不思議な話(Essay) Today Yesterday
  結婚   人形   惑星からの侵略者   大山椒魚の棲む渓

 長年釣りをしていると多くの楽しい話や不思議なことに遭遇します。(Nonfiction)
  釣場であった怖い話   臆病者   ステテコ   びっこ   大物釣り


  結婚 Top


 フィッシングにすっかりとのめり込んでから何年が過ぎただろう。いつの間にか私は40の半ばにさしかかってしまった。私は未だに独り者だった。今までの人生の中で好きになった人はもちろんいたが、それよりも結婚してフライフィッシングができなくなる方が怖かった。職場の上司にもさんざん縁談を進められたが、一度も従おうと思わなかった。寂しくは無かった。川に行けば綺麗なヤマメやイワナと出会える。出会う魚は純粋でいつもどきどきしていた。街でどんな綺麗な人に出会うより新鮮な気持ちになれた。

 ある夏のこと、越後の山深い渓に行ったときだった。その川は深い緑の中を、まるで時間が止まっているかの錯覚を起こすほど、ゆったりとゆったりと流れていた。水は透き通っていて青々としていた。今日はこの川で思いっきりヤマメを釣ろうと思っていた。入渓点から釣りはしないでしばらく歩いて行った。河原はあまり広くはなく、両岸近くまで生い茂った原生林が覆い被さっていた。グリーンの流れの所々に黒い影を落としていた。

 どれくらい上ったときだっただろうか。ふと見ると足下に小さな水たまりがあった。そこは50cm位の小さなたまりで、大柄な大人が入れば隠れてしまうほどの小さなものだった。水の中にヤマメが1匹いるのが見えた。水たまりは川の流れからは大分離れていた。多分大水が出た後、取り残されてしまったのだろう。かわいそうに思いこのヤマメを川の流れに返してやることにした。右手を水の中にそっと入れると、不思議なことにヤマメは手の中にスーッと寄ってきた。普通だったら所狭しと逃げまくるのに、あまりのあっけなさが逆に変な気分だった。両手で包み込むようにヤマメをそっと掴み流れに戻してやった。「ほら、夢がかなって良かったな。また会おうな」そう声をかけた。ヤマメはしばらく岸際にいたが、やがて流れの中に消えていった。それを見送った後釣りを始めたが今日はさっぱりだった。でも久しぶりに渓を歩けたのでそれだけで満足だった。

 大分上流まで歩いたが、結局1つも釣ることができなかった。今日は諦めて帰ることにした。川沿いに道があるような川ではないので、上ってきた来たところをまた下ることにした。釣れなかったが、何故か気分はすがすがしく来て良かったと思っていた。周りの景色を眺めながらゆっくりと歩いた。朝、川に下ったところのそばまで来たときだった。川岸の石に女の人が座っていた。

 私は何故かその人のそばに近づいていった。「こんにちは。釣れましたか?」声をかけてみた。すると彼女はにこりと微笑み、「私は釣りをしているのでありません。川にいるのが好きなんです。」と言った。「そうですか、私は釣りに来たんですが今日はさっぱりでした。でも渓を歩いただけでも楽しかったですよ。」と言った。彼女はまたにこりとすると、「自然がお好きなんですね。私も自然が大好きです。それから自然が好きな人も好きです。」と言った。彼女は長い黒髪で、目は大きく透き通るようだった。肌も白く綺麗で頬がうっすらとピンク色をしていた。そしてスリムな体型をしていた。しばらくこの場を離れたくない気がしたが、一人自然を楽しんでいるのを邪魔しては行けないと思った。

 「それじゃ、失礼します。」と言うと彼女は「また会えますか?」と聞いた。私は「また会いたいですね。」と言った。彼女は「私は休みの日はいつもここにいます。来週もよろしかったら来てください。」と言った。「ええ、また来ます。」と言いその場を離れた。車に戻り着替えを済ませ帰り道に着いた。運転していても今日出会った彼女のことが頭から離れずにいた。純粋でやさしそうで街ですれ違う美人よりずっとずっと可愛かった。

 週が明けても気持ちは募るばかりだった。どうやら年甲斐もなく彼女に恋をしてしまったことに気付くのにさほど時間はかからなかった。長い週が終わり週末になった。私は一目散にこの前の川に向かった。今日も天気は良かった。本当に彼女は居るだろうか不安だった。先週出会ったところに来ると彼女はまた同じように石に腰掛けていた。「こんにちは。」と声をかけると彼女は嬉しそうに「来てくださったのですね。嬉しい。」と答えた。

 今日は釣りはしないで、彼女の傍らに座り、いろんなことを話した。小さい頃の事、仕事の事、将来の事。彼女はニコニコしながら聞き入ってくれた。ただ、釣りの話は嫌いなようだった。楽しい時はあっという間に過ぎてしまった。「そろそろ帰りましょう。」というと彼女は「私はもう少しここに居るので先にお帰りください。」と言った。「でも。」というと「日が落ちるまでここに一人でいたいんです。」と答えた。また次週の再会を約束して、私は家路についた。

 それからというもの週末になると彼女の待つ川に出かけるとが何よりも楽しかった。別段何をするわけでもないが一緒に話をするのが楽しかった。釣りはすっかりしなくなっていた。彼女は釣りはあまり好きなようでないのは分かっていたので、嫌われるのがいやだったからである。でも一緒にいるだけで日常の煩わしいことも全て忘れてしまった。

 そんな楽しい週末を何周過ごしただろうか。彼女に対する思いはますます強くなっていた。いつしか季節も秋になっていた。山の木々が色づき始めた頃だった。私は意を決して彼女に結婚を申し込んだ。すると彼女は思いかけないことを聞いた。「あなたは強いですか?結婚すれば私たちは私たちの丈夫で強い子孫を残さなくてはなりません。あなたはその強い親になれますか?」私は「もちろん。大丈夫。」と答えた。すると彼女は「分かりました。来週、この川の上流にある教会で2人だけの式を挙げましょう。」と言った。私は有頂天になった。彼女から言葉はどうあれ私にとって最高の答えが得られたのである。

 この川の上流に教会があるとは知らなかったが、翌週借り物のタキシードを着込みその教会に向かった。上流に向かったが、行けども行けどもその教会は現れなかった。しかし彼女が待っていると思うと向かわずにはいられなかった。やがて川も細くなり、川幅も狭まってきた。砂地の淵の脇にその教会はあった。

 ドアを開けると奥に祭壇があり、神父が待っていた。バージンロードの絨毯はなぜかびしょびしょに濡れていた。神父に会釈した。みると神父は髪も服も濡れていた。「彼女はまもなく来ます。しばらく待ちなさい。」と神父は言った。言われるままにその場で待っていた。するとドアが開き彼女が現れた。白いウエディングドレスをまとい遠目にも一段と綺麗だった。彼女は一歩一歩近づいてきて私のところまで進んできた。不思議なことに手を差し出すと彼女の手は濡れていた。それどころか髪もドレスもびっしょだった。「どうしたの?」と聞こうと思ったが神父に呼ばれ聞くことができなかった。

 厳かに2人だけの式が始まった。誓いの言葉にしっかりと「はい」と答え、口づけをするよう神父に促された。ベールをめくると彼女は少し息苦しそうな表情をしていた。私は彼女の目を見つめ頷いた後口づけをした。と、その時だった。四方八方からまばゆいばかりの閃光に見舞われた。あまりの眩しさに目を開けることができなかった。スーッと意識が遠のいていった。

 楽しかった彼女と過ごした夏のことが走馬燈のように頭を過ぎった。そして、なにかゆらゆらと漂っているような気がした。それと同時に体が切れるような寒さと冷たさに見舞われた。あまりの寒さに手足をすくめると、手と足が体の中に入り込んできた。そして腰から何か飛び出してくるような感じがした。

