京都昨今
9.よみがえりゆかせた「古都」  川端康成

一)

もみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千恵子は見つけた。
「ああ、今年も咲いた。」と、千恵子は、春のやさしさに出会った。

で、川端康成の「古都」は、はじまる。
京都の織物文化を活性化させた「古都」は、川端康成の、京都生活をもとに、1961年10月〜翌62年1月いっぱいまで、「朝日新聞」に連載された。
川端文学は、書籍、映画。とくに、和服を、大流行させ、西陣を復活させるところまで持ってゆく力があった。

京都の観光案内は、昔から出ている。グルメに関しても、「古都」執筆のとき、川端康成の近くに住んでいた、谷崎潤一郎は、従来から美味しいと評価されている店に、「まずい」「これも、まずい」との批評をつけていった。

川端の場合、生まれが大阪、茨木であっても、京都を遠いものとして、旅行客として描くのにたいし、谷崎潤一郎は、すべて、自分の経験からくる判断、おいしいものと、おいしくないものを、明確にしてゆく。
このような、物と物とへ明確な「境界」をつけようとする、感性は、川端は意識的に、表現から遠ざけながら、問題は何か、その問いかけと追求を哲学者以上にする。

千恵子が、男友達の真一に、「大文字山」を、説明することに、
「へええ、大文字山か。高う見えるやんか?」
「花のなかに見るからどっしゃろな。」そう言う千恵子も、花のなかに立っていた。

こういった、レトリックの「メタファー」を、1975年、フランスからの留学生は、わたしに、川端康成の世界は、どこにあるのですかときいた。
川端が、古都を執筆した屋敷からちかい、出町柳で、わたしは、すぐ、そこにあるのですけれど、近づけたとしても、ふつうの日本人でも、わかりにくいですと答えた。

二)
大学での授業に、「フランス歳時記 12ヶ月」というのがあって、「沢田潤(さわだ・じゅん)」さんが担当だった。
他の講義のときは、「ラルース」に、ドイツ語と同じく、「OED全巻」をつかっていたが、フランス歳時記のばあい、あきらめ、「大修館の75年増補版スタンダード」を選んだ。そうして、半分ほど、予習をおえたころ、沢田さんが、わたしを当てた。

わたしが、文章を読み、訳したあと、沢田潤さんは、「来てくださいますか」と、わたしを教壇へと呼び、「あなたは、なぜ、こんな退屈なもの、読まれているのですか」と質問された。
わたしは、こんな論理、このような修辞と、しばらく沈黙した。
そして、生涯、読まないとおもう、言葉や文章でも、何かに役立つのかも知れないから、覚えてしまおうとおもったのでと返事した。

この瞬間、教室の、空気が奇妙になった。それで、先生は、どういった、わけで、この本をテキストに?ときいた。
「いいえ。教科書の業者が、15冊、机の上に置いていったから」と沢田さんは、15冊が目の前にある表現をする。
そして、「適当に、この白い本を選んだんですけれどね。つぎから、別のテキストにしましょう」と言ったので、高価な発音教材などを買っていた学生もいた教室中に不平がおきた。

関西のフランス語の教員は、京都弁でいうと、「けったいな先生」に入るのだろうけど、関西学院大の、丹治恆次郎(たんじ・つねじろう)先生は、真面目な講義をされ、「辞書などに、いい、日本語がありませんね」とかいい、わたしを当て、「それ、いい日本語ですね」と、ここまでは、正常か、ほめ言葉か、どうでもいいのだけれど、瀟洒で紳士な丹治先生も、急に、「わたしが友人同士で、大徳寺へ行ったとき、あの坊主は、拝観させなかった。そのあと、住友勤務の会社員がきたら、拝観させるのだから、わたしはこのままでは、終わらない」とかいう。「とつぜん、デ・キリコ」かとおもわせる、シュールで正直な少年のような先生が多かった。

この大徳寺、「大仙院」の「尾関宗園(おぜき・そうえん)」さんは、1975年初夏、妻に、下宿の近くに、有名な僧侶がいるのと、案内され、わたしが行ったとき、「おぬし、解脱しとる。坊主にならんか。そしたら、彼女も来てくれるしのお」と言った人だ。

沢田さんが半月後に用意した、テキストは、サガンの「Un certain sourire」だった。
「1976年でサガンか」というのが、日仏学館へ通っていたひとたちの反応だった。沢田さんは、ただでさえ、休講だらけの、講義は30分遅れで、60分しかしないという、「不良風、中年登校講義拒否症候群」にかかっておられたので、学生の不満は大きかった。

わたしは、英語は、大阪の土佐堀YMCAも京都も。フランス語は関西日仏はじめ、どこも数回しか、続かない性格をしていたので、沢田潤さんの講義も、適当に止めようとおもっていた。

