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ダスティン・ホフマンになれなかったよ
              (あぁ〜哀愁の団塊世代)

 「卒業」という映画を憶えていますか?

1967年・アメリカ作品で名優ダスティン・ホフマンが主演して、監督のマイク・ニコルズがアカデミー賞の監督賞を受賞した、今でも鮮明に記憶に残っている名作です。
教会から花嫁を奪って逃げるあのラストシーンが、いまだに心に沁みています。見終わって劇場から出て来た瞬間、興奮覚めやらず、高ぶる気持ちを抑えられず、20歳過ぎの頃、「俺にだって何だって出来る。出来ないことは何一つない。」と、いっしょに見に行った友達に豪語したのを、いまだに憶えています。

 あれから・・・37年。

あの時代を共に生き、同じ空気を吸い、涙と笑いを共にした戦後生まれの1期生たちよ、「今は幸せかい?」

大塚博堂の歌にもある「♪ダスティンホフマンになれなかったよ」は我が持ち歌の一つでもあります。


テレビの名画劇場で「ジョンとメリー」を見たよ

ダスティン・ホフマンが主演の 行きずりの恋のお話しさ

まるであの日の ふたりみたいで
胸が熱くなって 仕方がなかった

君にもう
二人も子供がいるなんて
ぼくのまわりだけ
時の流れが遅すぎる

君と一緒に見に行った 「卒業」を覚えているかい
花嫁を奪って逃げる ラストシーンが 心にしみたね

なのにあの日 ぼくは教会で
君を遠くから ながめてるだけだった

君にもう
二人も子供がいるなんて
ぼくのまわりだけ
時の流れが遅すぎる

ダスティン・ホフマンになれなかったよ
ダスティン・ホフマンになれなかったよ

                                                         
1976年(昭和51年)


 

 昭和22年から25年あたりの戦後生まれの塊を評して「団塊の世代」という。

竜頭蛇尾。最初の勢いの割に腰砕け。別名「蛇の丸飲み世代」。戦中と戦後のハザマで、それまであった常識や風俗を「数の力」で押しつぶして来た。塊が大きすぎて食道抵抗も大きかったが、戦後の新人類「団塊」の後に続いた世代は、いろいろな意味で楽だったかも知れない。

 平成15年の1年間の出生数は118万人だったが、団塊のピーク、昭和24年生まれは1年間に270万人も出生している。少子化と言われる現在の何と、2.3倍も生まれているのだ。

昭和22年から25年生まれの人口を推計すると国民1億3千万人の10%弱、1,200万人にもなるという。現在この年代も53歳〜57歳になり、初めて日本の人口が減り始める2007年以降に60歳の定年を迎えることになる。  

 いつの時代も、この塊世代がマーケティングの中心世代に据えて来られたような気がするが、今またシニア市場のド真ん中に置かれて、再び割りを食う世代にならんとしている。ダッコちゃんもフラフープもアイビーもジーンズもあったけど、もうマスで見られるのはご免だね。個で考えようよ。  

 あの疾風怒濤「強者どもの夢の跡」のような「よど号ハイジャック事件」や「浅間山荘事件」を起こしたのも団塊の世代でした。あの巨大なエネルギーだった学生運動やイデオロギー批判も、ある意味「数の力」だったのかも知れません。

 高度経済成長と共に昭和40年代に世の荒波に押し出されて35〜40年、1万円にも満たない手取り給料からスタートし、終身雇用・年功序列の歓呼の声で「バラ色の定年」を約束されながら、平成16年のこの変わりようは語るまでもない。

語るまでもないと言って、理屈をこねるのが団塊の特質か!?
背景には、就業率の低下、失業率の高止まり、リストラ景気、賃金カット、パート・フリーターなどの低賃金労働者の増加、GDPの低下、人口の伸び悩み、少子高齢化、抜本改革のないままの年金問題など数限りない問題をかかえたままだ。

65歳年金給付開始に合わせ、厚生労働大臣が65歳まで定年延長を「法的しばり」で実現しようとしたが、経団連始め、財界筋はこぞって異を唱えている。中小零細企業は、60歳定年から空白の5年間を各企業に押し付ける「法的しばり」に聞く耳さえ持たないだろう。

 サラリーマン生活の最後の段階で年功序列賃金が崩壊し、賃金カットやポスト不足による昇格ストップの悲哀を味わった。退職金は減り、年金すら期待した水準には程遠いものになりそうだ。金銭的な余裕は味わえないだろう。

戦前、戦中派は一次産業に従事する者も多く、当時、55歳の定年制はある程度バランスが取れていたが、戦後生まれの「団塊世代」はサラリーマンが圧倒的な数を占めている。それが2007年を期に、ドドッと定年市場になだれ込んで来るのだ。社会のシステムの変化と雇用のミスマッチがいっしょにやって来た。ひと言で云うなら「貧乏クジ世代」かもね。

 もはや、従来型の企業には更に雇用力の発生する余地はなさそうだ。これからは、社会的にウォンツがあって、しかも大企業が手を出さない分野の仕事を、「給料」ではなく「生きがい」のためにすることにこそシニアが活躍する可能性が秘められている。NPOがその典型である。昭和30〜60年代には官庁と会社しかなかった。「痒い所に手の届く社会」。これからは社会の隅々に非営利法人が進出浸透すべきだ。ニッチなベンチャーも頑張れ!

 定年退職後をどう過ごすか。仕事にかまけて希薄になりがちだった夫婦の関係をどう修復するのか。考えざるをえない年齢に団塊世代はさしかかって来た。流行り言葉だった「濡れ落ち葉」と、誰も言わなくなったが、会社人間が家庭に戻り、夫と妻が、朝からひざをつき合わせることで離婚が急増するとの予測もある。「熟年離婚」が怖〜いのはあんただけではない。

趣味やら、特技やら、個人の付加価値能力を本気で生かす時代が来た。
ダスティン・ホフマンには、なれなかった」けど、60歳はマイルストーン(一里塚)である。まだまだ先がある。

 ここで一句。「バラ色の定年」と「貧乏クジ世代」とのギャップを【哀愁】と言わずして何と言おう。苦節30年、団塊の漫談家、綾小路きみまろなら格好のお笑いのネタにするだろうね。
あぁ〜哀愁の団塊世代】クタビレた親父達が神頼みの宝クジを買ってはみたが、当たらずに、ハズレた300円で、せめて、○段腹の妻にバラの花を一輪買いました!!

「たけし」も「ブッシュ」も「弘兼憲史」も「堀内孝雄」もみんな団塊世代だよ。

 堀内孝雄の「♪遠くで汽笛を聞きながら」の唄のセリフは果たして何を言いたいのでありましょうか?「団塊の世代」へのアイロニー(哀惜)に聞こえるのは筆者だけでしょうか。
古い流行り唄が、今ごろになって気になりだしている今日この頃です。

   


悩みつづけた日々が まるで嘘のように

忘れられる時が 来るまで心を
閉じたまま  暮らしてゆこう 

遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかった この街で

俺を見捨てた人を 恨んで生きるより
幼い心に秘めた むなしい涙の
捨て場所を   さがしてみたい  

遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかった この街で

せめて一夜の夢と 泣いて泣き明かして
自分の言葉に嘘はつくまい
人を裏切るまい   生きてゆきたい 

遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかった この街で

                   1976年(昭和51年)



 


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