京都昨今
3.芸術家、音楽家の「運命」


京都で、唯一というか、ごく普通でありながら、反骨の精神をみせた従業員のいた「京都書院」があった。

1960年代の学生にとって、京都書院のグレーのカバーは、ひとつのステイタスだった。1970年代、河原町店「イシズミ」地下の思想書を扱っていた店は、書籍好きの、学生の溜まり場でもあったが、ずいぶん前に消えた。

京都書院の本店は4Fがギャラリー(1999年閉店)で、25年ほどまえ、弟子をとらないという、写真家の浅野喜市(あさの・きいち)さんの展覧会があった。
展覧会への招待は、息子さんによる。

ほかからは、気難しいとかいわれていた写真家だったけれど、わたしには、とても、やさしさに満ちた人と感じた。
わたしと妻に、眼で挨拶をしてくださり、黙ったまま、ほほえんでいてくださる。
それで、これは迷惑がかかってはとおもい、そのために買った「NIKON」のことは忘れることにして、弟子入りを止めにした。

写真家、浅野喜市を、あらため知ったのは、妻が、もらってきた1980年用の、カレンダーにある。
いつも、東京は広くて狭いから、とくに京都は狭いので、書籍とかはもらってこないでくれと言っていた。カレンダーだからと言われても、嫌だと言った。
嫌だったけれど、広告のない、自費、限定の写真家のものといい、部下全員に配っていたというので、仕方なしに、開けてみた。
どれぐらいの日数と時間がかかったとおもえる風景だった。

写真をみた、わたしは、この人は? と妻に聞いた。

わたしたちが眼にする、多くの京都の風景は、京都の和菓子屋の跡を継がず、「二科」で活躍される、50歳まで、自由人だった浅野喜市さんが、京都を歩きまわられ、構図の難しい「正面撮り」で撮影された。

今の人たちは、浅野さんが、写真を撮る季節と、構図を決められるまでの時間など、脳裏どころか、知識の一片もなく、かんたんに撮る。

良い意味での、自由人のあつまりであった、その目的をかなえた京都書院が消えつつあるころ、1960年代までは、河原町三条をより、四条に下がったところで、専門といえる受験生や大学生向けの書籍をあつかっていた「駸々堂」が、京宝店へとうつり、「京都書院イシズミ地下店」の精神をついだ。が、どちらの場所もテナントだったので、照明を求める、時代の変化に負けた(2001年閉店)。
そして、駸々堂のあとは、阪急系列の「ブックファースト」(2006年1月閉店)がつぎ、映画の楽しみをあたえつづけた、「スカラ座」のあった「京宝ビル」が変化する。

35年という歳月がたったのかとおもうけれど、イトコが、音楽の、興行主(倒産)の友人にさそわれ、バッハ演奏で知られる、チェロニストのピエール・フルニエ(1906〜86)と挨拶をするという。
そのため、叔母に、ジャケットといっている。「どこのブティックへ、買いにゆけばいいの?」と叔母が、わたしに、たずねるので、体格は大人なみでも、中学生だから、渋谷の「東急」でいいんじゃないかと返事した。

1972年春の公演は「虎ノ門ホール」ではなかったかと記憶するが、幼児のとき、「雪印のチーズ」のCMに出ていたイトコが、その顔で、帰ってきて、手を洗わないので、叔母が注意をする。

「フルニエと握手した、この右手は洗わないんだ」とわたしに言うので、わたしが、イトコに握手と言ったら、握手をしてくれ、「すごく、やさしい人だったんだ」という。
公演が終わりホールから出るとき、興行主一行と並んで挨拶のとき、してもらったと言う。
そのあと、叔母が、「お風呂へ」と言うので、わたしは、その握手は、預かったと言って、イトコは入浴した。

ソロの芸術家や音楽家のやさしさと厳しさというのは、じっさい、会ってみないとわからない。

世界へのクラシックギターの存在を認めさせたのは、アンドレ・セゴビア(1893〜1987)で、セゴビアだけは、クラッシックの他の楽器をする人も、感服するより仕方がない。

わたしは、セゴビアをレコードで聞いたとき、この「カンパネラ」がギターかとおもい、セゴビアを買い求めに、心斎橋のヤマハまで行った。

日本への、クラッシックギターの普及に貢献した、ナルシソ・イエペスの日本公演の最後は、妻に、イエペスさんは、これが終わりだとおもう、わたしは倒れていてもゆくからと、体調が崩れていたけれど、10弦ギターの創作者の音楽をききに行った。

イエペスとフルニエの雰囲気は、ずいぶん違う。が、とにかく、あたたかなひとで、また、会場の聞き手も、イエペスの人柄と病気を知って、演奏内容など、関係なく、拍手が終わらず、アンコールをもとめ、また、にこやかに、お辞儀ばからりされ、応じられた。

