京都昨今
15、「書かなければいいじゃないですか」  志賀英雄

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「紅萌ゆる丘の花」、旧制、第三高校の寮歌は、1950年、三高がなくなるとき、記念の石碑になることになった。
作詞は、東洋美術史家で、京大帝大の沢村専太郎(筆名、胡夷。こい)助教授となっているが、作曲者がK.Yで、わからないから、捜しているふうだった。
除幕式(1957)には、沢村専太郎さんのお嬢様、同志社大学の、志賀英雄先生の初音奥様の参列となっている。

旧制の寮歌の大半は、作曲者の旋律のままだと、西洋音楽で訓練されていない人は、西洋人であっても、ハ長調(イ短調)でたとえると「ド」からゆくと「ラ」以上は、ヒーヒーとなり、声がでない。それで、日本人のばあい、語り口調の「わらべ歌」の音階へと変化している。
寮歌での表現により、自分たちは、苦学して、ここまで、来て、これから互いに、出世しようという、気持ちを共にする、歌唱であって、旧制高校の大半が、よく似た、歌となっている。

文系、理系、それぞれ100人台の定員の旧制高校について、いま、旧制さえ、合格していれば、どこの大学でも入学可能だったと、言われたりする。入学を知る親は、この工夫のため、子供を旧制高校は、入試のやさしい地方へやり、東大へもどす形をとった。
が、縁故、保証があっても、明治時代の東京帝大医学部は、難関も難関だった。

これは、まず、国家として、「伝染病」対策での、「種痘所」が、「大学南校」となり、地方の親族から子弟を、東京へ呼びはじめた、明治時代が10年すぎたころには、親族の保証が第一となった。

このことは、東大医、初代綜理(そうり)「池田謙斎(いけだ・けんさい)」が、新潟県西蒲原郡の平民、入沢健蔵の次男として生まれ、つぎに「緒方洪庵(おがた・こうあん)」の養子へ行ったこと。
そして、池田謙斎の親族にあたり、東大内科を形作って行った、生まれは新潟県だが、祖父は信州入沢村の出身で、「大槻玄沢(おおつき・げんたく)」の門下だった医師の子「入沢達吉(いりさわ・たつきち)」を追ってゆくなどをすればわかる。

特別に、明治時代、将来、東大ドイツ医学の習得には、ドイツ語の修習が第一で、「獨逸学協会中学校(独協)」に入ることが、課題となった。

明治時代の中ごろには、受験が過熱され、「獨逸学協会中学校→第一高等学校(医学進学過程)→東京帝大(医)」までのコースは、学費もかかり、非常に難しく、ここで、旧制第一高校であっても、地方からの秀才があつまる東大医がダメになったばあい、新設の京大医へ流れ、京大があふれる時代になったら、九州大医へと、順番に流れていった。

とにかく、明治時代はじめの医学者の、勉強量はすごい。
彼らのノートをみれば、おどろかされる。

でも、戦争により、理学や工学の時代となり、東大や京都帝大理学部が難しくなったといわれる、1930年ごろからの、倍率でも、実質1倍を少しこえた程度というと、だいたい驚く。
旧制高校の入試問題は、難しかったという。たしかに、問題をみると、いまの「進学中学入試」問題ぐらいのレベルはあった。
が、1940年前後からは、太平洋戦争で、医学部も、無試験同様で、東大や京都帝大医学部一年卒業。京都府立医科はじめ、医学専門学校などは、半年卒業の時代となった。

この明治維新後の、全国からの、向上心にかなわない、財閥の親は、自分たちの子弟のために、7年生の学校をつくり、さらに家庭教師を雇い、学歴をつけさせていった。

他の学部は、ごく、ふつうというか、東京のばあい、スポーツなど行事があり、友人たちが集まったとき、本郷から、故郷からの荷物を受け取ったり、送ったりする「万世橋(まんせい・ばし)駅」から、古書と書店街の神田、そして銀座。
京都のばあい、百万遍(ひゃくまんべん)から、古書と書店街の、丸太町通りへゆき、荷物などは、わたしの世代の1970年代でも国鉄の「二条駅」。あとは、丸太町と同じく市電が通っていた、寺町通りへと下がる。そして、繁華街の四条通りまで行った。

