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11.一着、啓光学園。水の色彩 | |
ⅰ) それぞれの季節に、時間に、記憶が、記憶を誘いだす。 わたしは、過去、一度も、川で、泳いだことがない。 小学校3年、4年は、加古川市川西小学校ですごした。この1962年、4年生の夏、「加古川」で、5年生の男子が水死した。一ヶ月ほどしか通っていないが、高砂市米田小学校一年の級友だった。 祖父の友人という、大玉校長は、夏休みの朝礼で、「おぼれて、亡くなりました」と言った。 わたしは、おぼれるなんて、ウソだとおもった。 直射日光を医師に止められていた、わたしに、涙がわき、目まいがおきた。 おぼれたのは家業が石屋で、体の骨組みが、わたしだけでなく、他の児童より、しっかりしていて、なにより、人格がおだやかな幼馴染だった。 涙をながしていたのは、わたし、ひとりだった。歳月がたち、校長は、誰々君を助けようとして、亡くなりましたとは言えないと気づいた。 高校のとき、わたしは、この過去と、水泳はクラス対抗の選手レベルだったので、水泳部へはいった。 高校で、啓光学園、「第9期」、1年A組になったとき、各クラスの、できる子が、わたしのいるクラスにあつまった。 となりのB組に、大阪府の模擬テストで、伝説の人、エサキ君がいるとは、思わなかった。年間11回ほどある、大阪の模擬テストは神戸圏内の受験者もふくみ、2回連続、トップをとるのは、不可能といわれていた。それを、したのが、エサキ君だった。 成績の良いものが集まった、A組みで、進学クラスが廃止されたことへの不満の声が高まった。わたしに、経営者の神父や職員へ、クラス再編成を言ってくれないかと言う。 代表で、職員室へ行くと、神父室の方へ、案内された。 「まさか、まつだ君が、啓光学園へ来てくれると思いませんでした。学園ができたころ、90人中60人を京大へ、行かせて、受験への加熱から、学園での暴力が多くなったので」と言われた。 受験勉強への抗議と、キリスト教の時間への抗議は、大変だったらしく、「第6期」の生徒が、1967年秋の運動会での「仮装行列」において、イエスの受難、十字架をかかえたキリストが、茨(いばら)をひく、ゴルゴダの丘をのぼってゆくところ、そのクライマックスで、キリストの使徒たちが、「K・K・K」団のマスクをかぶり、神父たち来賓の前で、十字架にあるキリストを焼いたということを、言われた。 これを、言えず、わたしは、「第9期生」の不満が嫌で、運動クラブへ入ることにした。 1、1967年、近畿ベスト8のラグビー部。ここは、いっぱいで、運動場で着替えをしなければいけない状態で、これは、嫌なかんじがし、2、家業が枚方市のゼネコンという、IN君のいる、野球部。部員7人で、即レギュラーだった。 母に相談したら体をこわすのでダメといわれたことをIN君にいうと、IN君が自分の父に言い、わたしの、ユニフォームからすべて用意するというけれど、親、きょうだいに、嘘、偽りはできないので、3、水泳部へ行った。 啓光学園のプールは、1967年秋に、ブルネット神父の手作りにより、完成された、50メートルの公認プールということだった。 結局、最初は、3つ見学し、野球部へゆき、2日つづけて、センターとレフトの間の、場外ホームランを3つ打ったとき、学園の外から、「建築中の、家に入ったらどうする」との苦情が来て、わたしは、顧問であり、担任の津田先生と、謝罪にゆき、なんか不愉快になって、ブルネット神父のいる水泳部へ行った。 入部の条件は、医師から水泳を禁止されている体で、泳げないですし、体調の良いときしか、できませんが、いいですかだった。 良いというので、水泳部へ行きながら、陸上部と、サッカー部と、バスケット部と、体操部にも行っていた。 啓光学園の体育の授業は、3年間ラグビーで、わたしがボールをもつと、誰も、追いかけてこない情況になったので、楽しくなくなった。それで、ラグビー部を見学に行った。