京都昨今
5.、「いい先生に、恵まれました」 吉川英史
 

壱)


ながい、お付き合いとなった、吉川英史(きっかわ・えいし)先生が、(2006年)4月13日にゆかれた。

97歳という年齢を知ると、知らないひとは、高齢とおもうだろうし、新聞などの記事を見ると、東京芸術大学邦楽科の名誉教授など、日本音楽の研究家として、文化功労者とあるから、多くは、音楽関係の「ひととなり」をかんがえるだろう。

わたしの人類学の恩師が、1975年から78年、毎年、ひとつ提出していた、わたしの論文集での、77年のものに、たった数頁をさいた、「ABO遺伝子分布率と民族音楽」の部分を詳しくかいて欲しいといった。

そのため日本の音楽学者の論文を読んでいるうち、だれもが、自分自身が考えたように表現するところが、あまりに多く、これは先行論文があると、「毎日コンクール」の審査委員長でもあり、フルート協会会長でもあった、人類学の先生と、議論をこえた情況になった。

「田辺(尚雄)さんですよ。松田君は、田辺さん、そっくりのところがあります」が、いつもの答えだった。

わたしは、旧「文部省」と「東京帝国大学」という権力と権威に対抗し、101歳まで、生きられた、田辺尚雄(たなべ・ひさお)先生の表現も、「実際」の「現象への哲学」はある。

が、田辺先生のは、調査研究に、余裕というか、新しい楽器を創作したり、学説を、やさしく分からせようという、「あそび」があり、まったく違う。

文部省にいた悪党が、田辺先生を認めず、その悪党が死に、田辺先生は、文化功労者となった。

受賞されるとのことは、山田忠男先生の奥様からの、イエに来てくださいの連絡でだった。
「けものというと、動物が怒りますからね。け・だ・も・の(野獣)が死にましたからね。今年、田辺さんは受賞しますぜ」と、パイプでダンヒルを燻らし、喜ばれている山田先生の言葉で知った。

受賞など、田辺先生にとっては、頭の固い、役人相手の、遊びだっただろう。

問題は、吉川先生の文章にある「切実な、真剣さと、謙虚さです」とわたしは、主張を変えなかった。

すると、「ユーモアいっぱいの田辺さんは、裕福な育ちですからね。ここへ来て、いつのまにか、自分のイエだとおもい、菊や、菊やと、手をたたき、楽譜屋と同じ名前の、女中の名前を言うんです、、、。とにかく、松田君と同じで、ぼくは笑ってばかりなんです」とも言った。

弐)

わたしは、音楽学界では、東京帝国大学物理出身であり、父親に勘当されながら、研究対象を好きな音楽を選択し、逸話だらけの、田辺先生と、神戸出身で、国立音楽大学の初代学長であり、NHK交響楽団初代事務局員の有馬大五郎先生の、生き方を、尊敬していた。

吉川先生のは、著作物を所持していたけれど、日本の楽器と理論だけを、研究されている人なのだろうか、非常にわかりにくい学者として認知していた。

この、まさに実践であり、精緻なる哲学といえる「日本音楽の性格」は、吉川先生が30代のおり、日本の、都市という都市が、アメリカの「B29」に襲われ、炎上していたとき執筆された。

とうじ、東京帝大の助手だった吉川英史先生は、アリストテレス哲学の出隆(いで・たかし)教授と、お二人で、大学を火災から守る役目をされた。
お二人は、食糧困難の時代、「本郷」の、校舎と校舎のあいだなどを、畑にし、「芋」など、食物を耕作されたという。

「あれは、空襲のとき、死を覚悟し、わたしの考え方を、夢中で、書いたものです」と、吉川先生は、気持ちのはいった、動じない言葉でおっしゃった。

「日本音楽の性格」は、邦楽の「わんや書店」から1948年に発行され、わたしが、この書籍を見つけたのは、1979年、「音楽の友社」から、再刊され、しばらくし、大阪の「旭屋」で、わたしが、所持していない、一冊に気づいた。