サガンの、「Un certain sourire」を読み始められたとき、わたしは、沢田さんの、フランス語の発声に驚かされた。ラテン語圏は、ネイティブに習ったわたしは、急遽、誰もすわらなくなった、前列、右端の席に移動した。
また、サガンの日本語訳も、すぐれていた。副詞、形容詞句、接続詞などの訳が、なめらかなのだ。

小柄な沢田さんは、フランスで、病気にかかり、入院中、看護婦に、子供と間違えられたので、教授というと、親切な態度になったという、逸話をされる。

他の学生は、サガンのは、翻訳がでているので、それを参考にしていたが、原文は、まったくと言ってよい、違ったものだった。

わたしは、予習を、ラルースに、講義には初心者用の小さな仏和に変えた。すると、沢田さんは、新しい大修館の「75年増補版スタンダード」と、「眼鏡」をつけ講義をはじめた。

わたしは、サガンの文学力、選んだ言葉の音楽性と、文章の湿り気に、あの有名人による、「カサカサ翻訳」の責任はと思った。

三)

このことは、医学というより、科学哲学の分野のほうが向いている文章表現力をもった、Jacques Lucien Monodにも言えた。Monodは、大谷大学を下がった「至成堂書店」で、見つけた。

はじめ、「モー」とわたしは読んだ。そのため、翻訳が、まだ、できていないのかとおもいながら、確かな思考力におどろき、これは、翻訳が成されているという考えから、「丸善」へゆき、調べて、慶応大の人が訳され、「ジャック・モノー」と命名されているのに気づいた。
Monodの翻訳は、杜撰というより、デタラメをこえたものだった。

1982年、細胞学で柔軟な思考をされ、教えられることが多かった慶応大の木原弘二(きはら・ひろじ)さんから、「あれで、ずいぶん、印税が入ったとか」と聞き、あきれはてた。

沢田さんは、「今年は、もう10回越えていますね」と、秋に言った。「ぼくは例年、8回か9回ぐらい講義をしたことがないのですがね」といいながら、季節が変わってからは、歩きながら、おもむろに、川端康成の「千羽鶴」の一節を、朗誦しはじめ、文学の中身を、手で仕草をされ、「これですね。これです川端は、川端です」と言った。

わたしとしては、川端文学のすごさは「山の音」、あそびでは「眠れる美女」にあると見ていたので、もし、「山の音」でも、暗唱されたら、どうしようかと思っていたときに「千羽鶴」で、ほっとした。
が、他の学生が、怒るに違いないので、大谷大学で、「生島遼一(いくしま・りょういち)」先生と同じ控え室で、兄が、喜びと緊張がともにという、先に、一年間同志社女子に通い、同志社にきている、同郷の学生が、フランス語を理解できるので、きちんと出席をしてくれるように頼んだ。

いま東京六大学の外国語教授夫人の女学生は、「わたしのスタンダード、74年度版やから、嫌やねん」と播州弁でいうので、沢田さんの講義は、「ランダムハウス」など、英語の辞書でもいいと、父が高校の英語の教員という学生に言った。

沢田潤さんが、富士正晴さんの「VIKING バイキング」同人とわかったのは、その後だった。

妻が、仕事先の、榊田喜四夫(さかきだ・きしお)さんが、ロダンか誰かの言葉の原典を知りたい、祝辞につかいたいのでといったとき、沢田さんの、「友人がいま辞書を作っていまして」が記憶から出てきた。

1970年代、京都での辞書作りは、フランス文学での権威、「伊吹武彦」さんが、「仏和大辞典」の校正中だと知っていたけれど、伊吹さんのことを、友人とは言わないだろうとおもった。

沢田さんがいう、この友人グループは、わたしの妹としらず、豪華な調度品を買ったから家へとさそった人。
祇園富永町で、ホステスを求め、桑原武夫さんに注意をされた、「クラウン仏和」作成中の、「多田道太郎」さんたちだろうから、お礼と挨拶は、わたしがしておくと言った。

このころ、山田忠男さんに、伊吹武彦さんに、会いに行きたいと言った。
そうしたら、「松田君、伊吹さんは、いつでも会えますよ。それより、ツカモト(塚本善隆。京大人文研、華頂短大学長)が、会いたがってますけれど。伊吹さんから、何を」と聞く。
わたしは、語彙カードと、文献図書を、「和積み」か「洋積み」にしているか、それが知りたいんです、それに辞書作りをされたら、過労で、亡くなられますからと答えた。

わたしは、息子が勤務する「現金優先。ゴールデンタイムは、民放より番組制作の請求金の高い、わたしのNHK」の、アフリカ取材を利用して文部省から趣味の本づくりに3000万円奪う学者や、小泉文夫さんの説を自説のように言う民族音楽者がいる、「人類学」など、どうでもいいと言った。

