京都昨今

ETRANGER KYOTO
■かぐや姫の伝説

事実を見失わせるもの。歴史は、いちばん重要なものを、一部の権力者や、わたしたち大衆がもちやすい流行で、かくしてしまう。

『徒然草』の「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ」(第52段)でも 知られる、仁和寺へ、最初、行ったのは、嵐電(らんでん)、御室の駅から、歩いてだった。

27年という歳月がたっていた。

むかしは、拝観客が少なく、ぜんたいに枯れたおもむきのある寺だった。御室桜を、より味わうには、すこし南の、妙心寺あたりから、ゆっくり時間をかけ、坂道をのぼってゆくように、行ったほうがいいかもしれない。

御室の桜は、世間でしられる、風がふけば、とぶ、ソメイヨシノや、しだれ桜とはちがう。重さと地味目な、八重桜が開く時節は、五月にはいろうとするころだから、暑くなるころだ。なのに、御室の桜に、どこか、冷ややかさをかんじたものだ。

インターネットで、仁和寺を検索すると、金蘭豪華なよそおいをもった本殿はじめ、緑の多さに、気がひかれた。こんなにも変貌するものか、わたしが訪れたときの仁和寺は、なんだったのだろうかとおもわせ、たしかめに行った。

ヒッチハイクのようなひとりの白人の男性が、受け付けに、話しかけている。京都に外人観光客は、昔から、ありふれた光景だった。そして、平安京の時より、位置が東にずれたという御所までは、団体客はじめ観光客が多かった。
しかし、仁和寺や、さらに、北の高尾あたりで、外人客はみたことがなかった。

外国人より、日本人、観光客はもっと多く、仁和寺のホームペイジをみたのと同じく、緑の木々があふれ、白い小石がしきつめられている。土ほこりが立つ境内ではなくなっていた。
河原町広小路にあった、学生の多い、立命館大学が、衣笠に移ったことも、仁和寺にとって、さいわいしたのだろう。


■こころやすませてくださる方

しずかで、にこやかな雰囲気をもつ仁和寺の、堀智範(ほり・ちはん)門跡さんが、 御付きのひとと通る。こういった風情をかんじさせるかたは、大きな寺の多い、京都では少ないのではないだろうか。わたしは、歩みに、安心をおぼえ、写真をとらせてもらった。


堀智範(ほり・ちはん)門跡さん

お寺のひとに、参拝客の多さをいうと、大分出身のフォークシンガー、南こうせつさんがコンサートにきたときは、2500人もの人出だったという。南こうせつさんは、お寺(禅宗、南陽山勝光寺)さん出身だという、わたしに記憶があったことまで説明してくれる。

南こうせつさんには、さまざまな思い出がでてくる。かぐや姫の格好で、テレビデビューしたときもわらったが、東京ドームでの、サイモンとガーファンクルの最後といわれた公演では、なんの予告もなしに、登場してきた。会場からの、「ひっこめー」という怒声にたいし、笑顔で、おじゃまなのは、わかっています、わかっていますと、何度もいったのは印象深い。

出自がユダヤ人のグループのためか、さまざまな宗派の格好をしたユダヤ人の集団にもであった。わたしたちには、真似ができない、高難度のギター奏法をするポール・サイモンは、練習をしていたことがわかったけれど、アート・ガーファンクルは、発声練習も取り組みへの意欲もみられないものだったため、マスコミは「金かえせコンサート」と紹介をした。

スターのほうに力があるのか、見物する大衆側に力があるのか、考えさせられたコンサートでもあった。

わたしは、南こうせつさんのようなひとが、庶民とうちとけようとする僧侶になったのではとかんがえながら、仁和寺のひとは、東京ドームはじめ、関東のコンサートの客は数万単位のものだと、知らないのだろうとおもったりした。