居酒屋で、一杯のみ、寮へと戻るとき、黒帽子、黒マント、白い鼻緒の朴歯の高下駄などが、シンボルの時代だったという。
バンカラという言葉があるが、常識があってのもので、自宅から通い勉学をする学生はもちろん、下宿生も、詰襟姿のごく普通の学生が多かった。

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第三高校の作曲者KY君については、研究室にステレオをおき、音楽にくわしい、教育学の志賀さんが、ご存知だったのではないか。
ずっと、私立の同志社ときいている志賀英雄先生は、自分たちの気持ちが十分であれば、なにも問題がない、自由にという考え方をされる方だった。
志賀さんは、俳優の大滝秀治さんが、熱血漢のある真面目な大学教授の役を演じられれば、そのままといった雰囲気の方だった。

妻に、志賀さんの授業での思い出はと聞くと、栃木県の作新学院から、大学入学問題がおきた、江川選手のとき、「江川卓ちゃん」とだけ、黒板の真ん中に書いたという。
そして、
「どうして、慶応大は、卓(すぐる)ちゃんを、入学させてやらなかったんですか、おかしいじゃないですか。卓ちゃんも希望しているのに、かわいそうでしょう。あんなに、できる子がいますか」という、意見を、大教室にひびきわたる声で言う先生だったという。

文学部がある「寧静館」で、教員が、わたしを見つけると、「まつだ君、いっしょに」とエレベーターへ誘ってくれ、わたしも、階上へゆく。
ひょっとして、とおもいながら、ドアがあいたとき、「あっ、志賀先生」と言うことが多かった。
志賀さんは、わたしを見つけると、「まつだ君、ベートーヴェンを、ぼくの部屋で聞きましょう。諸君、まつだ君を、研究室まで引っ張って」といった言動を取られる方だった。
良い育ちと、だれからも聞いたが、じつに、あたたかい声と、あたたかい手のひらをもたれた先生だった。

わたしが、哲学の、平石善司先生のところへ行かないと、約束の時間がといっても、
「そんなことは、いいんです。いいんです。ぼくの部屋で、皆と語り合いましょう」
「ぼくの部屋の、コーヒーはおいしいですよ」と、平石さんがその場にいるときなどは、両手で、わたしを、引っ張り、志賀さんのところの、上品な研究生たちは、にこやかに、見ていた。
わたしは、教室での受講は不要で、大半が研究室での議論という形だった。志賀さんのも、教室では受講はしていない。が、ほんとうに、温かな師弟関係だったといえる。

同志社大学に、志賀英雄先生の生没などをきくと、定年まで同志社だった平石善司先生どうよう、わからないという。日本は、東大であっても、学者の経歴は、ほとんどわからない。

志賀さんは哲学や心理学もされたが、2005年11月に、心理学の浜治世女史が亡くなった。わたしは、30年まえ、この女史から、「あなたの考えている事は、すべて終わっています」といわれた。この意見は、他の学科や、他の大学のものに言い爆笑となった。
いま、この女史が、昔、わたしにした行為に、「セクハラ」という簡単な言葉があたえられる時代になった。
が、わたしには、実験室どころか、この大学も無くなればいいなど、不愉快な感情しかなかった。学生相手に、許せない言動は、時間がたっても、妻にしか言えなかった。
半年ほど、「心理学研究」他、心理学関連を、まったく、読むことができなくなった。
30年という歳月がたち、わたし自身が50歳をすぎ、亡くなったとしり、心から、ひとつ、トゲが抜けたかんじになった。

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心理学は、アメリカの心理学者J.B.ワトソンが、終わったと言ったとき、区切りがついた。
次への、思考するテキストができていないのだから、わたしが残る条件として、とにかく、文学部から追い出して欲しいと、平石善司先生たちへ言ったら、同じ意見だった。
それで、工学部の山田忠男先生に、心理学を、工学部の端っこの所属にしてほしいと言い、このことは、とうじ、学生運動家に追われ、伊豆の別荘暮らしで、わたしが、面識のない、心理学の「松山義則君(学長)につたえる」と言っていた。
なのに、同志社は、商売の関係か、「心理学」をおき、「教育学」を廃止にした。
「教育学」は、テキストがあり、哲学や文芸から、新しい方法を、いくらでも組める、大事な学問である。

