京都昨今
13.白い「キー・ウエスト・クラブ」と 京都の珈琲文化

1]

コーヒーの価格だけれど、わたしが若いときに使った場所は、関西テレビが大融寺(たいゆうじ)の近くにあったころ、1973年、ドリップ形式のペーパーサービスが、一杯700円だった。まあまあ、飲むことができた。
他の喫茶店は、250円ぐらいだったが、味とはかけ離れていた。

東京で、訪れたかった喫茶店は、「小学館」をやめられた編集者が、世田谷区の千歳烏山(ちとせからすやま)で、されていた喫茶店だった。手焼きで豆を焙煎するとのことだった。

大正時代から、手焼きで珈琲豆をローストしていた、趣味人を祖父にもつわたしだから、どんな味か、訪問したかった。

手焼きの珈琲豆といっても、産地と、品質できまり、コーヒーの文化が、寒冷な山間地域を由来とし、口腔や鼻腔での、味覚や嗅覚点がモンゴロイドとちがう西洋人によるものから、さほどうるさく言われないが、焙煎後、3日以内のものがすべてといえる。

現在の、焙煎方法は、昔あった、天津甘栗のような、蒸し焼きの親戚の機械から、安全上と、生産ラインが簡単な、「熱風焙煎」という、電子レンジの親戚のような精密機械が主流となり、小売の、手元へは、焙煎後、最速で4、5日、ふつうは30日後ぐらいとなっている。
どちらの方式も、空気を十分にとった、手焼きのものと、まったく違った味である。

東京での、珈琲の味が、どのようなものかと、おもっていたが、出版社の、同僚の方の説明だと、1980年代に、亡くなられたとのことだった。

2]

1980年代に、東京で、気になったスペースは、母のイトコが経営していた、原宿「キー・ウエスト・クラブ」だった。
文化の流行は、70年代、カリフォルニアので、天井にプロペラをまわし、白を基調にし、マスコミでさかんにとりあげられていた。

叔母が、「タカダのイエは、ソフトがないのよ。ブレインが必要なの。行ってあげて」という。
「キー・ウエスト・クラブ」へ行き、出費ばかりになるとおもった。
それで、母に「カフェなど、経営が成り立たないのに、なぜ、しはじめたの?」と、質問した。

「キー・ウエスト・クラブ」の、スポンサーは、実兄が経営する「東京ブラウス」会社だったけれど、いくら、経営者が、合理的に、質素にしても、維持費と人件費で、成り立たないと言った。
わたしの発言どおり、数年で、「キー・ウエスト・クラブ」は店を閉じた。

この「東京ブラウス」は、旧財閥の「戸賀崎繁男(とがさき)」さんがおこされたが、跡継ぎがいなく、埼玉県杉戸町出身で、高田英(たかだ・えい)おじさんの長男が、継ぐかたちではいった。

昔々、ちょうど、母のイトコがスポンサーのテレビがつけてあったとき、このイエから、「姉さん、ヨーロッパ一周旅行に当たりました」と連絡があった。
母は「おめでとう、よかったわね」と言っている。
電話のあとで、わたしは、スポンサーじゃないかといって、わらった。
すると、「そんなことは、いいのよ。当たったのだから」と母は言う。

わたしが、珈琲専門店へ、最初に入ろうと言ったのは、1957年だった。
母方の祖父のイエが、姫路市東雲町にあり、 「御幸通り」にあった、「コーヒー40円」の、白い看板をみて、コーヒーと言ったら、「あれは、子供の、飲み物ではないの。イエで作ってあげます」と、いつもどおりの言葉をかえされ、『やまとやしき』の最上階レストランで、一杯25円ぐらいの、「カルピス」とかを注文される。
1961年、戦後、最初の調理師免許をもった、母が作るのは、「コーヒー牛乳」の味で、それは飲み飽きていた。

東京ブラウスは、2003年に倒産した。
危機は昔にもあって、1958年、わたしが、姫路の、書写山(しょしゃざん)の方向から強い風雨もあった、
とうじ、気象学上、最大の熱帯低気圧だった。

9月24日、フィリピンの東では、北緯18度、877〜879 hpa。25日、台湾の東では、北緯23度、882 hpaとなり、この熱帯低気圧の雨と風は、台湾だけでなく、姫路のほうにも、渦巻いた。

大きな蒲団、100枚以上の重圧が、7歳となった、わたしの、体にのった感じのとき、わたしの意識は、なくなった。
わたしのベッドが、赤ランプの、危篤室へ移された。

9月下旬のこの台風は、日本では、「伊豆半島、狩野川(かのがわ)台風」と言われる。
この台風、日赤病院で、いまでは、「臨死」と、簡単に言われる、わたしの瞳孔が開いたときだった。