 今全てが分かった。私はあの助けたヤマメを愛しそして結婚してしまったのだ。しかも自分もオスのヤマメになっていたのだ。どうしていいか分からず私は彼女を見ていた。彼女はわき目もふらず一心に産卵床を掘っていた。一心不乱な彼女を見ていると「釣り好きが高じて自信がヤマメになった。まあこれも私の人生か。」と思えた。そして彼女の脇に泳ぎ寄った。彼女は私の姿を見るとにこりと微笑んだ。ドキッとするような可愛い笑みだった。それから私は彼女の後ろに回り込み、産卵床を無心で掘る彼女をじっと眺めていた。色づいた木々の葉が風に舞い、いくつもいくつも水面を流れていった。


  人 形 Top


 その川のことを知ったのは、夏のある暑い日のことだった。山梨のとある川に釣りに行ったとき、地元の釣り師と出会い話をしているときに出てきた川だった。釣り師が言うにはその川の上流部に、大きな滝がありその滝壺は広く深くなっている。そしてそこには大イワナと大アマゴがいて盛んにライズを繰り返していると言うことだった。あちこちの川を釣り歩いている私にとって、大物という言葉が頭から離れなかった。

 翌年の5月の連休前に聞いた記憶と、地図を頼りにその川を訪れることにした。その川は下流域では水量は全く無いが、中流域にある取水堰堤から上は水量が復活しているとのことだった。まずはその取水堰堤を目指すことにした。国道から狭い道に滑り込むと、道の両側に小さな古い家が建ち並ぶ集落があった。それらの家には家の屋根より大きい昇りと鯉のぼりが建っていた。普段見慣れている鯉のぼりとは違い、その大きさや威圧感はまるで戦国時代の中に迷い込んだような錯覚を覚えるようだった。

 しかし、目の前には水量豊かな渓相があるのである。自分が今どこにいるのか分からなかったが、ここから上流に釣り上がってみようと決めた。土手を下り取水堰堤に来ると上から見たよりも大きく、そして古かった。コンクリートも大分痛んでいて、所々からコンクリに混じった砂利が浮き出ていた。右側の緩い傾斜から登り、堤の上に上がった。上流を見ると青々とした豊かな水流が広がっていた。あちこちに大きな石が沈んでいて、いかにも魚影が濃いように感じられた。

 すぐに釣りを始めた。周りの山の木々は杉や檜が多く、山奥の山村の様相を呈していた。水は澄んでいるが、白い石と黒い石がまだらに配置されているような渓相で少し無機質な流れのようだった。しばらく行った対岸の岩場のはずれで小さなアマゴが釣れた。朱点が綺麗な小さなアマゴだったが、メイフライを模したフライをガッチリと喰わえていた。幸先の良いスタートに思わず頬がほころんでしまった。

 しばらく眺めていたが、その美しさは本物で吸い込まれるように見入っていた。一瞬もって帰ろうかとも思ったが、大イワナと大アマゴを釣るのが今日の目的だと思い出した。結局そのままにしていくのがあまりにもかわいそうなので、石の間に枯れ木と木の枝で屋根を作りその下に納めることにした。「これなら雨が降っても大丈夫だろう」と一人納得し、目指す大滝に急いだ。

 それからどれくらい登っただろうか、岩盤に囲まれた岩の向こうに大きな滝が姿を現した。「やっと着いたか」と思った。半日以上も歩いているのに最初に釣った小さなアマゴ以外何も釣れなかったので、この滝に掛ける期待は大きかった。滝に着くとこれがまた圧倒されるようだった。滝は落差が20m位あった。水量豊かな水が一箇所に集中して一気に落ち込んでいた。滝壺は広くそして深かった。手前から急深になっていて底は目では確認できないほど深かった。そして青々とした水を貯えていた。今日は3番ロッドを使っていた。フルキャストしても一番奥まで届きそうになかった。さっそく滝壺のあちこちを探ってみたが、フライに飛び出す魚の姿は無かった。この時間だし、みな水底や奥の岩場の影に隠れているようだった。

 「夕方が勝負かな」と思った。そう思うと急に眠気が襲ってきた。体裁のいい石の間に寝転がり「そう言えば今朝は早かったし、少し寝よう」と思うが早いか眠りに落ちてしまった。どれくらい寝むっだろうか?何か得体のしれない感覚を覚え、目を開けた。あたりの様子を伺うが、さっきとなんら変わりはなかった。滝壺は相変わらず青々とした水が満ちていた。体を起こしたときだった。ふと見ると滝上に誰か居る。寝ぼけ眼にうっすらと人の姿が見えた。目をこすりもう一度見ると、赤い着物を着た女の子が滝上に立っているのである。「なんであんな所に」と思うが早いか、その女の子は滝から身を投げてしまった。

 「嘘だろ」と思ったが女の子は滝壺の中に沈んでいってしまった。「これは大変だ」とすぐに起きあがり私は無我夢中で滝壺に飛び込んだ。まだ4月の下旬、水は切れるように冷たかった。でもそんなことは言っていられなかった。滝の落ち込みまで泳いだが、その女の子の姿は見つけられなかった。すでに沈んでしまったのだろうか。しばらく探していたが、自分の体もいうことを聞かなくなってきた。「誰か呼んでこなけりゃ駄目だ」と思い、岸に戻った。滝壺の周りを見渡し取りつけそうな所を見つけると一気に登り始めた。何度も落ちそうになりながらにやっとの事で上まで上がることができた。藪をかき分けると小さな田圃に出た。あぜ道を走ると道路が通っていた。

 民家は近くに見あたらなかった。どっちに行っていいか分からずオロオロしていると田圃の手入れの仕事から帰る老人がやって来た。その人を見つけるが早いか「大変だ。人が滝から飛び込んだ。駐在所はあるか?救急車を呼んでくれ。」とまくし立てた。するとその老人は落ち着き払い「まあまあ、落ち着きなされ。話は分かった。あんたは滝に何しに行ったんだい。」、「わっ、私は釣りに来たんだ、そんなことはどうでもいいことだ。それより…」「分かった分かった。そりより竿はどうされたかのかな」と何事もないように落ち着いて聞いてきた。「竿?そんなもの滝壺に置いてきた。もういい、あんたじゃ、らちがあかない。駐在に言うからもういい!駐在所はどっちだ。」というと「この先の坂の上じゃ。」といった。

 それを聞くと私は一目散に走った。しばらく行った坂の上に駐在所があった。そこへ駆け込んだ。「大変だ。お巡りさん。子供が滝に飛び込んだ。早く助けなきゃ!」と叫んだ。奥から出てきた年輩のお巡りさんは、びしょ濡れになった私の姿を見るとまた奥へ引っ込み、タオルを持ってきて「風邪をひくぞ。」と差し出した。「そんなことより子供が…」「まあ、落ち着きなさい。」と言うとまた奥に引っ込み今度は熱いお茶を出してくれた。「そこに掛けなさい。」と椅子を出した。さっきの老人といい、駐在所のお巡りさんといいあまりの対応の落ち着きように私も不思議な気がし、濡れた顔をタオルで拭った。するとお巡りさんが話し出した。「毎年、鯉のぼりが揚がる頃になるとあんたのように滝から子供が落ちたと言って血相変えてくる釣り人があとを絶たないのだ。」「どういうことですか?」「儂も爺さんから聞いた話だが、その昔この村に可愛い女の子がおったそうだ。その子は鯉のぼりが好きだったが、女の子のため自分の鯉のぼりは持てなく、たいそう嘆いていたらしい。そんな娘を不憫に思い両親が赤い人形を買ってやったそうだ。その子は喜びいつも大事にしていたそうだ。ところがある年のこと、大雨で増水していた川で遊んでいるとき、人形を川に落としてしまったのだ。水がひいてから両親が散々探したが見つからなかったそうだ。その子は大事な人形を無くしたことを苦にあの滝から飛び込んでしまったのだ。ほら、あそこに祠が見えるだろ。娘の不幸を思い両親が建てたものだ。」

