京都昨今
10.「東京哲学」のスタイル  シャイでダンディな沢田允茂

1)
哲学者、大森荘蔵をしったのは、『言語・知覚・世界』(岩波書店 1971)が刊行された、翌年だった。

哲学の本場は、関西という時代、奇妙なことに、「大森荘蔵」をテキストにして、つぎなる、段階へ哲学をすすめてゆかないのかが、わからなかった。

大学の教員をしながら、大森荘蔵のような、哲学をつくってゆくには、昔、容器をもって、豆腐屋さんから、「豆腐」をかって、水をこぼさず、イエへ持ってかえるのと同じような、作業を連続すればいい。

大学という制度や、学界とかいう世界が、ずいぶん妨害となる、学生運動の時代、となっての刊行のため、話題にならず、テキストにならないのかと思った。

哲学の本場という、関西では、教員では、フッサールが流行の中心のなか、サルトルは語り飽きたという風潮で、教壇と学生のあいだでは、雑談しやすい、メルロ・ポンティが風潮になっていた。

関西の哲学徒は、東京には、哲学者がいないという。わたしが、いる。ひとり、「大森荘蔵」がと答えた。
「どこの人」と、1977年の春、ドイツがえりの、川島秀一さんもクックッいうので、東京と返事した。
「どこの大学」とまたきくので、「東大」というところと言った。

そして、いま、科学哲学は、フッサールで、「フッサールを日本に紹介したのは、ぼくだよ。まつだ君も、フッサールをして、大学にのこりなさい」と川島秀一さんがいう。
わたしは、「フッサールなんか教えるの嫌ですよ。フッサールは哲学の教育者。桑木厳翼(くわき・げんよく。1874−1946)が紹介しているじゃないですか」というと、「それ、なに屋さんや」と川島さんは質問をつづける。
哲学屋さん。弟に、物理学の「桑木或雄(あやお)」がいると返事をした。
「どこの大学や」ときくので、「東京帝国大学」といい、東北帝大の高橋里美も紹介していますよ。京大の教壇のときは、夏目漱石を京都案内して、桑木厳翼と或雄は、アインシュタインの友達というと、「ぼくはねぇ、アインシュタインは、知ってるよ。本でだけどね」という。

「でも、まつだ君、やはり、フッサールだよ。フッサールをして、ぼくは年収850万円」と、川島秀一さんがいうので、850万円って、地方銀行の支店長より、所得が低いし、フッサールは、自己分析で、自分が「風鈴頭(ふうりんあたま)」って弟子に言ってたでしょ、といった。
「なんだね、風鈴頭って」と川島さんがきく。
風鈴頭って、欧米だと、「ベル頭」。中身が無く、ただ、うるさいことらしいのと説明した。

あのね、これからなんだよ、フッサールは」と、川島さんは食い下がるので、フッサールって、そこに卵があるって、言った人でしょ、中身を追求していないって、弟子に指摘されていたでしょ。フッサールを教えるぐらいならカントと言ったら、「カントはぼくに言わせると、同じ事ばかり述べているのでバカだね」というので、あれは、ひとつの修辞で、表現法ですよ。カントはじつに真剣な哲学者だった。また、ベルクソンとか、人格をかんじさせる哲学者は、講義できますけどねと言うと、「まつだ君と同じこと、三輪正(大阪大学)も言ってるんだよ。でも、まつだ君、ぼくは、黄身嫌い。平石善司さんによると、君は25歳で、教授か。文部省にどう言うんだ。それだけは、ぼく、嫌だよ」といったので、わらった。


2)

こんなことよりも、大森荘蔵のような、すみきって、新しい哲学の構築を、「模擬」として、つくって、ゆくのには、1960〜70年代は、まだ、学生運動がつづいており、ずいぶん騒がしい時代に、よくされたと思いますと言うと、しばらくして、「東大教授は所得が低いけど、大森荘蔵だよ」と言いだしたので、そんな、おおげさなと言った。

「三宅八幡」と、大森荘蔵と、意見のあうところは、このさわがしい時代に、目立ち、論議の中心を、哲学ではなく、社会評論にした鶴見俊輔さん、日高六郎さんたちの、政治談議批判だった。

同じ職場だったというのに、大森荘蔵は、京都でもみられる、他の哲学者どうよう、日高六郎たちマスコミ人は、敬遠どころか、言葉にもしなかった。

わたしが、日高六郎、とは知己であることをいうと、大森荘蔵は、昔の、食卓にくる、銀蝿を手ではらうような、仕草を、『もうっ!』といった感じでした。


社会には、同じような事件が反復する。それらに、毎年くる、第二次世界大戦、その敗戦の日などの社会事象には、社会事象が同じでも、取材するマスコミの記者たちが毎年、変わり、かれらにとっては、会う人が、初対面であり、校閲から整理まで、載せるがわも、過去に、見たことがあり、同じことを言ってくれる人であれば、何も考える必要がない。