■おおきな学問所

仁和寺は、宇多天皇の父、光孝天皇が創建をかんがえ、没後、その意思を、宇多天皇がついだ真言宗の寺である。

栄えた時期は、南北4キロ、東西8キロで、南北5.3キロ、東西4.5キロの平安京より、広大な敷地をもっていたという。

平安京の西の方角にあり、宇多天皇のあと、白河、鳥羽、後白河天皇の学芸を好む王位継承権をもった皇子がついだため、「御室御所」ともいわれたのだろう。
とうじを思うと、そうそうたる学問の歴史をもった寺だったのだろう。

このような、歴史をもった、寺の法師が、おおよそ20キロほど南にある、男山石清水八幡宮の本殿へ、とうじ、御室川から、桂川へと船をつかえば、すぐの距離を、わざわざ歩いて行き、本殿を参拝もせず、ふもとにある、小さな社(やしろ)を、それとおもい、拝み、戻ったというのは、揶揄にすぎないだろう。

権威あるところをからかったという解釈は、このあとの、徒然草53、54段をよんでもわかる。


■金色の青い狛犬

それにしても、社寺が混合する、日本の宗教はどうなっているのだろうと、仁和寺から、東(青竜の方角)へ10キロほどいった上下、賀茂両社につとめるひとは、どのような考えなのかをただしに行くと、神社は神官が神につかえ、寺は僧侶が人を導くところという。それだと、キリスト教とかわらないのではというと、十字架など、偶像問題にふれる。

ならば、神社の、鏡や剣に勾玉などの「三種の神器」や、それをつつむ「お社」はじめ、鳥居、狛犬や、狐などといった、偶像崇拝に近いものはどうなるのだろうとおもっていたら、賀茂氏の母神がいる下鴨神社に、どこが由来なのか、金色に輝く青い狛犬に、これまでみたことがあったのだろうかという、意識がいった。

わたしたちは、日常生活と、離れたものに、畏怖や侮蔑がはたらくけれど、伊勢につぎ、神社信仰の中心といってもいい、大きな神社のなかに、このような、違和をかんじさせるものがあり、偉い人から、なんどと、ありがたいものだと諭されれば、すぐに、信心へとつながってしまうだろうとおもった。

このように考えながら、仁和寺の法師が、訪れた、おおもとが、大分の宇佐八幡宮で、僧侶により開かれたという、男山石清水八幡宮へいってみた。

仁和寺ホームページ


■ウドン2杯の『芦刈

ここの社(やしろ)をみると、10年以上まえ、「徒然草」の断片を、流行語っぽく訳した作家の橋本治さんと取材旅行した、編集者との会話が記憶からでてくる。

編集者から、作家との、学生どうしのような旅行のあとで、仁和寺から、男山の講釈をきいた。 仁和寺へは、どうやって行ったのかきくと、タクシーで門前までというので、わたしは、がっくりきた。

そして、 「『芦刈』っていいね、、、。谷崎は、あそこを散策したんだね、、、」と、木津 川、宇治川、桂川が合流する山あいの自然を、雰囲気をこめていいはじめた。

『芦刈』は導入部をエッセイの形をとり、読者をつかもうとし、あと本論にはいってゆく構成で、読書に時間がかかる作品だ。黙ってきいていた、わたしには、谷崎潤一郎が訪れた、1930年代はじめは、魚類豊富な巨椋(おぐら)池があり、谷崎が、後鳥羽院を中心に、悲劇の主人公としてもあつかわれる、北野天満宮の菅原道真など、歌人をしのんだ場所は、対岸の、「かぐや姫伝説」の一箇所ともいわれる、乙訓(おとくに)の国、大山崎であることは、記憶にあった。

谷崎が駅を降りたのは、高校の担任の住まいがある場所だったので、より鮮明だった。 わたしは、『芦刈』って、谷崎が、うどん屋で、ウドンを二杯食べたって話の?ときいた。
「そうそう、、、」と、また、雰囲気だけこめていうので、それは、対岸の、天王山 のある方ですよとだけ、短く返事した。
「えーっ。そうなの」と編集者は、宇冶のほうまで知りたがり、話を、宇冶十帖までもってゆく勢いになった。