 「お巡りさん。その人形って赤い着物を着てる?」と聞くと「子供が身を投げた時も人形と同じ赤い着物を着ていたらしい。」「お巡りさん。私はその人形を今日見つけたよ。」というと、お巡りさんは急に立ち上がり「何!どこでだ。すぐに案内してくれ。」と叫んだ。お巡りさんは何処かへ電話をかけた。電話を切ると私にその人形のところに案内するよう言った。すぐに中年の男が駐在所にやって来た。その男は手に大きな懐中電灯を持っていた。すでに夕闇が迫っていたが急いで人形を拾いに川へと急いだ。

 午前中の記憶を頼りに行くと石の間に作った屋根の下にその人形はそのまま座っていた。「お巡りさん。これだよ。」と指さすとお巡りさんは人形を抱きかかえ、「今までかわいそうにな。」とつぶやいた。漆黒の闇に包まれた頃、祠まで戻ってきた。お巡りさんは私に人形を預けると「あんたが見つけたんだ。あんたから返してやってくれ。」と言った。私は言われるままに人形を祠に供え手を合わせた。ふと祠の奥に目をやると木の陰に人形をしっかりと抱いた女の子の姿があった。一瞬にこりとほほえむと闇の中にスーッと消えていった。お巡りさんにポンと肩をたたかれた。「お前さん。いいことをしたな。」私は「そんなことないですよ。」と言い立ち上がった。空を見上げると夜空一面にまばゆいばかりの星が輝いていた。


  惑星からの侵略者 Top


 6月の鬱陶しい梅雨の雨の夜だった。はるか彼方より1つの物体が地球に向かっていた。行き先はまだ誰も知る由もなかった。

 その渓は人里離れた山の奥をひっそりと、そして力強く流れていた。ここはまさしくイワナの楽園であった。上流の魚止めの滝から下流の大瀑布までがイワナたちの住処だった。住処は、魚止めの滝から下流の上淵まで、そこから下流の宿淵まで、さらにそこから大瀑布手前の鳴淵までと大きく3つに分かれていた。それぞれの区間には「上岩魚」、「宿岩魚」、「鳴岩魚」と呼ばれる3匹の大岩魚をリーダーとして秩序正しい生活が営まれていた。大瀑布は高さ100m以上有り、上の世界と下の世界を完全に分断していた。大滝の滝壺には隣を流れる赤沢が一緒に流れ落ちていた。赤沢はその名の通り強烈な鉱毒を含んでいて、滝壺はいつも赤褐色に包まれていた。

 鳴岩魚はその夜最下流の鳴淵で眠っていた。しかし山の様子がいつもと違いざわついていることに気づいていた。未明近くだった。一筋の真っ赤な炎が空から降ってきたかと思うと鳴淵に突っ込んできた。大音響とともに水柱が上がり、1mを越す波が起きた。何が起きたかわからず淵の全ての岩魚が飛び起きた。みな緊張に包まれていた。鳴岩魚と3匹の尺イワナが偵察に向かった。淵の西側の岩盤付近が特に濁っていた。付近をくまなく捜索したが何も発見できなかった。みな不安を抱えたまま朝を迎えた。

 再度偵察に行くと西側の岩盤の陰から異様な光を放つ物体が潜んでいた。その姿は明らかにイワナの形をしていた。目だけが異様に大きく体は鉄のような固い物質に覆われていた。それ以上に体長が50cmを有に超えているのが、驚異的だった。鳴岩魚の制止を振り切って、血の気の多い若い尺イワナが牽制に行った。と、その時だった。鉄のイワナは身を翻すとあっという間に尺イワナを真っ二つに食いちぎってしまった。辺り一面に真っ赤な鮮血が吹き出していた。後の2匹は仲間を目の前で殺され飛びかかっていこうとした。鳴岩魚はとっさに相手の強さと獰猛さを見抜き、2匹のイワナに淵の仲間を支流の末沢の奥に避難させるように命じた。そして鉄のイワナと対峙した。

 近くでみるとその大きさに圧倒されそうだった。しかし自分はここのリーダーである。侵略者に対してひるむわけには行かない。ここを守らねばならないのである。鉄のイワナはゆっくりと動き出した。鳴岩魚は馬鹿でかい口にやられぬよう側方から体当たりを食らわした。しかし相手はピクリとも動かなかった。それどころか尾で叩かれ、大瀑布の手前まで吹っ飛ばされてしまった。

 ようやく体制を立て直すと鉄イワナは猛然と突っ込んできた。鳴岩魚はズルズルと後退するしかなかった。もう逃げ場も無く後は大滝に落とされるばかりだった。その時だった。水面を見覚えのあるものが流れてきた。そう、それは若い時に餌だと思い飛びついてひどい目にあったことのあるフライだった。格闘に気を取られ気づかなかったが、この雨の中をフライマンがこの淵に来ていて、対岸からキャストを繰り返していたのである。退路を断たれた鳴岩魚はもうこの出来損ないのフライに飛びつくしか助かる方法は残されていなかった。覚悟を決めそいつに飛びついた。

 その瞬間ガーンと体が引かれ口の中に火を突っ込まれたような衝撃が走った。あとはズルズルと引きずられているしかなかった。やがて岸際で網の中に入れられ身動きもとれなかった。散々熱い手で触られた後閃光を何度と無く浴びせられた。その後でやっと流れの中に解放された。

 なんとか鉄イワナから逃げ出すことができたがダメージは相当なものだった。それでもみんなの待っているだろう末沢に急いだ。後ろから鉄イワナが着いてくる気がして無我夢中で沢を上った。末沢の上流部の広い淵に着くとみんなが不安そうに待っていた。

 休む間もなく、すぐに話し合いが始まった。とにかくやつは強く獰猛で何とかしなければいけない。このままでは川の仲間が全て食い殺されてしまう。上流のみんなにも知らせないと大変なことになる。そしてこの川全員の力でぶつからないとならない。そんな意見だった。若い尺イワナが伝令をかって出てくれた。また見張りも各地に出すことにした。残ったものは居住地の確保と当面の食料の調達に当たった。幸い末沢には鉄イワナが上ってくる気配は無かった。

 1日経って伝令に出たイワナが帰ってきた。聞くと宿淵も上淵も鉄イワナにやられ、何十何百のイワナが犠牲になったようである。生き延びた者は、宿淵のイワナ達は支流の御山沢に、上淵のイワナ達は支流の原沢に逃げ上っているとのことだった。鉄のイワナは本流をイワナを探しながら行ったり来たりしているらしかった。

 いよいよこの川の全てのイワナが支流に追いやられ孤立状態となっていた。鳴岩魚は3つの地区のイワナで一致団結して鉄のイワナを駆逐すべく会議を持つことを考えた。すぐに上流2地区に使者を出し、鉄のイワナの見張りを強化した。そして明晩3地区の会議が持たれることになった。場所は宿淵の先の支流御山沢の淵となった。約束の時間には各地区のリーダーを先頭に続々とイワナたちが集まってきた。

 会議は最初から難航した。真ん中の地区の宿淵の宿岩魚があまりの被害の大きさに、震え上がっていて枝沢の御山沢で細々と生き延びるということを言い出したのである。確かに御山沢は水量も比較的多く水生昆虫も豊富で生き延びることはできるはずである。しかし上淵と鳴淵には枝沢はあるものの水量は少なく、生き延びることは困難だったのである。3地区のイワナで鉄のイワナを倒すことを試みても勝算はあまりなかった。とにかく全てのイワナで倒しにかからねばならなかったのである。

