京都昨今 |
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6. 「すぐれた先達ち」はいたのか 太宰治論 | ||
1] 山城という地域が明確だったころ、昭和時代のはじめまで、ここに、巨椋池(おぐらいけ)という、南北一里、東西一里半ほどの広さをもつ「淀(よど)」があった。 淀の役割は、流れと水量の多い、木津川、宇治川、桂川の勢いを、水葦などでとめ、感情のうごきのように、きのうときょうの水を、入りまぜ、ながしてゆくことを、してきたようにも思える。 この大きな地帯の、春を、黄色の、菜の花を好んだ、摂津のひと、与謝蕪村は、 菜の花や 月は東に 日は西に また、春は、うす紅色と、播磨は、別府(べふ)の、滝野瓢水は、 手にとるな やはり野に置け れんげ草 と詠んだ。 俳句という、短い言葉の芸術のなかでは、多くの人が、ともの、感覚を所有することができる。 黄色の菜の花にしろ、紅(べに)のれんげ草にしろ、蜜をもち、それを糧とする蜂などがとび、近寄る。 菜の花と、れんげ草は、それぞれ、他の菜っ葉と同じく、ゆがき、揚げたり、季節をおもう料理にでき、花、茎、根っこ、また甘みが多い部分は、要素でゆくと、化学式では、炭素と水素と酸素でなる成分は、土壌への栄養である窒素へと、還元する。 わたしが、高校生の、1970年ごろ、淀の土手には、菜の花が一面となり、たんぼには、れんげ草のうす紅が、いっぱいだった。 ミツバチは少々の群れであっても恐怖感はないが、リムスキー=コルサコフの「熊蜂の飛行」の大型の、花の蜜を吸うのが、とても好きな、天津甘栗に似た、クマバチもよく居た。 黄色いミンクのショールを着たような、丸い、クマバチは、花が大好きで、わたしには、近寄ってきたことはない。 「熊蜂の飛行」は、ピアノの練習曲となり、また、ブンブンブンブン、とにかく大きな羽音の、クマバチをよく表している。 クマバチが、次ぎの花へと、飛びはじめたら、見学するつもりで、じっと、していれば、危険はない。 父に、れんげは、たんぼの季節のあと、春に、自由勝手に成るのかときけば、 「種をまかんと、どうして、できんるのや。肥料や」という。 れんげが肥料と知らなかった、わたしは、どうやって、撒くのかと、2006年、きくと、 「秋に撒く。ワシは、撒いたことがない。知らん」と言う。 わたしは、小学生のとき、栽培部で、春、秋と、種ばかりまいたり、植えた。 短い言葉しか言わない、機械が専門の父と、会話をしていると、わたしは、小学生のころ、「花咲かじいさん」ではなく、栽培部農業課の「花咲か児童」だったかのような、思いになる。とにかく、小学五年と六年生のときは、せっせとまいた。 流れの急な、木津川を、上流の関西本線の「加茂町」から、さらに、濃い緑の水辺をもつ「笠置(かさぎ)町」へ、ながめてゆくと、大昔、この地に「恭仁京(くにきょう)」をさだめたひとたちの、百年単位の知恵に、追いつけないものをかんじる。 京都が、都心化により、人口増から、水質が汚泥され、1930年代から、干拓がはじまり、巨椋池はなくなった。 むかしの巨椋池をおもう。平城、恭仁、紫香楽京をめぐる争い、そして、木曾義仲と源義経、明智光秀と羽柴秀吉、いちばん近い、幕府と官軍による戊辰戦争。 戦いでは、この池が、濠や堤となったが、雨水が少量のときには、においが立ちこめ、人の数による衛生問題へとなる。 水葦などの高さ、四尺ほど。とうじの日本人は、五尺三寸(160センチ)あれば大きいほうだった。その身長でも、甲冑などがあると、沼地より柔らかい、巨椋池の中に体が沈んでいっただろう。 この地での、生死をかけた、数万もの、兵士たちの戦が、どんなものであったか、想像力で、なすしかない。 谷崎潤一郎は書いた。 「この淀川の きしをぬってすゝむ かいどうは 舟行には便利だったであろうが 蘆荻(ろてき)の おいしげる入り江や沼地が 多くって くがじ(陸路)の旅には ふむきであったかもしれない」と。 魚や、水鳥が多かった場所として知られる、巨椋池(おぐらいけ)だけれど、これら、木津川など三つの川が一体となる、淀川では、巨椋池が干拓でなくなっても、体長4尺、つまり、 「120センチくらいの鯉はいた、3尺ぐらいは普通に獲れた」と、この周辺の沿線で、1930年ごろ、子供だった世代が、信じてくれるでしょうかとのような言葉で、わたしに言う。 