ピアニストやバイオリニストのソロだけ考えても、音のひびきや、照明を考えると、それらの専門家への経費などが大変になる。
弦楽四重奏、さらに50人単位でなる管弦楽団のばあい、事務局員とかに経費がかかって、オペラやバレエとなると、さらに人数が増え、観客に披露するまでの、準備への「時間」と「経費」までが、壮大となる、全体芸術である。

その芸術の難しさを、ほんの少しだけでも理解できる人たちがいてくれればと願う。なかでも出資者となるパトロンがいなければ、今、より国際化といわれ、混乱をみせる社会では、不可能といえる。

西洋のオーケストラという、単一のものであっても、音楽を、理解するには、その国に誕生したものであっても、理解というまえに、嫌いという感情をあらわす言葉があれば、それを消してしまうことができる。

ひとりの指揮者が亡くなられた。京都市交響楽団常任指揮者の岩城宏之(2006年6月13日、没73歳)さんが。

時代の変化をかんじたのは、1978年の夏、第9回新日本フィルによる、「軽井沢音楽祭」での出来事だった。
実家でテレビがつけてあり、夕方まえ、つぎの仕事への、短い休憩のとき、見るとはなしに、ぼんやり眼にした。ゲストが「さだまさし」さんらしく、指揮が岩城宏之さんというので、何をしているのだろうと思った。

さだまさしさんの「無縁坂」という名品は、わたしには、難病のわたしをつれ、病気なんかに負けてはいけませんと言い、5歳の、わたしの手を引っ張り、大学病院へつれて行った、母とわたしとの、一光景の表現に聞こえる。

岩城さんが、指揮棒をふろうとして、瞬間とめられ、左側を「じっ」と見た。
『これはどういうことなんだろう』と、このような、キリッとした表情が見てとれた。
が、左側にいると思える、さだまさしさんから、サインがないのか、岩城宏之さんは、止まったままである。その止まった視線に、『きみとわたしの、世界は?』の、哲学者風な眼をかんじた。

わたしは、見ることができなくなり、テレビのまえから去り、二階へあがった。
そして、あの状況下では、少し音楽歴のあるひとがみれば、指揮者より、コンサートマスターのバイオリニストに責任があるように思えてくるので、こまった世の中になったとおもった。
ゲストの、さだまさしさんの意識は、正面の観客に行っていたはずだ。

なぜ、「0.1秒」以下が、非常に大切となった世界に、フォークや、ポップスとかの「チューニングでギターを変えます」とかの動作で、会場との対話をする、音楽家のひとたちと、岩城さんは、公演をしたのか、理解できなかった。
ポップスのひとが相手だと、オーケストラのひとたちも、アドリブの音を入れて、どうかしてくれるのに、なぜ、岩城宏之さんは、指揮棒を止め、考えるような動作になったのか、わからなかった。

このときの、軽井沢音楽祭の、指揮の予定は、軽井沢「三笠ホテル」のオーナーの孫、山本直純さんとあとで知った。
山本さんだと、オーケストラへは左手で、静止させ、右の指揮棒を大きく、一回まわせば、どうにかなったことだ。

山本さんは無免許で、警官の停止をきかなかったという。違反が、どのような事態だったのか、場所がどこなのか、知らないけれど、1980年ごろ、世田谷の環状七号や、八号線という、走行したことのない人には想像がつかない、過激地帯の事故でも、警視庁の警官は、被害者がいないかぎり、違反者の態度いかんで、許してくれる時代だのにと思った。

それで、「京都市交響楽団」へ意見のいえる山田忠男さんに、指揮者なんか、いらない時代になったと言った。
ホロビッツやカザルスの時代に指揮者なんかいらなかったともいった。
山田先生からの意見は、「いりますよ」だった。

わたしが岩城さんは、「時代という譜面」がよめるのですか?ときいたら、「岩城君は、読めます」「小澤(征爾)君、岩城君は読めます。ぼくや、朝比奈(隆)さんは、読めませんけれど」と言う。

わたしが言っているのは、時代という譜面のことで、実際の譜面ではない。

山田忠男さんが言うのに、1970年代、譜面をよめるのは、世界ではカラヤン、バーンスタイン。日本では、小澤征爾さんと岩城宏之さんがはじめにくるという。

京都府や大学の評議委員だった、山田忠男さんが、「1975年、同志社創立100年祭」のまえ、バーンスタインへ「博士号」をと言ったら、「誰もしらなかったんだよ」と嘆き、わたしに質問したので、オーケストラと一団となって指揮ができていた、あのときに上げていれば自信がついていたのにと返事をした。

それで、兄のイエの、近所のほうらしいですけど、プレハブの集合住宅の窓を閉め、朝から夜まで、練習をし、まわりから、変人といわれている、バイオリンを練習している母子家庭の五嶋みどり(とうじ小学生)さんを、「毎日コンクール」で一番にできませんか、こんな縁故だらけにすると、音楽界がダメになりますといったら、音楽関係の来客もいて、緊張と、沈黙がおきた。

