京都昨今 ETRANGER KYOTO |
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■博物館・同志社 | ||
異国風の建物がある同志社に行ってみた。ハリス館の西側にあった工学部長室にチャペル。 わたしが入らないまま、いつのまにか、記念館になった。こういったものに関心がいかないわたしには、学生証を提示したり、名前を記載しないと入館できないところは、まったく興味外だった。学生が、入学と卒業を、三十年ぐらいしているうちに、この異国風の建物が多いところは、学舎というより、すっかり、博物館のようになっているかんじがした。
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■70年前後のクルマと学生食堂 | ||
わたしは、そのあと、御所との境をなす、寺町通りを下がって行った。 去年、2000年ということで、同窓のつどいがあって、会う場所をどこにしようかとの相談が長引いてきたので、わたしは、寺町通りから一筋西へ入るとある学生食堂だった「なかじま食堂でいい」といった。ところが、あそこは酒が出ないから、とかいわれ、ダメになった。 昔、今出川通りをすこし入った寺町通りの道幅は、2メートルもないぐらいにかんじさせた、土の道だった。それがデコボコのアスファルトから、いまでは、平坦な道になっている。真夏は開けっぴろげの食堂は、寺町からも見えたのに、見えなくなっていて、わたしは、少し道を下がりすぎてから、おかしいとおもいもどった。 食堂のドアはアルミ製になっており、木造のたたずまいは、なくなっていた。わたしは、食堂のおばさんが居るかとおもい、ガラス戸に近づいた。わたしに年齢がいったのとおなじように、黒い髪だった、おばさんは白髪になっていた。が、まだ元気ではたらいている。 茶色の木のありふれたおおきなテーブルが、並列になって、数十人入れたのに、テーブルはひとつで、4人席ができていて、食堂兼弁当屋さんになっていた。ここの、おばさんの息子さんは、家人が勤務した会社の上司でもあった。 それが、はっきりわかったのも、2000年のおかげだ。わたしと友人が話をしていると、家内が、なかじま食堂のおばさんは、わたしより一つ上で、わたしが経済状況をよく尋ねる息子さんの、お母さんという。 わたしが息子さんに、あの通りに、昔あった、甘いもの屋の名前を教えてというと、「いっぱいある。来たらええねん」とばかりいわれ、そんなに、変わる通りでもないだろうとおもったら、茅(ちがや)まがいの木造の家並みが、鉄骨だらけの町並みとなっている。 学生同士が、バラバラでも、いったいであることをかんじさせたメニューを見ようとおもったら、「お持ち帰りお弁当」が、コンビニとかでみるプラスチックのプレートになっている。ふつうと、ちがっているのは、「玄米弁当510円」だった。 また違っているのは、ビールを注文できるようになっていたことだった。おばさんに、昔は、置いてなかったというと、「暴れられたら、困るから」というので、今は、ときくと、「わたしが飲む。そしたら、みんな飲むようになった、、、」という。こんなことを、わたしの友人たちが聞いたら、ええっ?とおもうだろうなとおもいながら、ライス、味噌汁、サバ煮、千切り大根とかが100円代からあるのに気づき、昔を、そのまま思い出せる部分が、残っているところとかんじた。 おばさんは、近所にお盆のふるまいの寿司をくばり終え、わたしに「持ってかえって」といいながら、「ビールで乾杯。息子呼んで、前のスナック貸しきりにして飲もうかという」。ええっ?とおもいながら、「なぜ、こんなに変わったの、ぼくらのとき、入られなくって、店の端というか、縁(へち)にいた」というと、「孤食(こしょく)の時代。みんな、お風呂やベッドがあるマンションで食べはんの」という。「ふーん、なんで」ときくと、「強いんやろな。最近のひとは」といった。 |
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■寺町通りはエトランゼ | ||
寺町を下ると、紫式部と節分祭で知られる「櫨山寺(ろざんじ)」があり、御所のほうには、美味しい水でも知られる「梨の木神社」がある。
このあたりにも、西洋風の店、東南アジアの小物を扱う店がある。しかし、昔は舗装が整わず、クルマなど、ほとんど通らなかったところを、50キロぐらいで、行列しながら、走っている。また、それらのクルマを、ぼんやりしている、わたしに当たりそうなかんじで、時速70キロぐらいで追い抜いてゆくのがある。 丸太町通りを下がると、30年まえは、崩れかけの木造ばかりで、お茶の「一保堂」だけが、整った居住まいをみせた通りに、各国の品物や、食べ物を扱う店が、いっぱい増えている。 1930年代は、丸太町と寺町とが交差するこの周辺は、古書店が並んでいて、学生が散策する通りだったときいていたけれど、「変わった、、、」と、ただ、おもわせた。 