京都昨今 |
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3.芸術家、音楽家の「運命」 | |
1960年代の学生にとって、京都書院のグレーのカバーは、ひとつのステイタスだった。1970年代、河原町店「イシズミ」地下の思想書を扱っていた店は、書籍好きの、学生の溜まり場でもあったが、ずいぶん前に消えた。 京都書院の本店は4Fがギャラリー(1999年閉店)で、25年ほどまえ、弟子をとらないという、写真家の浅野喜市(あさの・きいち)さんの展覧会があった。 ほかからは、気難しいとかいわれていた写真家だったけれど、わたしには、とても、やさしさに満ちた人と感じた。 写真家、浅野喜市を、あらため知ったのは、妻が、もらってきた1980年用の、カレンダーにある。 わたしたちが眼にする、多くの京都の風景は、京都の和菓子屋の跡を継がず、「二科」で活躍される、50歳まで、自由人だった浅野喜市さんが、京都を歩きまわられ、構図の難しい「正面撮り」で撮影された。 今の人たちは、浅野さんが、写真を撮る季節と、構図を決められるまでの時間など、脳裏どころか、知識の一片もなく、かんたんに撮る。 良い意味での、自由人のあつまりであった、その目的をかなえた京都書院が消えつつあるころ、1960年代までは、河原町三条をより、四条に下がったところで、専門といえる受験生や大学生向けの書籍をあつかっていた「駸々堂」が、京宝店へとうつり、「京都書院イシズミ地下店」の精神をついだ。が、どちらの場所もテナントだったので、照明を求める、時代の変化に負けた(2001年閉店)。 35年という歳月がたったのかとおもうけれど、イトコが、音楽の、興行主(倒産)の友人にさそわれ、バッハ演奏で知られる、チェロニストのピエール・フルニエ(1906〜86)と挨拶をするという。 1972年春の公演は「虎ノ門ホール」ではなかったかと記憶するが、幼児のとき、「雪印のチーズ」のCMに出ていたイトコが、その顔で、帰ってきて、手を洗わないので、叔母が注意をする。 ソロの芸術家や音楽家のやさしさと厳しさというのは、じっさい、会ってみないとわからない。 世界へのクラシックギターの存在を認めさせたのは、アンドレ・セゴビア(1893〜1987)で、セゴビアだけは、クラッシックの他の楽器をする人も、感服するより仕方がない。 わたしは、セゴビアをレコードで聞いたとき、この「カンパネラ」がギターかとおもい、セゴビアを買い求めに、心斎橋のヤマハまで行った。 日本への、クラッシックギターの普及に貢献した、ナルシソ・イエペスの日本公演の最後は、妻に、イエペスさんは、これが終わりだとおもう、わたしは倒れていてもゆくからと、体調が崩れていたけれど、10弦ギターの創作者の音楽をききに行った。 イエペスとフルニエの雰囲気は、ずいぶん違う。が、とにかく、あたたかなひとで、また、会場の聞き手も、イエペスの人柄と病気を知って、演奏内容など、関係なく、拍手が終わらず、アンコールをもとめ、また、にこやかに、お辞儀ばからりされ、応じられた。 ピアニストやバイオリニストのソロだけ考えても、音のひびきや、照明を考えると、それらの専門家への経費などが大変になる。 その芸術の難しさを、ほんの少しだけでも理解できる人たちがいてくれればと願う。なかでも出資者となるパトロンがいなければ、今、より国際化といわれ、混乱をみせる社会では、不可能といえる。 西洋のオーケストラという、単一のものであっても、音楽を、理解するには、その国に誕生したものであっても、理解というまえに、嫌いという感情をあらわす言葉があれば、それを消してしまうことができる。 ひとりの指揮者が亡くなられた。京都市交響楽団常任指揮者の岩城宏之(2006年6月13日、没73歳)さんが。 時代の変化をかんじたのは、1978年の夏、第9回新日本フィルによる、「軽井沢音楽祭」での出来事だった。 さだまさしさんの「無縁坂」という名品は、わたしには、難病のわたしをつれ、病気なんかに負けてはいけませんと言い、5歳の、わたしの手を引っ張り、大学病院へつれて行った、母とわたしとの、一光景の表現に聞こえる。 岩城さんが、指揮棒をふろうとして、瞬間とめられ、左側を「じっ」と見た。 わたしは、見ることができなくなり、テレビのまえから去り、二階へあがった。 なぜ、「0.1秒」以下が、非常に大切となった世界に、フォークや、ポップスとかの「チューニングでギターを変えます」とかの動作で、会場との対話をする、音楽家のひとたちと、岩城さんは、公演をしたのか、理解できなかった。 このときの、軽井沢音楽祭の、指揮の予定は、軽井沢「三笠ホテル」のオーナーの孫、山本直純さんとあとで知った。 山本さんは無免許で、警官の停止をきかなかったという。