京都昨今 |
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7.JR同志社大前行き事故、「分別の在りか」 新島襄 | |
平石善司先生は、旧制広島師範から、神学を学びたく、京都へ来たという。 1970年日米安保反対という学生運動で、60年代、良識あるひとは、教壇を去った。1975年、今出川校舎の西門には、 欧米資本による、明治維新という時代が、廃仏毀釈といい、生活に困っている、「相国寺」から、土地を借り、創立者の「新島襄」は、旧・将軍家や徳川家関係者をたより、会津藩松平家という、ただでさえ、稲作がしにくく、冷害の多い土地を、戦場にして、農民の耕作地を荒らし、農民や婦女子を犠牲とし、会津で住めないもの同志を友人とした。 御三家に親藩という肩書きを利用して、殿様から「知事職」や「内務省」役人(わたしの祖父は旧内務省土木局長)となり、血統が欲しい人種と、土地の耕作が嫌な人種によって、欧米伝播の教育産業はできあがった。 1971年、72年の文部省答申で、東大、京大といった大学は、「勉学の神社」になり、最終的には、地域優先の社会となるけれど、とにかく、就職の準備をしなさいといった。 1976年1月の同志社大学、全学バリケードのとき、卒業証明書をもらうために、学外で、おびえている男子学生がいるのに、我が身の大事な教員たちは逃げた。 わたしは、学生運動家70人にたいし、「地方からの親御さんは、どんな気持ちで、学費や下宿代をだしたのか。この大学から、君たちが望む企業への就職は難しい。経営者の子供以外、やめなさい」と、注意をした。 平石先生との出会いは、1975年、新町校舎での、学部のゼミで、1966年に刊行された、ヘーゲルの「精神現象学」(樫山欽四郎、河出書房)をつかっていたことによる。 受講生が、真面目な顔をして、わたしに、わからないと、ぼそぼそいうので、この樫山さんは、ドイツ語も日本語も、できていないといった。 そして、1966年、NHKの朝のドラマ、樫山文枝さん主演による「おはなはん」は、やさしかったけれどねと説明をすると、「おはなはん、見た。1966年、小学校で」と、女子学生もよろこぶので、「おはなはん」で、「左翼と縁故の日本哲学」をしようといった。 平石先生が、「名古屋大へ行ってしまいますよ。川村君のヘーゲルをおさえてくださいますか。登録はしておきます」というので、新町校舎へ行った。 名大へゆかれ夭折された、川村栄助先生の「歴史哲学」は、ドイツ語の聞き取りのような講義で、学部生には無理だし、教室が広く、声が拡散し、体がもたないかんじがした、それを、平石先生にいい、教室を、新町から、今出川の「弘風館」に変更してもらった。 神学館や樹木の見える、弘風館の教室での五月、川村栄助先生の一声は、「いい季節になりました。花は紅、柳は緑。これがヘーゲルの現象学です。さあ、歴史哲学にもどりましょう」で、体に無理がこないかんじがした。 これを平石先生に告げ、「わたしは仕事がありますし、工藤和男(とうじ修士一年)さんを残せませんか」と頼んだとき、 この分別のなさには、沈黙するよりなかった。 マルクスを論じる、シュペネマンさんの判断には、5月、6月のうち4回使った。登録している学生の数が減らず、教室はいっぱいで、講義での、誠意が十分だったので、これを分別とした。平石先生は「わかりました」と、喜ばれた。 田辺町を肯定する、若い教員たちには、講義のできる人が、教壇から去っている以上、大学は、滅びる。そんなに「近鉄」に尽くしたければ、近鉄電車の中で、講義をすれば、学生に負担がかからない。時代が変化すると、敷地に対し、税金をかけてくると言った。 平石先生は、この後も、「残ってくださいませんか。ビールパーティをしますから、田辺町のわたしのイエへ、遊びに来てくださいよ。クルマだと、近いでしょう」と言った。 