 宿岩魚を説得するのにはかなりの時間が必要だった。すでに丸2日が過ぎ、宿岩魚もとうとう根負けして気持ちが傾きそうになったとき、宿淵の最長老が口を開いた。「我々は遙か古代の祖先から命と、この川を代々受け継いできた。その歴史は数万年に及んでいる。今この川は種の存亡の危機に立たされている。いま立ち上がらないでいつ立ち上がるんだ。」その言葉に異論を唱える者は誰もいなかった。いま全てのイワナ達の心が1つになったのである。

 その時偵察に出ていたイワナが帰ってきた。聞くと鉄のイワナは1日に3回本流を往復している。そして夜は最下流の鳴淵で休み、日の出前きっかりに動き出すという報告だった。攻撃の時はその時だという意見が大半を占めていた。すると最長老がまた口を開いた。「明日から4、5日雨が降る。雨は強く大増水になるはずだ。この増水を利用して全員で一気に鳴淵に突っ込み一気に大滝から突き落とすしかない。滝壺に落とせばあそこは鉄をも溶かす死の水だ。やつとて動けなくなり必ず最後を迎えることになるはずだ。しかし本流に大挙すると気付かれる恐れがある。宿淵の脇に増水すると増沢が現れるはずだ。ここを通って末沢に出て、ここから一気に攻めるのだ。」みな長老の作戦に賛成した。

 作戦決行は5日後の早朝、日の出前ということに決まった。上淵と宿淵のイワナはこのまま御山沢に残り、鳴淵のイワナは末沢で待機し、合流する事になった。作戦には子供を残し全てのイワナが参加することになった。鳴岩魚は最初の戦いで敗れてから、自分の命はすでに無いものと思っていた。突撃するときは先頭を行くことを決めていた。長くそして短い時間が流れていった。

 雨は降り始めてから3日を過ぎていた。しかし予想以上に弱い雨で増水の気配は見られなかった。増沢もまだ何百のイワナを通すほどの流れにはなっていなかった。そしてとうとう5日目の朝を迎えた。雨は昨夜からやっと大降りとなったが、まだ十分ではなかった。決戦の時間が刻一刻と近づいていた。

 上岩魚と宿岩魚は迷っていた。増沢がこの程度では一気に末沢に抜けることができない。もう一日待とうかと思案していた。ところが若い血気盛んなイワナたちが命令を前に飛び出して行ってしまった。こうなると誰にも止めようがなかった。みな必死だったのだ。とうとうこの川の運命と種の存亡を賭けた戦いが始まったのである。

 鳴岩魚を筆頭とした鳴淵のイワナたちは今か今かと上流の仲間の到着を待っていた。しかし約束の時間になっても仲間が到着する気配はなかった。そのころ増沢では少ない流れの中をイワナたちが必死になって下流を目指していた。まだ十分な量の水量になってなく、みな苦戦していた。胸鰭と尾鰭を精一杯使い賢明に泥をかき分けていた。鰭はぼろぼろに破れ真っ赤な血を流しながら進んでいるイワナもいた。

 鳴岩魚は待ちきれず鳴淵のイワナだけで突撃しようと決意したとき、後方から声が上がった。「来たぞ!仲間達が来たぞ!」それを聞いた鳴岩魚は大声で号令を下した後、自ら先頭になり沢を駆け下り始めた。先頭からしんがりまでは縦長になり、その勢いは怒濤のようだった。本流に出てそのままの勢いで鳴淵になだれ込んでいった。

 真っ先に飛び込んだ鳴岩魚は今まさに動き出したばかりの鉄のイワナと目が合った。鉄のイワナは後ろからも続く大群を前に一瞬怯んだようだったが猛然と襲いかかってきた。鳴岩魚は正面から突っ込んだ。みなそれに続いた。最前列は一瞬にして鉄のイワナの尾ビレで後ろまではじき飛ばされた。第2列目も、そして第3列目も同じだった。鳴岩魚もはじき飛ばされたがすぐに皆の流れに続いた。前方では相変わらずの劣性が続いていたが少しずつ、確実に鉄のイワナを追い込んでいた。

 一丸となったイワナの群は途絶えることなく次々に鉄のイワナに向かっていった。そしてとうとう滝の流れ出しに鉄のイワナを追い込んだのである。最後は鉄のイワナと滝から飛び込む覚悟をしていた鳴岩魚はそれを確認すると、右側面から体当たりを食らわした。今度は手応えがあった。その時左側面からも飛び込んだイワナがいた。宿岩魚だった。そしてほとんど同時に鉄のイワナの胸ヒレに食いつきぐいぐいと押し込んだ。後ろの仲間も押して押して押しまくった。その先頭は上岩魚だった。とうとう鉄のイワナは根負けして大瀑布の中に落ちていったのである。胸ヒレに食いついていた鳴岩魚と宿岩魚は間一髪の所で後ろの仲間に救われた。

 その瞬間歓声が上がった。「やったー!、やったぞ!」その声は、雪崩のように後方に伝わっていった。すぐに歓喜の声が川全体を包んだ。数日間の雨もいつの間にかあがっていて山間から眩しいばかりの朝日が差し込んできていた。戦いは終わった。しかしこの勝利は多くの仲間達の犠牲の上に勝ち取った貴重なものである。それを思うと手放しでは喜べなかった。

 大はしゃぎしている若いイワナ達を制して鳴岩魚が言った。「私は今回の戦いでは死ぬ覚悟で戦った。犠牲になったもの達のためにも絶対にこの川を守るつもりでいた。みんなも同じ気持ちだったと思う。しかしこうして生き残った以上、これからは種を増やし今より多くの仲間が住める川にしていきたいと思う。みんな、協力してくれ。」すぐに歓声が上がった。飛び跳ねるイワナたちもいた。今回の戦いを通して今まで以上に仲間が1つになったのである。

 昼頃まで勝利の余韻に浸っていたイワナたちも、再会を約束してポツリポツリと自分の住処へともどり始めた。やがて鳴淵にも静寂が訪れた。梅雨も明けたらしかった。今年の夏は特に暑くなりそうな気配だった。


  大山椒魚のいる渓 Top

 その川を初めて訪れたのは 、3年前の蒸し暑い6月のことだった。信州の深い山中に楽園のような川があるという話を聞き訪れた。国道から林道に入り、2時間も奥に入ったところにその川はあった。その日は前日から非常に蒸し暑く、しとしと雨が降ったりやんだりの天気だった。川にかかる小さな橋のところまで来て車を停めた。しかし川には水が流れてなく、あるのは真っ黒な色をした石だけだった。

 やっぱり人の情報は当てにならないと思い、煙草に火をつけて無機質な河原を眺めていた時だった。ふいに誰かに呼ばれた感じがした。人里離れた山奥で人の気配もないのに気のせいだと思い、再び煙草を吸っていると、また誰かに呼ばれた気がしたのである。はっきりとした声ではないが確かに誰かが私を呼んでいるのである。時計を見ると針は午前9時15分を指していた。しばらく耳をすましていたが、やはりどこにも人の気配はなかった。やはり気のせいだと思い車に戻ろうとすると、どこからともなく陽炎が目の前に飛んできた。陽炎はしばらく私の頭の上を漂っていたかと思うと次の瞬間すごい勢いで川の上流の方にオレンジ色に輝きながら飛んでいったのである。

 不思議な陽炎を見た私は車に戻り素早く釣りの支度をすると、陽炎に誘われるかのように、川の上流をめざして藪の中を進み出していた。内心陽炎がいるということは上流には水の流れがあって、今いるここだけは伏流しているのではと思ったのである。あの時はそう思ったが今となっては、何か目に見えない力に吸い寄せられていたのかも知れない。藪をかき分け進んで行くと河原の横に獣道のような踏跡があり、それを辿って1時間ぐらい進んでいくと、左側から小さな沢が流れていた。藪の中を1時間も休まずに進んできた私は、喉を潤そうと沢の水を手ですくうと一気に口に流し込んだ。

