おまけのページ その45

    (C) 2005 HEPAFIL

    自由についてどう思いますか?


    長い間、自由はぼくの心の中では、
    自由=持たざること
    不自由=持つこと
    という定義だった。

    すごく哲学的でしょ?
    マルクス経済学だってここまでは!というすばらしい定義なんだよ。

    それで、
    「ぼくは何を持っているのだろう?」と自分に問いかけたら
    「何も持っていない」という答えが返ってきた!

    それでぼくは、
    「自分が何も持っていないなら、自分とは何と自由な生きものだろう!」
    と、密かな喜びにひたっていた。

    あまり自慢しにくい喜びではあるけれど・・・。

    たとえば、ぼくには友達はいない。
    友達がいないから、ほかのいぬの生活を知らない。
    ほかのいぬの生活を知らないから、ほかのいぬの生活と比べることもない。

    だから、ほかのいぬが、半生タイプのドッグフードしか食べないとしても
    自分がドライタイプのドッグフードだけなのを残念に思うこともなく、
    なぜ自分だけがドライのドッグフードしかもらえないのか?と悩むこともなく、

    自分がお座りもお手もしないからドライだけなのだろうか?とか、
    いや待て、そうじゃなく、「待て」ができないからドライだけなのだろうか?と、
    無能さゆえに自分を責めることもなかった!

    飼い主の経済状態を想像して将来を悲観することもなく、
    飼い主が不必要に倹約家であるのかそうではないのかという問題について、
    人にはいえない悩みにとりつかれて悶々とすることもなく、
    悩みぬいたあげく円形脱毛症になる心配もなかったんだ!

    つまり、どうすることもできない悩みから自由な心が
    ぼくの中にあったってわけなんだ。

    でも、そんな月日がむなしく過ぎ去った今となってみれば、
    悩みがないということが幸せだったのかどうか、
    ぜんぜんわからなくなってしまった!

    正直にいうと、甚だ疑わしい・・・。


    そこで、自由の定義がぼくにとって適切であったのかという
    根本的な問題が、ぼくの中に発生しはじめたの。

    でもさ、今さらそんな大切なこと、変えることなんかできないだろう?
    世の中、重要な間違いほど修正することなんてできないものなんだ!

    それでぼくは、「自由=持たざること」という定義を
    永遠に持ち続けることに決めて、
    定義が間違っていないとしたら、
    自由ってものがそんなにいいものじゃなかったんじゃないの?
    ・・・という漠然とした感じを抱くことにした。

    つじつまがあうように、じょうずに問題をすりかえることにしたんだ!

    それでも、「自由=得体がしれないもの」という定義に変えるよりはましだし、
    自由を持て余して不自由な自分に憧れてしまうよりはもっとましだろうと思った。

    ぼくはやっぱり良心的ないぬでいたかったから!

    でも、おなかいっぱいで昼寝ばっかりしていると、
    生活に追われる充実感にあこがれる気持ちはあってね。

    ぼくはほんとうは自由は大嫌いかもしれないという罪悪感と、
    こんなことだって自由に考えていられる!という喜びに満たされて、
    複雑な心境のぼくがいたんだ!

    ほんとうは、ぼくはウェットタイプが心底好きなんだし、
    毎日ウェットタイプだけなら、自由だって絶対に好きになれるはずだと思う・・・。

    そう思うと、自由が好きかどうかは
    とてもドライには割り切れない問題になったんだ!!

    きみはどっちが好き??


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    流れているのは「楽しい歌はうたえない」




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