ラグビー部には、同級で体格のいい「記虎敏和」君などがいて、走る練習ばかりしていた。 顧問の石塚勇先生は、京都の鴨沂(おうき)高校から、日々ラグビーで、「天理大学ラガーOB」という、生徒に人気のある先生だった。 石塚先生は、ラグビーの時間、啓光ボーイと言って、ボールのパス、リレーションの練習をしてくれた。 さらに、わたしには、どんな先生だったかというと、50メートルプールなのに、体育で一度も水泳をしない。 なぜ、水泳をしないのか、わたしは、水泳が嫌いだから、入部したのに、と聞くと、「オレ、泳がれへんねん。サカナちがうしな」といい、「冬季期間」のプール利用問題がでてきたので、わたしが、鮒や鯉を飼えば良いというと、「まつだは、アイディアマンや。オレ、天理大や。天理は、冬、プール、金魚や鯉とか、どこでも、飼ってる」という先生だった。 勉強はまったくしない、授業中に弁当は食べる、「聖書の時間」担当のロドリゲス神父の頭に黒板消しを落とす。修学旅行では、委員の、わたしが眠ったころホテルを抜け出し宮崎のスナックへ行った「できそこないの記虎君」が、いまあるのは、ほんの少しは短期停学を中止させた、わたしにあるけれど、ただただ石塚勇先生のおかげだ。 このことは、記虎君も、「そうや。みんな石塚先生のおかげやねん」と、3年生の3学期まで、大学進学を忘れていた、記虎君(啓光学園ラグビー監督から、いま、龍谷大学監督)を、あわてて天理大へ進学させてくれ、その後も面倒を見てくれた石塚先生を尊敬していることでわかる。 野球部に、陸上部、体操部へも行ったりしていた、わたしを、「おーい、まつだ。水泳連盟に登録したからな」と、顧問の砂場先生が、「一生徒、一クラブ」の制度となった6月、わたしを職員室まえまで、呼んだ。 このとき、わたしは、完全な水泳部員となったそうだ。 課題が、中学一年生のイシダ君を、200メートル、混合メドレーで入賞させてくれ、トレーニングの仕方がわからないというので、イシダ君向けに、スケジュールを組んだ。 イシダ君は、小学生のとき、医師の父をなくし、食事メニューは大丈夫?なのときくと、「お母さんが、看護婦でした」との返事だった。それで、タンパク質中心のメニューを組んだ。 カトリック啓光学園は、医師の子弟が多く、京都大学、京都府立大の教授とか、わたしの級友や同窓の父親は、だいたい、共働きで、女医と結婚していた。かれらの父は、1960年代まで、京都で美徳といわれた、日曜日などは「無料診療」をしていたことだ。 ⅱ) わたしは、水泳教本を買いに、大阪の旭屋本店へ行った。課題を実行するために、干渉が嫌いな性格のため、高校生の試験休みの一週間を、わたしにくださいと言った。 大会をひかえた、高校生が怒るかとおもったら、休みが一週間以上になったと、喜んだ。 小さな学校の、啓光学園の生徒にたかる、ひどい高校があった。逃げるが一番と思って、イシダ君に、100メートル、12秒ぐらいで走れるか?ときくと、とうてい不可能な能力とわかった。 それで、「枚方市駅」があぶないので、京阪私市線の、「中宮」(なかみや。いま、「宮の坂」)の駅を利用することにした。 さらに、公式大会への出場のため、期末テストまえ、学園へきてくれていた、カバン屋さんと、靴屋のおじさんに、いっけん中学生風、格闘対策用の、鋲だらけの改造カバンと、鉄鋲付きクツにしてもらった。 理由をきくので、中学生が不良に狙われたとき、カバンと、靴で、対抗するのでというと、わらって、頑丈なカバンにしてくれた。カバンの代金が160円だったので、「え!」とこれにも、おどろいた。 このとき、わたしの、行動を見ていてくれたのは、クラレチアン会のブルネット神父と、レジデンス(修道室)に、20数人いた修道士たちだった。毎日、6人から8人、プールへ来てくれていた。 予定では、午前90分、午後90分での、一日、3時間、3日間で、基本をマスターだった。 イシダ君に、水泳の基本は、クロールなど、泳いでいるとき、手をのばした、ひとつの形で、腰の部分を、背筋と腹筋で押さえ、体を止めることができ、そのまま、体を流せること。