京都昨今
8.屈折していた「八月の光」日高六郎

壱)
時間は、ふつうに、過ぎて行っているのだろうけれど、2006年3月9日、文化人類学の米山俊直(1930〜2006年 没75歳)さんがなくなられた。
「米山俊直君に、挨拶を」とは何度と言われていた。が、先にイタリアへ留学されてしまった谷泰(たに・ゆたか)先生にお会いしてからという気持ちと、米山さんの研究室が、谷先生と同じく、東大路の、通り道だったこともあって、すぐそばという気持ちが勝ち、会いにゆくこともなかった。
あのとき、米山さんは、40歳代だったのかとおもった。

京大、人文研の研究者たちとは、わたしが数学のつづきで、パースの記号学をしていて、同志社パース6巻(全巻)を購入しているはずなのだけどないと言っているころ、なんだか、わたしと知己になり、あわてている哲学徒が、パースの哲学を紹介している京大の、上山春平さんを、はじめ京大の中で、つぎは同志社によぶというので、来賓室やマスコミの撮影室となっていたアーモスト館へ、さわがせたことへと、断りを、1975年秋、館長のオーテス・ケーリさんに言った。
一 直(ちょく。上野直蔵)、二 松(まつ。松山義則)、三 ケリーと、ケリーさんは、同志社の三人にはいっていた。
この、ケリーさんが、このとき、わたしには、文学部の教育専攻にいらした、志賀英雄先生に似た、すごく真面目な顔つきだけをされ、わたしが、お礼をいうと、恥ずかしそうにされた。
あのケリー Otis Cary さんも、2006年4月14日84歳で逝かれた。

そうして、わたしの妻に関することだけれど、欧米文のタイピングと校正、これだけはして欲しいと言っていた。こういった、編集、技術にかんすることがらは、いっけん、華やかさがある。が、神経をつかう仕事なので、他から見れば、どうしてもスキのある二人だった。妻を学者夫人の修行へといわれ、わたしは断っていた。
学者夫人の手本は、湯川秀樹先生の奥様、スミ夫人だった。
1950年代から、大変だったとおもうけれど、要するに、マスコミに意見を求められ、答え、目立っただけのことだとおもう。
一、スミ、二、アキ(寿岳章子) 三、ひろみ(市田ひろみ)と、京都の三女のトップに入っていた。そのスミ夫人が(1910〜2006年、没96歳)5月14日に亡くなられた。

弐)
ご生存のときから、入院先に、その状態などを聞かされたときは、大変な役割だったのに、なぜ、湯川先生を利用し、マスコミに登場したひとや、官公庁にしても、お返しをしなかったのだろうかが、絶えない感想だった。
京都の教員夫人たちは、批評しながら、わたしが訪問すれば、スミ夫人、喜ばれるわよといっていた。
わたしは、面倒になって、とうとう、行かなかった。東京のマスコミは不思議なことに、講談社の編集者さえ、講談社に、湯川さんの子息(長男)さんが勤務していることを言わなかった。

このときのことは、湯川さんの助手をつとめた、市川亀久弥さんによる、「創造の世界」(小学館)で、十分にわかるのではないか。

市川亀久弥さんは、数学が不得手な湯川秀樹さんの、演算がかりをされた。中学も満足にでていない学歴のことだったが、まず、関西大学がスカウトに動き、同志社の教授会があわてて、採用へと向かったそうだ。

わたしは、あの先生は、天才でスターですよ。それで、いいじゃないですかと言った。
市川先生にも言ったが、市川先生には、同志社が田舎大学で、不満だというので、そういった言葉は、わたしが、一番嫌う言葉ですといった。

じっさいの、市川亀久弥先生の講義は2つ受講し、ひとつが、かろうじて、「可」だったから、わらった。
わたしは、市川亀久弥先生の、等価変換による仮説理論は、可能性をたしかめたいものとして、認めるが、わたし個人が、使うにあたって、方法での矛盾が数多いので、それらを論述した。
そうしたら、市川先生は、「ぼくの考え方を認めない、まつだ君、君はダメ」というので、これにも、わらった。

湯川さん、市川さんが、わたしの頭脳を知ってから、14年という歳月がたった、1981年9月8日、湯川先生が逝かれ、周囲は変化した。
が、わたしの市川先生の評価などは、すべて前のままなので、市川先生は、「君は、ちがうよ」と、冷酷に、わたしへの、評価が、まちがっていた自分たちのことを言った。

