京都昨今
14、「日本の活字状態」 メンデル遺伝学

メンデルの『雑種植物の研究』(1999年 岩波文庫 訳岩槻邦男・須原順平)のなかで、訳者で、とっくに還暦をこえた、兵庫県人の岩槻邦男さんが解説をしている。

「国立遺伝学研究所には、世界に8部しか残されていないこの論文の抜き刷りが所蔵されているが、これも高価な代金を払って1922年以後に買い取られたとものと言われる」(P119)と。

このデタラメの発想と論述はなんなのか。学術誌ではない、一般向けの「文庫―青932」だから、高校生でも読む。
調査のできない、人物はいっぱいいる。しかし、「岩波書店」の編集はどうなっているのか。
編集部には、東大の教員より、知性のあるひとが、ずいぶんいるのではないか。

1990年代はじめ、岩波書店発行の『科学史』関係で、わたしの、書籍の脚注をそのまま、バラバラに盗作し、科学史をデタラメにした人物がいる。
岩波側に指摘すると、証拠をあげ、実証しろという。

岩波書店は、その張本人(立正大)の、恩師(立正大の中村禎里)に、過去「お手つきをされたでしょうか」と上品な文言で、連絡したという。
それで、わたしは、白の餅米に、手に塵をつけ、餅をついた、お手つき文章だといい、月日をかけ郵便物を送り、実証をすると、「この雑誌は赤字でやっているから、岩波とは関係がないんだ」ときた。

岩波が改めないので、中村禎里(なかむら・ていり)さんへ、わたしが電話をすると、「岩波を、グラつかせ、店じまいさせようとしているのは、あなたか」と、進行形でいう。
わたしは、間違いを指摘しているだけでしょうと言った。
すると、「彼はわたしの聴講生だった。日本は、盗作では問題がない。彼の就職先ぐらい探してやる」と怒鳴り、わたしが、順番に説明し、反論できなくなると、「うちは民主主義で、きょうは、わたしが、カレー当番だ」といい、「湯浅(光朝)さんは、長いこと、学会長をした」という。

中村さん、そういったことは、先達の、専修大の菅井準一さんや、湯浅光朝さんが生存のとき、かれら出席の「学会」とやらの、寄り合いで、直接、言えばいいのでは。


先の、岩槻邦男さんは、1934年生まれとなっている。中村禎里さんは、1932生まれとなっており、教育で一番大事な小学生のとき、ちょうど、太平洋戦争中だ。
大学の教員は、義務教育を終了していればなれる。が、かれらのときは、どうだったのか。
小学校の担任の先生は誰なのか。小学校や中学校の級友に恥ずかしくないのか。

科学史家の湯浅光朝(1909−2005年。没95歳)さんは、わたしが、1982年、八王子の自宅で、絶交を言いにいった。
1983年、科学基礎論学会の、寄り合いで、また、学会はじめてという、「筑波大」で、立ち見まで出ているのに、司会進行役の吉田夏彦(東京工業大→立正大)さんは、わたしの発表時間を、5分カットした。
わたしは、1982年も同様のことにあったので、妻に、小型のストップウォッチを用意してもらっていた。

わたしは、陸上の短距離(100メートル、10秒。1965年、豊中市第六中学は、中学日本一、11秒1が、3人いた)と、水泳の短距離(100メートル、60秒)、剣道の試合時間(一回、3分。寝屋川市第一中学は、剣道、大阪一位)の経験から、10秒単位、1分単位、3分単位という、時間というものが、とうじ心身にはいっていた。

時計は二つ用意して、わたしは両方をみていた。
日本心理学会発足時からの学会の長老、結城(旧姓、広瀬)錦一さんのときは、延々30分オーバーしても、吉田夏彦さんたちは、黙ったままだ。
それでいて、顔色の悪い、吉田夏彦さんは、不正ができる。

超高齢になっても心理学講談をされた結城錦一さんは、わたしが、若い世代を考えて、そのルールをいうと、「あっ、申し訳ない」とか、明るく言える先生だった。
結城錦一さんは、哲学者沢田允茂さんと似たラインと、深い、皮膚流紋を持っていた。
行動の違いは、限られた時間内での、仕事量だ。
沢田允茂さんは、非常に気がつき、仕事の早い方だ。世間はこれを、せっかちともいうけれど。