清潔で、細身で、きりっとした姿勢をされ、言葉少ない、山本又一先生を中心に、京大医学部の若い、医師団は、つきっきりだった。

医師団の後ろの、看護婦たちは、山本又一先生から、医師団への指示、その命令どおり、動いてくださった。

ふつう、臨死は、記憶がないと、言うが、わたしは、瞳孔が開き、手足が動かない状態でも、山本又一先生たちの言葉と動作の感じは、記憶にあった。

眼が開いたというか、瞳が、動くようになった状態のとき、わたしは、新しい、危篤室の、天井の、グレーのボードの穴を数えるクセが、ついていた。直径、2、3ミリほどの、穴は25あり、25を数えれるとき、わたしは、自分の意識がもどったと思った。グレー、灰色の穴が、22や23のときは、まだ、意識が正常でないと、自分で判断した。

山本又一先生は、わたしの、ふつうの人間だと、意識のない状態が、脳裏に残り、あとで、母をつうじ、聞くと、真剣に、黙ったまま、言葉を、聞いて、くださる方だった。

危篤の、状態から、脱したおり、祖母の弟にあたる、埼玉、杉戸(すぎと)の、英(えい)おじさんが、やってきた。
姫路の祖父に、倒産にたいして借金の申し出という。

ふつうの母親であれば、小学一年生で、危篤状態の子供に、会社経営の危機など、言わないけれど、母は「英おじさんの会社が大変なの」といった。
わたしが、おじいちゃんは、お金があるの?ときくと、母は「持っているの」という性格をしていた。

英おじさんは、姫路日赤の、食事と薬を、「小窓」から差し出せる、アンティークな造りの、個室にいた、わたしと、会うなり、いつもどおり、ニコニコわらいかけてくれた。
あたたかな人の思い出しかない、高田英おじさんが、「東雲町」の北にある、病院へ、お見舞いにきてくれるというので、気分は、よかった。

わたしの病気はすべて、現在の病名でいうと、アレルギー性疾患になってしまうが、ネフローゼ症候群とぜんそく症候群で、洟をかもうとしていた、わたしに、医師の家系に生まれた、英おじさんは、「両方をかんだら、いけないよ。洟は、片方づつ、ゆっくりかまないとね」と、江戸言葉で教えてくれた。

そして、1958年ごろ、姫路での、日雇い賃金が360円から、少し上がろうとするころ、「500円札」を、わたし、「好きな、本でも、買ってもらって」といった。
わたしの知識は、いまの英おじさんにとって、500円は、貴重なものだろうとおもい、「いらない」と言った。
すると、母が気づき、恥ずかしそうに微笑み、「こんなお金じゃないの」と言った。
英おじさんも、わらった。

わたしが、母に、「駅まで、ハイヤー」というと、英おじさんは、お見舞いにきたのか、困らしにきたのか、わからないという表情をみせた。

母が姫路駅へ、見送りに行ったあと、東雲町の実家へ寄ってきたのか、先に祖母が来たので、おじいちゃんとは、死ぬまで会わないと言った。

国の、仕事を、40歳代で辞め、第二の人生をおくろうという祖父は、武家の商売か、一財産をなくすという、被害にあったということを、聞かされたのは、わたしが20歳をすぎてからである。

季節がらの、台風でもあったのか、体調が急変したので、祖父が姫路城ちかく、百貨店『やまとやしき』で、わたしが欲しいといっていた、モダンな積み木を、薬用の「小窓」から、機嫌をとるように出したとき、「会わない」といって、わたしの体調は、より、ひどくなった。

そして、2年後、祖父はガンを発症し、江戸時代のとちゅうで、譜代松平家となった、白鷺城がみえる、姫路のイエから、とうじ、日本一の医師がいた、大阪市立大へ護送され、手術をうけた。
祖父の病室は、わたしの病室とちがい、付き添いの部屋から、風呂も、応接間もあり、すべて、射光する、カーテンが、幾重にもあった。
そして、「好信(よしのぶ)は、学者になりなさい」と、わたしに遺言をのこし、祖父は、亡くなった。
1960年7月のことである。

官僚の祖父は、書家でもあった。幼いとき、神戸で、汽車で、『六甲トンネル』を通るとき、母が、「おじいちゃんの字」と良く言った。
仕事がらと、兵庫県の知事も、祖父の親友だったため、姫路では、「市川大橋」、「夢前(ゆめさき)大橋」など、祖父の字だった。

