発電所の下請けで溶接や配管工事に従事。2001年3月28日、悪性胸膜中皮腫のため亡くなられた。
*2002年4月17日の緊急報告集会(石綿対策全国連絡会議主催)での御家族のお話を、ご厚意により掲載させていただきました。(ご本人の記憶にもとづくもので、事実関係の確認にもとづくものではありません。あらかじめご了承ください。)
うちは、関西電力の発電所の下請けのまたその下請けの仕事をしていました。
最初は主人が19才の時から仕事を始めまして。元請けの会社が7人のメンバーから創立して、昭和60年にその下請けとして独立しました。その間ずっと、溶接とか配管、主人が言うには常に、溶接の火の粉が散ったときの予防として、養生として、反物状になった石綿クロスを切断して使っていました。先程のお話のなかにあるように、年代的には本当に多くの石綿が使われている時代に、めいっぱい暴露したんだと思います。
主人は去年の3月28日、60歳の誕生日を迎えた次の日に亡くなりました。
発病して1年2ヶ月後でした。最初のきっかけは、それまで出張で徳島の阿南発電所に行ってまして、仕事中に狭いところに入って、体をひねって、ぎっくり腰になりました。それをこじらせて、ヘルニアになって、手術をすることになり、そのヘルニアが完治して退院することになりました。充分の治療をしていただいて、さあいよいよ退院だ、2月1日からは現場に行って仕事に復帰するぞ、と言う時に、1月25日か24日かでしたが何となく息苦しそうだから先生に言ったんです。そしたら、あ、レントゲン撮ってみます、ということで、それであの、胸水が、右の胸に水がいっぱい溜まっているということがわかりまして。
それから、病名がわかるまでの約2ヶ月間、本当に検査、検査の毎日でした。
それでやっと中皮腫という病名がついたのが3月半ば頃。大学病院で診断していただきました。その時に先生がおっしゃったのが、これは労災だから申請してくださいと。えっと思いました。何で関係あるんだろうと。私は何も知識がありませんでしたから。
主人はその時に、元請けの会社に迷惑がかからなかったら申請しようと。しかし、迷惑がかかるんだったら、もうやめようと言ったんです。で、ある方に相談したら、うちの労災は特別加入してまして、どこにも迷惑はかからないから、申請したらどうですかと言われたんです。それで、主人としては単純な気持ちで、労災というのは治療費が要らないのだから、そうしようと決めました。
やっぱり現実問題として、自分が癌であり、もう助からないであろうことははっきりと先生から言われて、そしたら、今後の闘病に向かっての経済的なことを、やっぱり、男だから考えたんだと思います。それで、自分が労災保険を掛けてきたんだから、治療費が助かればいいんだから、とにかく申請しろということで、私はよくわからないままに、手続きをとりました。
病名の告知の時に、病院の先生から、奥さんこの中皮腫については、本を読んで勉強してくださいと言われました。でも、その言葉の意味がその時ははっきりとわからなかったんですけれど、後になってわかったのは、多分その時には主人を目前にしての、寿命の告知はできなかったからだと思いました。だから多分私に勉強してくれという意味で遠まわしにおっしゃったのだと思うんです。
でそれから、私なりに図書館へ行ったりして勉強して、ほんとうにびっくりしました。
発病して、診断が確定して半年、あるいは一年以内に死に至るという文字がボンと入ってきて、ほんとうにびっくりして先生に聞きました。先生、本にこんなに書いてあるんだけどほんとですかって。それを聞いたのが、病名を聞いてから1ヶ月後だったんです。
それまでは、やっぱりあんまり知りたくない、調べたくない、怖いものに触れたくないという気持ちがありましたから。なんで、もっと早く調べなかったんだろうということも後で後悔しましたけど。診断後1ヶ月経って、先生にこんなこと書いてるんですけど、と聞いたら、そうですよ、もうこのお正月はありませんよ、この夏がこせるかどうか覚悟してくださいって。もう、ほんとうにびっくりしました。その時からですね。ほんとうに労災のことを真剣に考えなければいけない、と思い始めたのは。
それと、やっぱり病気の怖さがわかってくると腹が立ってくるし、何で、ついこの間まで元気でバリバリと仕事していた人が、何で急に死ななきゃいけないのだろう、という思いがあって労災補償の申請をしました。最初は堺の労働基準監督署でした。
