえてほしいと言っていた。

このとうじの、国家をはじめ、文部省や司法省の考え方が、固いのかというと、超高齢者たちは、1970年代から2006年にいたる現在より、柔軟だったという。

わたしの祖父の長兄は、とうじ、司法省、裁判官で、一族で一番軽蔑されている存在だった。それは女の子たちから、「お父さんは身勝手」「おじさんは偉そうで大嫌い」という、きわめて、いまに通じる、どこの家族でも在ることが原因だった。

7)
林屋さんより、若い世代で、立命館大学で教鞭をとっていた作家に高橋和巳がいる。
高橋さんが生前のとき、大学時代、同窓で、勤務でも同僚から、高橋さんの、ゆるせない傲慢さと、高橋和巳の奥様にあたる「高橋たか子」さんの許容を説明してくれたことがあった。

高橋和己は、京都の有名なフランス料理屋へゆき、「ぼくは天才だから、高級な料理を食べる。君は、ふつうのでいい」と言ったという。
文学の賞をとり、著名になってから、友人に対しても、人が変わったときいた。
そうなのかと思いながら、この発言を聞いてから、わたしは、この教員の講義を受けなかった。

漢字だらけの文章をかく、高橋和己と対象なひとに、SF作家の小松左京さんがいる。
小松さんは、いまCD−ROM(とうじの名称は、CDI製作技術研究会)と言っているが、この普及の、会長を、1980年代、無給でされた方だ。

手塚治虫(てづか・おさむ)門下の漫画家であり、1980年代、新大久保駅近くで「クイリー」の経営者となり、大型のスクーターを愛用された、御厨さと美(みくりや・さとみ)さんの依頼で、小松左京さんは承諾された。

きわめて、良い意味での、自由主義で、権力や権威を嫌い、抗議までする、小松左京さんと、高橋和己さんが、親しいかったとは、信じにくいけれど、事実らしい。

わたしは、小松左京さんが、なんだか偉い、著名な桑原武夫さんへ、会いに行かなかったと書かれていた文章を読んでいたため、その影響で、わたしの来訪を待っていらしたという、フランス文学者の桑原武夫さんを、友人に、家の前まで、案内されながら、とうとう訪問しなかった。

小松さんは、わたしと同年齢の、落語家、桂べかこ(いま桂南光)と、まえが造幣局で、天満橋あたりの、草が生いしげる淀川で、落語家のからかいに対し、真剣に議論する。
「べかこ」が、「先生、わたし、落語家でっせ」と言っても、小松さんは、まじめで、これにも参った。

それで、小松さんの印象を、20年まえ、仕事で会っていた妻にきく。
妻は、小松さんのことになると、明るくリラックスする。

小松さんは、ジョークにつぐジョークで、社会学者の加藤秀俊さんの秘書をされていた人をはじめ、秘書たちから、
「先生は、頭がボケている。わたしたちの方が賢い」とパチンパチン、頭を叩かれていたと聞いたときは、「頭を」と驚いた。
そして、「小松先生は、あのころ、70代だったわ。御厨さんは50歳」という。

わたしは、小松左京さんは、1970年代から、学者たちから紹介されていた。
が、小松さんは、落語家や秘書にもからかわれるのを許す、自由な方だ。
新人の作家にたいし、契約上の、正等な、労働賃金である印税を払わない、出版社に抗議をされたことも知っていた。

それで、わたしの事で、事実を知ると、身近な歪んだ権力や権威へ発言され、迷惑がかかってはと、会いに行けなかった。

年齢については、わたしが1951年生まれで、恩師たちは、ぐうぜん1911年生まれ、小松左京さんは、1931年生まれは記憶にあり、わたしたちの目のまえで、さっと上手な漫画をかいてしまう御厨さんは、団塊の世代の、兄と同じ学年で、30代後半だった。

そのため、わらいながら、妻に、小松さんは、もうじき、100歳なのか。長寿番付にのるねというと、さすが、これには、おかしいと思うらしい。

歴史は、主観による表現がまさることがある。そのため、絶えず、検討されないといけないものなのだろう。



▲   東大路通りにある、川端署 (写真:松田薫)
▼   民族により、「鳥葬」もありますが、この石碑は、川端三条にある、壇王さんの、鳥を供養する塔です。 
     
(写真:松田薫)


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「京都昨今」松田薫(2006-08-3)