![]() |

世に雑学の大家は数いれど、何にでも興味を持ってしまう
おいどんの如きは果たしておるやおらずや。森羅万象・生き
とし生けるものすべてに関心をよせてはいるが、肝心の自分
の周囲には一向に気配りがとんと足りない。
果たしておまえはなにものや。自分にもようわからんやっか
いな生き物だ。
さて、前置きはとにもかくにも、好奇心の強さだけは老いを
知らない。「アイデアは好奇心が連れてつれてくる」という特
許庁のヘッドラインよろしく、たまにはビビビッとひらめきもあ
る。そんな時は寝起きの刻か、トイレで人生を回顧している
時か、はたまた疲れきった電車の中か、とにかくメモ用紙も
なにもなく、一瞬だけ閃いて後はその幻影だけを追っている
自分に気づくというはかない日常の繰り返しだけなのである。
最近つとに想う。人生に必要なもの、一つは「構想力」であ
り、一つは「説得力」であり、いま一つは「人間的魅力」であ
ると。

(花は癒しの王様)
私のいちばん好きな人・・・・・坂本龍馬
誰が好きと言われてもこまるのだが、長年連れ添ったかみ
さん以外に身近に尊敬する人でもいれば良いのだが、不幸な
るかな、歴史上の偉人伝に終始してしまった。まあ有り体の理
想像かも知れないが、それほど世知辛い現実には得てして好
人物というのは見当たらないものだ。
竜馬のどこが好きなのか?確かに自分にないものを誰でも
好もしく思うものだが、私欲のないところが極めて好きなのか
も知れない。
彼は土佐の出身だが、脱藩こそすれ地元のためにどうこうした
という記憶がない。今でいう地元に擦り寄る族議員ではなかっ
た。
竜馬は勝海舟と徳川慶喜との稟議に望み、うまくいった後の
自分の身の有り様を聞かれた時にも、一切の要職を断り、「世
界の海援隊で生きたいね。」と言ったあたり、ポストにしがみつ
くサラリーマンの小欲をはるかに超えていた。
竜馬の時代を見る目・先見性は今でいう「ベンチャーの旗手」と
言えなくもない。「海援隊」の前身「亀山社中」では、薩長同盟を
演出し、米と武器の取り引きをうまく、まとめたと言う。
薩長同盟は後年倒幕の圧力となって「大政奉還」につながって
いく。
その思考の柔軟性と行動力とリーダー・シップは誰もが認める
ところであるが、「なんでも思いきってやってみることだよ。」
あるいは「人は殺さず生かして使おう。」などと、温かみにあふ
れた言動と敵も味方も包み込む人間の大きさに、ただ只脱帽
するのである。
あけっぴろげでユーモラスで爽やかであったかい。今あなた
の周りにこんな人物いますか。
たしかに昔はこれに近い人物がいたような気がするが、戦後、
半世紀経って飽食・物あまりの時代になって、人情の機微さえ
危うくなってからは見なくなったね。こんな人間くさい人物。
西郷隆盛は竜馬の人柄に惚れ込み、自分のふんどしまで貸す
くらいの臭い仲?になったみたいだが、その真偽の程は如何に。
物もなければ、金もない時代って、人間が、人間関係が輝く時
代だったのだ。
姉である乙女との手紙のやりとりの中にも、「人間いつ野辺の
石ころのように骨になるかわからない。今、思ったことは即実行
しよう。でも決しておごらず謙虚に」と、格好よく言ったまでは
良いが、ある時、高台にある眺めの良い友人の家で、酔いがま
わると庭の草の上で大の字になって寝た。その場所は、彼がい
つも景色を眺めながら小便をする場所でもあった。
はったりも機転も失態もすべて持ち合わせていたのが竜馬だった。