わたしは、京都の音楽界での重鎮だった山田忠男先生に、他の書籍で、良い物は、持参していた。
しかし、吉川先生のだけは、「先生が、購入して、読むまでは、もう、来ない」「とうじの日本だと、日本のオリジナルといわれる、生物学や物理学の考え方は、簡単にできます。たとえば、わたしの論理思考を、アリストテレスの三段論法というのでしたら、とうじの研究室を、主観で、おっしゃってくださいますか。同じ教室だったでしょう」と言った。

すると、「日本の学界で、弟子が、先生を破門したのは、松田君だけですよ。世界でもいないですよ。いまは、言ってはいけません。君には、音楽と、生物と、物理と、医学界を変える役割があります。1980年からは、松田君の時代です」と山田忠男先生は、いつもの、驚きをふくんだ言葉でいった。

「わたしの時代など、この、わたしが関心をもたない」と、わたしは言い切った。

とうじの新しい生物学の考え方にしろ、世界的と評価された物理学や数学の理論は、メンデル遺伝学をもとに考察できる。

このことについて、1970年代中ごろ、山田忠男先生より、年長になり、京都を故郷とする、京都帝大出身の、親戚に、聞こうとし、親戚も、「待っています」といったけれど、とうとう、質問に、行かなかった。

血液型はイギリス人の医師が発見した。のちラントシュタイナーが発展させ、ABO式血液型となった。が、これらは、ラントシュタイナーの先生にあたる、ハイデルベルグ大学の、デュンゲルン博士の言動でわかる。

A型とA型どうしの親子から、O型の子供が誕生する。「シスAB型」は、A型になったり、B型になったりする。

これらの、事実をまえに、物理学者や生物学者が、中間子理論とか、中立進化論を引き出す事はできる。

日本に血液型の知見をもたらした原来復(はら・きまた)博士の、お嬢様はRHマイナスという、日本では珍しい型で、山田忠男先生の慧子(けいこ)奥様は、シスAB型で、血液型が変化する。

デュンゲルン博士の学問への厳しさは、原来復博士にも同様だった。

明治時代の終わりにでた、「早稲田大学医学部構想」のため、財閥からの援助と借金で、ドイツ留学をした原来復は、自宅の庭に実験室をつくるなど、学問に誠実であった。

これらの構想は、第一次世界大戦で、ドイツが敵国になったことから、五年計画の留学をはじめ、外貨の問題で、変更となった。

1970年代のわたしは、自著「血液型と性格の社会史」を、1991年に出版するまで、苦しみのなかで亡くなられた古川竹二さんと、心理学が好きだった朝永振一郎さんが、血縁だと知らなかった。

血縁だとのことは、古川竹二教授の、子女からの連絡で、わかったことだった。「血液型と気質」説を発表し、古川竹二教授が、京都帝国大学での学会発表のとき、朝永振一郎さんは学生だった。

このころの京都帝大、理学部の研究室は、物理も生物も数学も、皆、同じ部屋で、生物学者の前に、数学者がいるというように、机を並べていた。

山田先生が読んだのは、二週間ぐらいしてからだろうか。

わたしに、「田中くん。君のところが、将来、世話になる、松田君です」と、丁寧な挨拶をと、山田先生から、命じられた、ヤマハ(YAMAHA)より老舗である、京都の十字屋(JEUGIA)の田中さんが、持参したという。

このときの田中さんは、いまのJEUGIA会長田中義雄(京大、法卒)さんの、叔父さんにあたる方で、京都の音楽家への、良き理解者と知られるのは、「田中ゆき」夫人はじめ、義雄さんのご両親にあたるほうのようだ。