と言っても、わたしの言うことが理解できなかった。 平泳ぎは、欧米の泳法のなかで、唯一、力学に反する方向に、力を使うので、とにかく、反作用運動となる、カエルが手足を閉じたとき、水中で、腰を沈め、体を止めることと言っても、これも、理解できなかった。 それで、まったくできない、バタフライも、足のキックがどうにもならないので、もう、すべて、足の運動はいらないと、わたしは決め、無理がかからないよう、手の運動の幅を狭めた。 イシダ君は、わたしが退屈だろうと思って、「これ。読みます?」と、カバンのなかから、恥ずかしそうに『カムイ伝』(白土三平)の単行本をだしてきた。 わたしは、このころ、プールサイドでは、哲学は、キリスト教を批判していた、バートランド・ラッセルの原書を読んでいた。ロドリゲス神父が懸命に批判するデカルトは、フランス語のため、読めなかったし、暗記には、適していない、少し古いフランス語の気がした。 とうじ、啓光学園には、「スペイン語研究会」と「エスペラント語研究会」が神父室のところにあった。2年になったら、入会して、スペインの哲学者オルテガを読もう考えていた。 神父さんたちは、わたしの読んでいるのが、ラッセルとわかっていても、何も言わなかった。それで、ラッセルの作品で、好きなところの暗記に退屈すると、サマセット・モームやヘミングウェイの原書を読んでいた。 そうしたら、4日目の木曜日で、泳げるようになり、6日目は、ジュニアで日本記録のタイムがでるようになり、ほっとした。 試験休みがすみ、補習授業がはじまる、7月20日ごろ、高校生がきて、まず、かれらがおどろいたのは、イシダ君の体型だった。 わたしの腕をみた級友が、「ポパイみたい」と言ったが、わたしなんかと違い、食欲のある、イシダ君はよく食べた。そのおかげで、プロレスラーのような体型に近づいた。 わたしが、バタフライは、もう、追いつけないよというと、信じられないかんじをして、じっさい、いっしょに泳いで、高校生と同じなので、かれらは、「うわっ」と喜んでくれた。 高校生たちが、ぎょっとした光景は、わたしが、イシダ君のつぎつぎ持ってくる『カムイ伝』を読んでいることだった。 「えっ、まつだ君、漫画よむの」が二年生の反応だった。これは、すごくできた漫画というと、高校2年の中川さんと、1年のハタ君が、白土三平の『カムイ外伝』などを十冊単位でもってきてくれた。 このカムイ伝の影響で、ラグビーをして、前からタックルしてくる連中を、「忍者飛び」といって、正面から飛んでいたら、頭を蹴って、石塚先生が、「危険行為」と笛を吹いた。 水泳大会は、高校も中学もいっしょの時で、わたしは、出場をしないと決めていたので、イシダ君のつきそい、ひとりで、「長居競技場」へ行くことにした。 顧問の砂場先生が、「必要なもの?」ときくので、ストップウォッチひとつといった。 決勝までのトライアルは、合計3回。イシダ君には、力を出さないように、注意をしていた。100メートルの、申告のとき、1位と、3秒空いていたので、2秒控えめに、登録すると、審査の教員が、睨みつけた。 このとうじの、長居のプールは、「波消し」がきくコースロープではなかった。 イシダ君は、予選、第1コースと、水の跳ね返りが多い、いちばん悪い場所となった。 競技場の、観覧席はさわがしいので、わたしは、反対の、芝生のところに、ひとり立っていた。それで、イシダ君に、わたしの足元がみえるかどうか、聞くと、「見えます」とのことだったので、わたしの足の速度に合わせること、50メートルまで、ビリであっても、いい。75メートルで、わたしは足をとめる。それからは、自由にと言った。 予選で、大会新記録だった。2位とは15メートルあいていた。それでも、水泳連盟の委員は認めず、準決勝は、第9コースと、まったく反対で、また、不利な位置をきめた。 イシダ君に、第9コースから、わたしの体が見えるかどうか聞くと、「見えます」というので、今回も同じく、わたしの動く速度に合わせることと言った。 準決勝も新記録で、2位とは、15メートルからあいていた。 