わたしは湯川さんの京大での先輩にあたる、数学者の岡潔さんの、学者としての在り方が好きだった。岡先生は、数学を、「幾何、代数、解析」とかに分けた考え方をされる。
これにたいし、数論ばかりしていた、わたしは、「幾何も、解析も代数(=数論)じゃないですか。数学はひとつですよ」とか言っていた。
この考え方には、1960年代、京大の若い数学のドクターを、混乱させた。

1960年代、70年代、湯川さんにかわり、京都の学者を、東京マスコミへの仲介とかで貢献し、大きな影響を与えた人は、なにより同志社の「創造工学」の市川亀久弥さんだった。

世話になり、生存中にかかわらず、死亡記事をかいた、その心理を疑わせる人に、河合隼雄さんがいる。
この河合隼雄さんは、山田忠男さんが京都府教育委関係のころ、「先生みたいに有名になりたいんです」と30歳をすぎ、詰襟姿で、現れたそうだ。
市川先生が、元気なころは、「市川先生みたいになりたいんです。そして、湯川さんに会って、もっと、有名になりたいんです」と素直に言ったそうだ。

妻が「京都新聞」(1999年9月8日)での間違いを見つけた。
わたしが、市川先生の奥様に連絡をすると、「まだ、人工呼吸器で生きていますよ」との返事を明るくされた。
小柄な市川亀久弥先生は、お若くみえ、年齢を考えない、わたしは、70年代、カルガモ親子のように、同志社の周囲を散歩されていましたねと、その懐かしい光景をいうと、奥様も、「ええ、あの人、若く見えて」とおっしゃった。

参)

日高六郎さんとの出会いは、1980年8月25日、午前11時25分、法然院町のマンションだった。
奥様が、パリ警察に拘留されるなど、さまざまな緊張が走っているときだったとおもう。
が、日高さんは、そういったことを、一言も、いおうとしない人だった。

訪問すると、「下の喫茶店で」と、そして、「わたしは、山田忠男さんと立場が違います」と、区切りを、付けられた。
わたしを、喫茶店で、迎えたということは、あとで、大事になった。
この日高六郎さんが、70年代、80年代、京都での住まいとされたのは、哲学の道沿いにある法然院町の、マンションだった。
山田先生から、住所をきいて、遠いですというと、「すぐ、そこじゃないですか」という。
「道がわからないのですか?」と尋ねるので、永観堂の、北でしょう。ウチの寺、永観堂ですけど、ボロボロですね。法然院とくらべて、というと。「まつだ君、門跡じゃないですかというので」、ええ、「南朝」が多いみたいですね。ウチの父方の坊さん、灘校の勝山さんです。わたしのことは、誕生のときから知っています。それで、70年代はじめ、心配して、枚方市まで来てくださいました。わたしが母に勝山さんと会うのを、断ると、「いつでも、来てください」と。なんか大僧正って、偉くなられたみたいですね、でも静かな方ですよというと、山田先生は、また、騒ぎだした。

日高六郎先生の住まいの下に、『アトリエ・ド・カフェ』があった。
『アトリエ・ド・カフェ』は、文豪、谷崎さん夫妻の、生活の跡地で、谷崎さんの、後妻「松子夫人」の息子さんの、お嫁さん『瘋癲老人日記』のモデルといわれる、「渡辺千萬子」さんが経営されていた。

渡辺千萬子さんに似ているのは、体型もふくめると、大江健三郎さんの奥さんを、少しやわらかに、華やかにしたかんじだ。80年代、成城石井本店でよくあった、大江さん。そして、若いときは美人と考えられる大江健三郎さんの奥さんは、さまざまな事があっても、兄の伊丹十三さんの存在なのか、その面影がでてくる、時代にこだわらない、自由な雰囲気をもっていらした。

わたしは、谷崎さんの、「法然院」が谷崎潤一郎ゆかりで、神戸大の橋本峰雄さんが貫主となられ、活動されていたので、墓石は知っていたが、この場所が、谷崎潤一郎さんの、元住居とは知らなかった。