違反が、どのような事態だったのか、場所がどこなのか、知らないけれど、1980年ごろ、世田谷の環状七号や、八号線という、走行したことのない人には想像がつかない、過激地帯の事故でも、警視庁の警官は、被害者がいないかぎり、違反者の態度いかんで、許してくれる時代だのにと思った。 それで、「京都市交響楽団」へ意見のいえる山田忠男さんに、指揮者なんか、いらない時代になったと言った。 わたしが岩城さんは、「時代という譜面」がよめるのですか?ときいたら、「岩城君は、読めます」「小澤(征爾)君、岩城君は読めます。ぼくや、朝比奈(隆)さんは、読めませんけれど」と言う。 わたしが言っているのは、時代という譜面のことで、実際の譜面ではない。 山田忠男さんが言うのに、1970年代、譜面をよめるのは、世界ではカラヤン、バーンスタイン。日本では、小澤征爾さんと岩城宏之さんがはじめにくるという。 京都府や大学の評議委員だった、山田忠男さんが、「1975年、同志社創立100年祭」のまえ、バーンスタインへ「博士号」をと言ったら、「誰もしらなかったんだよ」と嘆き、わたしに質問したので、オーケストラと一団となって指揮ができていた、あのときに上げていれば自信がついていたのにと返事をした。 それで、兄のイエの、近所のほうらしいですけど、プレハブの集合住宅の窓を閉め、朝から夜まで、練習をし、まわりから、変人といわれている、バイオリンを練習している母子家庭の五嶋みどり(とうじ小学生)さんを、「毎日コンクール」で一番にできませんか、こんな縁故だらけにすると、音楽界がダメになりますといったら、音楽関係の来客もいて、緊張と、沈黙がおきた。 もう、ついでだから、ギタリストで、渡辺範彦(1947〜2004年、没56歳)さんという、完璧に近い演奏をする、若手が出てきましたというと、「ギターは、クラッシックの中ではないです。セゴビア、かれは別です」と言う。 わたしは、1973年にギターを迷いながら、友人をとおし、1974年春、五条の「フレット楽器オザキ」さんへ「河野賢15」を発注した。発注してから「河野20」ができたことを知って、あれっ?とか思った。 1974年春、京都府庁勤務、京大法出身で、新卒の額面6万8千円の時代だった。バイオリンなどに比べると、比較にならないけれど、これまで、2本、茶のスペイン風のギターを使っていたから、同じようなのは、一本を友人にあげれば、わからないとおもっての判断だった。 そのため「黒」でリュートの親戚みたいな形のは、親にすぐ知られ、ダメです、注文をしたあと、予定外の日本一周旅行をしたので、いま払えませんというのに、「わたしは、一度、見たひとを忘れない」という。 山田忠男さんに、18世紀ごろは、どうしていたのですかと聞くと、「18世紀ごろは、バトンのように、指揮をするものが、棒で、床をドンドン叩いていました」と、仕草つきで言う。 なにしろ、今の状態で「音大」がふえると、音楽家だらけで、才能のある音楽家が止めてしまう、もったいない世の中になると言った。 これらの話から、山田忠男さんは、いつものように、わたしに転部や転科、音楽への道をいうので、先生の息子さんは?と聞いたら、「うちの息子は、才能がありませんよ」と言って、「この譜面、どうおもいます?」と言われ、手書きのだったので、そんなの読めませんよといっても、「現代音楽家」のを、手渡しをする。 「そうでしょう、君は」というので、こんなこと、楽譜の全体を見て、少し離して、はすかいにすれば、退屈な作品かどうか、わかるじゃないですかと言い、そのばで、譜面を書き換えていった。 山田忠男さんの態度が変化したのは、わたしの人類学の論文を読んでからだったけれど、わたしのイエは学問でもダメで、まして、指揮や作曲なんかすると、すぐ勘当で、今、している人類学の研究ができなくなりますし、今の時代、わたしが音大の教員になったら、学生の就職先探しばかりで、5年もしたら、教え子同士が、競争になって、わたしの時間がまったくなくなるから、絶対に嫌ですと返事した。 1980年代となり、大阪フィルハーモニーの、バイオリンのトップが、枚方市駅の周辺で、50ccのオートバイにのり、事故をされ、亡くなられたのを聞いた。この方は、わたしと同じマンションの住居者だった。 近所の人が、「有名な指揮者の、朝比奈隆さんが、葬式に来るので、行きませんか」という。 わたしは、1970年ごろ、大阪の天王寺動物園の倉庫とおもうが、60歳の朝比奈さんが、コントラバスやティンパニーといった、大きな楽器を運んでいるときの姿がでてき、また、楽団員の子弟たちが、高校の進学も、おもうようにならない情況をしっていたので、返事をしなかった。 ▲ 「駸々堂」から「ブックファースト」。その後の建設へ (写真: 松田薫)▼ 「紀伊国屋」から、夜を警戒する子猫 (写真: 松田薫) |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-06-15 |