1970年代になっても、岩波書店文化が強かった。志賀英雄先生は、わたしが後方で聴講しているせいもあったのか、
「同志社で岩波から本を出したって自慢している人がいます。岩波から出版すると偉いのですか。ちがうでしょう。岩波の依頼原稿、そんなの、書かなければいいじゃないですか。権威があるという出版社に媚を売り、原稿を書くひとがいます。わたしは、書きません。認めません」
「わたしは、諸君といっしょに議論するのが好きなのです、わたしはそれでいいのです。わたしは、権力とか権威とかは、大嫌いなのです。なぜ、どうでもいいことにこだわるのですか。おかしなことでしょう」
と『教育学会長』のときも、おっしゃっていた。

同志社で、「教職」をとる学生には、志賀英雄先生の『同和教育』が必須になっていた。同志社は、他の大学機関より、先に、同和教育講座をはじめた。
妻が受講していたので、一年後、終了したとき、何の授業だった?と質問すると、同志社の「同」と平和の「和」でしょうと言う。
これらが、京都府教育委員長の山田忠男さんたちの耳にはいり、「うーん。評議委員会で」と言い出した。

わたしは、同志社を退任されても、他の教員と違い、何も求めようとはしなかった、志賀英雄先生の講義は、卒業して、時間がたってから、教育とは何だったのかが、わかりますといった。
志賀英雄先生は、被差別地域出身者が提出する作文を、講義中「こんなことは許されません。わたしは許しません」と、いつも涙をながし読まれていたという。

1977年はじめ、退任される年だったのか、志賀英雄先生と奥様とは、いまは、なくなった、河原町通りの、駸々堂書店で、お見かけしたことがある。
タクシーから降りるとき、後部右の奥様がでられるのを、腰をかがめ、やさしく、手をさしのべておられた。
冬の夕方、いい光景だとおもっていた。

この年、雑誌『展望』(1977年5月号)に、評論家、臼井吉見(うすい・よしみ)さんの『事故の顛末』が掲載された。
とうじは、応接間形式になっていた、同志社大の図書館の、大学の『紀要』や百科事典類を置いてあるところで、広いひろい空間に、学生がひとりふたりという、春、手にし、ソファーにもたれ、パラパラと読んだ。とても不愉快な作り物だった。

つづき、『川端康成』全集のとき、その折込みとして、川端秀子夫人が、エッセイを書いておられた。
作品中心主義のわたしとしては、川端秀子夫人に「臼井吉見」のことも、「耕治人(こう・はると)」のことも、触れてほしくなかった。
のち、「耕治人」のエッセイか小説か、理解しがたい、書籍が出て、こんな人をとおもった。
創作家に成りたければ、勝手になって、手書きでも造本できる。
ひとりでいいし、二人からの同人でもいい。
なぜ、自由な文芸ごとを、他人や組織を頼らないといかないのか、わからなかった。

臼井吉見さんと、よく似たことは作家の野坂昭如さんも書いた。
流行歌手となった野坂昭如さんは、1975年秋、神戸女学院の文化祭でゲストだった。
「♪ ソ・ソ・ ソクラテスかプラトンか」を歌われ、酒の入っていた野坂さんは、講堂の、やや後方にいた、わたしを、舞台まえに呼び、肩を組んだ。
「青年、吼えろ」というので、声をだしたら、「もっと、大きな声で」と言った。

1968年、わたしが高校一年のとき、学生の圧倒的な人気は、五木寛之さんだった。
わたしひとりが、野坂昭如さんは、時間を持たれ、研鑽されれば、「織田作之助」を越え、「武田泰淳」以上の文章家になる可能性を言った。

この野坂昭如さんが、1985年ごろ、「週刊文春」のエッセイで、飼い猫の蚤(ノミ)が、今年異常に多いと思う、と書かれていたことが記憶にある。
わたしが、飼い猫をあずかった年であった。わたしのイエの、葉山生まれのヒマラヤンは、風呂好きで、毎日でも入りたがるため、ノミはいない。
ところが、預かった猫がノミだらけで、おどろき、野坂昭如さんの指摘があったので、これは、生物学でいう、「クライマックス(極相)現象」かと思い、近所の猫を調べたら、どうも1985年は、ノミの異常発生のようだった。
このとき、日本の学問という世界でも、大昔には居た、野坂さんのような方が必要とおもった。