吉田夏彦さんが、不要な、終わりのチャイムを鳴らしたとき、わたしは、微笑んで、発表の途中だったけれど、打ち切った。
それで、湯浅さんに、学会ごっこはやめますといった。

湯浅さんが、「責任を取りませんでした。掌でわかっておられましたか」というので、わたしは淡々と、ええ、皮膚隆紋の形成から。わかっていないとこんな学問はできませから、と返事した。
湯浅さんの、奥様は泣いておられた。
70歳を超えられ、背丈も体躯もある、湯浅先生は、「JR八王子もありますし」と、わたしを夜中まで留め、ゾウリで、京王の駅まで、見送りにきてくださり、わたしが、基礎論学会をはじめ学界は、このままだとダメですといっても、「基礎論学会へ論文を提出してください」といった。

このとちゅう、同志社で、はじめ「科学史」担当の山田忠男さんは、「湯浅さんは、同じことばかりして」と注意していたけれど、わたしは、無責任だったと、自覚されている湯浅先生は、わたしが「無責任を自覚した湯浅光朝」として論述しますから、と言った。

湯浅光朝さんの責任とは、わたしの論文の送付先を、各国の学者、内外の図書館を、指定するとのことなどだった。

わたしは、自著に関しては、湯浅さんが、指示してこられなかった、1980年のまま、保留にしている。

もどり、国立遺伝学研究所の「メンデル論文」は、1921年、西欧にゆかれた、初代遺伝研の所長、田中義麿(たなか・よしまろ)博士が、『遺伝研』を退任するときに、寄贈されたものである。

人類はじめ、植物まで、その根源たる経路を、追求してゆくのが生物学の仕事で、京大の教員を経て、東京大学の教員となった岩槻邦男さんが、「遺伝研」の文献、しかもメンデル論文の、由来を知らない。

こんなことを書くなら、もう、京大医学部だけでなく、京大の動物や植物学科生も、「731部隊」の研究に、参加したものは「副手や助手」になれ、戦後、国立大の教授や学長の席が待っていて、ちゃんと座ったことを、記載して行ったらどうなのか。
また、京大植物の「芦田譲治(あしだ・じょうじ)」さんに、京大提出の学位論文を蹴っ飛ばされた、三島市の国立遺伝学研究所の「木村資生(きむら・もとお)」(1924−94年、没70歳)さんの『中立説』を論じてゆくのも学問となる。

「遺伝子論」が難しければ、日本では、阪神パーク『レオポン』で考えればいい。
わたしは、1961年ごろ、2回ほど見学しに行った。
レオポンは、1910年、インドで最初に生まれ、あとは、数カ国で、誕生したという。
父親が、豹(レオパルド)、母親がライオンで、レオポンと呼称された。
このような誕生形式を、「わからん」と言ったら、商売にならないので、「中立」とでも言い換えた人は偉いと言った。

木村さんのは今西錦司さんが指摘するとおり、数学者が読めば、「屋上屋をかさねた、数論だけの論文」だけど、それもいいではないですか「議論が活発なれば」といった。

こんなとき、わたしは、京大で、わたしの、そばというか、正確には「電信柱」の陰のようだが、その人物が、退任した、芦田譲治さんと知らなかった。
それで、若い世代と、木村資生さんの説で、数論など思考力を高めればいいなど、会話をしていて、後で、芦田さんがいない場所で、京大の学者どうし、わたしが「芦田さんを注意した」という、事実とちがうことが流れた。

わたしが遺伝学をしはじめたころは、高校生の、大学の学園紛争で大変なときで、学生運動家から、軟派といわれた、岡林信康さんを先頭にする関西フォークが、勢力をもって広がって行った。
1969年は『遠い世界に』を「五つの赤い風船(西岡たかし)」が歌った。効果は、かんたんな「オートハープ」にもあった。ふつうの人には、聞きなれない、この楽器は、その後、京都三条十字屋も扱いはじめた。
小・中学生向けの良い音楽とかんじながら、レベルが低いという以前の、自称、研究者にあうと、わたしの脳裏には、「♪ これが日本だ、私の国だ」のフレーズが流れ、あきらめようとしてきた。