高校の担任だった大山崎、離宮八幡宮がある。そのほうへ道路がのびゆき、大きな変化をかんじる。 この地は、大昔、東は世襲の石清水八幡宮の「田中家」、西は田中家より古い世襲の離宮八幡宮の「津田家」だった。 周辺を歩き、また、急な下りから、落ちたことがある、西の天王山を見、石清水は、末広がりの「八(はち)」がつく参拝日なのに、人気(ひとけ)のない。 離宮八幡宮は油を祭るが、荏胡麻(えごま)の油で、市場を、独占をしたけれど、あっさりとした味で、栽培しやすい菜種油がでてきたとき、権利が変化した。 2] 高校生だったころを思い出し、石清水八幡宮の高みから、また、ぼんやり思っていると、谷崎潤一郎や志賀直哉たち、昭和時代を代表する文人が、あつまった所がどこなのか、もう、何度目になるのだろうかと思いながら、また、確かめへ、見にいった。 還暦をすぎた、志賀直哉が、岩波書店勤務となる23歳の、息子の清らかな直吉さんといっしょに、 「八幡志水の宝青庵に、吉井君を訪ねた時、紙包みにした 私の古い日誌を 吉井君から手渡された。席には梅原龍三郎、谷崎潤一郎夫妻もいて、わたしはその場で開けて見る気にもならず、直ぐ直吉に渡した。」 「その午後、松花堂で、大阪の新聞の為に 座談会を」(実母への手紙 1948)とかいた。 志賀直哉は、自分の日誌を、その場であけず、「直ぐ直吉に」と、歌人吉井勇を信じる、そのさまなど、友人の、互いが空襲などで死ななかったという、雰囲気に、尊敬をいだかせる。 京都をあいし、あそんだ、歌人、吉井勇は、1945年秋から1948年夏まで、八幡月夜田(やはた・つきよだ)に住んだそうだ。 1969年は暮れから雪が降り、春は曙の地の、朝日は青色がまじり、雪が好きな、わたしは、散策にめぐった。 道がはっきりとせず、笹の葉の上に雪が、雪で倒れた細い木々の上を、池でないか確かめ、ほとんど一面、真っ白で、帰る方角がわからないとき、目印になったのは、竹林のなかの小さな尼寺「水月庵」から、竹林と木々で古びた「円福寺」の明かりだった。 この円福寺の、釜戸(かまど)か、風呂の、うす紫の、タキギの煙の方向が、道しるべとなった時代だった。 吉井勇が住んだ、月夜田と「松花堂」は、いま見ると、近いが、とうじ、わからなかった。 弱小の立場にすぎない、地銀や、都市銀行をこえた、権力のある、日本銀行の福井総裁が、不祥事をつづかせながら、2006年6月20日、いまだ、日銀をやめないと言っていることでもわかる。社会の上部が悪いのである。 この、志賀直哉たち、格調ある雰囲気を、想像すると、今の、古希を迎えた、老人たちは、何をしているのだろうかと考えてしまう。 と、いま、わたしが、誉めたような、志賀直哉たちだが、1948年、この同じ年の6月、誕生日をまえにした、正直であろうとした作家、太宰治が、玉川上水で自殺をした。いまの年齢の数え方だと、38歳での死になるが、とうじは、数えで40歳という、男子での生涯では、大きな節目だった。 太宰治が心中をした、玉川上水。この地は、なんど歩いても、さびしいさをかんじるところだ。 1970年代から、この周辺を知る人であるなら、米軍が、グーングーン、ゴォーンゴォーンと低空飛行して、そのたび、わびしさ、悲しさが、全身を、つつんだ人もいただろう。 志賀直哉は、太宰治の死について、「太宰治の死」(1948)をかいた。 書いた動機は、東大教授で、評論家の中野好夫が、雑誌『文藝』8月号へ、「志賀と太宰」をかいたからと志賀直哉は論述した。 志賀直哉(1883−1971)は、太宰治より26歳年上で、中野好夫(1903−85)は、太宰治より、6歳上である。 中野好夫が、太宰を「擁護」するがわの、暗喩の文章をかけたのは、妻の父が、詩人の土井晩翠(1871−1952)ということにあるのだろう。 歌の世界での大家、土井晩翠は志賀直哉より12歳年上である。 イギリス文学者の、創作の修辞に気づきながら、あえて、志賀直哉は、 「太宰君の小説は八年ほどまえに一つ読んだが、今は題も内容も忘れてしまった。読後の印象はよくなかった。作家のとぼけたポーズが厭だった」と表現してしまった。 