一軒一軒、のぞいてゆけば、どれだけの時間が必要だろうとおもうぐらいに変わっており、少ししか変化していないのは、作家の梶井基次郎が、エトランゼをかんじようとした「檸檬」のあった果物屋の周辺だった。 御池を下がったところに、京都では一番古いという、インドやタイを中心の物を置いてある、「歩(AYUMI)」にはいった。店が開いたのは、60年代という。 「歩」店内 店内には、高校のときから人類学をしたおかげでか、多少の知識しかないけれど、「トンボ玉」が飾ってあるのに気づいた。大きめのを、持たせてもらうと、重量感があり、しかも高価なので、おどろいていると、「もっと高いのが、いくらでもあります」という。わたしの知らない世界だ。 このあたりも古書店が減ったのではとおもいながら、三条通りからの寺町通をゆく。すき焼きの「三嶋亭」だけが、目だっていたのに、理解しにくい、建物がいっぱいでき、趣味人の散歩道だったのが、若いひとの通路となっている。 どのように変化してゆくのだろうとおもいながら、70年代はじめは、ステレオ用のスピーカーが、表どおりに並び、学生たちがうようよしていた、寺町の電気街へいった。 |
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■火屋(ほや)商いの電気屋さん |
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わたしが目指したのは、寺町でいちばん古い電気屋、「高橋電気」だった。 高橋電気は、電気街の一番奥にある。通りは昔とちがい、ガラーンとしている。 ここの電気屋さんとの付き合いは、京都では商才にたけ、真面目で奇人でも有名だった初造おじさんを見学に行ったときからはじまった。 なにしろ、店員さんに、「なんでも、ええから」とわたしが言っていると、横目でジロッとみて、「それにしとき、秋葉原より安うしとく。そのかわり持ってかえり」と、スピーカーを持って帰ったことと、秋葉原の電気屋に、高橋電気の価格をいうと、「そんな、価格は無理です」といわれたので、以降、友人に「ちょっと、遠ても、高橋電気」といってことが記憶からでてくる。 もう、十三回忌がすんだころやろと、二代目の、店主にいうと、「そうです」といいながら、高橋電気は、大正時代に、ガラス屋をしながら、ランプの「火屋(ほや)」を扱った源太郎さんが最初で、コワイ初造おじさんは、二代目にあたるんだけど、電気屋さんとしては、コワイおじさんが最初だそうだ。 二代目の高橋進さんと、教育論になると、過熱するので、「あれっ、痩せた」というと、「マラソンを、また、はじめましてんという」。東大入試が中止のとき、数学が0点で、京大(工)へ現役ではいったひとだ。フルマラソンを二時間台で走り、それが普通とおもっているひとだ。 パソコンは、どこのがいい? ときくと、「どこも、いっしょ。」という。
そして、「火曜の夜、御所を走る会」に誘ってくれるので、マラソンは苦手というと、「勉強はすれば伸びます。マラソンも同じ。頭で考えるから、あきませんねん」と、わかりやすいジェスチャーをまじえ、また、理屈の世界になった。 わたしが、それより、若狭の塩鯖を市中へ運んだ「鯖街道」歩きたいというと、「18のとき、三泊三日で、友達とあるいた。雲ヶ畑をとおって、あのころは、どこでも泊めてくれました」 いい話だ。高尾から、北山杉のある、周山(しゅうざん)街道に、雲ヶ畑。京都の地名は旅情を誘うとおもいながら、きいていると、「来年、鯖街道マラソンでません?」と、また、わたしには過酷な話を平然という。 いったい何キロなんときくと、「80キロ」というので、「無理」というと、 「マラソンは、ゆっくり走ると、時間がかかって、疲れるんです」と、また、頭と体と脚力とに分解し、「頭で無理とおもうから無理」というので、勉強もマラソンも、苦手なもんにはデケヘンのといいながら、鯖街道には、興味があるので、スタートはどこ?ってきいた。 小浜(おばま)というので、絶対アカン。街道は、東っていうか、中国大陸からの文化の影響を受けた、熊川宿(くまがわじゅく)のある、上中(かみなか)町のほうを通るほう?ってきくと、「そうです」というので、「そのあたりで、倒れる」と返事をした。 これが、電気屋でする会話なのか、、、とおもいながら、それより、どーして、電気街に、ひと減ったんというと、「いまのもん、なんでかわからんけど、クルマにのりたがる、、、。高島屋へ来るのに、四時ごろクルマできて、高辻通り(五条通りを三つ上がった通りで、歩くと5分ぐらい)から、駐車場まで、二時間かかるのわかっていて、また、乗って来る。高島屋についたら、店が閉まる時間やのに。なに考えているか、ワカラン」というので、わたしが、初詣のつもりとちがうのというと、「初詣は年に一回!」と、苦笑しかない、いつもの教育論がはじまった。 Copyright(C)Matsuda Kaoru |
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「エトランゼ京都」松田薫 |