(毎年忘れずに咲いてくれます)
永遠の少年・・・・・・・植草甚一
1908年(明治41年)生まれの異邦人、もしかしたら宇宙人か
も知れない。でもこんな風に生きられたら、生の免罪符を神にも
らったも同然。もしかしたら生きるということはここに極まったとい
える。わがままで、周囲の人に迷惑ばかりかけていても、本人は
至って幸福であり、自己嫌悪を感じる暇もなかったんじゃないだ
ろうか。
以前、大相撲を引退してタレントに転業したKONISHIKI(小錦)
の一言に、「自分の好きなことをするのが一番。そうじゃなくては
生きている意味がないよ。」とあったが、相撲の親方という縦社会
を廃業して、好きな世界に踏み込んだ彼の行為に拍手したい。
自分もつくづく思うよ。短い人生、「好きなことをして生きたい」と。
植草甚一は、映画評論家・英米文学評論家・ジャズ評論家・雑学
家など様々な顔を持つが、要は好奇心のままに人生を貫いた人
なんだと思う。
日本橋の木綿問屋のあととり息子に生まれ、小さい頃から活動写
真・芝居・寄席・大相撲などという周囲の環境に恵まれ、姉が当時
のモガ(モダンガール.)だったことも重要な影響を彼に与えている。
大正12年の関東大震災で木綿問屋も傾きだし、大学から東宝の
宣伝部に配属されたが、映画選びの眼力もあったが遅刻と社内で
の読書三昧で、後に会社と組合の争議の最中にあっさりやめてい
る。太平洋戦争では、赤紙ももらわず、新宿文化劇場で映画の宣
伝ばかりやっていた。
やがて昭和21年に梅子夫人と結婚したが、食うにこまり文筆業
を始めたが売れない。淀川長治の「映画の友」にコラムを書くよう
になってから少しづつ世に知られるようになって来た。
神田神保町の古本屋荒らしは有名な話しで、朝から晩までいて本
を買いあさりタクシーに積み込んでご帰宅というありさま。
たいして金もないのにこれを続けるものだから、奥さんの梅子さん
は「子供ほどの常識もない人」「死ぬまで子供を続けた人」「死ん
でくれた時はホッとした」と後年語っておられた。
これ程までの活字中毒(ブック・ジャンキー)は本の山で、家の床が
抜けたことさえあった。とにかく散歩とコーヒー好きは48歳を超え
てのジャズ狂いとなり、楽器をもたないジャズマンと評され「もっと
自由になろう」「今が一番大切」「好きなことしか夢中になれない」
などと言って老後のための貯えさえ高いレコード代になっちまっ
た。
1974年、初めてのニューヨーク。まさに古本屋めぐりとレコード
・洋服・家具・ガラクタなどで家じゅうがいっぱいになった。
一度もいったことのないニュヨークの裏通りを知り尽くしていた話
しは有名な話しだが、その時ばかりは一体どんな顔で街を徘徊し
たことだろう。次の年には梅子夫人を伴って再び渡米した。
1973年に若いスタッフと組んで日本初のバラエティ雑誌「ワン
ダーランド」を創刊。ジャズあり、ロックあり、ドラッグあり、映画
あり、イラストあり、ギャグありで今日のバラエティ雑誌の魁を
なした。
時代がやっと植草甚一に追いついたのだ。時代や物を見る目、興
味の対象、そして何よりも自由な発想と好奇心が「永遠の少年」
を形成していった。「ワンダーランド」は後年「宝島」に改題される。
1979年享年71歳で逝ったが、数万冊の本に囲まれて亡くなっ
たが、死ぬまで麻の帽子と派手めのカジュアル・ウェアで街を散歩
したかったに違いない。
「ぼくは散歩と雑学がすき」「こんなコラムばかり新聞や雑誌に書
ていた」「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」を始め、映画や
ジャズや文学に至る幅広い評論を繰り広げた人であった。
世の中にあって、あるいは人生にとって一見、無駄と思えるものが
彼の人生にとっては豊かさや面白さや楽しさにあふれた無類の価
値観を生み出し、好きなことだけやる、嫌いなことはしない、といっ
たストレスのない生き方がますます求められる時代になろうとして
いる。
不景気とあいまって15〜24歳の失業率は全世代中一番多くな
って来ていて、「働かない若者」の裏側に戦後経済高揚社会のひ
ずみがはっきり読み取れる。
終戦時、日本人の興味の対象を見てマッカーサーが「日本人の知
識レベルは12歳で止まっている」といったが、今日のパチンコ・
競馬に代表される「働かない若者」を取り込んでの貧弱なレジャー
感を思うに全く違うとも言い切れない。
ゲームソフトが輸出に強いのは、この業界だけが建て前を捨て本音
の部分で自由に創造性を出し切っているからに他ならない。
これからは職能選択、専門能力の時代と言われるが、植草甚一的
発想と強みが求められる時代感覚にますます近づいていくだろう。