山田先生は、「吉川さんのは、文章表現が、、、」という。

そのため、文章の本質は、すべてを読んだとき、心にのこるかどうかで決まるもので、紙面にある、表記ではない。文学でゆくと、夏目漱石と芥川龍之介との差、田辺尚男先生が話し言葉での表現にすぐれた夏目漱石とすれば、吉川英史先生は芥川龍之介にあたると、わたしは言った。

このとき、山田先生宅に、リコーダーの練習にきていた子供がいた。わたしは、練習の音を聞き、吹くたくない音が出ているので、わたしだと、嫌々している子供には、教えないというと、
「関雪(かんせつ)の孫ですぜ」と、橋本関雪の、「白沙村荘(はくさそんそう)」と近い、先生がいう。

それで、日本美術の世界でいうと、田辺先生は、「横山大観」ふう、吉川先生のは、「速水御舟(はやみ・ぎょしゅう)」ふうで、せまってくるものが、まったく違うのですといった。

そのあと、わたしは、「遺伝子の物理量」と、民族音楽の「音の物理量」との比較論文の、序論をすべて削除したものを、山田先生に提出した。

山田忠男先生は、「吉川さんと、表現と内容が、まったく違うじゃないですか」というので、いまのわたしに、言語表現を検討している時間はないし、わたしの日本音楽の考察は、吉川先生のものより、格段に、低い。わたしは、生涯かかっても追いつけませんと主張した。

また、山田先生が、「ニュートン以来のシステムに、数式と、小数点以下の数値がなくなりましたね。p、q、rの頻度率で論じた、先のほうが論文らしいのに」と、何回も、残念そうに言う。

そのため、「数式や、細かい数字など、ごまかしにすぎない。この論文の反証は、必要がおきれば、わたしがしますし、まず、無理です。科学の本質に、数式や、数字など、いらない」
「比叡山は、東山三十六峰より高い」
「冬の京都、雪がまじる、比叡颪(ひえい・おろし)の‘白い風’は冷たく寒い」

これら、言語表現による、絶対事実への反証に、数式や数字がいるのですか。
哲学は、科学は、本質を見ぬき、わかりやすくする学問ですともいった。

このときの、わたしの「原論文」は三つあって、読み手(審査)に、京大の人文研の学者(理学部)を含んでいたので、山田先生は困り果てた表情をしたが、わたしは変えなかった。

参)

わたしの、この「自筆論文」にたいし、科学史学会長だった湯浅光朝先生(2005年、95歳没)は、「これは、西洋科学のシステムです。システムは壊れません。クーンのパラダイム論とは違います」といった。

湯浅先生は、東大で物理学を専攻し、戦後、戦争反対といい、留置され、神戸大へ赴任した。
のち「ローマ会議」で、西洋のシステム科学が発展する国家(地域)は、「時代により特定の風向現象」をもつと発表し「ユアサ・フェノメナ」と命名された。

わたしは、中国とインドの可能性はないのでしょうかときいた。
湯浅先生は、20世紀はアメリカで、21世紀の西洋科学の発展は、日本なのですと、わたしに、断定した。

このあと、1980年秋、J・S・ミルズなどを的確に紹介した、神戸大の陸井四郎(くがい・しろう、1997年、72歳没)先生に会った。
「新しいパラダイムですね。パラダイム、いい言葉です」と陸井先生は、おっしゃった。
わたしは、「パラダイムは流行科学への適応で、システムは本質科学です」、と言った。

西洋思想家の陸井先生とは、静かで、止まったような時間をすごした。
同じフロアにいた、他の教員たちも黙っていた。

陸井先生とは、神戸大の、海がみえる教職員室で、幼いとき夕方まで、兄と遊んでいた、神戸の、日の入りまえの海を、立ち、並んで、みつめていた。

そして、神戸大って、ここから見えるだけなんですか、こんなに小さいんですか?と質問した。
「そうですよ、これだけですよ。小さいですよ、、、」と陸井さんは、知らなかったのですかといった声になり、
「ここも、この国も、あなたに、何か、教えられる人は、だれも、いませんよ」。
海の方をみて、
「あなたは、苦労される、人生を、送られる方ですね」
と陸井さんは、あたたかさのなかに、寂しさがある語韻でいった。