音楽家が、理解できる、遺伝子論を、楽器演奏でたとえると、遺伝子がある「細胞」というのは、音符(=遺伝子)と旋律(=細胞)の関係で、演奏家により、「音楽」の状態が、絶えず変化してゆくものと考えればいい。
いまの演奏家によるものが、進化かどうか?
いまの演奏家は、過去の名演奏家より、上手なのか。これが答えである。

ピアニストやバイオリニストのプロが、ソロで公演しているばあい、一音を間違えたからといって、彼らは、途中でやめることはできない。間違っても、進行させる。また、楽譜に忠実とか、正確というのはどういったことをいうのか。
コンサートでは、演奏家の礼儀もふくめ、演奏が終わったとき、すべてが決まる。これが、ルールだ。
こういった考え方を、遺伝子や、細胞というレベルにあてはめればいい。正しくても、間違っていても進行してゆく。

メンデルの遺伝学は、植物をつかい、交配により、「混乱」状態の遺伝が、行き継がれるといった従来の考え方を、それらの、遺伝は、遺伝子(DNA)いう「単体」により、左右され、メンデリズムという、遺伝は分離して成立するという、遺伝現象であると指摘したことにある。

とうじは、このメンデリズムが画期的で、発展さそうと思えば、この考え方を、敷衍してゆけばいい。

いまの遺伝子学の発展へと向けた、日本にもある、「メンデル論文」は、九州帝大農学部の田中義麿(たなか・よしまろ)博士が、西欧へ行ったことによる。
田中博士は、メンデルが勤務した、「モラヴィアの修道院」を訪問した。
そのときメンデルが研究した、そのままの状態で放置され、「論文」も、ゴミのようにしてあったという。
そこの修道司祭に、カイコ研究の、田中義麿博士が、日本の位置を、説明をした。

アラビアより東、インドより東、中国より東の小さな国が、わたしの母国の日本ですと、すると司祭は、「そんな遠い遠い国から、やってきてくれたのですか。それなら、ここに、ほったらかしにしてある、メンデルとやらの論文を持ってかえってくれ、ついでに、顕微鏡も、プレパラートも持って帰ってくれ。ここモラヴィアでは、メンデルなんか、誰もしらない」といった。

ここの部分は、学問以外では、余裕やあそびがあった田中義麿博士の、弟子筋の方が、田中さんの話し方を、真似してくださると、楽しい。

田中義麿博士は、親切さと、偉大なメンデルを知らない、司祭たちに驚き、さらに、メンデルの実験室が、中学生が使う程度の顕微鏡ひとつだったので、驚いたという過程があり、このことは、「日本遺伝学会」の創設者である田中義麿博士が、あちらこちらで、述べられていた。
また、息子さんの、人類遺伝学者、東京医科歯科大の、田中克己さんも、このエピソードを、楽しそうに書いていたと記憶する。

いま、京都では、祇園祭りの、山鉾巡行がはじまろうとしている。稚児による「くじ改め」は、昔は、鉾町の「年寄り衆」だったときく。が、「人生50年」なのに、50歳をこえた年寄りが増え、死ぬ前に、成金になったオレが一度したい、いや、ワシところの鉾町のほうが古いとの、50歳をこえた醜い老人どうしの「えげつない」主張がふえ、改めた。

また、白い餅入りの粽(ちまき)だが、GHQが解体させた、「店子(たなこ)制」が生きていた時代のものである。
まず、親(家主、庄屋)が、子(血縁もふくめ、町の経済を活性させる、親の店のために働いてくれる人たち)を中心にあたえ、そのあと、「ふるまい」で、撒いた。

が、西陣不況で、金がなくなり、府と市での、映画『祇園祭』(1968)の製作が、困難となり、自称左翼の、知事、蜷川虎三さんが、松下幸之助さんに、「お金ちょうだい」と、「虎」が「招き猫」の真似をし、数千万円もらって、完成した。
このあと69年からの、祇園祭りは、祈願や感謝から、御池通りの観覧席でわかるとおり、見世物となり観光客たちによる取り合いがはじまり、餅入りの粽で、怪我がおきた。
それで、1971年ごろは、餅なしと決まり、それでも、伝統のふるまいをする「鉾」があったが、やがて、消えた。

▲ 四条通り室町、   「月鉾」  (写真:松田薫)
▼ 新町錦小路下ルの、「南観音山」の子供たち
 (写真:松田薫)

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京都昨今きょうとさっこん」松田薫 2006-08-16