京都昨今

ETRANGER KYOTO
■鴨川・異なった形と異なった音
すずしい季節でも、鴨川には、床がみられるようになった。
江戸に店をもっていた松坂の商人の子息で、国文学者の本居宣長(1730〜1801)は、23歳、京都へまなんだ。
京都に滞在したのが、宝暦年間にあたり、本居宣長の、「在京日記」によると、梅雨があけ酷暑の京都では、鴨川で納涼のため、一週間ほどを、祇園祭とかね、疫病などが流行しないようにとの、信仰をかねたものだったという。

強い西日をさけられる、花街の先斗町は、家の裏がわに床机を並べるだけで、かんたんに風情を味わえる所でもある。

床机は、大原女が売りにきたという、竹などで造ったものを横になべたものがさいしょだろう。

山あいで、にわか雨の多い京都であっても、梅雨があけた時期は、しばらく晴天がつづく。梅雨あけとともに、はじめるものだから、川床は、季節感のしっかりしたものが、開始をとなえなければいけないし、大衆は、いつでも、日常から、離れた、信仰が先にあった祭礼に、流行をもとめやすい。

わたしが高校生だったころの記憶では、三条から、四条を下がった松原あたりまで、 芸妓が、華やかにいた。芸妓にとっても、暑いとはいえ、貴重な着物が雨にあたることを考えると、この時期は、気楽な部分があったかもしれない。

が、文献は、鴨川の床は、芸妓だけが、華をさかせたものではなく、軽業(かるわざ)、物まね、犬相撲、馬の曲乗りなどいまの、わたしたちが見ることのない、催しがあったという。

この川床の反対側には、伝統芸能となった、歌舞伎の発祥地でもあり、殿堂ともいわれる南座がある。史料は、じっさいの鴨川の位置は、もっと西だという。

わたしたちが、かんたんに歴史を追えるのは、現在の位置に在る物を、昔からのものとおもえばいい。 南座の、少し東には、平安京より、古い歴史をもつといわれる、八坂神社がある。以前は、南座のそばに、かえりみるひとがあまりいない、出雲のお国の碑石があった。

いまは、四条の鴨川ぞいに、銅像となって在り、おおくのひとが、その銅像の説明文をよみ、銅像の形とともに、出雲のお国の存在を、納得するだろう。

納得できない、わたしは、新しい銅像のまえで中国の楽器を演奏する女性をみながら、とうじを想像していた。


■鴨川・異型を認めたひと 

お国は、神々のくに、出雲大社の巫女ともいわれる。戦国時代、武士は、兜をかぶりやすいように、額から頭頂部を、禿(かむろ)にし、側面の髪をのばしていた。お国は、女性なのに、武士と同じ髪型をえらび、胸に異端とされた、十字架などを飾りとし、ひとびとが集まる場所で、歌舞(うたまい)を演じたといわれる。

異端とされたもので、身体を装飾すること。髪も装飾のため、 踊りで動くと、これまでみたことのない、「かたむいた」異形をみせたそうだ。

これは、政権の場所が、江戸という遠い地だったこと。また、祭りごとの中心だった、皇族と貴族の末裔が数えきれないほどいる、京都だったから、江戸への反発として、なりたったのかもしれない。

しかし、歴史に名前を残すのは、よほどの、後見人があったと考えたほうがよい。白拍子の静御前は、源義経とのであいで、悲恋の代名詞となりきこえる。

出雲のお国には、いっぱんに、松坂城を築いた戦国時代の武将、蒲生氏卿(うじさと)の小姓だった、名古屋山三郎の存在が大きいといわれる。が、出雲のお国の、歌舞が、どのような形で、どのような音だったか、じっさいの、それを知るのは難しい。

京都の文芸や技巧が、高度に発達してゆくのは、政権が江戸にうつり、商業の地が大阪になってからという。 ふしぎに思えるかもしれないが、文化は、創作と、それを認めることができる知識人がいることで成立する。平安京(794)から、800年の歳月をかんがえると、歴史と趣味がわかる、貴族たちの知識は、はかりしれないだろう。
京都が、文化のものさしかもしれない、出版の中心地となり、食文化も発展させていたことが理解できる。

わたしたちは、一方向で、物を見、決めつけてしまおうとする。それが、かんたんだからだ。


■祗園・音楽家を戦争に

京大オーケストラの指揮者で、フルート協会会長だった、山田忠男(1911〜87)の書いた『随想京都学のすすめ』(右京区、洛味社 1973)のなかに、1943年11月11日、朝日会館で、学徒出陣壮行のため、京大オーケストラ第55回公演がのっている。

指揮は朝比奈隆さんで、フルート独奏は、研究生の身で、一等兵とし満州へ行かされ、傷痍軍人とし帰国した山田忠男だ。演奏する京大の学生も、聞く側の学生も、戦争の犠牲者となったとある。
この光景を、わたしたちは、真剣に受けとめなければいけないだろう。


演奏会

そして、これより古い写真が、いまは、「葛きり」の『鍵善(かぎぜん)』として有名な、今西善造氏によって、1936年、河原町三条に「朝日会館」ができ、まもないころ、京大オーケストラの演奏光景を「ライカ」で撮ったものがある。

ロシア革命で日本へ亡命してきた音楽家のひとり、指揮者エマニエル・メッテル(1884〜1941)をしたい、京都大学をえらんだ山田忠男が、フルートでモーツァルトの協奏曲をソロで、指揮者として著名な朝比奈隆さんがバイオリニストとして演奏した光景のものとあるのだけど、かんじんの山田忠男たちの姿がわからない。また、なぜ、1943年の演奏会の撮影をしなかったのだろうか。これも、疑問だった。


