京都昨今
16、最初のチョコレート・アイス・キャンデーと 「店子解体令」

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「いわずもがな」という言葉がある。これは、田畑(でんばた)という、はこべない文化資産をもつ日本でこそ、言えたのだろう。

水稲文化が、確固として、あれば、だれかが覚え知り、その土地から、伝わってゆく。
当然のことは、言葉にしなくていいものである。
これがきえ、ゆこうとしているのが、いまなのかもしれない。

わたしの生家は、キャンデー製造機が、1935年ごろから、動いていた。
カンカン(量り)は、いくつもあり、これと、精密な天秤は、見飽きることがなく、分銅(ふんどう)が、0.1グラム単位のものを、貸してというと、母は、「指に触れちゃダメ、お商売のなの」と、洋裁をする母用の「裁ちバサミ」どうよう、よく注意した。

わたしたちは、いま、日常、チョコレートがついた、チョコレートのアイス・バーを食べる。これは、45年まえ、わたしの両親が、日本で最初につくった。

このひとつの商品にいたるまでに、甘いお菓子なのだから、砂糖が関係してくる。
いまの砂糖菓子は、昔と、味も香りも違う。

春先、ドンゴロスにはいった、「台糖(たいとう)」の砂糖が、店に、160センチ単位の高さで、山積みに、長く、される。
この間をとおってゆくとき、麻袋が、頬にあたると、痛いので、避けて通るが、このときの香りが、いまの砂糖にはない。

わたしの学問領域の「味覚・嗅覚人類学」が、最終段階に入ったので、イエでつくっていた味を父にきくと、砂糖の一番ザラメと三番ザラメを、炊きにたくという。
ところが、これを、6時間単位でしても、昔にかんじた、レンゲの蜂蜜のような、ぷーんとした香りがしない。

「台糖」(いま、三井製糖)は、イエがつきあっていたので、「UCC」をとおし、10キロ、1万円単位の、パッケージ化された、商品を注文した。

開封したとき、香りがこない。それで、2003年、台糖に、連絡して聞いた。調べますといい、答えは、昔のと、サトウキビが違うという。

サトウキビは、父の生家の畦(あぜ)で、5メートルという単位であった。
自転車の後ろに乗せてもらっていた、小学生のとき、これは何?ときいた。
「子供のとき、甘いものがなく、とうじの子供は、これを、しがんで(噛む)おやつにした」といい、パキッと、もぎって、トウモロコシのように皮を剥ぎ、くれた。
飴をきくと、昭和のはじめ、1930年ごろ、1銭で、飴玉2個が買えたという。
サトウキビは、ただ、葉っぱをかんでいるような、青ぐさいだけなので、これが甘いのときくと、「そうか」とわらい、「むかしは、なっ」と父は答えた。

他の子供とちがい、わたしは、温暖な瀬戸内海気候の、夏の暑さに負け、冬の寒さに負け、春や秋の陽気にも負ける体質だったから、外出は許可されなかった。
そのため、ふつうの子供とちがい、草笛は吹けないし、幼稚園の兄が、イエの柿の木でしていた木登りも、幼児のときできなかった。
わたしは、保育園児のとき、野菜も生きていると言って、食べるのを拒否する性格をしていた。

トンボは近づいてくると、触れるところまで、できたが、蝶々となると、鱗粉(りんぷん)が取れるので、これは、蝶々が困るとおもって、できなかった。
川や池、海の魚は、触れないし、日によって、川や池も海も、過敏な日は、においに負け、近寄れなかった。
ほとんど、病院生活だったため、七夕のとき、笹船って何と、小学校三年のとき、年下のイトコにつくってもらい、笹の葉っぱをむしるのか、これはできないと思い、イエの溝で流す光景をみていた。

チョコレートの、アイス・バーのとき、「雪印」と「森永」とは、まえから、つきあいはあったが、1961年春、完成したとわかり、大阪から電車で、何度も何度も、提携の相談にきた。
それにたいし、35歳の父が、最後に言ったのは、「アイスキャンデーは、子供相手の商売や。アイスクリームは一日しかもたん。相手さんの健康状態が見えん、いやしい、商売はできん」
「提携なんぞ、せん。特許、特許という、あさましいことは言うな。教えたるから、帳面(ちょうめん)に書いてゆけ」と、播州弁での、きつい文言だった。

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「雪印」は、2年後の、1963年、オートメーション化して、わたしは、5年生のとき、豊中市庄内小学校から、大阪市へ社会見学に行った。
工場のひとは、雪印がつくった新製品ですと、庄内小学校5年生、6クラス、270人ほどにくばった。