問題は、野坂昭如さんの著書、『赫奕(かくやく)たる逆光』(文藝春秋 単行本 1987)である。
三島由紀夫さんのファンといいながら、編集者からの依頼なのか、訳のわからないことを、あれこれ書いている。
三島由紀夫が「学習院」をへているということは、この書籍のはじまりの前に、問題が終わっているではないか。戦前、学習院はじめ、東京の国立の名簿は、どうだったのか。いまの、お茶の水(女子高等師範)他、公立でも、「華族、士族、平民」の区別が、志願書の段階であった。ふつうの小学校にも、かんたんな区別があった。

わたしは、野坂昭如さんの文章とは反対に、野坂さんの文章にある、野坂昭如さんを検討していった。
三島由紀夫が出自とする、志方(しかた)町。
この町の南に、米田町がある。作家、遠藤周作さんの恩師で、近隣から、寺(門跡)を継ぎにこられた、灘校の、校長を長くされた勝山正躬(かつやま・まさみ。京都帝大、国文)さんがおられた。
東に加古川東高校、西に姫路西高校がある。それぞれ、すぐれた学校である。

野坂さんのイエは、加古川市で、養子先の「張満谷(はりまや)」が、加古川で一軒という。ここは寺が多い町で、100年単位の歳月をしる、周囲にきくと、知らないという。
わたしの、ありふれた、松田、「まつだ」も、同じ地域で、一軒しか名のれない。父は長男で、わたしは、戦前、他は「まつた」と、学校で習った。

野坂さんは、福井ともいい、祖父は警視庁で羅卒(らそつ。巡査)と。とうじの警視庁は、羅卒採用でも、かなり難しい。
それで、三島由紀夫関連で、「2・26事件」や「自衛隊」をかく。

わたしの、母(長女)の父(三男で後継)の兄(次男)は、内務省警保局警視庁勤務。「2・26事件」のときは、警視庁本部長で、指揮官。「宮城警備」にあたった。
ちょうど、母は、牛込の伯父のイエに行っていた。
わたしが子供のころ、「2・26」になると、雪がしんしん降る中、警視庁の本部長室に肖像画のあった伯父さんは、深夜、お呼びがかかり、宮城警護の指揮へ行ってねと、よく聞かされた。
この息子が、自衛隊勤務のとき、いまは、職位、区分がかわり、幕僚長がトップとなっているが、昔、伊勢神社がある「伊勢管区」の責任者だった。

わたしは、友人に、三島由紀夫は、『宴のあと』のような作品を、あと二、三作ほど書いて欲しいと、1969年ごろ言っていた。まもなく、事件を起こされた。
三島由紀夫が小柄だったというが、事件後の、「解剖所見」での163センチは、大正時代の後半、平均身長である。
人類学での調査だが、ヒトの身長は、朝と夜、3センチは日常。6センチ単位も、過労と精神状態で、変化する。

野坂昭如さんが、同世代より大柄にすぎない。

このころ、学生運動の騒ぎで、わたしの転校などからも、周囲と摩擦がおき、いじめられた同級生や下級生の自殺があり、いろいろな悲しみが、わたしを襲った。

野坂昭如さんは、なぜ、三島由紀夫さんが、生存のとき、書かれなかったのか。
噂で、他人のこと、才能が格段ちがう文豪が亡くなり、叙述するのは、卑劣ではないのか。
調べ、聞くと、三島由紀夫の徴兵検査の場所、
  1 加古川市の役場
  2 印南郡公会堂(赤レンガ作りだった)

この2つがあげられている。
ところが、どちらにも、野坂さんが「単行本」とかで、三島由紀夫は、「俵(たわら)」をもてなかったと、記述されたことがら、三島由紀夫が、来たという事柄が判明してこない。
人がつくる戸籍は、作ったり、買ったりできる。東大内科の入沢達吉はじめ、著名になった学者は、努力というか工夫というか、平民から、士族となっている。
でも、ふつう、真実は、ひとつではないのか。