祖父の文机には、わたしが「金魚ペン」といっていた、赤や青の、カラフルな万年筆が20本ぐらいあった。そのせいか、わたしの筆箱に、万年筆があるようになったのは、8歳のときである。
祖父の字と同じく、カラフルな金魚ペンを、わたしは、嫌った。
わたしに、祖父の個性がわかりだしたのは、11歳ごろだった。

3]
天板が上がる、「斜度20」ぐらいの、父方の祖父の机を、1984年、日本橋三越に、「斜度15」で、依頼したら、「いまは、できません。天板だけでも、100万円以上かかります」という。
趣味の世界を理解するには、時間がかる。

お茶を中心に、珈琲の世界がある。
珈琲は、父方の伯母、わたしには大伯母も、昭和一ケタから、あつかっており、わたしのイエは、お茶どうよう、珈琲の味に敏感だった。
1976年、妻が、わたしのイエで、母が出した、珈琲を口にしたときの驚きはなかったという。

わたしは、とうじ、甲州街道沿いにあった新宿『ヤマモトコーヒー』のおじさんとおばさんのすすめで、1980年代から、自分で焙煎をはじめた。
『両祖父と同じことをするのか』と思った。

わたしがするのですかといったら、「それしかないね」といわれ、「ブルーマウンテン」「アラビアンモカ」「トラジャ」を中心に煎った。
1980年代、「アラビアンモカ」は、幾種類もの味があり、「ハワイコナ」も、ずいぶん煎った。

各国のを味わったのに、歳月がたつと、「これも、いいんじゃないかい」と、旧制六中(いま、新宿高校卒)の、読書人のおじさんは親切に安い価格のを、江戸弁で言ってくれた。
でも、 わたしが購入するのは、「ブルーマウンテン」と「アラビアンモカ」が中心だった。

わたしが、新宿で使う場所は、だいたいが、「京王プラザ」の喫茶室で、なじみの、編集者とは、1980年代、新宿の「マイシティ」にあった「プチモンド」などだった。
ここは、喫茶室自体が、広間の連続というか、ガランとして、空気が、よかった。
新宿、渋谷、神田の喫茶店は、どうも、「書き手」が多く、編集者から、印刷原稿を出される、雰囲気が嫌いだった。

珈琲の味だけれど、ホテルでゆくと、東京は、横浜より、落ちるし、神戸より落ちる。
この表現だと、神戸が、いちばんとなる。
これは、神戸の人間、いわゆる播州人が、味覚に敏感で、正直な感情を優先させるところにある。

新宿の『談話室、滝沢(たきざわ)』が、2005年3月31日、閉店というので、どんな店だったの?との、過去何回目かの質問を、妻がする。
妻は、取材する側の仕事だったので、作家たちが、住居とする沿線のターミナルを中心に、喫茶店は、必要だった。が、妻は、使ったことがないという。

わたしは、とにかく『滝沢』は、客が多く、昔の国鉄(いまJR)の、待合室に似て、アナウンスで、「何番さん〜」と呼ばれる所で、事務所を構えることを考えると、1980年代で、一杯1000円は安かったと、同じ言葉を反復した。

東京の珈琲文化は、「血液型と気質」説が流行した1930年ころ、銀座中心にさかえた。これは、今和次郎(こん・わじろう)の作図でわかる。

京都では、「血液型と性格」の、先駆者である原来復(はら・きまた)の、親戚たちが、京都帝大にいたので、それを、無視する、古川竹二(ふるかわ・たけじ)を許せない、風潮があった。

4]

原来復と同じく、信州出身、東洋史学の宮崎市定(みやざき・いちさだ。1901−95。没93歳)。
わたしは、大昔、宮崎先生から、「貨幣論」ぐらいを受講した。

いま、京大、文学部長の金田章裕(きんだ・あきひろ)さんのは、30年まえ、哲学と関係ないのに、受講した。
「弁慶あらわれ、牛若丸、義経は、五条の橋の欄干に」と言い、教壇から、講義机へ飛び乗りそうな勢いで、ときの、日本、中世史のスター、永原慶二(ながはら・けいじ。1922−2004年、没81歳)を、学会で論破してきますが、十八番だった。そして、私の論文が、『歴評』(れきひょう。「歴史評論」のこと)に、掲載されました、めでたい、今日は、赤飯です、諸君、買って読んで、と大声で言い、とても愉快だったので、20講義も受けた。
けれど、桑原武夫さんの父、桑原隲蔵(くわばら・じつぞう)さんの教え子にあたる宮崎さんは、60歳代なのに、すごいお爺さんのかんじがして、退屈だったからやめた。

京都の珈琲文化だが、祇園、円山公園のなか。知恩院の境内の西にあった、部屋が10室だったときく、「也阿弥ホテル(也阿弥楼とも)」が最初のようだ。
洋風の「也阿弥(やあみ)ホテル」は明治14(1881)年、長崎県出身の井上万吉による。