 乾ききった喉を冷たい水が流れると生き返ったようで10歳ぐらい若返ったような気がした。沢の水はこの川の合流点で伏流していて、流れは消えてしまっていた。間違いではなかった。上流には必ず流れがあると確信した私は先を急いだ。しばらく行くと、また小さな沢が流れていた。ここでもさっきと同じように水を飲むと、私は幼い頃母の背中におぶられていた甘えん坊の感覚が鮮明に蘇ってきた気がした。ここから先は藪を進めそうもないので沢伝いに本流まで降りて行くことにした。

 河原まで着くと腰を下ろして一息ついた。すると上流からかすかに水の流れる音が聞こえてきた。私は、立ち上がると急いで上流を目指した。やがて小さな滝があった。もちろん水は流れていない。ここを飛ぶように登ると、目の前に鳥居の形をした大岩が現れた。近づいて行くと鳥居の向こう側には、水の流れが日の光に反射して光っていたのである。とうとう見つけられたのだ。感激したまま鳥居の下をくぐった。

 流れは清く青く山岳の渓流という感じで力強く流れていた。流れは鳥居の下で伏流して消えていたのである。ここまで来たことがある人は、もしかしたら自分が最初かもしれない。すばらしい川を見つけることができた喜びと期待ですこしばかり手が震えていたが、急いでラインをガイドに通し早速釣り始めようとした時だった。プールの流れ込みに突き出ている石の所で何かが動いた。今まで見たこともない不思議なものが確かに石の陰にいるのである。

 私は確かめずにはいられなくなりそうっと近付いてみた。慎重に足を運び、石の裏側に回り込み目を凝らすと何もいなかった。気のせいかと足下をふと見ると私は飛び上がって驚いてしまった。その拍子にバランスを崩して尻餅をついてしまった。そいつの正体は1m近い真っ黒い大山椒魚だった。そいつは驚きのあまり声を失っている私に近づいてくると、不機嫌そうな顔をして「釣りに来たのか?ここには魚はいないぞ。帰った方がいい。」と言った。「こんなにすばらしい流れにイワナやヤマメがいないわけないじゃないか。」とやりかえすと大山椒魚は上流の方に泳いで行ってしまった。

 大山椒魚と話をしたことだけでも驚きなのに、このときはすべてのことを、すんなりと受け入れてしまったのである。気を取り直すと釣りを始めてみた。フライはいつものソラックスダン#14を着けるとキャストを繰り返した。最初のプールを越えたところですぐに25cmのイワナが釣れた。今日の第1匹目、そして久しぶりのイワナとのご対面だったので写真を撮ろうとしていると、さっきの大山椒魚がいつの間にか足下まで来ていて「良い型のイワナだな。」と近寄ってきた。「ここには魚はいないと言っておきながら、本当はいるじゃないか。なんで嘘つくんだよ。」とせめると「俺は人間がきらいなんだ。」とつぶやきまた流れに戻って行ってしまった。

 それでも写真を撮ろうとするとカメラのシャッターが壊れたらしく撮ることができなかった。ここから先は釣りに専念しようと足早に上り始めると、石裏、流心、巻き返し、流れ出しと至る所で無垢なイワナが釣れてきた。サイズはみな25cmアップで尺オーバーも5匹混じっていた。しかし、釣れる度に大山椒魚が足下まで寄ってきて、一言二言嫌みのような言葉を掛けては消えて行った。あまりのしつこさにいつしか気にならなくなり、逆に妙な親密感がわいてきた。

 遠目に滝が見えてきた頃、ご自慢のソラックスダンに40cmアップが掛かった。このイワナは精悍な顔つきの雄で、今まで釣った中で最高のイワナだった。大山椒魚に威張ってやろうかと待っていたがやつはなかなか現れなかった。結局やつは現れず、自慢し損ねてしまった。やがて流れは大きい滝で寸断されていた。時計を見ると午後3時を回っていた。藪こぎをして帰らねばならないことを思い出し、ここで引き返すことにした。

 周りは険しい原生林の山に囲まれていたので、川通しで下り始めた。すると大山椒魚がどこからともなくまた現れた。少し疲れがあったので石の上に腰掛けてやつと話を始めた。「こんな川は初めてだよ。なんでこの時代に自然のままに残った川があるんだろう。」するとやつは「ここは昔から100年以上俺が守ってきたんだ。人間どもは川をよごすし、魚を痛めつけるし、やなやつらだ。お前がどうしてここまで来れたか不思議だよ。おまえ、もしかしたら途中の沢の水を飲んだのか?あの沢の水は心を清くする作用があってな。飲まないやつにはいつまで川を上っても石ころしか見えないようになってるんだ。少ししゃべりがすぎたか。」と言い残すと静かに流れに戻って行った。私も立ち上がろうとすると、「また来るのか?」と問いかけてきた。「仕事の都合で休暇が取れたら来るよ!」と返事をすると少し嬉しそうな顔をしてから流れに消えていった。

 東京に戻ってからも、あの幻想的な川が忘れられず、機会がある度にあの川へと足を運んでいた。やつとも大分打ち解けられて、私がイワナを釣り上げるとやつが近寄って来て、けちを付けたり誉めたりしながら滝壺までを二人で釣り上った。私はここにいるときだけは本当に幼い純真な心を持った自分に戻れたようで、一番楽しい時間を過ごせた。やつはたまに大イワナのいるポイントを教えてくれたり、野苺をとってくれたりしてくれた。やつは頑固者だが根は優しく、淋しがりやでもあるのがわかってきた。

 滝壺まで釣り上がり、後は川を戻って来るということを何回繰り返しただろう。ある日、帰りやすい道はないかと聞くと、あるかも知れないが一緒に歩こうと言った。ひと夏中この川に通っていたが、いつしか季節は秋になり今シーズンもまもなく終わる時期に来ていた。9月最後の日、やつは鳥居の所まで私を送ってくれて言った。「来年もまた来るのか?待ってるぞ。」必ずまた来年も釣りに来ると約束して私は川を後にした。途中で振り返るとやつが寂しそうにしっぽを振っていた。

 東京にも木枯らしが吹き始め、冬が確実に近付いて来ていた。テレビの天気予報でも信州地方のことが気になり、いつもチェックしていた。年が明けたころから仕事が変わり、上司にも大きい仕事を任されてしまった。毎日仕事に追われる生活が始まり、あの川のこともいつしか頭の奥底へと追いやられてしまい、いつしか2年の時が過ぎていた。

 仕事も一段落し休暇が取れたので、その年の9月の下旬に久しぶりにあの川に行くことにした。しかし、生憎にも台風が近付いていて各地には大雨の警報が出ていた。信州地方も例外ではなかった。それでもやつに会うだけでもと雨の中を出発したのである。雨はひどい降りだったが、明け方には上がり晴れ間がのぞいてきた。途中の沢は川のようになっていたにも関わらず、鳥居の下に着くと川は何事もなかったように静かに流れていた。釣りの支度をして上り始めるといきなり尺イワナが立て続けに釣れてきた。

 不思議なことに、どのポイントを攻めても釣れるのは尺かそれ以上の見事なイワナばかりだった。しかし、いくらイワナを釣り上げてもやつはいっこうに姿を見せなかった。やっぱり約束を破った私を怒っているのかもしれない。いつしかイワナよりやつのことが気になっていた。やがて滝壺まで来てしまった。やつはとうとう現れなかった。どうしてもやつに会いたかった。大声で呼んでみた。イワナ釣りは大満足だったがやつに会えないのは寂しいことだった。大声で呼び続けた。

