年表−アスベストをめぐる動き−
(1998.6)(2005.9.1更新)
1941年(昭和16年)〜 第2次世界大戦
石綿は、軍艦、戦車などの製造や防毒マスクのフィルターなど、軍需品の生産のため、欠かすことのできない工業原料だった。
石綿は軍におさえられていた。質のよいものは海軍が持っていた。各社の在庫も軍の支配下にあって、勝手に処分することはできなかった。
1945年(昭和20年) 第2次世界大戦終わる。
日本石綿統制株式会社(石綿の配給会社、翌年石綿販売会社となる)できる。
軍が持っていた良質のものと北海道産の国産石綿を混ぜ、通産省(当時の商工省)の監督のもとで配給。
長期戦争を覚悟していたため、当初手持原料は相当あったというが、次第になくなってきて、昭和27年頃、南アフリカに買い付けに行った。
石綿は石綿工業品に優先的に配給され、スレートは石綿とセメントが不足して代替品による品質の悪い製品しか作ることができなかった。それでも屋根材不足のためよく売れたという。
この後、軍需産業だった石綿会社は、閉鎖機関(戦時中設立された統制機関でGHQにより解散させられたもの)とされ、機械を没収させられたり工場を閉鎖された。しかし、「電解隔膜」を製造していた会社は(日本アスベストなど、多いとき14社)、食糧増産に必要な肥料を製造していたため、平和産業として認められ、解体を免れた(軍需から民需への大転換で解体を免れた背景には、業界からGHQへの必死の陳情があったといわれている)。
1946年(昭和21年) 日本石綿協会結成される。機関誌「石綿」第1号発刊される。
石綿不足による代替石綿の開発・廃石綿の回収が行われる。
食糧増産のため肥料製造(硫安)に必要な「電解隔膜」の製造が需要の中心となる。
1947年(昭和22年) 石綿輸入懇請委員会結成される。
この頃、石綿輸入を求める動き盛ん。
1949年(昭和24年) 石綿輸入軌道に乗る。
1950年(昭和25年) 朝鮮戦争勃発(〜1953年)。特需景気始まる。
1950年(昭和25年) ジェーン台風襲来
スレートの需要急増、スレート界の神風と言われる。それ以降も台風の後は需要が増大する。
石綿、セメントがともに民間貿易の再開により手に入りやすくなり、スレートの品質が向上する。
1950年代半ば〜1970年頃(昭和30年頃〜) 高度経済成長期
〜1965年〜(40年代〜) 公害問題深刻化
1960年代〜 石綿労働者の妻子や近隣住民らの悪性中皮腫等の報告相次ぐ。
(少量の暴露でも危険性があることが明らかになる。)
1964年(昭和39年) 東海道新幹線開通
1964年(昭和39年) 東京オリンピック
1967年(昭和42年) 「公害対策基本法」制定される。
1968年(昭和43年) 日本のGNP世界第2位となる。
1970年(昭和45年) 万国博覧会開催される。
(耐火耐水耐候性に優れた石綿スレートが、内外装材として多用された。)
1971年(昭和46年) 環境庁設置される。
この頃、石綿の消費量は、その国の科学の進展度に比例すると言われる。
1973年(昭和48年) 第1次石油危機
この頃、日本の石綿輸入量は年間35万トンに達し、戦後最大量となる。各地で吹き付けが盛んに行われる。
1975年(昭和50年) 特定化学物質等障害予防規則改正される。
吹き付けアスベスト原則禁止となる。(しかし、その後も岩綿・ひる石など混ぜてアスベスト含有の吹き付けは続けられた。)
1976年(昭和51年) 国際石綿協会(AIA)設置される。
AIA(ASBESTOS INTERNATIONAL ASSOCIATION)は国際的な石綿業界団体などの集まり。加盟国34カ国。
1977年(昭和52年) (社)日本石綿協会、AIAに加盟。(社)日本石綿協会内にAIA部会を設置。
1981年(昭和56年)
アメリカ、ジョンズ・マンビル社、製造物責任法により高額の懲罰的賠償を命ぜられる。
マンビル社らは、アスベストの危険性を何十年も前から知りながら無視して製造を続け、労働者や消費者の健康を危険にさらしたことが、高額な懲罰的賠償の理由とされた。
この頃、アメリカではマンビル社などのアスベスト会社を相手取った集団訴訟相次ぐ。
1982年(昭和57年) マンビル社計画倒産。