わたしは、1982年、下村寅太郎さんと、後輩の湯川秀樹さんたちが、作られた、科学基礎論学会で学会発表をした。

早朝発表だったので、少ししか、いなかったとおもったわたしは、発表後、話しかけてくる学者たちに、ひとり電話をしないといけないのでと、八王子の湯浅先生に連絡をいれた。
「40人しかいないのに、学会なのですか」と注意したかんじの発言になった。
湯浅先生は「午後でも、10人ほどです。学会はじまってのことです」とういので、教室の外には、なぜか、ずいぶんいて、話かけてくる学者が多く、帰れませんと言った。

1980年夏、吉川先生には、活字論文ができたとき、手紙など、何もかかず、送った。

カトリックでの英語の恩師、スーテル神父、サンチェス神父たち、司祭たちの顔が浮かんだ。この二人との出会いがなければ、わたしの、西洋語の、語学力はない。

ブルネット神父にかわり、スーテル神父は一年間、サンチェス神父は二年間、わたしには、叩きこむような形で、英語を教えた。
数ヶ国語が堪能な、かれらは、ラテン語を、「日常の符丁」のように、黒板にかいていた。
わたしも、20代半ばまで、ノートや原稿に、符丁、記号として、便利だったラテン語を使用していた。
このせいで、1930年代からの15年戦争で、英語も満足にできなかった、大正、昭和初期世代の教員に、「これは、なんの意味?」と、たびたび聞かれ、めんどうになり、ラテン語の使用をやめた。

なにより、時代の先端を行くことが「ミッション」である、ローマ・カトリック、クラレチアン会で、飛び出た秀才と言われ、5ヶ国語が自在な、サンチェス神父の、「日本人は、パーマ屋さんも、ふつうの大学も、先生なのですか。わたしの国では、先生は、神父に使います」と、はじめて余談を言ったことが記憶から消えない。また、川柳の「先生と、言われるほどの、馬鹿でなし」が頭にあったので、面識のない、すぐれた学者に、先生とは無礼と思って書けず、「様」にした。

山田忠男先生は、「田辺尚男さんも、様にしたのですか。湯川さんは」と言うので、湯川秀樹先生へは、少し考え、わたしを見出した人ですので、唯一、「博士」にしましたと回答をした。

「梅棹君は?」と聞くので、京大人文研から、国立民族博物館、初代館長の、梅棹忠夫さんは、わたしのためには、何時間でもとおっしゃって、実際にあい、面識があったけれど、先生と書くのは失礼とおもい、役職名の、「館長」にしましたと言った。

「うーん。松田君、、、。君は、、、」が、山田先生の言葉だった。

吉川先生からは、礼状が、すぐに届いた。

わたしからの書簡を、「ファイルに」と秘書に指示していた、梅棹忠夫さんからも早かった。

四)

1982年の学会発表が終わって、わたしは、なんの紹介状もなく、吉川英史先生を訪問した。
和服姿の、吉川英史先生ご夫妻は、わたしが、あらわれると、目を赤くされ、涙をうかべておられた。
「みんな、わたしの責任です。わたしの弟子が悪いです」

「いつも、誰であっても、めったに、開封しません。また、読まないのですが、、、。あのとき、あの論文には驚かされました」
「わたしは、こんな手で。音楽が好きで、三味線だと弾けますから」
と吉川先生は、実家の工場で、小指など大きくケガをされた左手をみせられた。

わたしが、先生の手は、典型的なB型タイプTですね、O型タイプTとおなじく、爪弾きやすい指先です。A型にはないです。というと、
「わたしはAB型かもしれません」といわれるので、日本人のAB型は、1000人単位で見まきましたけれど、B型のタイプIや、O型のタイプIとかは発現してきませんねと言った。