監督署から、聞き取り調査に来られた方にも、この病気のことはよくわからないようでした。石綿についてもあまりよくわかってないのでは、と不安になりました。主人も、何か頼りないなあ、とぼやいてましたが。まあ、頼りないのは関係なく、結果的には、6月末、待ったすえに届いたのは不支給決定通知書でした。
主人、ショック受けましたけど、すぐその理由を聞いたんです。そしたら、労災が認定されるには二つの条件がいるそうです。一つは職業性、もう一つは病名ですね。
うちの場合は職業的には認められると。確かに石綿の暴露があった。でも病気が違うというんですよ。じゃあ一体何の病気ですかと尋ねたら、それは言えませんと。その時、私、腹が立ったんです。死の宣告をされた人間に病名が違うと、じゃあひょっとしたら死なないですむ病気かもしれない。やっぱり、家族としてはそういう、ワラにもすがる思いっていうのがあります。
これは、ちゃんと病名を調べてもらわなければ、と思いその瞬間に、審査請求します、と言いました。そしたら、親切に、大阪労働局の住所と電話番号を教えてくださいました。
その足ですぐに行きました。労働局で受付をしてくださった方に恥ずかしいくらい泣いて訴えました。ちゃんと調べて、ほんとの病名を教えてください。ほんとにこれが治らない、死ななきゃならない病気なら、絶対に労災は認定されるべきだし、もし、認定されないんだったら、病名が違うって言うんだったら、本当の病名を教えてください。ひょっとしたら、その大学病院が誤診かもわからないというかすかなも望みもあったし。
で、審査請求したんですが、それもダメでした。中皮腫かどうかわからないって言うのです。そして、その時送ってきてくださったんですよ、書留で。いっぱい、いっぱい難しいことが書いてある、その審査請求の棄却の書類ですけれども。
それを読んだときに、もうこれ以上はどうしようもない、私たち素人では、もう何も出来ないと思うようなことがいっぱい、医学的に、専門的にかかれていました。それを読んだ時に主人は、もう再請求する気力も無いと言いました。たった一言。
それくらい打ちのめされたんですけれど。そこで私達が幸せだったのは、労働局の担当の審査官の方が前もって、あることを言ってくださっていたんです。以前から、私、何回も労働局に手紙を書きました。何度も足を運びました。とにかく、命があるうちに認定して欲しい。自分がどうして、死ななきゃいけないのか、教えて欲しい。何かわけの解からない病気で、これは病名が違うとか、誤診じゃないのかとか言われて死んで逝くって、すごく情けないことと思うのです。
だからはっきりと本人に、どうして自分は死ななきゃいけないのか、どうしてこの病気になったのか、教えてやりたかったんです。だから、命のある間に認定して欲しいと。認定できないのなら、病名が違うという証拠を出して欲しいと。私、本当に日参したいくらいの気持ちで労働局に通いました。手紙も書きました。そしたら、担当の方が、ある時お電話をくれました。書類を送りますから、読んだらすぐに、電話くださいと。
待ちに待った、書類が届きました。でもそれは、予想どおりの絶望的なものでした。
でも、約束だから、とりあえず電話しました。そしたら、奥さんすぐ来てください、と言われたんです。どうしてですか、行ってもだめなものはだめなんでしょって言ったら、ご主人の治療のことで、相談したいんですって言われました。えっ、何で労働局が治療のことに関係があるのだろうと思って、すぐに車を走らせました。そうしたら、ある先生の勧めで、もう一回ちゃんと検査したらどうだろうかと、本当に中皮腫かどうか検査したらどうだろうかと、言われているけれども、と。
もう本当にワラにもすがる思いでお願いしました。主人も喜びました。ひょっとしたら、違うかもわからない。ひょっとしたら、生きられるかもわからない。人様から見たら、本当に何をばかなことをと思われるでしょうが、人間ってそのくらい、やっぱり死を目前にしたら、ワラにもすがる思いになると思います。
それで入院しました。でも検査の結果は、やっぱり悪性胸膜中皮腫でした。そうしたら、悲しいけれども、仕方ないけれども、とりあえずは労災が認定されるんだと、そう思いました。そしたら、先生から、びっくりするような説明がありました。実はこの病気は、一応病名がついても、アスベストとの絡みである、石綿小体が出るか、胸膜肥厚班が確認されないと、労災の対象にならないと。病名の確定だけでは、だめだと言われました。