(鮮やかなパープル・カンバニュラ)
スクリーンのない映画館・・・マルセ太郎
「泥の河」
俺の年代の歩みとほぼ同じ時代考証で描かれた小栗康平監督
作品の映画「泥の河」。昭和31年といったら、俺もまだ11歳。
実感はないのだが、戦後の復興と敗戦の名残りが、まだかすかに
そこここに残っていた時代。カーキー色の戦闘帽や防空壕がまだ
あちこちにあった。小学校5年の俺は夏ともなればランニングに半
ズボン、ズックの夏靴をはいて、いつも腹を減らしながら海や山を
駈け巡っていた。テレビのまだない時代。近所の餓鬼どもといっし
ょになって棒切れとボールだけで野球をやったり、パッチ(メンコ)や
ビー玉、一銭店が全盛だった頃の想い出がある。
街並みや山並みの背景にモノクロームが一番似合った時代。
そろそろ性にも目覚める年頃でもあった。
そんな当時の想い出を実に真摯に思い出させてくれたのが映画
「泥の河」であった。多いに感激し、いやでも子供時代を彷彿とさ
せる名作に巡り合った。
その映画を「一人語り」で聞かせる映画馬鹿、マルセ太郎なる人
物に遭遇した。1933年生まれの67歳。最初は猿やら何やらの
形態模写ばかりだった。余り実入りのない軽演劇の世界で、やっと
掴んだライフ・ワークが「スクリーンのない映画館」であった。
永六輔の命名である。他にも「ライムライト」や「生きる」や「ゴッド・
ファーザー」などの名画の「一人語り」があるが、「泥の河」が一番
のヒット作である。
最初は小屋に数人の客しかつかなかったが、映画の「泥の河」に
魅せられていた団塊の世代を中心に少しづつ集まり、いつしか10
0人しか入らない小屋が300人の客で満員御礼になっていた。
たくみに私感を挿入し、独特の語りでイマージュの世界を繰り広
げるマルセ太郎は異端のボードビリアンである。パントマイムの大
御所マルセル・マルソーの世界に憧れて自らマルセ太郎と詠んだ
粋人である。肝臓ガンと闘いながらマルセ・ワールドを演出してい
たが、2001年1月22日、大変残念だが、不帰の人となった。
イッセー尾形の個人の心象を描いた「一人語り」とはあきらかに違
う、マルセ流の自己表現に観客の代弁者としての共有感を感じと
るファンが数多かった。合掌。
信夫ときっちゃんの切ない永遠の別れ。まるでフランス映画の
「禁じられた遊び」のような匂いが映画にはあった。
祭りで50円玉をなくして、飼っていた蟹に灯油をかけて遊ぶ子供
の無垢な残酷さ。その先にある子供には知られたくない大人の隠
微な世界。
感性を吸取り紙のようにそのままの色で吸い取ろうとする3人の子
供たち。田村高広、藤田弓子、加賀まりこという名優が彼らの俳優
人生で最も輝きを放った、永遠の名作のような気がしてならない。
包容力と敗戦の影を引きずる、うどん屋の親父。慈愛と実の娘の
ような愛に満ちた母。そして人生の悲しみと堕ちながらも気品に
満ちた廓船の女。それぞれがしっかりと演技の持ち場を得ながら、
これ以上はないタッチで描き切った珠玉の銘品。
それをマルセ太郎が自分の中で消化し、彼流の独特の表現と動き
で再現する芸は、これもまた光輝なひとつの自己表現芸術であっ
た。
マルセ太郎曰く、「人から独創的だとか、本物の芸人とか、賛美さ
れることがあるがそれを誇る気はない。まっとうに生きようとする
少数の人に支持されればそれだけで十分です。」

(めずらしい空色・デルフィニュウム)
永遠の映画おたく・・・・・・・かまちゃん
20円で映画が見られた時代をあなたは知っていますか?
もちろん場末の二流館でした。アンパンが10円、ラーメン一杯が
40円くらいの時代でした。10円駄菓子屋があちこちにありまし
た。寒くて、暗くて、臭い、そんな小さな映画館の暗闇でポツンと
いつもひとり、震えながらチャップリンの「ゴルフ狂」「給料日」や
「サーカス」などの短編を見ていました。
いまでも印象に残っているのは「キッド」や「街の灯」や「黄金狂
時代」、「猿人ジョーヤング」、「キングコング」、「ゴジラ」の処女
作などです。
あれから45年。映画バカの自宅に小さいながらも映画館がで
きました。そんな歳ではないけれど長生きはするもんです。
ハイビジョン、DVD、5.1chサラウンドと24コマフィルムの質感
と音響で好きな映画を心ゆくまで観賞できるようになりました。
手元にはいつも「十戒」「ベンハー」「大脱走」「戦場に架ける橋」
「ナバロンの要塞」「風と共に去りぬ」「2001年宇宙の旅」「時計
じかけのオレンジ」「コンタクト」などの名作があります。
大自然の風景や世界遺産、絵画や、ネイチャーもののテレビも必
見です。ハイビジョンにして良かったと実感するのはこのあたりで
しょうか。ちょっと無理をしても、古いテレビの更改時期にはハイ
ビジョンをお薦めします。
今、一番欲しいものは、HDD・DVDのレコーダーですが、中々手
が出ません。D4出力端子とプログレッシブ再生のついたハイビ
ジョンをタップリ録画できるブルーレイ(27GB×2)方式の録画機
ですが市場にはまだ出ていません。じっくりと、貯金しながら待ち
ますか。
ところで最近「シネマボックス」なるベンチャービジネスが出て来
ましたね。「カラオケボックス」が衰退気味ですが、薄型テレビと
5.1chサラウンドの人気に着目し、欲しくても困難な人や、住宅
事情の関係で大音響は無理な人のために、カラオケと併設する
形で思う存分映画を楽しもうという仕掛けです。案外流行るかもね。
著作権の関係で、DVDやCDは全てお客さんの持ち込みになるよ
うですが、「2次的利用」が可能になれば、DVDやCDのレンタル
ショップの兼営だってOKになるかも知れません。そうなったら「オ
リコン」や「有線」ばかりでなく、全国の「シネマボックス」チャートな
んていうのも出て来るかも?
「シネマバー」をやりたいという、映画好きの発想がここまでになった
ようですが、昔、筆者も一本の映画を見てその感想を酒でも飲みな
がら、皆で語り合いたいと思ったことがありましたが、リソースはいっ
しょでした。
夢をかたちに。ベンチャーの実行力がモノをいいます。