中のアイスクリームが空気の量が多く、全体が細く、軽いもので、チョコレートの「風味(かおり)」が少ないものだった。
森永は、1960年代後半に入って、わたしのイエが、昔から、作っていた、果物がはいったものなどを、他のメーカーより遅れ、商品化していった。
母は、あのとき特許をとるか、提携していたらと、良く言葉にし、そのたび、父に「あさましい」と注意さていた。

祖父は、アイスキャンデーなどに関して、母に、毎年、3つ新製品をつくることを指示した。ひとつは失敗して良い。二つめは普通の成績で終わっても良いこと。三つめは成功させること。

昔、冷たいものは、彼岸から彼岸までの商売であり、「節分」が終わるころ、母は、神戸の見本市へ行って、新製品を考えなければならなかった。
妹が生まれるまで、わたしと兄は、神戸で育ち、共働きのため、洋裁の仕事をする母が、服地を買うなどの用事のとき、わたしと兄を預かってくれたのは、「神戸三越」のおもちゃ売り場が多かった。

1950年代はじめ、三越のおもちゃ売り場で、他の子供とあうことはないというより、客など、居なく、倉庫のようだった。
預かり賃というか、「どれでもいいから、早く、買って」と母にいわれ、同じような、クルマをよく買わされた。
知り合いがプレゼントにくれるが、わたしは嫌で、受け取ったことがない。
兄は、同じものでも機嫌よく受け取り、あとで、無関心に、床における性格をしていた。とうじ、神戸にある舶来のオモチャのほとんどを兄は所有していた。

播州では、子供の、遊び場や、空き地を、土のあるところを、「路地(ろじ)」ではなく、「路座(ろざ)」ともいうが、雨ふりのあとの水たまりで遊ぶと、舶来のものでも、クルマは、よく錆びて、動かなくなった。

ステンレス製がまじった、北欧の組み立てオモチャも持っていたが、錆びにくい、純度の高い、ステンレスの見本ができたとき、父は、七夕の短冊のようなものを見せ、
「これがステンレスや。錆びひんのや」と、夜、明かりの下で、わたしと兄に言った。
ひとつの金属の完成で、大人がこれほど、よろこぶものかとおもった。

昆虫や植物とちがって、1歳児のころから、汽車にしても、蒸気船にしても、機械製品を見学しだすと、なかなか飽きがこない。
イエの機械で飽きないものは、父が組み立てはじめる、外国製の自転車であり、父のイトコが組み立てていたオートバイだった。
が、やはり、規模が大きい、機関車D51のような大きな車輪が、3つ単位で動く、キャンデー製造機は飽きなかった。
機械油のにおいは、石油からシンナーなど、兄は酔い倒れる体質だったが、わたしは、これらには抵抗がなかった。
そのため、わたしが、見始めると、母が、「おかあさん、おかあさん」といって、数え年、49歳で隠居した、祖母が監視役にきた。

幼児のころ、扇風機は5、6台あったが、黒の客用のは、回転がはやく、危ないので、子供向けに、ナショナル(松下電器)の青色を買ってくれたが、これは、前方から指を入れることができるので、兄用になり、わたし向けに、もっと、ゆっくりしたものと、ナショナルにいい、水色のが来た。
色はわたしが好きな、トルコブルーだったから、喜んでいたけれど、あまりにゆっくりした回転だったので、後方の隙間から、手を入れ、金属製の羽根で、大怪我をした。

祖父は、合併反対問題で、忙しく、不在だった。わたしは両祖父母の洋服すがたを見たことがない。
父の妹は、見合いを、28回はしたか。遺伝というのか、背丈が170センチほどあり、見合いごとの、晴れ着は、30ほど。叔母のをつくるのに、二人分いった。
わたしも、夏はゆかたで、冬、厚手の足袋で、きちっと閉まる、金色のこはぜのを、好んだ。母も着物ばかりだった。
夜、宝殿病院(いま、加古川市民病院)へつれてゆくとちゅう、三叉になる小川で、わたしが、この道をえらぶと、川になると言ったが、母は、草が多い道が、病院へと、つづく道とおもい、わたしの手をひく母は、ひとり先に、着物すがたで、川の深いところへ落ちた。
頭まで、川につかった母は、わたしに、「お母さんが、あわてていて、ごめんなさい」といい、這い上がった。

こんなことがあっても、朝起きると、右手にドライバー、左手にペンチをもち、イエには、手動と、電気のグラインダーがあったので、木片やブリキ片で、何かつくり、実験ばかりで、幼児のころから、怪我の連続でも、止まなかった。
この性格のため、監視人の祖母が必要だった。