志賀直哉の文章には、遊びがなく、大家で小説の神様との扱いのため、油断があり、太宰治の表現への、直喩がかかれてある。 「読後の印象はよくなかった。作家のとぼけたポーズが厭だった」この文言は、もし「文壇資金」という、悪い金銭がからんでいるなら、情況により、国会喚問にかけられるだろう。 死者を相手に、「とぼけたポーズ」と、真正面に、表現するところは、この国の裁判に公正さがあるのなら、名誉毀損の裁判にもできただろう。 志賀直哉は、『斜陽』を読み、「読み続けられず、初めの方でやめてしまった」とかく。 「わたしは不幸にして、太宰君の作品でも出来の悪いものばかりを読んだらしい」とつづけ、「『人間失格』の第二回目を読んだが、これは少しも厭だとは思わなかった」という。 重要な視点だが、志賀直哉は、太宰治の小説を、貰い物の、文芸雑誌で断片を読み、審判をくだした。 志賀直哉が、批判した、太宰治の『津軽』には、20世紀だけでも、 「明治三十五年大凶 明治三十八年大凶 大正二年凶 昭和六年凶 昭和九年凶 昭和十年凶 昭和十五年半凶」と、東北での農家の実際を写している。 わたしは、太宰治の『津軽』を小説としても読み、人類学の資料としても読む。 超一流である。 志賀直哉は、高校生のとき、「足尾銅山」が、祖父や父に関与することから、社会派であろうとし、父たちに反発したひとだったのではないか。 小説の神様と、評価を、されていたのであれば、若手の太宰治に批判された箇所など、消して、読めばいいのではないか。 3] 太宰治は、大人になっても、正直な視点をもった。 東北の、これらの年代は、わたしは、新聞や、学術誌で、確認した。 また、1974年の夏、1991年の夏、東北をまわり、東北での作物づくりがどれほど、大変で、収穫の在り方が、関東や関西と、まるでちがう事実をみた。 太宰治は、東北は、江戸時代から、五年に一度、凶作に見舞われる土地とかいた。 わたしは、志賀直哉の代表作より、太宰治の『津軽』を、弱い立場に立った、作家の、真剣な眼であると、肯定する。 津軽は、東北は、生きてゆくには、厳しい土地で、太宰の視点は、正しい。 出自を宮城県石巻(祖父が相馬中村藩、家臣)と、海の幸はあっても、自然の厳しい、東北にする志賀直哉が、なぜ、太宰治の、作家としての心の在り方が理解できなかったのか。 「金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである」と、 太宰治は、故郷を、「底の浅い見栄坊」と自分自身を表現したような、わかりやすい、口語体でかいた。 さらに、 「五所川原といふ町が在る。(略)青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。(略)金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。ここには、私の叔母がゐる。」『津軽』 太宰は、故郷の町々を、自分の言葉で、表現した。 正直な吐息を、故郷の空気を知る太宰治は、弱い立場からの言葉で、文章にしていった。だけれど、志賀直哉、川端康成は、太宰の心の在り方を、表現を否定した。 太宰治の視点だが、大きな町として、人口五万の、城のある「弘前」をいい、 「弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれてゐるさうだ」とかき、日本全国の城のほとんどが、桜でいっぱいではないのかと指摘した。 また、弘前の歴史にふれ、「むく鳥、鴨、四十雀、雁などの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよひ歩くが如く」膨張した、大和民族が、蝦夷を征服した土地であるとも書いている。 4] 東京では、カラスやハトが公害問題として扱われたりする。 わたしたちは、野鳥の数を、あまり、知らない。知らなくなってしまった。 生物は「極相(クライマックス)」という現象を起こす。異常なる発生をし、はびこる。 わたしは、志賀直哉や谷崎潤一郎たちが会った土地で、ムクドリ、カケスの大群を経験した。 空いっぱいの、ムクドリ、カケスたち。 