1980年代〜 北欧諸国を初め、ヨーロッパ各国のアスベスト使用禁止の動き広まる。
アメリカ・イギリスなど、アスベスト使用量激減の方向へ。
この頃、(社)日本石綿協会、ドイツやアメリカのEPAに対して、アスベスト規制に反対する抗議書を送付。
機関誌の記事には、「矢張り石綿」、「将来どんな危険が潜在しているかもしれない未知の代替繊維を使うより」「或程度問題有りとされている石綿を、十分承知し、規制を守りながら使用することはより賢明」など、代替繊維に関する懸念が強調される。
1985年(昭和60年) 「静かな時限爆弾」(広瀬弘忠著)発行される。
1986年(昭和61年)
横須賀で、米空母ミッドウェーの改修により大量のアスベスト廃棄物が放置されて社会問題となる。
1986年(昭和61年)
(社)日本石綿協会、アメリカの石綿の一部使用禁止などの規制案に対しEPA長官宛に遺憾の意を表明。
(「現在までに明らかになっている事実をきちっとふまえて対処すれば、石綿と人類は共存できる。」)
1986年(昭和61年) ILO本会議で「石綿の利用における安全に関する条約」採択される。
(1998年6月現在、日本は批准していない。)
1987年(昭和62年) 学校や公営住宅など、各地で吹き付けアスベストが問題となる。
この頃、吹き付けアスベスト問題をはじめ、アスベスト関連の報道が相次ぎ、国会でも議論されるなど、全国的に大問題となる。
テレビや新聞報道の例:「アスベスト問題特集」「天井から石綿が」「ベビーパウダーにもアスベストが」「学校の石綿対策−悩む自治体」「危険な状態で撤去強行」
1987年・88年頃(昭和62・63年頃)
この頃、文部省・厚生省・環境庁・建設省等により、吹き付けアスベストを使用している建物の調査を求める通達が相次いで出される。
文部省、石綿除去などの対策のため補助金を出すことを決め、予算増額。
1987年(昭和57年)
この頃、アスベスト根絶ネットワーク、石綿対策全国連絡会議など、各地でアスベスト対策を求める市民団体が発足。
1989年(平成元年) 大気汚染防止法改正。
石綿は「特定粉じん」とされ、石綿製品の工場などの規制基準が決められる(敷地境界で10本/L)。
1989年(平成元年)
アメリカで、1997年までに3段階にわたって、ほとんどの石綿製品の製造などを禁止するEPAの規制が公布される。
(1986年に開かれた公聴会で、企業側はEPAのリスクアセスメントの中皮腫患者の発生率の算定に誤りがあることを指摘。EPAはこれを認め、1988年新しい裏付け文書を発表し、中皮腫の発生率を大幅に訂正した。)
1990年(平成2年) (社)日本石綿協会、事業の目的を「石綿及びその代替物並びに・・・」と変更。
1991年(平成3年) 廃棄物処理法改正。
吹き付けアスベスト等は「廃石綿」とされ、特別管理産業廃棄物となる。
1991年(平成3年)
アメリカ連邦裁判所、EPAの段階的禁止規則を、より負担の少ない選択肢について検討しその後それを取捨選択することを怠ったという理由から、無効とする判決を下す。
1992年(平成4年)
日本社会党「石綿製品の規制に関する法律案」、自民党の反対により審議入りしないまま廃案となる。
1995年(平成7年)1月 阪神・淡路大震災
復旧工事により、倒壊した建物の解体工事などにより飛散したアスベストが大気環境を汚染し、大きな社会問題となる。
1995年(平成7年) 労働安全衛生法施行令などの改正
クロシドライト・アモサイトなどの製造等の禁止。規制対象の拡大。
1995年(平成7年) 製造物責任法(PL法)施行
1996年(平成8年) フランス、アスベストの使用禁止を決める。
1996年(平成8年) 大気汚染防止法改正、翌年4月施行される。
吹き付けアスベスト等使用建築物の解体工事等の届け出、マニュアルの遵守などが義務づけられる。
注:
この年表は、当時の機関誌「石綿」の記事をはじめ、「せきめん」「せきめん読本」(以上、(社)日本石綿協会)「ここが危ないアスベスト」「ノーモアアスベスト」(アスベスト根絶ネットワーク著)やその他の資料をもとに、おおよその流れをまとめたものです。
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