こういった社会評論家たち以上に、雑誌やテレビでは、社会事象で、映像化し、コメントをいえ、心理や、精神医学などを、多少解説者するひとがいれば、講演や番組という形になり、「ああっ、終わりました。先生、ごくろうさま」と言えるのだから、このような人が重要となる。

社会事象にたいし、哲学のなかの「倫理学」という分野におかれる学問も、昔から、ほとんど変化はない。

それにたいし、哲学の「科学哲学の構築」には、10年、20年、30年という単位がひとつになってくるし、大きな失敗を、覚悟しておかないといけない。

先にかいたように、哲学とは、たとえば、音楽やスポーツなどでいうと、その演奏会まえ、その大会まえの緊張が、日常に連続する学問である。

まして、自分自身すらわかりにくい「新しい問題(命題)」を解決してゆこうとする人たちにとって、騒がしい、社会や、倫理や心理の評論家が、なにもかも習熟した顔をし、学会という業績発表という場まで、反復事のつづきをされると、哲学をしているひとたちには、落ち着かない状態となる。

3)

大森荘蔵先生との、新たな、出会いは、1982年、湯川秀樹さん、下村寅太郎さんたちがつくったと、科学史の湯浅光朝さんに教えられた「科学基礎論学会」の寄り合いだった。

湯川さん、下村さんたちは、とっくに、学問を、一段落されているのに、大森荘蔵はちがった。
東大を退官したころで、還暦をすぎているのに、まだ、若いころから考えつづけた命題を、おこなっているというのだ。
「わたしは、生き死にをかけて、やります」「わたしは必ずやります」が、彼の言葉だった。

そして、わたしには、わたしの、学問の方向の、真意をたずねられるので、小学生でも考える、「平和に役立てば」をやっているのですといい、1980年ごろの、「社会の進行を、わたしが中国、インド、それに」といえば、大森荘蔵は、「われわれの情報では、イスラエルになっています」という言葉を、きわめて真摯にいった。
このような、緊張のある言葉を、京都では、聞いたことがなかった。

大森さんは、良い雰囲気のカレッジをおもわせる「成城学園大学」での、基礎論学会による、議論のフェスタ(祭り)での、ゲストで、わたしはフロアの位置で、最初に見た。

テーマをとりあげていても、議論がすすまない。このままでは、司会進行をふくめ、初老者たちによる、上品で静かな「五人囃子」だと思ってながめていた。

大森さんは、細胞学者の、慶応(医)の木原弘二(きはら・ひろじ)さんが、ふつうの生物が所有する細胞のなかにおいて「われわれのあいだでは、細胞というのは、ないのかと」いった表現をとらえた。

木原弘二さんは、生命体の、細胞には、皮膚細胞、神経細胞、血液細胞といった具合に、さまざまなのが存在し、それらの細胞どうしの、「連絡(関連、連関、関係)」、それら存在の意義、認識が困難であるという内容を、非常にコンパクトにし、「ない」といった。

大森荘蔵さんは、どうにもならないゲストにたいし、将来ある、生真面目なフーテンの寅さん風、細胞学者、木原弘二さんにたいし「若い友よ、許せ。堕落はいかん。ちょっと、ごめん」というふうに、つかまえた。

「日本人はある、中国人はあるではないか、細胞はある」といったぐあいに、大森は、いきなり、大森荘蔵、かれ自身が、知り尽くしている、歪んだ修辞をつかい、認識論から、存在論へと転換させた。

オーケストラでゆくと、バイオリン、チェロ、コントラバス。フルート、オーボエも大事な楽器で、これらを細胞と考えればいい。

木原弘二は、バイオリンはどこまでも難しい、フルートもどこまでも難しくって、それらを、習熟する事はできなく、また習熟方法はないのではないかの、「ない」と言ったのだ。
それにたいし、大森荘蔵は、バイオリンはある、フルートもあるのに、なぜ、「ない」などというのかと意見をいったと考えればいい。

ジャケットを渋いグリーンに決めた、木原弘二さんは、『はい、はい、はい。そうです。日本の生物学、医学の進展が遅いようにみえるのも、すべて、わたしのせいです。わたしには、指揮者なんかできません』と、奥様がコーディネイトされたという、グリーンのハンカチで、汗をふきふき、こうなったら、ぼくは京都出身で、妻は、京阪沿線のある枚方市出身ですから、乃木希典(のぎ まれすけ)大将のような、切腹は無理でも、「京阪三条駅上」にある、「高山彦九郎の銅像」ふうは、しますといったかんじになった。