これらが、開けた、わたしの部屋の窓から、わたしのイエを飛びまわろうとした。 野鳥の習性を、ある程度、把握しているため、わたしは、他の部屋へつうじるドアを閉め、自分の部屋だけの被害とし、窓をあけたまま、放置した。 乱暴者の、かれらは、黙ってみる、わたしとは、眼をあわそうとせず、飛び立った。 秋の、青い果実が、豊作のときで、白い部屋の壁や書籍が、カケスの糞によって、紫に汚された。 動物学では、人類学では、生物の極相は、わたしたち人類をふくめ、推測が不可能に近い、歳月で、衰退する。 石清水八幡宮の下、淀川の川沿いに、はびこった、セイタカアワダチソウは、レンゲが少なくなった養蜂業者にとって、「蜜源植物」だった。 1970年ごろ、最上の「極相」をむかえたと、いわれた、「セイタカアワダチソウ」は、1980年ごろになって、終焉の現象といわれる、下りへの極相といわれた。 北アメリカ原産の、セイタカアワダチソウは、日本列島改造とかの、宅地開発で、先祖からの、貴重な知恵と財産である、美味しい米を作れる、田圃を宅地にしたため、日本人の嗜好にあう、レンゲが消えてゆく現象となった。 レンゲは幼児のころは、兄にならい、レンゲの花びらを一本とり、蜜をすった。小学生になったときは、妹と蜜を吸った。 このセイタカアワダチソウの黄色い粉は、1980年ごろには、通じる言葉となった「アレルギー」性疾患の原因とも言われた。 蜂蜜は、中国産の安いのが、日本の市場にあふれ、セイタカアワダチソウの役割が済んで、刈られていったというほうがわかりやすい。 ハチミツの安いものは、水アメ(でんぷん)類で、つくられる。 製造過程がわからず、成分、分析が不可能に近い、高分子の増粘安定剤(多糖類)は、わたしに、アレルギー性疾患のゼンソクをおこさせる。 アトピー性皮膚炎も、これら、製造過程がわからない高分子製品によることが多い。 いまでは、アレルギー性鼻炎とか花粉症とか呼称されるが、これへの研究者は、1970年代中ごろになって、関西では、和歌山県立医科大学に、ようやく、ひとりと、わたしは習った。 これは、記憶だが、1960年代の商品、血管収縮剤、鼻炎用の、ノバルティスファーマ社(スイス)の「プリビナP」と、ファイザー社(アメリカ)のがあり、両方とも、モルヒネ(アルカロイド)系統が入っているとかで、1970年代に、発売禁止となった。 クスリは、どこまでも、個人差があり、アドレナリン(神経伝達、興奮物質)など副作用の問題がのこる。 が、両方とも、わたしは、高校生のとき使った。 偏差値とやらが高い医学部の上級生は、 「ダメだよ」と言う。 それで、偏差値とやらが低い、医学部の上級生たちと使用したが、わたしたちには、どうもない、ただただ、製薬会社の利益となるクスリだった。 1980年代後半、「抗ヒスタミン剤」として良く知られるようになったが、クスリなど、京都に学んだ、華岡青洲の母や妻を手本にすればいい。 何が、生薬のクスリかどうかは、八百屋や果物屋へゆき、検討すればいい。 いま、ここでは、生産農家にひびく、単価帯が高い商品は記載しない。 が、わたしは、ふつうに売っている、瓜や茄子、トマトなどの野菜や、梨、柿、メロン、パイナップルなどの果物で、アレルギー性の、呼吸困難のショックを起こし、救急用のクスリを飲む。 こういった症状というより、現象は、昔からあったが、いまの時代、見えやすくなっただけのものともいえる。 しかし、農耕で、化学肥料をつかわず、先祖からの知恵の耕作方法をしていれば、栄養素の循環となり、体がどうもなかったのではないかとも思う。 初夏のドクダミ(十薬)は医者いらずと言われ、夏はヨモギ(蓬)もさまざまに効く。 わたしの生家での、家業は、レンゲの蜂蜜を使った。あっさりと、ほそく、するどい香りのレンゲの蜂蜜は一番高価だった。 1960年、祖父が逝き、姫路の養蜂業者がもってきた、一斗缶(いっとかん、十升。約18L)の中身をみようともせず、レンゲがもつ、香ばしく甘い、するどさが欠けているため、会社帰りの父は、即座に、 「これは、アカシアで、使いもんにならん。まだ、レンゲとアカシアの匂いの、区別がつかんのか」と播州弁で言い、育ちの違う、母は困った顔をした。 