(ブルーレディに赤いバラ)
JAZZ大好き・・・ジャスミンの香り
音楽は何でも好きな口だが改まって聞かれると、若い頃から
ジャズが好きと粋がっていた気がする。大したツウでもなかった
が、たまにはスイング・ジャーナル誌なんぞ読んで理論武装し
たが殆ど会話の機会に恵まれなかった。それ程マイノリティな
音楽だった。
二十代の頃は、真面目そのもので、歯車サラリーマン生活に
あまり疑問も持たずにいたが、それでもなぜか無性にジャズの
フィーリングである「自由と開放感」に憧れて熱心に聞き入って
いた。二十代の終わりの頃だったろうか?わざわざ飛行機賃を
かけて北海道から東京までオスカー・ピーターソンやアートブレ
ーキーの深夜ライブのジャムセッションを聞きに行ったことを記
憶している。
特にチャーリー・パーカー以後のモダン・ジャズが好きだった。
ディジー・ガレスピーとバードのセッションに若干19歳のマイル
ス・ディビスがからみ、マックス・ローチとのドラムのコンボが印
象的だった。
ジャズの歴史は、デキシーランドに始まり、スイング、ビバップ
ハードバップ、クール、モード、フリージャズ、アバンギャルドと
変遷したが、やっぱり象徴的ジャズの巨人は、スイングの黄金
時代を築いたルイ・アームストロングやデューク・エリントン、ビ
バップでモダンジャズを確立したチャーリー・パーカー、クールか
ら電子楽器まで駆使したマイルス・ディービス、そしてたった12
年の活動期間にその全てを出し切った永遠のフリージャズの伝
道師ジョン・コルトレーンに尽きるのかも知れない。
ジャズは1900年以後のアメリカを語る上での重要なファクタ
ーであり、戦争と酒とドラッグに明け暮れたジャズマンたちの魂
の叫びが語られている。
ジャズの語源は諸説あるが、1890年代ニューオリンズで、は
やったラグタイムバンドと黒人霊歌のブルースなんかが合わさっ
て出来たというのが最も定説に近い。
ジャズの創始者だと主張するバディ・ボールデンとジェリー・モー
トンの決着もついていない。
面白いのは、JAZZという言葉である。何故JAZZになったのか。
何の音楽でもそうだが、酒場で演奏されることが多い。その頃の
酒場には娼婦達がいた。むせかえるタバコの煙と酒の匂いと汗く
さい体臭の中で、娼婦達が身に振りかけていたジャスミン(jasmine)
の優雅な香り。
ジャスミンのJASSがやがてJAZZになったという説。ASSは
しり(尻)、けつ、というので、しりの2文字をZZに変えたという
(オヨヨッ)。もっともらしいが説得力もある。イメージにぴったりだ。
ジャズは酒場音楽からスタートし、ダンスミュージックでも、クラ
シック・オーケストラでも演奏されて来た。
バッハが好きなジャズマン、ジャック・ルーシェや、バッハやモー
ツァルトが好きなキース・ジャレット、チャイコフスキーが好きなオ
イゲン・キケロもいたが、思えば200年前、レコード録音のまった
く無かった時代に、クラシックを代表するバッハやベートゥベンや
モーツァルトも、きっと即興演奏(アドリブ)を楽しんでいたんだろう
ね。
ジャズの魅力。「自由と開放感」。それは今でも変わらない。

(庭の素鉢に咲き誇るペチュニア)

(夏を彩るユリの花コンカドール)
まだまだ続くよ。
この後の登場人物の予定
南方熊楠 多田登美男 寺島実郎 レスター・サロー ダラー・ブランド
種田山頭火 北大路魯山人 宇宙人は実在する?他多数。
乞うご期待。
デジファーム計画 政治と文化に関すること ベンチャーの夢と現実 私の映画トップテン
オーストラリア紀行 趣味・テニス 理絵とリチャードの幸せ物語
ニックとメアリーの北海道旅行
トップページへ