渡辺さんによる店は、2003年4月閉店された、『アトリエ・ド・カフェ』の空間はぜいたくで、どこに席をとっていいか分からなかった。わたしは、奥の小さめのカウンターに、立っていらした渡辺千萬子さんに、日高さんが、ここへ、と言ったことを告げたら、とまどいがわかったのか、渡辺さんは、丁寧に、どうぞこちらへと、おっしゃってくださった。
立ち止まったままいると、また、笑顔で、「どうぞ」と、哲学の道に近い、ガラス窓の大きい、角の席を案内された。ホワイトが基調で、多くの光が、交叉し、入る、静かな、喫茶店だった。

この、1980年8月25日、外は暑さをかんじたけれど、ぜいたくな空間からは、外の光景も、すずやかに見えた。
わたしが、ABO遺伝子による民族音楽の分析を説明すると、
「話が上手ですね。これまで、あちらこちらで、ずいぶん話されてきましたね」と日高六郎さんは言った。
わたしは、この論文の説明は、山田先生は別にして、湯浅光朝さん、梅棹忠夫さんの「二人」にした。二人は多いのかと思って黙った。
「英語ができますか?」とも聞かれた。そして、わたしは、いいえと返事した。
論文の序文をみれば、分かるのにと思った。

日高さん、わたしに、英語ができるかどうか質問したのは、あなたが最初です。
序文は、京大医学部のドクター論文を、作成している人で、はじめ、アメリカ人への依頼か、下手だと嫌だなぁと思ったら、ドイツ人でもない英語だったので、わたしは、こんな、恥ずかしい英語を、京大はドクター論文にしてきたのですか、これは北欧人の英語ですと、注意し、変えた。山田忠男さんは、そのとおりだったので、沈黙した。

日高六郎先生は、また、「わたしと、山田さんとは、立場がちがいますよ、わたしは、あなた個人とつきあいます」とおっしゃった。
わたしは、「でも、わたしは、もっと、ちがうかもしれませんね」と言った。
論文を読んでくださり、「書けますね。アメリカだと、ペーパ一枚です。あと、助手がします」とおっしゃった。

わたしも、そう、考え、はじめ、市川亀久弥さん、山田忠男さんにいった。梅棹忠夫さんは、わからないのかなぁとおもったら、山田先生は、「梅棹君は、考えていたんですよ」といい、「留学を」のことは、科学史学会長の湯浅光朝先生他の人たちとも、同じ意見だった。
わたしは、もう、アメリカという時代ではないとおもっていますので、と返事をした。

が、わたしは、1960年、70年と二回も、学生を、ただ自己宣伝のために利用したとも言われる日高さんとは面識になりたくなかった。
戦争責任というなら、学生運動責任を、日高さんは、まだ取られていない。
あの時代、一番の悲劇は、日高さん同様、体格の良い高校生だった。わたしのイトコをはじめ、180センチある連中が、先陣を切った。いまに続く、その犠牲を、どう考えるのかと、直接、わたしは、言った。
が、日高さんの回答は、「わたしは一介の教師ですから」だ。これを、公開講座をふくめ、3回も聞かされた。

高校生の、わたしたちから見れば、日高さんという人は「雲の上の人」だった。日高さんの言葉を信じ、心身が傷ついた、正義を多少知る、大学受験勉強がとちゅうの高校生の行き先をはばんだ。
また、とうじ、わたしが信頼する、大学生たちの大半が、直接、学長に、抗議を、断行し、「嫌なら、やめなさい」と言われ、即、退学届けをかいた。

1985年、御茶ノ水の「総評」。40歳ほどか、わたしの、そばにいた、やせぎすの方が、「ぼくは、とうじ、東大の学生でした。この人の言うとおりです。日高さんは、雲の上の人でした」と体をふるわせ言った。若い世代の大半が同じ気持ちだった。

このあと、日高さんは、「あなたでしたか。1980年の、あなたは、こわかったです」とおっしやった。そして、日高ファンの東大生が、病気のわたしに、地下鉄構内で、暴力をふるった。
これを、日高さん、わたしは、あなたに、文書で書いた。が、あなたが、反応するのは、役所や会社に所属し、講演費をくれる人たちにだけだ。

1969年〜70年の、高校生による、活動の一端は、1970年3月17日の関西版、三大紙の朝刊を見ればいい。府立と県立の卒業式が記事になっているはずだ。3月に入ってから、友人たちから、何を行うのか、連絡がつづいた。
わたしは、教員をはじめ、他人へ、暴力だけは、止めるようにと同じ言葉を言っていた。