やっぱり、死後の解剖を待たないと、認定はできないと。そして、認定されても、今日の日からの認定で、それ以前は対象にならないと。えっ、どうしてですか1月から胸水が溜まって、3月から抗がん剤も打っているのにと聞くと、それはあくまでも疑いであって、病気では無い、と言われました。じゃあ残りの寿命は、と聞くと、胸水が溜まった時からの計算で答えを出されました。また腹が立って、労働局に手紙を書きました。先生の説明を受けたのは、12月8日でしたが、それ以前が病気ではなく、認定の対象にならないというのなら、それ以前の寿命を返してくれと。
本当に残酷なことです。絶望的な病名を断定されながらも、労災は認定されない。こんなひどいことはないと思いました。その少し前、私は市立図書館である本に出会っていました。そして、病名の確定後も悶々と過ごしていた私は、年が明けた1月の始め頃、思い切って著者の先生にお電話しました。
日ごとに弱っていく主人を見て、このまま死なせたら私、絶対に後悔が残ると思ったのです。先生に事情をお話したら、いらっしゃいと言っていただいて。新橋の病院まで。主治医の先生が新年度から変わっていましたが、その新しい先生にお願いして、CTとレントゲンを借り出して東京に持って行きました。そしたら、胸膜肥厚班が出ているから、これは絶対に労災に認定されるものです、とおっしゃっていただいて。
その時に、この全建総連を紹介していただきました。その全建総連の傘下の大阪建設労働組合の書記長さんのご尽力で、認定の書類を書いてもらうことが出来ました。
新しい主治医の先生は思ってらっしゃったみたいですね。胸膜肥厚班があると。奥さん、東京へ行かれてどうでしたか、と聞かれた時に、私はこうこうでしたと説明をしました。そしたら、私もそう思うのですが、行政と医療の立場が違うからとおっしゃるんです。
でも、ぎりぎりのところで労災を認定してもらうことができました。間に合った、という気持ちでした。今、簡単に経過をお話しましたけれど、そこに行くまでにはいろんなことがありました。
あの、私ちょっと生意気なようですけれど、こないだからこうして東京に来させていただくということで、私なりに、後になって思うこと、ちょっと心の整理としてまとめてみたんです。この病気に対して疑問に思ったことがあるんですけど。すごく、アスベストに関して、ましてこの中皮腫に関しての資料が少ないですね。
だから中皮腫になって、病気になっても、世間の誰に言っても理解してもらえないんですね。だからみんなで、もっともっとこの病気のことを広めなきゃいけないと思います。
いかに危険かということをもっともっとみんなで認識するように。だってエイズっていう言葉も昔はそんなになかった言葉ですよね。それがだんだんいろんなメディアの、悲しいけれど発病される方も含めて、広まってきた。あのヤコブ病もそうです。それと一緒だと思うんです。この中皮腫も。現実に苦しんでいる方がいる以上は皆で認識を広めていかなければならないと思います。
それと、労災の認定が、最終的には胸を開くしかできないっていう言葉を何回も聞いたんです。大学病院で聞き、監督署で聞き、労働局で聞き。でもそれはやっぱりおかしいと思います。その人が死ぬってわかっているのに、どうして自分が死ななきゃならないのかなってことに、やっぱり、答えを出してあげるべきだと思います。
それとあの、ケア、病気で苦しんでいらっしゃる方たくさんおられると思いますけど。家族ってすごく大変なんです。病人をみるだけでも大変。そこにもってきて労災が大変。私の場合はお陰さまで数年もまえからの掛かりつけの先生が、ほんとに最初から心のケアを、3人で考えましょう、頑張りましょうと言ってくださって。最後まで助けていただいて。それが、すごく大きな心の支えになっていると思います。
だからもっと早く、労災だけでも認めてもらえたら、すごく安心して病人に対しても看病できると思います。私何回も言いますが、中皮腫って今のところ治療薬ってないって聞いています。やっぱり亡くなるんです。そしたら絶対に、その人に対して心おきなく看病してあげるためには、もっと生活が救済されるような制度があっていいと思います。これは、主人を看病している時に思いました。