もう、ついでだから、ギタリストで、渡辺範彦(1947〜2004年、没56歳)さんという、完璧に近い演奏をする、若手が出てきましたというと、「ギターは、クラッシックの中ではないです。セゴビア、かれは別です」と言う。

わたしは、「人間の、声がもつ、スラーのきく、ギターが、クラッシック楽器でないとすると、ピアノは、打楽器ですね」と言った。
山田忠男さんは、一息おいて、「そう。スラーです。松田君のいうとおり、ピアノは打楽器になります」と言った。

わたしは、1973年にギターを迷いながら、友人をとおし、1974年春、五条の「フレット楽器オザキ」さんへ「河野賢15」を発注した。発注してから「河野20」ができたことを知って、あれっ?とか思った。
東山五条にあった、壊れかけの山小屋のような店構えにいた尾崎さんは、わたしと会うと、「これをもって帰ってください」と、作りが黒のイタリア製のを言う。
ニスの匂いがすごい、このほうが良いですけれど、音楽は今年でやめないといけないのでと言っても、尾崎さんは、「持って帰って」といい、価格を聞くと、28万ということだった。

1974年春、京都府庁勤務、京大法出身で、新卒の額面6万8千円の時代だった。バイオリンなどに比べると、比較にならないけれど、これまで、2本、茶のスペイン風のギターを使っていたから、同じようなのは、一本を友人にあげれば、わからないとおもっての判断だった。

そのため「黒」でリュートの親戚みたいな形のは、親にすぐ知られ、ダメです、注文をしたあと、予定外の日本一周旅行をしたので、いま払えませんというのに、「わたしは、一度、見たひとを忘れない」という。
尾崎さんの言葉どおりにしておけば、よかったと、このときの後悔はながい。

山田忠男さんに、18世紀ごろは、どうしていたのですかと聞くと、「18世紀ごろは、バトンのように、指揮をするものが、棒で、床をドンドン叩いていました」と、仕草つきで言う。
その仕草にわらいながら、一度、音楽って、これほど、やかましいのだという、時代に、もどさないといけないといった。

なにしろ、今の状態で「音大」がふえると、音楽家だらけで、才能のある音楽家が止めてしまう、もったいない世の中になると言った。
それと、音楽会場を、1000人までのにして、ソロや、四重奏とかの構成をとり、入場料を二千円ぐらいで、ターミナル近くにすれば、会社員が、勤めを終えたあと、気軽に来れ、収益もどうにか保たれ、クラッシック音楽となじめるのにと言った。

これらの話から、山田忠男さんは、いつものように、わたしに転部や転科、音楽への道をいうので、先生の息子さんは?と聞いたら、「うちの息子は、才能がありませんよ」と言って、「この譜面、どうおもいます?」と言われ、手書きのだったので、そんなの読めませんよといっても、「現代音楽家」のを、手渡しをする。

習性から、手に楽譜を渡されると、みてしまい、こんなありふれた音の進行の、8小節単位の区切り作りをしていて、旋律が、7小節目で、主和音のドからソへと、いきなり音がとび、9小節目から、同じ和声進行をしているのか、わからない。
このままのドでも、ミでもいいし、必要がないじゃないですか、と言った。

「そうでしょう、君は」というので、こんなこと、楽譜の全体を見て、少し離して、はすかいにすれば、退屈な作品かどうか、わかるじゃないですかと言い、そのばで、譜面を書き換えていった。
「やはり。楽器がなくても」と山田先生は言い、奥様との、日本の音楽に未来があるといった沈黙をして、「広瀬量平(京都市立音大教授、作曲)君の下で、助手をしてくれませんか」と言う。

山田忠男さんの態度が変化したのは、わたしの人類学の論文を読んでからだったけれど、わたしのイエは学問でもダメで、まして、指揮や作曲なんかすると、すぐ勘当で、今、している人類学の研究ができなくなりますし、今の時代、わたしが音大の教員になったら、学生の就職先探しばかりで、5年もしたら、教え子同士が、競争になって、わたしの時間がまったくなくなるから、絶対に嫌ですと返事した。

1980年代となり、大阪フィルハーモニーの、バイオリンのトップが、枚方市駅の周辺で、50ccのオートバイにのり、事故をされ、亡くなられたのを聞いた。この方は、わたしと同じマンションの住居者だった。

近所の人が、「有名な指揮者の、朝比奈隆さんが、葬式に来るので、行きませんか」という。

わたしは、1970年ごろ、大阪の天王寺動物園の倉庫とおもうが、60歳の朝比奈さんが、コントラバスやティンパニーといった、大きな楽器を運んでいるときの姿がでてき、また、楽団員の子弟たちが、高校の進学も、おもうようにならない情況をしっていたので、返事をしなかった。

▲ 「駸々堂」から「ブックファースト」。その後の建設へ (写真: 松田薫)
▼ 「紀伊国屋」から、夜を警戒する子猫
 (写真: 松田薫)

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-06-15