父が、1959年10月中旬、わたしが「姫路日赤」で、瞳孔が開いた、2度目の臨死から、生き返ったとき、「もう、これで、最後やろ。望みを、言ってみ、、、」と播州弁で言った。危篤で入室の、姫路日赤の、20畳ぐらいのアンティークの部屋は、二人きりだった。 わたしは、休日がない、両親との生活が嫌だったことなどから、「会社員になって」と、就職に年齢が関係するとわからず、33歳の父に言った。「わかった」と作業服姿の父は、言った。 この1959年9月は、「伊勢湾台風」により、桑名の血縁が、瞬間、波にさらわれ、死んでいったことがわからなかった。母が転院をするというので、わたしは、死ぬのは、何人もの、死に行く子供をみてきた、この姫路日赤でいいといった。 父は、11月上旬、済生会中津病院ちかく、大阪市北区の、旧財閥の会社へ就職を決めてきてくれた。父が会社員になって、わたしより、母や兄たちがよろこんだようだった。入院して、二週間目、小学五年生になる兄の精神状態が不安定だから、病院へは、あまり来れないと母が言った。「やはり、兄は、もたなかったか」とわたしは思った。 わたしは幼馴染たちと、口論もしたことがない。が、兄は、ひとりふたりの年上の子に、よく泣かされていた。そして、兄を泣かす相手だけは、取っ組み合いをした。病院嫌いの兄が、済世会にきて、母がいなくなると、「早く、死ね」と言った。妹も言った。そして、母まで言った。1950年代は、治療費が高く、それを知り、自殺する、子供もいた。 父は、火、木、土曜の三日、仕事が終わったあと、来てくれた。仕事の後、「水」をかえるなど、30分間、見舞いでいるというのが、わたしとの約束だった。 2005年(平成17)4月25日、9時18分に、JR福知山線で事故が起きた。 「同志社大前行き」という、行き先に、同志社大学が、丹波地方に新しくキャンパスをつくったのかとおもった。 誕生したころからいっしょの、「神姫(しんき)バス」を経営する、幼なじみのイエから、お母さんがいなくなったこと、幼稚園にこなかったこと、テレビがないことを知り、わたしは、社会の見方が変わった。 学問を本当にはじめた、学生のころからは、テレビも新聞もない生活をしているので、この事故は、新聞なども、見ていない。乗客106人、若い運転士ひとりが亡くなったという報告を、妻から聞いた。 工藤さんの、文章に、苦しみの思考がみえるように思いたい。が、どう読んでも、「時代」のせいか、教師は、「わが身」をもって、生徒や学生の、生命を救うという立場からは、とおい、表現になっている。 事故現場は、「塚口から尼崎への曲線」。 「六本木ヒルズ」のときは、オホーツク海上に、低気圧があり、「山の手」の複雑な地勢の下になる、六本木で、モダンなビルの入り口となる、機械のドアが、人命を奪う、大きな動作をした。 この「動作」については、19世紀、ナポレオンによる、破壊と略奪戦争の結果、豊かになったフランスから出て、学界で認知された、「コリオリの法則」と、「フーコのふりこの原理」をあてはめることができる。 学問は、侵略戦争を起こした勝利国で、栄え、反映を迎える。 JR福知山線の事故は、ニュートンの「微分」と「慣性の法則」の考え方で、ある程度、納得できる。 「凧揚げ」をしているとき、地上からの強い風に、見舞われたときのことを想定すればいい。 事故については、救出活動をはじめた、現場近くの「日本スピンドル」の社員があたったと妻がいう。その行為に感動しながら、日本スピンドルの技術者は、回転する力学の専門だから、救命後、それぞれ、機械のことを言ったことだろうとおもうといった。 京都の市電は、1930年代ごろから、より発展した。が、速度をもとめる、時代の関係で、70年代、廃止の方向へいった。 わたしが記憶している市電の運転士たちは、1960年代、横断歩道があまりない、京都の道で、立ち往生している、乳母車の女性を見つけたりすると、ゆっくり、ブレーキをかけ、窓から手を出し、「通りなさい」と、合図をかけていた。 