わたしの母の、母校となるが、旧制粕壁(春日部)女学校にあたる春日部高校出身の、自殺された衆議院議員へ、2005年、罵る言葉を言った、野田女史議員がいると知り驚いた。 さらに、この女性議員の、出身が、これらは、官命だけれども、東京帝大総長、会津藩の「山川健次郎」の、女子教育に貢献した姉たち、「山川二葉」、鹿鳴館の花「山川捨松」女史ゆかりの、「雙葉」と知り、大学がおとなしい人物の多い上智とわかると、時代の変化をかんじさせられた。 5] 谷崎潤一郎にもどると、「江口の渡しの あとなども いま来るときに乗ってきた 電車の沿線にあるのだときいている。げんざいでは その江口も 大大阪(だいおおさか)の市内にはいり」とある。 谷崎は、八幡市、石清水八幡宮の対岸、水無瀬宮の方で、食事をとり休憩をした。 小説の神様、志賀直哉は、谷崎潤一郎(1886― 1965年)を、だらだら、わかりにくく書いて、たかだか、色恋の物書きと、太宰治どうように批評しなかったのか。 中野重治(1902ー1979年)は、谷崎潤一郎の作品を、わらったではないのか。 志賀直哉は、さんざん、太宰治を苦しめた、菊池 寛(1888-1948年)が逝った、翌年に、文化勲章をもらった。 そのとき、「ぼくと君(谷崎) 春仲間の 風見鶏」と、なぜ、うたわなかったのか。 この春は、志賀直哉の先生ともいえる、夏目漱石が、京都には、春を売る人が多いと、詠んだことによる。 徒然草の、仁和寺の法師の、大失敗は、とうじの仁和寺が、いまの、最高の知識人の集団だったこと。 船だと、石清水は川下で、非常に早くつき、楽だのに、信仰から、偉い法師は、「かち(徒歩)」で、参拝し、下の宮だけおがみ、戻り、肝心の、山頂の、上の宮の「神」をおがまなかったことにある。 志賀直哉は、友人と弟子に、太宰治は「生きてはいられない人だった」と慰めてくれたと、自己弁護した。 そして、 「太宰君が心身共に、それほど衰えている人だという事を知っていれば、もう少しいいようがあったと、今は残念に思っている」 「崖の上に立っている人だという事を知らず」とも志賀直哉は書いた。 太宰治の心中を、 「死ぬなら何故、一人で死ななかったろうと思った」「心中に多少ともイリュージョンを感じていたというような事があれば、これは一層我慢ならぬ」と書いた。 30代半ばの志賀直哉は、日本が、日清、日露につぐ、アメリカの投資により、第一次世界大戦にまきこまれたとき、戦争のフイルムをみて、戦争で、「死んだ時、家人に名誉と思えという。それが人間に出来る位なら、死刑は一番怖ろしい刑罰にはなり得ない」(断片、1919)と表現した。 志賀直哉たちが、文豪と、ともにした、淀は、巨椋池のあった淀は、太陽や星あかりを、たよりとする多くの、渡り鳥が飛来し、生存競争をする、戦場とも、いえるところだ。 明治維新だというときにも、多くの夢(イリュージョン)をもった兵士が、渡り鳥と同じく、数えきれない日々、故郷へ戻れる保証などなく戦場で、消えていったところだ。 創作で、悩み、心を病み、腹への外科手術を受け、死との境界に、崖の上に、たってしまったのが、人の、心と体の弱さをしった、太宰治のような作家ではないのだろうか。 心の病みを、体の病みを、生まれついた、かけがいのない優しさで、言葉にしてゆこうと、正直のため、正直であろうとするため、自分自身の心と体を、戦場の場とした、太宰治だった。 この太宰治と、自分は、飛行に慣れてしまった、渡り鳥だけど、どうにも、ならない、胸の高まりを自覚してしまって、いつ、消え行き、自分の心と体の、ありかすら、わからなくなってしまったから、この恋を、この愛を、戦いじゃないの、すこし装いを変えたら、まだまだ魅力あるじゃないのと自分に励まして、ただただ正直であろうとした女性がいた。 太宰治は、文壇という戦場を、恋愛という戦場を、理解する女性と、ともに、行ったのではないか。 わたしは、太宰治の死に、太宰治の心中に、うつくしさをかんじる。 神無淀(かんな・よど) 戦(いくさ)おしえる 巨椋(おぐら)消え ▲ 本殿 (写真: 松田薫) ▼ 石清水八幡宮の展望台からみえる、天王山 (写真: 松田薫) |
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「京都昨今」松田薫2006-06-21 |