 1時間経っても現れる気配はなかった。もう会えないかと諦めかけた時だった。ふいに上流から滝壺にやつが飛び込んできた。見ると体中傷だらけだった。まるで何かに追われて岩場を逃げてきたような雰囲気だった。「久しぶりだな。やっと来てくれたのか。今日の釣りは最高だったろ。」やつは嬉しそうだった。「約束破って悪かった。でもまた戻ってきたよ。」私は謝った。「いいんだよ。今日来てくれることはわかってた。でも、この川に来るのは今日が最後だ。またいつかどこかで会おう。」やつは言った。どうしてかと聞くと「自然のルールを破ってしまったんだ。今日お前に良い釣りをさせようと思い、少しばかり川の流れを変えてしまったんだ。もう時間がない。あの岩伝いに登れば辿道がある。そこを行けば帰れるはずだ。早く行け!」私は何が起きているのかわからずたじろいでいた。

 「また通って来るから一緒に釣りをしよう。」しかしやつは首を横に振り、「もう駄目なんだ。早く行け!」やつのあまりの形相に、言われるままに岩を登り始めた。30mほど登ると少し平らな部分があった。振り返ると、やつは私を確認してからゆっくりと下流へ下って行った。後ろ姿がどことなく寂しげだった。

 と、その時だった。上流から大音響と共に濁流が押し寄せてきた。滝壺や河原はあっと言う間にのみこまれた。やつは私に良い釣りをさせようと台風の雨による増水を一人で防いでいたのだ。なんてことだ。私は呆然として身動きがとれなかった。ただただ事を見ているしか術がなかった。やがて濁流も治まり、残ったのは無惨にも削り取られた真っ黒な岩と、石と、砂だけだった。やつの姿はどこにも見えなかった。空からは大粒の雨が降り出してきた。土砂に埋まった河原を洗い流しているようだった。足下には帰り道に通じる杣道が細く長く続いていた。


  釣り場であった怖い話 Top

 その川は裏丹沢を流れる清流で、割と名の通った、特に餌釣り師には人気のある川だった。その支流に天然のヤマメが釣れる支流があるという話を聞きつけ、通っていた頃の話である。

 この川沿いの道を左に折れその支流に向かう林道を2、3km走ると大きな橋が架かっている。この橋から上流にある堰堤の区間が天然ヤマメの棲む区間だった。ここはK沢といい、川に降りるには急な崖をはるか下まで降らなければならない。

 その日は確か夏になりかけた梅雨時の蒸し暑い日だった。仕事を終えた後、僕と後輩の釣り仲間、そしてその友人と3人でヤマメを釣りに行った。川に着いたときはすでに薄暗くなっていたが夕方の一時に賭けようと、勢いよく3人で崖を下っていった。

 ちょうど橋の真下付近には大石がごろごろしている。ここは第一級のポイントである。上流の堰堤のプールを狙うという2人と別れ、ここで釣ることにした。別れ際にちょっと不安が過ぎったので真っ暗になるまでに戻ってこいと念を押しておいた。仲間を見送ってから早速釣り始めた。すでに夕闇も迫っていたのでライトケイヒルを付けキャストを繰り返した。なかなか反応がなかったが、暗くなる頃に小さなライズが起こり小さなヤマメを釣ることができた。天然物で良く雑誌の表紙などに載っている宝石のようなヤマメである。

 気をよくしてその後もキャストを繰り返したがやがて辺りは夕闇に包まれた。フライも見えなくなったのでここで終わることにした。時計を見ると7時を回っていた。河原の石に座り仲間が戻ってくるのを待った。あの2人も粘るなあなどと余裕で待っていたが、10分経っても戻ってくる気配もなかった。

 あいつら確か懐中電器を持って行ったな、こりゃまだ待つかもしれないなとタバコに火を付けた。いつの間にかタバコは3本を数えていた。しばらくすると人の声が聞こえてきた。来た来たと思い腰を上げた。すると声は消えてしまった。あれと思ったときだった。上流の木陰から光が漏れてきた。おっ戻ってきたなと思い声を掛けてみた。でも返事はなかった。

 よく見ると光は30cm位の大きさでずっと同じ所に止まっていた。そして朱色をしていた。淡くぼーっと灯っているような輝きかただった。違うぞ。あいつらじゃない。そう直感した。光は2、3分輝いていた後すーっと消えていった。やばいと思ったときには全身鳥肌に覆われてしまった。とにかくここに居ちゃ行けないと思い、暗闇を手探りで護岸の上までよじ登った。そのときはるか上に橋の欄干が目に入ってきた。上から飛び降りれば確実に命をなくすほどの高さなのに気が付いた。

 それから長い長い時間が経った後、やっと聞き覚えのある声と、黄色い光が揺れながら近づいてきた。崖を登り車に戻っても仲間にはさっきあった話をしなかった。あの光は何だったんだろう。そしてあのとき聞いた声の主はなんだったんだろう。

 それからもあの川の上流に何度か行ったが、夕暮れ時になるとどこからともなく気配がやってきていた。今は途中の林道にゲートが付いてしまい、車では行けなくなってしまった。


  臆 病 者 Top


 今から8年程前のことでした。夏休みを利用して山形県東大鳥川へキャンプと釣りに行った時のことでした。その年は夏に入る頃から群馬や福島周辺で熊の被害が相次いでました。そんなニュースを聞いていたので、熊が出なけりゃいいななんて話をしながら東北道を飛ばして一路山形を目指しました。

 明け方頃に川に着きました。天気は抜群で高地の心地よい風がそよいでいました。林道をどんどん上っていき、大きな堰堤の上流に川に下れる細い道があります。ここを下ると河原にちょうど良いテン場があり、ここが3日間の居宅となりました。目の前は副流があり、水の心配は無く理想的なキャンプ生活が始まりました。

 流れには小さいながらもイワナもたくさんいて、テン場に居ながらにして釣りもできるというおまけ付きでした。1日目は上流を釣り滝太郎とはいかないけれど大鳥イワナを釣って楽しみました。夜は花火大会をやったり仲間3人でおおいに盛り上がりました。寝不足にビールが効き気が付くとあっという間に朝が来ていました。

 2日目は午後から下流部を釣りました。発電所の上流部で大規模な護岸と堰堤工事をやっていたので、その上からT君と組んで釣り上がりました。もう1人は車で移動してさらに上流に入りました。天気は昨日に続きドピーカンでした。しばらく釣り上がりましたがまるで気配は無く、さらに真夏の陽に照らされ暑くて暑くてどこか日陰に逃げ込みたい気分でした。しばらく行くと左手から支流が流れ込んでいました。2人ともここしか無いという感じで本流を渡り支流出会いに向かいました。

 本流の流れは結構きつく腰まで水に浸かりながらやっとの事で出会いに到着しました。するとどこかで嗅いだことのある強烈な匂いがしてきました。そう動物園の熊の檻の前でしているあの獣の匂いです。この時、急に新聞記事を思いしました。「どうする?」と僕。「ちょっとやばいですよ」とT君。「あっ、こんな所に糞があるぞ !」と言う感じでさんざんもめたあげく、尻込みするT君をなだめ少しだけ入ってみようということになりました。

 渓の水量は結構あり所々に落ち込みを作っていてイワナのポイントだらけでした。でも幅が狭かったので2人で交互にやることにしました。最初のポイントは僕でした。慎重に近づくと落ち込みの白泡の消えるところにでかい尾ビレが見えました。「やったぜ。最初からついてるぜ。」と内心ドキドキになりました。ただブッシュが張り出していたり、蜘蛛の巣があったりだったので慎重にならざるを得ませんでした。とにかくでかいイワナ、そうとうの曲者に成長しているはずです。一発で決めねばなりませんでした。