そうしたら、お二人とも亡くなられた。塚本さんの死亡は、1980年1月末、訪問していたときで、「お通や」の誘いの連絡が、何度も入った。
冷たい粉雪が舞いそうな夜だった。「ああっ、もう、止め。こんな日に行って、インフルエンザにかかったら、ぼくも、死にますぜ。まつだ君と議論だ」で、このころは、まだ余裕のあった山田さんは、通夜を、中止にした。

それで、わたしは、けな気に文学を愛する、沢田さん宅に連絡をしたら、まるで、ぐうたら亭主扱いのように、奥様がいう。

わたしが尊敬しているのに、これはまずいと思って、妻に、会社での沢田さんの教え子を召集し、まず、フランス文学の「桑原武夫」さんが、良く利用する、妻が勤務する会社に、「沢田先生」の存在を知らせ、お礼だけは、大学へもってゆくように言った。
妻も、わたしを通し、大学で、面識があり、ロダンの件では、沢田さんは、何度も連絡をくださった。

四)

出版関係者、なかでも、川端通は、川端康成担当で知られる、新潮社の菅原國隆さんだった。
この菅原さんは、わたしも妻も知人だった。妻が仕事の関係であい、長髪で、すごく白髪の人なのというので、杖をもった仙人風を想像していた。

わたしは、新潮社の別の社員が、1987年、約束事を連続して破ったので、注意をした。その責任者として、出てきたのが、菅原さんだった。妻からの情報と、かなり異なった人物の、印象をもった。

菅原さんが、「どんなことがあっても、ここで、暴力を振るわないように」と注意されるので、反対ですよと、返事した。そうして、違反をした編集者が、上司を前に、激昂した。
菅原さんは、部下がタバコを買いにいったとき、「ほんとうだ。あぶないね」というので、ほらっと、わたしは言った。

菅原さんは、川端康成が、三島由紀夫に紹介した編集者だけにあって、文芸作品をわかろうとする人だった。
ひとつひとつの文芸の作品にたいし、やわらかな感性をもたれ、文芸が、どのように複雑な経路をたどってできあがるか、また、文芸を商売とすることの難しさを、よく、知っていた人だった。

菅原さんが、初対面でかんじた、わたしの印象は、10分後では、まったく違っていたらしく、学生時代から知己のような、雰囲気をとられる人だった。
菅原さんは、ネフローゼ症候群を、大人になってから、発症された方で、そのせいか、早く亡くなられた。
冬、薄い靴下一枚だったとき、わたしが、足元から、冷えませんか?ときくと、「ぼくは、大丈夫なんですよ」の言葉の印象が強く残る。

川端康成の「古都」に関しては、川端康成が、小説へ向かってゆくとあって、出版界は、緊張をしたそうだ。

主人公の千恵子と、友人の水木真一は、平安神宮の桜を見るためにあう。

そのひとつの光景だけれども、
千恵子は神宮の入り口をはいるなり、咲き満ちた紅しだれ桜の花の色が、胸の底にまで咲き満ちて、
「ああ、今年も京の春に会った。」と、立ちつくしてながめた。(略)。
その下の芝生に、真一は寝ころんでいた。手の指を首筋の下に組んで、目をつぶっていたとある。

1961年ごろの、京都は、まだ、木造の建物が中心で、平安神宮そばの参宮道にしても、いたるところ、大きくかんじる、空き地や樹木があり、雑草がおいしげっていた。
土道がおおかったのは、現在、平安神宮の西側に、観光バスがとまる場所があるが、どこまでが道なのか、空き地なのかの、明確な区分はなかった。

ぜんたいに、丈の短い、雑草だらけで、円山公園のほうへ散策にゆく道も、鄙びた木造の、小さな二階づくりのかんじの店が多かった。
いまは、参宮道という道がアスファルトで整理され、このような、寝ころぶことができる、土道などはない。

川端康成が古都を執筆したのは、下鴨神社の東にある、通称「泉川御殿(せんかわ)、葵亭(あおいてい)」で、西陣の織物会社、「とみや織物」(富家)所有の、豪華な別荘だった。

すぐ近くの、下鴨神社も、とうじの、境内や、糾すの森(ただすのもり)など、雑草がいっぱいで、うっそうとした暗さが、時代劇の撮影に向いていたのか、映画の撮影を、よく見かけることができた。

御手洗川(みたらしがわ)の輪郭も、草で、わからないものだった。
夜は6時になると、ふつうの家は、「夕餉(ゆうげ)」という形が、台所の電灯と、炊飯の音と匂いでわかる時代だった。

祝い事でさかえた「泉川御殿、葵亭」は、いま、閉じられてある。




   人の住ひは  世々をへて  つきせぬものなれど
   これを  まことかと尋ぬれば  昔ありし家は稀なり
                                     鴨 長明



▲ 葵亭 庭園  (写真: 松田薫)
▼ 葵亭 玄関 
 (写真: 松田薫)

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-06-27