それと、この中皮腫自体が今は特殊な病気ですけれども、さっきのお話聞きながら思いました。あ、あの数字の中にひょっとしたらうちの主人が入っているんだろうなと。将来の予測の中に息子が入ったらどうしよう。電気工事やってる弟が入ったらどうしよう。私の身近な人が入ったらどうしよう。もう、そういう私に関わるいろんな方が絶対にあの数字の中に入らないような状態にしてほしい。仮に、万が一病気になっても、早くその治療薬も作ってほしい。そう思いながらお聞きさせていただきました。
そして先生のお話の中にあったように、仕事の暴露だけじゃなくて、普通に生活している私たちの身近なところにもアスベストの危険があるってことを感じるときに、働いている方はある意味で労働災害という救済の道がありますけれど、一般の方が暴露して病気になった時に誰が救済してくれるのか、やっぱり行政ですよね。国ですよね。それやっぱりみんなで声を大にして言わなきゃいけないと思います。
それとあの、労災なんですけども、先程おかげさまで認定されたことをお話しました。でもやっぱり大変だったんです。会社はやっぱり嫌なんですね。労災使うのは。うちは特別加入だから関係ないと最初は思ったんですけど。元請けも最初は協力的でしたが。
二回目の労働局がダメになった時に、審査官の方から会社の方に電話が入りました。結果報告がてら。そしてこんなことおっしゃったんです。東京の方に再審査の請求を出しているから、もし労災が認定されたら、暴露期間の問題で、元請けの労災を使うかもしれないと。
そしたら、もうびっくりしました。元受の会社から電話が掛かってきて、もう労災の申請をあきらめてくれと言うんです。会社のイメージが悪くなるから。堺の監督署でもだめで、労働局でもダメだったんでしょ、と言うのです。まるで、私たちが無理にごり押ししているような感じで、びっくりしました。今後のことは逐一報告ください、と言われまして。
そんなこと言われて腹が立ちましたね。だから、連絡なんかしなかったです。でも、最終的には認定された時にお礼の手紙を書きました。主人が、やっぱり仕事の証明とか書いてもらったんだから、ちゃんと報告しなければいけないと言いまして。ちょうど、朝日新聞の方がうちの労災認定の記事を取材にきてくださって、その記事と一緒に丁重に会社にお礼の手紙を書きました。そうしたら、会社も喜んで電話をくださって、それが主人のなくなる日でした。電話も、主人が亡くなる数時間前でしたが、喜びの報告を聞かせてやれてよかったです。会社と、ある意味での和解ですね。
でもあれがもし朝日新聞の方が取材に見えてくれなかったら、多分、心のしこりはそのまま残っていたと思います。だからやっぱり奇麗事じゃなくて、そういう労働災害の問題は難しい面がいっぱいあると思います。そして、アスベストは労働災害だけの問題ではなく国の問題としてとらえてもらう問題だと思います。
ほんとうに今のお話きかせていただいて、会社、うちは意外とそういう苦労はなかったんです。最初から特別加入を前面に出していたから。ま、最後の方でちょっとごたごたとなったけど。でも、今のお話聞いて、ほんとうに大変なご苦労されたんだなと思います。そういう意味でも、私は恵まれていたんだなあ、と改めて感謝させていただきました。
でもやっぱり今のお話にあったように、決して幸せとは言えないという気持ちは私も同じですし、気持ちをいっぱい残して逝った主人を思うと、一生懸命家族のために、産業の発展のために、働いてきた人たちに対する国の責任っていうのは真剣に取り組んでほしい、取り組んでもらえるように今からもっていかないと、次の世代のことがあると思うんです。
さっきの先生のお話の中にあるように、将来を考えたら、怖くなります。私の息子も、弟も。そうかといって、仕事をやめては食べていくことが出来ません。だから、亡くなったかた、大変な思いをされている方、そういった方たちの苦しみを、命を無駄にしてはいけないと。次の命へのリレーとして引き継いで行かなければいけないと思います。それが、今おっしゃった私たちの一つの責任だと思います。
私も生意気なこといっぱい今日言わせていただきましたけれども、何も出来ていません。でも、今から本当に今から、できることがあれば何でも協力させていただこうという気持ちで今日、参加させていただきました。またよろしくお願いいたします。
(2002年4月17日、石綿対策全国連絡会議主催の緊急報告集会でのお話から)