(吉川英史先生のと同じ、形質をもった人物に、今、同志社大学、文学部長、哲学、工藤和男さんがいる。B型のタイプIの工藤さんは、皮膚紋理も深く明確である。同じく、哲学、吉田謙二さんは、AB型であっても、皮膚紋理が浅く、A型の形質が強いAB型。倫理学、O型のタイプTで皮膚紋理が極めて浅い川島秀一さんがいたが、現在、名前失念。団塊の世代の憧れ、女優、吉永小百合さんは、O型タイプTの皮膚紋理が明確な形質である。B型のタイプIは爪ではなく指先が細く、O型のタイプTは形質上、指先に爪がすぐ出るので、弦楽器を演奏しやすい。)

五)

このあと、音楽学の議論となった。そのあいま、
「小泉君は、わたしに、先生のようになりたいのでと訪問してきました」とおっしゃり、「小泉君に、子供ができたときは、ウチの子が使った、赤ちゃんのベッドや、用品を、妻に持って行かせました」と、おっしゃった。

すべて、わたしの出費による、ABOと音楽の論文へ、山田忠男先生が、わたしの紹介を、正確にしておけば、小泉文夫(1927−83年、没56歳)さんたちは、わたしが、誰の血縁なのか、推測がついたはずだった。
小泉さんの奥様、声楽家の加古三枝子(1916−2002年)さんが、わたしの父方と同じ村の出身だとは、小泉さんが亡くなられてから、加古さんによる「抄子に教えられて 障害をもつ娘と共に」(草思社 1988年)で気づいた。

わたしは、「松田君の論文が、ぼんやりですが、すぐさま、わかるのは、日本では小泉君だけです」と山田先生に、言われていた。
それで、小泉文夫さんのところへは、1979年ごろから、京都へ、予算20〜30万円ぐらいの、講演のゲストとして呼ぼうとおもい、妻に、何度か、電話をさせておいたことを吉川先生に言った。

妻は、東京芸大の「小泉研究室」は、女学生の声で、いつも明るかったという。

6月も電話をさせていた。そのため、6月下旬は、まだ、大学の講義があるので、研究室にいるとおもっていた。ところが、赤坂から連絡をいれたら、つながらなかった。それで、山田先生から、なにかあれば、東京芸大教授の「吉田君に」といわれていたので、フルートの練習と研究が終わられる、夜中までまち、高円寺から、吉田雅夫(2003年、88歳没)先生に連絡を入れた。

「ええっ、京都から、ですか?」と、山田先生宅にも来られていた、吉田先生の声は、遠方からと、懐かしさが、交差し、まるで研究生のようだった。

「小泉君、いませんよ、アフガンのほうへ、行ったところです」と、山田忠男先生から、わたしが、指揮ができると、聞かれていたのか、新しい音楽を構成できる作曲家と山田先生に、宣伝された人物に、夜中でも会いたいとおもわれたのか、音楽家としての興味が、わたしのほうに向かっていた。

これらのことも、吉川先生には、伝えた。また、わたしの論文は、1978年は同志社の川島秀一さんが持って逃げ、79年は京大へ提出しては、無くなり、時がたてば、もどってきたことも言った。
吉川先生からは、のちに、血液型の検査をして、B型だったこと、小泉文夫さんが亡くなられたこと、尊敬する宮城道雄検校がO型とのハガキをいただいた。

「わたしは、東京芸大の邦楽科問題で、文部省に抗議をする役目になりました。抗議をした人間が、教授になれませんので、わたしは、辞めました」と言われた、吉川英史先生は、
「わたしは、いい先生に、恵まれました」と、田辺尚雄先生のことを指す、言葉をおっしゃった。




▲ 左京区、白沙村荘 (写真: 松田薫)
▼下のハガキは吉川先生からのもの。小泉文夫さんが亡くなられたこと。宮城道雄検校の血液型がO型など記されている。





HOME
「京都昨今」松田薫2006-06-20