作家谷崎潤一郎の『芦刈』をよめば、谷崎が、いまの阪急京都線の水無瀬周辺を、承久の変で、島流しにあった、後鳥羽上皇をおもいながら、対岸の男山を眺めていたことはすぐわかる。

なのに、谷崎が、石清水八幡宮にきたとおもっている。 歴史人の弟子にあたる東大教授を父親にもった編集者と、源氏物語すべてを現代語訳までした橋本治さんとのあいだに、なにか勘違いさせるものがあったのだろう。これ こそ、今風、「仁和寺の法師」とおもいながら、ケーブルカーで、男山の頂上につくと、谷崎潤一郎の碑ができている。


石清水八幡宮

石碑の説明文をよめばわかるのだけど、わたしたちは、安易に、なんでもかんでも、くっつけてしまう。よく、こんな勘違いのもとをつくるものだ。 石碑を作る方も、読む方も、文化の基礎知識に乏しい。いや、乏しいほうが、良いのかもしれない、とおもいながら、1631年、徳川家光によりつくられたという豪華な社殿の隅にあった祭りの準備の道具をみた。 

石清水八幡宮ホームページ


■今風、楽市楽座とぐうぜん

そして、石段を降りてゆくと、こういった山間地域、どくとくの豪雨のなか、露天商 たちが忙しくしている光景にであった。このことが、わたしに、明日は、石清水八幡宮にとって一番大事な、勅祭「放生会」ということをおしえてくれた。
旧暦では8月15日、新暦では9月15日の祭りだという。こういわれると、 そうなのかとおもうだろうけれど、旧暦と新暦との整合性は欠落している。

昔でいえば、こういったのが、楽市楽座のたぐいかもしれないとおもいながら、わたしは、この石清水八幡宮のもとになるといわれる、対岸の大山崎離宮八幡宮(河陽離宮とも)のことをおもった。

高校のとき、三年間、国語を担当してくれた神主の、この神社へも、わたしは30年 ほどいったことがなかった。しかも、行ったのは、クラス分けと進学指導のことで、担任だった先生から、相談に来なさいといわれたからだ。

わたしは、祭礼より、さきの日に、有名な天王山の頂上へのぼった。この山頂は、対岸の男山より、淀川へそそぐ、三つの川や、むかしあったという巨椋池周辺が、みわたせる。

また、この山の下方のほとんどは、油座で、繁栄した時期、離宮八幡宮のものだと史料はいう。戦国時代の武将、斎藤道三による、商いのほうがわかりやすいだろう。歴史は、おとなしいものより、乱暴であったところの方が、関心をよび、理解もしやすい。
悲しいことかもしれないが事実だ。

火は恐ろしいものでもあり、貴いものでもあった。生活にかかせない、火種を、 荏胡麻(えごま)から抽出する発明ができたことにより、利権を掌握し、淀川をはじめとする、渡しの権利も独占することで、男山八幡宮とおなじく、世襲という離宮八幡宮は、領地を拡大することができた。室町幕府は、荏胡麻の火を重視し、保護をした。そのため、足利文書が残存しているという。
しかし、江戸時代にはいり、より簡単な菜種油が作りだされ、勢力がおとろえた。

離宮八幡宮の祭礼、油座の伝統をひきつぐ、神聖な火をわたす儀式は、高校生のわたしが、抱きあげ、ここの山を少しのぼった、息子さんがされていた。

離宮八幡宮の成り立ちや、三種の神器を、息子さんの津田定豊さんに、たずねると、「(天王山にある)酒解神社(さかどけ)神社が、ここのもとですし、神器は(幕末、佐幕派に)燃やされて、残ってしません」と、答えてくださる。


津田先生

そして、恩師の津田定明先生に、なぜ、向かいの、男山は(神社の領が)大きく残っているのですかときくと、「まあ、ぐうぜんの結果ですわ」と、質問したほうが、どうすればいいのか、わけがわからなくなる、回答をしてくださった。 

離宮八幡宮ホームページ

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「エトランゼ京都」松田薫