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キャンデー製造機は、わたしが幼児のころ、2台目に換えたと記憶がある。
父は、いろいろな思い出があるためか、「忘れた」という。

神戸大で胃ガンの手術をうけ、祖父が逝った、1960年12月の翌年、母が考えたのは、チョコレートがついたアイス・バーだった。
これは、実験につぐ実験というか、アイスキャンデーの精密な型番を、父は作れるが、チョコレートがなかなかつかない。

チョコレート・バーの製造が困難だったのは、チョコレートをどうやれば、くっつくかだった。
これは、ミルクキャンデーの濃度と冷たさ、チョコレートの濃度が問題と考えた。が、くっつかない。
そこで、アイスキャンデーの形状を、できるだけ長方体に近づけようと、父が考えた。
だが、いまでも品質は一番の、バンホーテンのチョコレートは固まると、ストンと落ちた。

この失敗で、つぎは、型番に、チョコレートがくっ付きやすいように、父は、タテの溝がついたものを考え、製作した。
この型番をみたときは、成功するだろうとおもったが、チョコレートが固まるとヒビが入り、また、落ちる。

こんなことの繰り返しの中、父が、大阪からの会社の帰りの電車とおもえるころ、あわ立て機と、真鍮のボールで、チョコレートを作り、濃度を調節している母が、「チョコレートの温度だわ」と、独り言のように、いい、それを見ていた、わたしに、
「チョコレートの温度を上げていると、くっつく」と言った。

会社から帰宅した、父は、着替え、だまって、様子をみていた。
それまでは、キャンデーの温度を下げ、チョコレートも、キャンデーを溶かさないのと、はやく、くっつくように、固まるぎりぎりまで温度を下げていた。

濃度を上げた、チョコレートの温度を上げていると、これまで使っていた、ミルクキャンデー用の、ふつうの長方体の型番でも、チョコレートは、一時間、二時間たっても、ひび割れせずにくっついたままだった。

この光景にいたるまでは、どんな厨房かというと、基本は、祖父がつくったのだろうけれど、木の板を「格子状」にして、L字やF字形というか、急なときは、縁側をつかい、そして、庭もつかい、虫ピンでとめる、処方(レシピ)を貼る板は、10メートル、20メートルの単位があり、そこに、いろいろな、素材や計画を貼ってあるのが、わたしのイエの日常だった。

小豆(あずき)を炊き、味を決めるとき、母の後方に、祖母と、父方の叔母がいた記憶があるので、母に小豆の味はだれに習ったのかと聞くと、おばあちゃんと言う。
祖母たちの目のまえで、母が作り上げ、味の確認は、父だった。
父は、酒の鑑定と同じく、味を、口中においても、飲み込むということは、しない。

それで、おばあちゃんは、だれに習ったのかときくと、「おじいちゃん」という。
祖父?
わたしのイエの味は、播州では、均一とも言える味を出していた。
わたしは、祖父が、小豆の味を決める姿を、一度も見たことはないし、祖父や祖母、叔父や叔母からも、味の伝承は、聞いたことがない。

一年で、いちばんにぎやかな、秋祭りが済むと、わたしのイエは、正月と、小正月をふくめ、バスを貸し切り、京都へ行くことが、多かった。
2歳ごろか、わたしが苦手としたのは、逃げ出しにくい、歌舞練場の「桝席(ますせき)」で、舞妓さんたちが集団で、舞台の東から西へ動くときだった。強い化粧のにおいが、席までとどいた。
あのときは、祇園とおもったら、母が、「あなたが、泣き出したのは、先斗(ぽんと)町」と、2006年になっていう。

先斗(ぽんと)町という発音は、いつも、好きだった。
そして、1969年正月、友人の父が勤務する「京都大丸」呉服部をとおし、祖父が夏目漱石の教え子の、級友3人と、西陣を見学に行った。

西陣の、大棚の主人は、丁寧に、機織の手順を、説明してくださった。
天窓があり、その天井のほうにある、「紋紙(もんがみ)」にあわせ、タテ織りの地に対し、幾種類もの色糸で用意をした、「杼(ひ)」が、縦糸と縦糸とのあいだを、ヒュー、カン、カチンと、瞬時に飛ばせ、何度かすると、横糸を、物差しのような板で、トントンと整理してゆき、織り目をみる。
この丹念な作業を、一日して、一寸(3センチ)ができる。
緊張する作業の連続。この産業が不況だと知り、息苦しさをかんじた。
だが、西陣の主人は、不況ごとは、いっさい言わず、ほほえみながら、織物の説明に終止した。

はなやかで、むつかしいところがあるといわれる、京都で、土地を入手しにくいところを、持っている会社経営者がいたので、どうされたのですかと聞くと、「店子(たなこ)解体」のときという返事を得た。