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わたしの父や友人の父は、三島由紀夫と、同年になる。
父は、祖父の力で、旧制中学を2年飛び級して、兵庫県立工業(2年、尼崎市、ヤンマーディーゼルの場所)の在籍時、18歳の徴兵検査で、体重が足らず、軍属となり、高砂の、大阪陸軍造兵廠勤務となった。
とうじの、徴兵検査は、身長と、体重、疾病だけである。体重で、甲乙の、乙になった人、一同、20歳の検査で、
「学習院。そんな、ええとこの人、おらへんかったで〜。おっちゃん、目方(めかた)足らへんかってん」(播州弁)だ。
野坂さんは、志方に、篤志家の寄付で、三島由紀夫の石碑ができたとかく。
京都にも、何も関係がないが、北山に、川端康成の『古都』の作品で、石碑ができた。

それより、野坂昭如さんは、いったい、「JR(国鉄)」のどの駅で降りられたのか。
代々、「志方城」のあった、志方町(しかた)を在とする、団塊の世代、および1950年代生まれの大半が知る、志方の人に、2000年になり、三島由紀夫の祖父、「平岡定太郎」さんのことを聞いた。
「おっちゃん、知らへんで。志方に、そんな偉い人、おらへんで。それより、おとうちゃん(わたしの父)、おばちゃんと同級生やったで〜」(播州弁)。
と、団塊の世代、および、1950年代生まれの、講堂が二階桟敷になっていた歴史ある米田小学校、自慢の円形校舎の川西小学校、釣り天井風の相撲場があった宝殿中学校卒業の世代の、ほとんどが知るけれど、大半が会話したことのない、おっちゃんがいう。

わたしの記憶は生後10ヶ月からはじまる。それで、父に、竹久夢二のモデルのような、おばちゃん、27歳から、おばちゃんだったのかと、土道(つちみち)の国道1号に代わり、コンクリートの国道2号がとおる、1935年、阿弥陀小学校から、転校により、米田小学校出身となった父に聞いた。
「そうや。同級生やった」と、脳溢血で亡くなった、級友を思った言葉でいった。

加古川市を代表する産業のひとつが、血縁とは言った。
父は、そのあとは、知らないと言う。
日本史にでてくる高砂市出身の歴史人となっている人もふくめ。

大正生まれの父が55歳になるころ、旧制中学の同窓から、「あと4人になりました」との集まりの招待状が来たとき、戦争は、人間と人の心へ、どれほどの犠牲を与えたのかと、わたしは思った。
そして、この同窓たちが、山の、志方町から、早朝、昔、高価だった自転車にのり、平地の、新興の町、加古川市駅まで通っていたことを聞いたときは、とうじの、学生がいかに勤勉で、また、大変だとかんじた。

野坂昭如さんの小説にも、戦争体験が、かかれてあり、事実であれば、こんな悲しい経験をされた人かと思った。
そして、1960年になっても、焼け野原だった、大阪や神戸が記憶からでてきた。姫路駅の北口の東、市場まえにも、B29の焼夷弾による大きな陥没があった。

野坂昭如さんは、自著、『赫奕(かくやく)たる逆光』の文庫本の「解説」を、
「文庫の解説は、大袈裟にいえば、ひたすら、所載の作品について、提灯持ち、幇間(ほうかん)に徹しなければならず、必然的に、作者は書かない、書けない」
と釈明し、かかれている。ふしぎだ。書かなければいいのに。

野坂さんの、カクヤクとはなれた、ギクシャクした文章より、菊池寛が、自分の文庫本の「解説」を「吉川英冶」名で、
「これらの作品を見ても、菊池氏がリベラリストとして、その創作によって封建思想の打破に努めていたことがハッキリする」と、ベラベラ自画自賛した菊池寛の文章のほうが手本になる。

欧米人は、志賀直哉の「はかりかねるリアリテ」を恐れ、理解から避ける。
この志賀直哉が、文学のことに関すれば、本来、自由な文学に権力や権威をつくった、菊池寛のことを「罪(つみ)」が大きいことをした人物とかいた。このことは正しい。





      「私の心には躊躇が生じた。どうあっても金閣は美しくなければならなかった。そこで
      すべては、金閣そのものの美しさよりも、金閣の美を想像しうる私の能力に賭けられた。」

                                       「金閣寺  三島由紀夫」



▲ 平石善司先生が案内してくださった、同志社、礼拝堂 (写真:松田薫) 
▼ 緑の雄3羽に、並んでと言ったら、整列した、子カモたち (写真:松田薫)


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫 2006-7-20