京都へ「珈琲」を、持ちはこんだのが、長崎の人とかけば、「南蛮文化」からの調査もできそうだ。

喫茶では、四条烏丸、大丸百貨店の、東に喫茶があり、寺町角に「菊水(きくすい)」、四条大橋、東詰めの「菊水」などが、最初の歴史をもつ。

大丸の東側には、中庭が粋だった「土橋画廊」があった。京阪の画家、美術家では、土橋(つちはし)で、個展をひらくことが、ひとつの、ステイタスの時代だった。
歴史とともに、新しい「意匠」をもとめる装束の歴史でわかるとおり、大丸周辺に、資産家があつまり、「話題」を、つぎつぎ、求めていったというのも理解できるだろう。

わたしの、高齢の父が、なぜか、近所に出店してきた「イノダ」を気にしている。
わたしの父は、東京芸大出身の、大学教員からの、個展案内がくると、「ああっ、絵の具代がもったいない」という。

その父が、「あの、おっさんがなぁ」と、先代イノダをいうので、イノダのおっちゃんは、1960年代、絵描きさんへ理解のあった、篤志家だったとわたしは言った。
当人は、当人自覚の、すごく下手な人だったと、いったら、「目の前で、ドーナッツをあげてくれてなぁ」と絵には触れない。
イノダのコーヒーにドーナッツを、父が口にするとは、信じられなかったので、質問すると、「施主や、ワシがした」という。どこをしたのかというと、「三条本店」という。
この三条本店へは、京阪神出身の知人たちが案内してくれというので、よく連れて行った。

父も美術を志したが、祖父に叱責され、やめたので、先代イノダのおっちゃんとは、気持ちが通じたのだろう。
イノダのおっちゃんは、「日のあがり、600万円」といい、父を驚かせたという。
そして、梅田の阪急百貨店そば、芸能趣味人「大久保怜」さんところは、「日、200万円」という。
「令(れい)さんの店」には、入った記憶がないけれど、1970年代で、これには、少々、びっくりしながら、イノダは、「珈琲豆」の売り上げも入れているんじゃないか、面倒な仕事だと言った。

わたしは、イノダのは、「ミルクコーヒー」で、西陣が栄え、室町、新町通りの、呉服商が繁栄したとき、経営者どうし、朝の挨拶の場だった。朝一番、和気藹々の空気のなかで、「寸銅(ずんどう)」鍋から、オシャクでの、ミルクコーヒーは美味しかったのでは、と説明を加えた。

父は、仕事場を、会社の緊急事態は別にして、選ぶことができた。
それで、1970年代、わたしが、京都は、中学や高校の級友が多いし、「サルトル」の出版物で有名だった『人文書院』が元気だったけれど、力がなくなったので、会社をおこすから、京都に来て欲しいといった。
それで、父の仕事場は、京都駅から、四条通りのビルとなった。

京都の中心部は、なかなか、物件がでない。が、1976年暮れ、大谷大学を下がったところに出たので、小さなビルを建てるといったら、許可してくれた。

何より、実業が大事と、取り掛かろうとしていたら、年齢がいったら、単なる、文句いい、小言の商売人となりはてた、湯川秀樹さんたちの「京都学派」とやらが、学問をやめるのか、だから日本は学問がダメだとか、ああだこうだと言い、わたしから、時間と金銭を奪っていった。

父から、「お前は、持たしたら、持たしただけ、使う」と言われたが、取っていったのは、生産は、「人類に負の財産」を与えた、「原子力爆弾」だけで、このグウタラ言っていた「京都学派」とやらである。

1981年、わたしが、阪急沿線の、「桂(かつら)駅」で、この階段は、阪急のではない、女性の靴だと、あぶないから、上部へ言ってくれといったら、「これは、仮や。すぐ、なおすやろ」と言った。

2005年、阪急、桂駅の階段が、あぶない、昔のまま、などから、阪急は、以前は「四条大宮」が終点だったのかと聞くと、「そや」との返事するので、四条大宮で止めておいたら、名勝「嵐山」へ、道が遠く、映画関係者が住み、小さな商売が成り立ち、古い町並みを守れ、良い部分が残ったのにとわたしがいったら、父は黙った。

この父が、昔、建築にかかわり、「帳面(会計)」をしる、四条通りの百貨店が、いま、変化しようとしている。



                                               
▲上の写真   四条通りの百貨店、両方が父の仕事場だった。 (写真: 松田薫)
▼下の写真   銀座カフェ・バー地図、早稲田大、今和次郎(1931年)

                                                    


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京都昨今きょうとさっこん」松田薫)2006-07-06