一番過激だった高校は、卒業式の3月16日、NHK夜7時のテレビニュースで流された。このNHKのニュース原稿を読んでいたのが、わたしの母のイトコで、ニュース映像になっていたのが、わたしのイトコたちだった。
深夜というより、0時を過ぎ、叔母と叔父から、「いま、警察です。姉さん、教育がまちがっていました」と電話があった。母が大変な様子になったので、「すべて文部省が悪い」とわたしはいった。

40歳まえに、「労働者を考えて、おらん」と、下請けへの、生命への保障を考えてない、自分の会社へ、辞表を2度以上出したことのある父が、1969〜70年は、「大阪万博」の工事で、若い死者を多量に出していた。父は、
「おまえみたいな若いのが、次々、死んどるんや。きょうで、68人や。納期が過ぎる。これ以上、鳶が死ぬと、ビルが建たんのや。わしが現場に入る。あおるNHKだけは見るな。もう死なさん」と、44歳を迎える、2月中旬から、突貫工事に行き、この3月16日は、竣工、開幕二日で、設備の様子を見るため、いなかった。

そのまえ、安保反対とさけぶ、日高さん。父は、あなたたちを、「戦争に負けて、反対か。日ごろは、涼しいとこで、気楽な身分や。炎天下で働く人間をわかっておらん」と言った。

叔母と、叔父は、このあと、騒がせたことへの詫びと、もう、40歳を過ぎました。考え方が甘えていました。会社(大手)を辞めますと、あいさつに来た。

学問をする立場からゆくと、他の教員と比較し、この人がなぜと、1969年、考え、東大を辞めて欲しくなかった。このことは、同じく、東大での教授会で同席した、吉川英史先生の言葉が、わたしには重い。
「あの、おとなしい方が、、、、。おどろきました」と、真摯な吉川先生は、1982年6月わたしとの、音楽論、4時間のなか、深夜に、短く、おっしゃった。

「松田さん、あなたは在野に居たほうが良いです。戦いの連続ですよ」「小田実君に会ったほうがいいです」が、日高さん、あなたの言葉だった。わたしは、笑顔で、断った。

「ベトナムに平和を」を小田実さんに、誘われた、小中陽太郎さんは、1988年、東京毎日新聞社の喫茶で、わたしに、「ぼくは小田に誘われたんだけど、あの時代、開放感があったでしょう」と、明るく上品にいわれた。
わたしは、暑苦しい、夏でした。まるで、フォークナーの「夏の光」のように、と返事をした。

考え方が、しなやかで人を傷つけない、小中さんとは、渋谷東急本店で、2度ほど、ぐうぜん奥様といっしょのとき出会った。奥様は、まるで、年配になった「ジャンヌ・モロー」のような、雰囲気と、立体感をもたれていた。
そのまま、カメラを回すと、知識は老いない、という映画作品になるとかんじた。奥様VS小中陽太郎=「存在と無」の。

ホー・チ・ミンだと、こう挨拶するかもしれない。やあ、体格のいい作家の諸君、開高健さん、あなたは、こんどは、プレスの腕章なしで。小田実さん、小中陽太郎さんも、あなたがたは、軍曹だ。最前線でやってきてください。知恵者の鶴見俊輔さん、ついでに日高六郎さん、あなたたちも最前線でと。

日高先生は、去年、2005年、自著発刊記念で、ポルノ作家でデビューされた夫人と、フランスから、来日されたらしい。そして、フランスのメディアをいつものように、ほめた。

フランスでは、政権に対し、批判的立場にたつのが、原則で、「ル・モンド」や「リべラシオン」も中道左派で、政権をよくするための批判という。
わたしは、今世紀がはじまったころ、「ル・モンド」などを読んでいた。「わたしたちはコミュニケーションが遅れているのではないか。携帯が普及している、日本を見習わないといけない」「ベトナムは、アメリカでなく、フランスの植民地であったほうがよかった」とル・モンドにあった。
これらは、日高六郎さんのいう、政権をよくするための意見なのか。


    東洋は押石(おもし)のやうに重く、東洋は鐵鍋(てつなべ)のやうに暗い。
    東洋の民の吐息は詩となるほかない。
    
 
                                「東洋的新次元  高村光太郎」




▲ 日高六郎さんが、京都生活をされていたマンション。下は「アトリエ・ド・カフェ」があったところ。 (写真: 松田薫)
▼ カフェのそばの「哲学の道」から、鴨二羽。
 (写真: 松田薫)

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「京都昨今」松田薫2006-06-26