 意を決してさあシュートという瞬間、頭の後ろで「ピーッ」という音がしました。あまりの大きさと不意を付かれたので飛び上がるほどでした。T君が熊よけにと笛を吹いたのです。「この野郎なんてことを。」と思いましたが口には出せませんでした。T君が帰ってしまうとさすがの僕も心細くなるからです。大物イワナはというとどこかへ潜ってしまったようです。

 気を取り直してさらに上流を目指しました。魚影は濃く、2人で交互に釣っているにも関わらず、釣れるのは僕だけでした。あっという間に7匹釣り上げてしまいました。釣れなくて悔しいんだか、怖いのだか分かりませんが相変わらず、僕が釣ろうとするとすぐ耳元で「ピー。」「ピー。」を繰り返していました。渓は蛇行を繰り返しやがて落差が出てきました。大石の陰でやっとT君にもイワナがかかりました。ずいぶんと嬉しそうな顔で写真を撮ったりしていました。

 その後も交互に釣り上がり大分奥まで来てしまったようでした。気が付くと太陽も雲の陰に隠れ、風も出てきたようでした。急に2人とも不安になってしまいました。T君は辺りをキョロキョロし始めました。すると強烈なあの匂いが襲ってきました。「あっ。足跡がある!」とT君は絶叫しました。見ると砂地に大きな足跡が付いていました。よく分からないけど、つい今し方踏みつけられたような感じもしました。足跡を見つけたT君はすでに顔面蒼白状態でした。

 辺りを見回すと熊笹の中から2つの目が我々を見張っているような気がしました。でも気配は感じられませんでした。それより頭のすぐ後ろでいい加減「ピーピー」やられていたのでちょっと仕返ししてやれと思いました。

 「T君、やばいよ。そこにるよ。そこだよ。そこだー!。」と言った瞬間でした。T君は振り返ったと思うとダッシュを始めていました。あっという間に下流の石の陰に消えていきました。「やだな、臆病な人は。」なんて思ったのもつかの間、熊笹が揺れたのです。「やばい。」と思ったときには僕もダッシュをしていました。

 人間どうしてこんなに早く走れるのだろうと感じるほど無我夢中でした。来るときにはやっと上った大岩なんて軽く一またぎという感じでした。やっとのことで本流出会いまで来るとT君が待っていました。

 その当時の格好と言ったら今みたいにゴアテックスのウェーダーなんてまだ無い時代でした。夏はウェーディングシューズに綿のズボンという感じでした。本流まで来た僕は、その勢いで一気に渡ってしまいました。T君も夢中で付いて来ました。川を渡りきって気が付くと、2人ともパンツまでビョ濡れでした。

 石に腰掛け上気した額の汗を拭っていると、餌釣り師が近づいてきました。「そこの支流に入ったんですか?」と聞いてきました。僕は「熊が居るからあわてて引き返して来たんです。」と正直に、今あったことをハアハアしながら全て言いました。すると餌釣り師は「午前中入ったけど熊なんて居ませんよ。あの糞や匂いはカモシカですよ。」と言い残すと行ってしまいました。「あのダッシュは何だったの?」と思った瞬間急に夏の日差しが戻ってきました。


  ステテコ Top

 昨年仲間達と蒲田川へ行ったときのことです。その日は3月も末だというのに、川に着いた頃から雪がちらほら降り出してきた。。どうやら今日は大雪になりそうな気配だった。川沿いの露天風呂がある駐車場に朝7時頃到着し、皆着替えを始めた。。気温は氷点下10℃以下で寒いことと言ったら半端じゃ無かった。寝不足のぼーっとした頭があまりの寒さにシャキーンとするようだった。

 一番最初に着替え始めたのはO君だった。彼は一年を通してウェーダーの下には親父が着るステテコしか身につけない。例によって氷点下の中一気にズボンを降ろしパンツ一枚になってから白いステテコをはいた。後ろから見ているとその姿は滑稽で「おい親爺!何やってんだよ。」とみな好き勝手なことを言いながらからかっていた。

 山の天気は分からないので、みなフリースを着込んだりアンダータイツをはいたり寒さ対策は万全だった。ところがO君はいつまで経ってもステテコのまま動こうとしなかった。「おい。早くしろよ。行くぞ。」と言うと振り向きざま「ウェーダーとシューズ忘れてきた。」と泣きそうな顔をして訴えた。一同「えー。」「どうすんの?」「家に戻って取ってこい。」「どっかで買えよ。」といいかんげんなことを言い出していた。

 かわいそうに思ったのでバッグを探すとカッパのズボンが入っていたのでそれを貸してあげることにした。O君は嬉しそうにそれをはくと「さあ、行きましょう。」と気合いが入ったようだった。「お前、そんなかっこうでいいの?」と聞いたが「大丈夫。」というので上流に向かって歩き始めた。みるとO君は上半身はいいものの、下半身は薄っぺらなスニーカーにステテコ、そして僕が貸したカッパのズボンだけという恰好だった。「もっと着た方がいいよ。」と再三言ってあげたのだが、「ステテコは暖かいから大丈夫。」とうそぶいていた。

 いよいよ釣りが始まった。すぐに仲間が中州の脇でたくさんのライズを発見した。みなそこへ向かったのだが、O君は中州に渡れなかった。しょうがないので一番年下の後輩が川の中をおぶって中州に渡った。ライズはものすごくみな興奮したがなかなか曲者のライズでちっとも釣れなかった。そこで粘ったあげく僕以外は誰も釣れず、みな上流を目指して散っていった。僕もすぐに後を追おうとしたがO君をどうしようか考えていた。するとO君は「ステテコは暖かいから大丈夫。ここでライズを狙ってます。」と言うので僕も上流に向かうことにした。「携帯があるから辛くなったら電話して。すぐに戻るから。」と言い残し釣り上がった。

 しばらくすると風が出てきた。雪も横殴りの降り方になってきた。風はますます強くなってきた。しかし、風の中でも至るところからイワナとアマゴの反応があり、夢中で狙っていた。フードをかぶり雪を避けながら釣り上がった。仲間に会うと「出た?」と声をかけたが風の音がひどくて大声で叫ばなければ聞こえなかった。

 いい加減上流まで来たとき風がやんだ。目の前の淵でライズがあちこちで起きた。それを夢中で狙っていた。すると携帯の音が。「何だよ。いいところなのに。」と最初は出なかった。しかし、あまりにしつこいので電話に出るとO君からだった。「凍えちゃいそうです。」というと切れてしまった。そう言えばO君を残してきたことを思い出した。時計を見るともう1時近かった。あれから4時間近くも釣っていたことになる。近くにいた仲間に声をかけすぐにK君を残してきたところに戻った。

 するとO君の姿は無かった。「あれっ。」と思い近寄ると石の脇に座っていた。全身雪に覆われていて石だと思い気付かなかったのである。すぐに覆い尽くした雪を落としてやった。するとO君は息を吹き返し「ステテコは寒い。」というとまた石になってしまった。もう一度蘇生させてから聞いた。「車に戻ってれば良かったのに。」するとK君は「だってスーニカーだし、一度は渡れそうなところを行ってみたんだけど靴を濡らしてそれが凍った。」と言った。一同これには何も言えなかった。人ごととはいえ氷点下の極寒の中に動けずじっとしていたと思うと悪いことをしたなと思うのであった。それでも思い出したように「釣れた?」と聞くと「全然。」と言った。  見るとライズはまだあった。フライを投げると一発で良型のイワナが釣れた。「なんだ。釣れるじゃん。」と振り返るとまた石になっていた。「足が凍って歩けない。」というところを無理矢理歩かせ車に戻った。午後、寒い中を置いてきぼりを食らったのが悔しいのか、釣れないライズを目の前で一発で釣られたのが悔しかったのかO君は車の中でふて寝を決め込んでいた。