山田忠男

『青い山脈』などの作品でしられる服部良一のような作曲ができる弟子からは授業料をとらず、朝比奈隆さんたちからは取ったというメッテルは、自分の後輩が、東京や、アメリカで有名になってゆくことの、焦りと病気(ゼンソク)から、アメリカへわたり1941年亡くなった。翌、42年今西善造氏は39歳という若さで胸の病気で亡くなったそうだ。

これらの疑問もあって、『鍵善』さんに、原版(銀板)があるかどうか、連絡をいれた。

店をつぎ、写真が趣味という今西知夫さんは、「整理ができないほど、、、」と返事をされた。

先の善造氏は、柳宗悦(むねよし)の主張した李朝文化など、民芸を尊重し、その伝統を、自分たちなりにつごうとした、芸術家の黒田辰秋や河井寛次郎の技を評価し、自分の店の装飾をまかせた趣味人で、カメラもその延長かとおもっていた。きくと、ホルンを演奏していたという。

お寺さんの法要などに、「葛きり」などの菓子をあつかっていた商人の息子が、写真だけでなく、洋楽器を?

わたしに強い疑問をいだかせたのは、わたしの家が、音をたてるものを不可としたからだ。わたしより、40歳年長の、山田忠男たちの時代も、とうぜんのことダメときいていた。親に叱られ、隠れてしたという。

親に、ずいぶん反発したそうだが、「今西善造」は、どこまで、趣味に「かたむいた」ひとだったのだろうとおもった。

周囲をおどろかすほどの傾倒だったから、京大の学生だった山田忠男たちも、今西善造を、音楽の良き先輩としてむかえいれたのだろう。

今西善造の時代、『鍵善』は、文芸を愛したひとたちが、集う場所だったのだろうか。

今西知夫さんが、無造作にポケットから出された、善造さんが、撮り、写真ハガキにしたものをみると、そこには、いまのNHKを指揮したのではとおもえる、メッテルがいる。


エマニエル・メッテル

山田忠男や朝比奈隆が知る、ベースをもつ善造さんは、作家の宮沢賢治を少し 明るくした、まじめな青年のようにみえる。素朴さをかんじる。それをいうと、「そうでもなかったようですよ。道楽もんです」と、ユーモアのある言葉の響きに、批判もいれられる。


鍵善さん

いまの『鍵善』は変わった。わたしが行くのを嫌がった、小さな古美術の博物館かなとおもわせた、鍵善さんではなくなった。
京都へきた友人に、行きたいところとはときき、『鍵善』とよろこびいわれると、わたしは憂鬱になった。

なにしろ、30年ほどまえ、土日といえば、客々で、店の中へ入るのがやっとのところだった。葛きりなどを食べて出るまで、何十分かかるのかとおもう店だった。茶席のある2階へゆく、細い階段のとちゅうは、上から、帰りの客が、落ちてくるのかとおもわせる店だった。

わたしなりの、楽しみといえば、高価な螺鈿の器のなかにある、手製のため、不揃いの葛きりの端の一本を、きょうは、どれを、つまもうかとおもう瞬間ぐらいだった。

わたしが、以前の、狭い喫茶室のことをいうと、
「昔の喫茶室は、丁稚の部屋でして、、、」と説明してくださる。
あの細長さは、丁稚さんの部屋のものかとおもいながら、新しい広々とした空間は、 つぎの良き「道楽もん」がうずめてくれるのかもしれないとおもった。

*当ページ掲載写真のうち、(エマニエル・メッテル) (鍵善さん)は、鍵善良房の今西様よりご提供いただきました。


■シンボライズされる異型

異なったものは、それを、伝達するがわがもつ、権力やしかけで、すぐさま、正当化されてしまう。

鍵善の「葛きり」も、僧侶から肯定されたものだからで、文化の後ろ盾がないと、奇妙なものだ。

とおもいながら、京都には、鶴と亀を屋号にもってきた店が多く、静かな印象しかあたえない、これら動物の、色彩は、白と黒だけれども、どのような言われで、両者が選ばれたのだろうか。 亀のばあい、亀甲占いの歴史から、「煎餅」とのかかわりがあるのではないだろうか。また、わらべ歌の「かごめかごめ」には、鶴と亀がでてくるけれど、その言葉の対称も、どのような歴史から、でてきたのだろうかと考えさせる。

奇妙な形と味のものを、商う店が、八坂神社の近くにある。「清浄歓喜団(せいじょうかんきだん)」をつくる「亀屋清永」だ。

30年まえからの、神戸や横浜の中華街の光景を見なれた、わたしたちは、この菓子をみたら、中国伝来のものと想像がつく。

しかし、50年以上まえとなると、この菓子をみた、京都のひとは、この菓子の由来というまえに、この菓子名をのれんにまでかく店を、奇異におもったのではないだろうか。

のれんを守るという言葉があるけれど、「亀屋清永」の歴史は古い。しかも、寺社を相手に商売をする店の典型ともいえる、ひかえめな店の、在り方に好感がよせられる。
淡々とした店の在り方どうよう、この店の菓子は、「清浄歓喜団」はじめ、干菓子、 上菓子(生菓子)を口にすると、どれも、淡々として、とけてゆく。

秘訣はと、若奥さんの前川里美さんにきくと、
「素材です。分量は決まっておりますし」と、答えも、淡々としている。


亀屋清永

密教からの「清浄歓喜団」は?ときくと、下ごしらえは店に勤務するひとだけれど、最後は、ご主人や後継ぎの息子さんがたが、聖天様へ精進潔斎するという。
お菓子をおさめる先は、知恩院、清水寺というふうに、比叡山の仏教とゆかりのある寺々である。

                  

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「エトランゼ京都」松田薫