わたしは、イシダ君に、つぎもルールどおりしないと、抗議にゆくといった。 こういった感情がわかるのか、水泳連盟は、連続1位という事実を認めず、決勝のコースは、本来、第5コースなのに、第3コースとした。 わたしは、イシダ君に、中学1年生のしている行為を、認めない、連盟への抗議は必要といったら、イシダ君は、「まつださん、いいです。ぼく、泳げるだけで、うれしいんです」と言った。 決勝の位置は、わたしの動きが見えやすい、第3コースだったので、これで最後だから、70メートルから、ダッシュをかけなさいと言った。 2位とは、20メートル開き、ジュニア日本新記録だった。 プレス(新聞記者)が、5人ほど来ていたけれど、かれらも、取材で、動こうとしなかった。こういった経験は、わたしが、小学五年生で経験していることだけれど、非常に不愉快だった。 水泳連盟があつまり、わたしに、「水泳歴」を聞くので、高校にはいって、2ヶ月しましたと返事したら、信じられない顔をしていた。 アナウンスを聞いてから、帰ろうとした。「一着、啓光学園、イシダヒトシ君」。このアナウンスに、わたしと、いっしょに来て良いかと、うかがい、わたしに昼食の「おにぎり」を作ってくれた、イシダ君の、お母さんが、わたしに、「ヒトシが。ほんとうですか。ほんとうですか、あのこが」と言った。 わたしは、帰りましょうかといった。 次の日、学園につくと、「斜度45」はある、芝生の上に、1年A組の、記虎君と、岡田君が、大阪名物、夕刊新聞を、読んでいる風に、みていた。 わたしに気づくと、一年でラグビーNo3の岡田君が、「まつだ、すごい。聞かせて」という。やせた岡田君とちがい、芝生からずり落ちないのかなぁとおもう記虎君も、「聞かせてえなぁ」というので、不愉快だったといっても、仕方ないので、「格好よかった。20メートル開いたから」といっていたら、職員室へ呼ばれた。 わたしは、受験勉強があるし、これで、終わりとおもい、「わたしが教えた、腕にも負担のない、泳法は真似されます。イシダ君にとっても、受験勉強のほうが簡単です」というのに、教員たちが、「まつだ君、ここは私立です。神父さまの、命令です」という。わたしは、私立だから、自由にして、いいんでしょう。わたしは、受験勉強のために来て、「スイカ畑」のアルバイトもありますからと言ったけれど、通じなかった。 水泳部の部長や、顧問は、わたしに、交通費だけでも請求してくれといったが、わたしは、学園の態度にも、不愉快で、金に変える気持ちはないと、断った。 ⅲ) こんな性格の、わたし自身が原因となったが、水泳大会のおかげで、3年の川上さんの、「スイカ番」に行けなくなった。 大阪はスイカの名産地で、このころは、交野市ぐらいとなり、その私市(きさいち)で、スイカ畑がある、川上さんは、受験の英単語の暗記を、夜中、香取線香をたて、スイカ畑でするという。 法律で、スイカ泥棒は「こん棒」で、どついても良いとなっているらしく、体格のいい、川上さんは、家業のアルバイトがある、見つけたら、どつくと言い、これが楽しそうで、スイカ畑を見たことがない、わたしも、アルバイトがしたいと言っていた。 水泳部で楽しかったのは、いつも監視台にいて英単語暗記をし、下級生を干渉しない、川上さんのおかげだった。プールで、日本古式泳法の実験ができ、水難事故で、洋服を着ているときのばあいなど、さまざまな練習ができた。 わたしが、毎回、いろいろなことを、試みるので、わたしの学業成績を知る、川上さんたち3年生は、プールサイドでの学習が一段落つくと、「毎回、変わったことをする、おもしろい、1年だ」と、ころげまわり、他の運動部員も集めていた。 結果、わたしたち、素人には、水泳部員であっても、人ひとり、助けることができないと、わかった。 水に関して、わたしは、父の専門に、水があったので、これも、いろいろ実験をすることになった。 プールの塩素殺菌の係りだったことから、わたしが、塩素の量を調節できた。塩素を増やすと、水がきれいになる。 