わたしは、東京で、関西圏出身の、正直な人、二人、発見とおもった。

『生命とはなにか』(木原弘二 講談社ブルーバックス 1982)、この新書は、細胞学、分子生物学とはなにかを、渾身にかいたかのような書物で、1980年ごろから、原稿を、書かれてから、25年ほどたった、いま、医学部や生物学の教壇に立っているひとが、思索課題として取り上げることができるのではと思う書である。

4)

大森荘蔵はこんなことを意識的にした。わたし自身の関心は、彼の手のひらにあった。
手のライン構造は、1982年で、「手」のことばかり、15年はしていたので、分かったけれど、大森荘蔵の手の皮膚構造、その紋理(理紋、隆紋)が、理解しにくかった。

わたしは、2006年にいたる、今日まで、大森荘蔵のような、浅い皮膚隆紋(理紋、紋理)を見た事がない。

わたしが、皮膚隆紋と、両手をみせてもらったとき、大森荘蔵は、占い師か、なにか得体のわからない考え方をもつ相手とまで思わなくても、手のひらに、汗がにじみでてきた。

この緊張での、発汗の仕方は、大森荘蔵さんの教え子、村上陽一郎さんも似ていた。
わたしは、発汗や手相の占い師ではないので、まったく、関係がないのだけれど、かれらをみて、小学生のころの友人を、思い返した。

手の、皮膚隆紋の採集をとおもいながら、大森荘蔵先生は、消えた(1921〜97年 没76歳)。
わたしには、大森荘蔵先生の、言動が、まだ生きて、ぼんやりと考えながら、居るのに、沢田允茂(さわだ・のぶしげ)先生も、今年4月14日に消えた(1916〜2006年、没89歳)。

1982年初夏、大森荘蔵さんから、いま、知りたいことは、と聞かれたので、記号学の最先端ですといった。
それで、大森荘蔵先生より、五年も先輩の、沢田先生は、わたしから会いにゆきますと言ったら、
「逗子だよ。あんな遠いところ。三田に、来てもらえよ。ぼく、いま、電話するよ」といった。
年齢という、こだわりを越えていた、お二人の会話の断片が、いま、ふたたび、浮かんでくる。

三田にある名誉教授室での、沢田允茂さんの大声には、びっくりした。「おお、君。君が、まつだ君か」と、パーティ用の白のドレスシャツを着た、沢田允茂さんは、立ち居となり、わたしへ、握手をもとめた。
握手となる、瞬間、彼の手が眼にはいった。わたしは、手のひらにある一本のラインを、春、夏、秋、冬、台風型と、大きく5分類にした。

手のラインは、哲学にかぎらず、文芸の世界でも、論理構築してゆくのは、「夏型」ばかりになる。大森荘蔵もその弟子の村上陽一郎、そして沢田允茂にしても、夏型の分類に入る。単純というか、純粋な思考で、風ふく野原でのコスモスとかススキ風に物事を進めてゆくのは「秋型」で、これは木原弘二や、今年97歳で亡くなった哲学者であり邦楽家の「吉川英史」にみられる。

これら分類は、季節そのものと、合わせて考えればいい。わたしにとっての問題は、じっさいに見ないと分からない、「指紋の構造」といえば理解ができるだろうが、それに類する「皮膚隆紋(紋理)」である。
沢田允茂、かれの手のひらの構造は、ピカソのような、深い皮膚隆紋をなしていた。

それで、わたしは言った。先生、こんなのないですよと、これまでの「論理学の論考」など著書類は、どうなっているのですか、先生が、戦後の「東京哲学」のまとめ役だったのですか、「東京哲学」の宣伝活動の犠牲となり、人と人の「つながり」の連絡係をされていたのですか、とわたしは言った。
「ええっ、どうして!? なぜ」と明るく、ごきげんなので、なにを考えて、これまでの表現をされてきたのですか、肝心な「沢田允茂」自身の表現が、ないじゃないですかというと、「うん? ここまでね、来たんだよ。ようやくね。うん。いいんだよ」と言い、「それより、まつだ君の学問は、どれ、どれなの?」と聞く。
わたしは、もう、いいですよ、自分でしますから、と言った。

わたしの記憶は、1歳からあり、生活をした、東京も、大阪も、神戸も、1950年代は、まだ、戦争の跡形だらけで、ところどころにあり、見えた、破壊された建物と、道路が記憶から出てきた。
大正時代に生まれた、彼らは、勉学する青春時代に、同級や同窓を、太平洋戦争でなくし、なかでも大事な哲学をする友人を、なくしてしまっていたのかという、そのときの考えは、わたしのなかで、まだ、未解決のまま進行している。




▲ 沢田先生が亡くなられたときの、祇園白川の花々 (写真: 松田薫)
▼  京都国立博物館    考える人   ロダン
  (写真: 松田薫)  

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-06-29