会社や歴史で、わからないところは、父にきく。それで、父に、2002年はじめ、日本の歴史から消えている、「店子解体令」を、質問した。長い沈黙がはじまった。

GHQは、財閥解体、地主解体につづき、家主や庄屋が、先祖から受け継いだ伝統と権利を、一ヶ月分の家賃ぐらいで店子が、GHQへ納めると、「店子解体」を完了させ、家賃分を自分たちのものとしたと、元の店子さんはいう。

店子制度は、親族をふくめ、地方から、労働の仕方を、主人から習い、丁稚から手代、番頭へと、働きにはたらき、経営者と町から認められたとき、「のれん分け」や、商売をする家を借り、小さな財産をもち、経営や生活に困ったとき、親であり保証人である、家主に相談にゆくのが、日本にあった制度のひとつだった。
日常生活でふつうに起きる、困ったときの相談事の解決も無くしたのが、「店子解体令」だった。

この店子解体令のあとも、1964年の東京オリンピックごろまで、中学校を卒業してからの、丁稚と女中制度は、京都では、ごく普通にあった。
これらについて、知らないひとは、差別というかも知れない。わたしの通った、小学校と中学校には、隣接する市や町からの、知恵遅れ教室があった。

欧米では、「断種法」が発達したが、この丁稚、女中制度は、親族や知人の間での、生まれた、軽い障害者たちの、終身生活保護も入っていた。
これら事実は、京都の大寺院の住職さんが、いまも、教えてくれるのではないか。

小学三年生のころ、わたしの血縁や、友人のイエの朝食が、一汁一菜(いちじるいっさい)と知った。
わたしは病気での、食事制限が多く、妹は朝から、洋菓子のように育った。
母に言うと、東京での、丁稚や女中を多く雇っていた、大棚の店は、「みなそうよ。わたしたちも」と答えた。

法然院町に住んだ、谷崎潤一郎は、東京、日本橋での祖母の食生活が、質素でささやかだった、これがなぜいけないのか、という論調で書いていたのを知ったのは、高校生のときだった。

主人から雇用人まで、共同に、小さく、ささやかな生き方の選択を、なぜ責めるのだろうかと思った。が、GHQの欧米人には、明治維新後からの、小さく映った日本を、「人種学(優生学)」という学問の立場から、小柄であることも、悪い事と報告してきた。

1960年代の、わたしが、小学生や中学生の光景として、母は近所の乳児を無料で預かっていた。乳児たちは、鳥や猫と同じく、わたしに、よくなついた。
また、わたしのイエとまったく関係がなくても、地方から出てきて、新婚生活で、やりくりを知らなく、相談があったとき、母は、習いか、「洋裁か、編物はできますか?」と尋ね、先に、生活費をわたし、わたしたち、子供の服を、注文していたことが記憶からでてきた。

さまざまな解体令のあと、店子解体令が発せられた、1948年。わたしのイエは、ちょうど、団塊の世代になる兄が誕生するとき、さらに追いつめられたそうだ。

父と母の生活の地は、神戸で、山の手に小さなイエを買ったときからだけど、水道がなく、木々の、葉っぱをのけ、山水を汲むものだったと、母から、よくきかされていた。
「配給が終わったのは、あなたが生まれた1951年だったかしら」といった。

高齢になっても働く父に、以前、わたしが、貧富の差をきいたとき、父は、84歳の、死ぬ直前まで、働いた、ひいじいさんから、町や村の、生業(なりわい)を知るため、小学生のころ、山の志方(しかた)まで、垣根用の柴を買いに、四里、五里(20キロ)の山歩きを教えられた、そして、すべては、働くか働かないかで決まると言った。

店子解体令を質問したあと、父は、長い、ながい、沈黙のあと、
「あのとき。イエが、一番苦しかった」といった。
それで、父に、自分の権利とした店子たちは、どうしたのかと聞くと、
「持ちなれんものを持っても、長続きはせん」と強くいった。



       「年々去来の花とは、例へば、十体とは、物まねの品々なり。年々去来とは、
       幼なかりし時の粧(よそほ)ひ、初心の時分の態(わざ)、手盛(てざか)りの
       振舞(ふるまひ)、年寄りての風体(ふうてい)、この時分々々の、おのれと
       身にありし風体を、皆、当芸(たうげい)に一度に持つ事なり」 
                                        
                                 「風姿花伝  世阿弥(ぜあみ)」

▲ 法然院の鯉 (写真:松田薫) 
▼ 白川の蝶 
(写真:松田薫)

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京都昨今(松田薫)2006-7-26