わたしは、手をつけて、ヒリヒリするから、大丈夫かと、聞いたら、OKの連続で、「もっと」というので、これを、段階的にしていたら、眼を、開けておれない、とかいいだした。それで、次として、バルブの水量を上げた。 「気持ちがいい」といいはじめ、なぜ、こんな簡単なことに、気づかなかったのかと思っていたら、顧問が「おい、まつだ。職員室へ来い」と呼ぶ、行くと「枚方の水道局から、注意がきた」という。 クラブの時間が、「中宮団地」の夕食にあたり、水道がでないと、苦情があつまり、水道局が調べにしらべると、啓光とわかったという。わたしは、これぐらいの水の使用でなのですか?と考えながら言った。 真剣に答える、わたしに、数学や国語の先生たちが、クスクスとわらっている。 これで、つぎは、「プール干し」をかねた、掃除をした。皆、「デッキブラシ」を一度つかいたいという。わたしはイエにあったので、あんなの、高いだけで、プール掃除に向いていないといったのだけど、一人一本、23本買った。 デッキブラシは役に立たないし、これでは、会計がつづかないと、結局、「デッキブラシ」一本より、安い、亀の子タワシを50個買った。 掃除に掃除をして、水がきれいなのは、掃除をして、一日のこととわかった。 この、夏休みのあいだに、近畿大会が扇町公園であり、ここには、ついてゆき、ジュニア日本1位だった。 9月の中旬、東日本と、西日本とで、とうじは、放送大会があり、わたしは、親に、水泳で、休むとは言えないので、断った。引率は、砂場顧問がし、西日本では一位だったが、東日本と比べると、少しの差で、2位とのことだった。 これら水泳部の出来事は、同年の、1968年から、京都大学など、学生運動がさかんになって、翌年の69年は、わたしが、学園から、「学生運動」と「修学旅行」を治める総代の使命がきて、イシダ君のことで、自分が育てたと有頂天になった、砂場顧問の態度が大きく変化した。 「中学一年生を入部させてくれ」というので、新入生33人中、わたしが教えるという条件で、11人を水泳部に入れた。 なのに、砂場顧問は、「スパルタ教育だ」と言い、わたしが注意しても、実践した。 中学一年生たちへは、練習は、わたしの言うとおりでいいし、抗議は、いっしょに、顧問へと言っているのに、ひとりが、わたしに、「ウソつき」といった。 また、わたしは、2年になっても、プール掃除から、コースロープ巻きをしていた。これらも問題となり、後二週間で、クラブの履歴が残り、進学先が決まる水泳部に、退部届けをだすことにした。 1970年秋、卒業写真のとき、顧問の砂場先生は、わたしを何度も呼んだが、わたしは出席しなかった。 1996年、記虎敏和君が、「あのときの水泳部、すごかったな」といい、卒業名簿をみて、「まつだ。おまえとこ、住所もなにも、かいてへんで」と言った。 それは、担任の物理の仕業、といい、在学のときのままだけどねと返事した。 わたしが、空気と水に詳しい部分は、父の仕事のせいもあるけれども、イエでは、そのことは、話題にしなかった。 水での、実験は、啓光学園のばあい、化学が三年間だったので、わたしは、化学室で、同じ実験ばかりしていた。このわたしを、東大を病気で退学し、近畿大へ特待生で行った、尾崎隆三先生が、だまって見ていてくれていた。 ⅳ) 1970年代半ばまで、「京都の風物詩」だったけれど、平安神宮の南、白川では、夏、水を留め、プールがわりとして、子供たちの遊び場としていた。 この、小さく、複数の色彩をもつ、白川をみていると、自然に近い水の力が、多少、理解できる。 この「水の色彩」だが、「いろいろな纏まり」をもった、複数の清流が、速度をましたとき、その流れの、基である、源流での、山の、地盤とその周辺が、水の色合いを決めてくるのでは、それらが、原因であることが、自然であるかのように、考えていた。 複数の、流れの方向は、単純にみえる、一方向の流れと出あったり、また逆、反対も「逆での、色合い」ように、輻輳性を、絶えず、持つのだろうと、結論をだしていた。 