また、1950年代はじめに生まれた、わたしたちの年代では、中学校を卒業すると、かなりの人が就職し、仕事で、クルマの運転が必要のため、16歳になると、軽自動車を運転できた。 市電の運転士たちは、この、大人への、分別の道をたどる、若者が、トラックをはじめ、大きなクルマに、怯えていると、「間(あいだ)」に入り、市電を止め、常に、弱者を守った。 わたしたち学生には、新入生が多い、春の季節、「整列乗車。それまで、発車しない」と、市電の乗り方を、厳しく、教えてくれた。 これを考え、一年が過ぎた。今出川校舎へゆくと、昼まえなのに、学生も教員も、ほとんどいない。 きょう(6月1日)は、新しい記念日なのかとおもいながら、職員にきくと、ベルトにつけた「ナース時計」を見て、「授業中ですからね。12時15分になると、教室からでてきます」という。 学習は、中学校までで、十分である。小学校卒業時には市町村レベルの共通テスト。中学校卒業時には全国共通テストがあればいい。中学卒業のハードルを高くすればいい。個人によって、成長がちがうのだから、学年という枠組みもいらない。 必要なのは、ありふれた日常に、伝えられ、在った「分別の知恵」である。 それで、父に、そのことをいい、悲惨な事故の原因をきいた。長い沈黙のあと、あきらめをふくんだ声で、「時代や。軽い電車の作りと、頑丈な建物や」と播州弁で短くいった。 付け加えて、大学側は、誘った以上、被害者に、入学金、学費などを、最低、返還すべきだといったら、「それは、できんやろ」という。 2001年、ニューヨーク世界貿易センタービルの事件のとき、インターネットで事件をしった妻がわたしに言う。それで、父のほうへゆくと、いつもは夜の9時には眠っている父は、夜をとおし、テレビを見ている。 関西を中心に、高層ビルを建ててきた父は、「ビルは、鉄筋を、編んでゆく。上ほど細い」というので、それぐらいでは、無理というと、「地下から、熱であぶると、最上階まで、柔らかい塊になるのに、たいした時間はかからん。計算をされた」といった。 「NY911」事件のとき、母は、妹の、元同僚が、部下を先にビルから出し、犠牲になったことを、すぐに知り、泣いていた。 工藤さんは、同志社の哲学の教員は、翻訳をしてはいけないんだ、「本」は、定年まえに一冊なんだと、断言していた。 だから、わたしと、ひとつ違いの工藤さんには、翻訳や、著書類は、いまだ無いし、哲学専攻の学生は、いい就職ができていると信じる。 「センセー。妨害の電話ばかりで、勉強でけしません。学長選はこれ一度で、二度としませんでー」と、「松蔭寮」の寮母さんに人殺しと呼ばれていた川島秀一さんに、言っていた人が、総長になった。 コンパ好きの学生が多く、文化祭で、わたしの出費ばかりひどくなるので、弘風館(法学部)の場所代を、払っていることから、ワインだけでもといっても、許可しなかった大学の総長がワインを売る時代となった。 わたしは刑法専門の、大谷實さんの重責から、「連座」を援用する。 いまの、同志社女子大の図書館建築のときは、更地にし、さらに掘削をしてから、費用がなくなり、ストップした。 この工事は、父方の村の、資産家(建設大臣)を「同志社女子」の名簿から探しだし、進行となった。1960〜70年代、同志社へ最大の「学債」など、目立つことをしたのは、明治時代、父方に入ってきた、イエだ。 尾張藩出身で同志社大学の成り立ちを知る山田忠男先生は、「工藤君というひとは、松田君が、懇願して、大学に残したと言うまで、わからないでしょうね」と言った声が、いま、響く。 ▲ 川村栄助先生が、ヘーゲル哲学の講義をされた弘風館の教室、2階、右上。 (写真: 松田薫) ▼ 2006年6月1日。昼前、同志社大学。西門から、烏丸通り。 (写真: 松田薫) |
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「京都昨今」松田薫2006-06-24 |