数理への解決で、「座標軸」を与えたのは、実践の哲学者デカルトである。そして、ここをもとに、「オイラーの方程式」や「ベルヌーイの法則」がつづく。 しかし、これら、流体力学は、「工学」という、実際の「水理学」への応用は、困難となる。 技術者は、実際の困難に直面し、あれこれ、試してみる。 父が、「京都駅、ポルタ」の地下水の、水留め工事に入ったとき、「まるで、滝や。なかなか止められん」と言った。 この父の、右手に、幅1センチ、長さ20センチの傷跡がある。わたしが、いつ?ときくと、「ポルタ」のとき、ステンレスで、切ったという、なぜ、「武田病院」へ行かなかったのかと言うと、「号令をかけたワシが離すと、全部が倒れる。傷は、左手で押さえといたら、血がとまった」と言った。 わたしの疑問にたいし、母が、「もう、いつ死ぬかわからないんだから、お父さんに、聞いておきなさい」と、言う。 こう言われても、いつも、一言で終わらせてしまうか、専門になると、わたしが付いてゆけなく、わたしの頭が、混乱するので止めてきた。 水の色合いを、数値という理屈で解決しようとすることは、あきらめ、父に、質問すると、「逆はおうてる(合っている)が、その逆や」「えらい力の加速(計測しにくいほどの加速)での、水は、しゃくり(変則、釣り針や、バネの形状運動)ながら、動くんや」「辺地(へち)や。辺地を吸い込みながらや」との答えだった。 父のいう、「辺地(へち)」は、東京の武蔵野でみられる、「はけ」の現象かと質問すると、ちがうとのことだった。 ここで、さらに考え、「逆」は即ち「反対」が正解なのだろうけれど、ここで、わたしが使っている、「反対」の意味が、わたしが、理解できていないことは、わかった。 が、どのように、わかっていないのかが、わからなかった。 「しゃくる」の言葉も、半分も理解できていないとわかっていたけれど、説明してくれるかどうかと考えながら、二度、三度の「しゃくりよる」の言葉で、「掘り込むのような意味合い」が、ぼんやり理解でき、水が、あたる、川の流れをゆるめる「段差工」は「フィルター」や「弁」のような役目だけれど、その構造でゆくと、逆にあたる、「分岐からくる抵抗」が発生してくる。 「掻い出し(複数の変則運動)」や「吸収と吐出(計測不可の双方向性運動)」を合わせながらの、色彩の変化なのかと聞いたら、「そや」との返事だった。 父の「そや」には、『ようやくわかったのか』が、いつも加わる。 それぞれの、流れがもつ、「水の物体」を考え、それらが、「互いの摩擦」をおこし、抵抗による、加重による「正の熱」と「負の熱」の発生、さまざまな可動する水の層がもつ、「掻い出し」の力量を考えると、複雑さは、使っている言語が同じであっても、理解ができていないのではと思うようになった。 川の成り立ちをはじめ、細胞が構成されている「境界」「界面」が、えぐられること、侵されることにより、人間は「病気」へと、進んでゆく。 こんな簡単にみえる事が、いまの哲学や医学などでは、わからない。 写真の、白川の色合いと、水の力量は、位置により、すべて異なる。この水平にみえる、事象を、「縦」にして、「川」、および、「海」は、このような現象が日常であり、「ヒトの体」も同じと考え、スタートすればいい。 これらは、インフルエンザのウィルスでは、昔からだけれも、いま、「AIDS」をはじめ、「鳥や牛」など、問題になっている、さまざまな「病原ウィルス」を、閉じ込める考え方となる。 哲学でいう「界面」の制御、医学での「抗ウィルス」を、成立させることが、10代の若い頭脳では、実験につぐ実験、数理につぐ数理で、構築できるのはないかと考え、タイプしておく。 ▲ 今年、白川に放流された魚 (写真: 松田薫) ▼ 平安神宮ちかくの白川 (写真: 松田薫) ◎啓光、水泳部の色彩は、ブルネット神父が好きなプルシアン・ブルー Prussian Blue 。 紺のジャージに白のドイツ花文字だった。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-07-02 |