  びっこ Top


 東北の山形に遠征釣行の最終日寒河江川の支流、大井沢に入ってみることにした。今回の釣行では大鳥川で尺イワナや多くのイワナを釣り上げ大満足だった。キャンプも快適で毎晩花火大会をして楽しく過ごしていた。そんな釣行もいよいよ最終日を迎え、帰り道の途中でいい川に入ろうということになった。

 そんなことで大井沢に入ることにしたのである。今から何年も前のことなので、寒河江川は今みたいなC&Rの川ではなかった。その当時は大井沢にも大物のイワナがたくさん居たのである。林道をずっと登っていくと橋があり、ここに広い駐車スペースがある。山登りの人たちが車を置いていく所である。ここから下流へ300m位下ると大堰堤があり、この堰堤の上を最後の釣り場に選んだ。

 当時僕は堰堤の釣りが大好きであまり動かず大物を狙えるのですっかりはまっていたのである。K君は瀬を釣り上がるのをモットーにしていて僕とは正反対だった。この日も寒河江川出会い付近から目指す堰堤まで釣り上がろうかなと言い出した。僕とO君は堰堤と決めていたのだが、K君はどうしても釣り上がりたいようだった。

 記憶を頼りに途中の橋から堰堤までは2km位だから、ゆっくり釣っても2時間であがれるだろうというとK君は、よし釣り上がるといい車から降りた。すでに夕方4時近かった。夏場だと7時過ぎまで明るいが、今は9月。なるべく急いで来いよ、と言い残すと僕とO君は上流に向かって車を走らせた。ところが記憶とは全く違っていて、車止めの橋は一向に現れなかった。4、5km走った後やっと目的の橋に着いた。こんなに距離があったっけ?と確認したが釣りの方に気持ちがいってしまった。

 2人ともまあ大丈夫だろうと支度を始めた。300m程釣り下るとその堰堤はあった。流れ込み付近から砂地になっていて、所々に木が生い茂りその中を幾筋もの流れがあった。ライズは無かった。しばらく河原に寝ころんでいた。やがて夕闇が近づいてくると至るところでライズが起こった。僕もO君も夢中で釣りまくった。

 サイズも引きも最高のイワナばかりで最後の釣りを満喫した。やがて辺りが闇に包まれるとフライも確認できなくなり、そろそろ上がろうとO君に声を掛けた。2人でいい釣りができたと話していると上流から黒い影が近づいてきた。よろよろとよろけながら真っ直ぐこちらに向かってきた。

 見るとK君だった。そう言えば釣りに夢中で忘れていた。でもなんで上流から来るんだろう。ちょっと不思議だった。聞くと分かれてから1kmぐらい釣り上がったが、全く釣れず足を捻挫してしまったとのことだった。川は険しく堰堤の姿も見えず、やむなく引き返したらしい。そして林道を足を引きづりながらやっとの事でここまで歩いてきたと言った。車の所で待ってれば良かったのにと言うと、下から来るのを待っていたら困ると思ったから下ってきたんだと言った。K君はかわいそうに僕らが至福のひとときを過ごしているところを痛む足を引きづり歩いていたのだ。K君のことをすっかり忘れて釣りをしていたことを言えるわけもなく、大丈夫などと声を掛けながら帰り道に着いた。


  大物釣り Top

 彼が釣りを始めた次の年のことだった。彼は渓流の釣りも満足にできなかったくせに、湖での釣りにあこがれを抱いていた。暇さえあればいつも関東近辺の地図を眺めていた。ある日意を決したように彼の先輩にうち明けた。矢木沢ダムと銀山湖と野反湖、これをこうしてつなぐと三角形ができます。これをゴールデントライアングルと名付けました。これから毎年ここを攻めてみようと思います。そんな訳の分からないことを夏を前にした頃から騒ぎ出したのである。仕事中も暇さえあれば釣りの好きな先輩の所に行き湖を釣ってみたいと訴えていた。

 先輩もとうとう根負けしたのか、その年の夏休みに一緒にキャンプをしながら釣りを楽しむことにした。今回の計画は雑魚川で2泊して最終日に野反湖に行こうというものだった。彼は渓流とあこがれの湖での釣りができるのとでたいそうな喜びようだった。今回兄弟でフライフィッシングをしている人たちと合流して計4人で行くことになった。ただ、フライ兄弟は仕事の都合で2晩目からの合流となった。彼は早速湖用のタックルを買いに出かけた。大物が釣れてもびくともしないように8番ロッドを買ったのである。そして出発の日を今や遅しと待ち焦がれていたのである。

 そして出発の日、彼はもしものためにルアーロッドも車に忍ばせていた。1日目、まだフライの流し方も、ロッド操作もろくにできない彼の釣果はさっぱりだった。夕方なんとかイワナを掛けたが、合わせ切れを連発していた。それを横目に先輩はいい型のイワナを連発していた。彼は悔しかったらしいが、湖もあるしいいさとうそぶいていたという。

 2日目。フライ兄弟が合流した。彼らはキャンプの装備もたくさん持っていて、明るいランタンを持ってきていた。昨日まで薄暗かったキャンプが急に活気を帯びた。遅くまで飲んでいたが明日はいよいよ湖ということで、彼はそうそうに寝込んだ。

 3日目。いよいよ野反湖の釣りである。地図を頼りに山の上を目指した。頂上に着くと目を疑うようなすばらしい景色が広がっていた。山の頂上に鏡のような湖が横たわっていたのである。ここは日本じゃない。ニュージーランドだと彼ははしゃいでいた。適当な場所に車を置き、みな準備に取りかかった。フライ兄弟が彼に聞いた。ルアーもあるようだけど何で釣るの。すると彼は僕はフライマン。当然フライですと答えたという。

 枯れた沢を伝って湖岸に降り立った。水面はシンとしていた。彼はすぐにキャストを開始した。ところが8番のロッドの重さがきついのか、キャスティング技術が未熟なのか、最後のシュートの時に必ずと行っていいほどバックのアシにフックを引っかけていた。あまりの下手さにフライ兄弟がキャストの手ほどきをしたくらいである。その甲斐あってかなんとか様になってきた。しばらくすると南風が強く吹いてきた。立ち位置の左手から強風が吹きまくった。と水面に変化が出始めた。そうライズが始まったのである。

 みな夢中でキャストを繰り返した。彼はというと相変わらずバックに引っかけたりしながらもなんとかライズを狙っているようだった。しばらくすると、フライ兄弟の弟がすばらしいニジマスを釣り上げた。緑がかった青い背中のみごとな魚だった。これが今言われているブルーバックレインボーである。彼はそれを見ると自分はもっと大物を釣るんだと再び強風の中を釣り始めた。ライズはいつの間にか止まってしまっていた。それでも彼はキャストを繰り返していた。

 やがて彼も疲れたのだろうか、ラインの伸びが悪くなっていた。とその時強風がまたいっそう強くなった。彼は顔の方に流れてきたラインを避けようと思いっきりバックキャストをした。するとラインは何かに引き戻され、その場にスーッと落ちてしまった。先輩もその頃あまりの釣れなさにイライラしていた。すると後ろで声がした。

 先輩、鼻を釣っちゃった。振り返ると鼻と唇の間にフライが、がっしりと食い込んでいる彼が立っていた。どうしたんだと聞くと、ラインを避けようとしたら針が自分に刺さってしまったと言っていた。先輩が良く見るとフライフックは彼の唇のすぐ上にがっしりと刺さっていた。抜こうと引き戻したがびくともしなかった。返しまでしっかりと肌に食い込んでいた。

何事かとフライ兄弟も集まってきた。そして事の重大さをすぐに理解した。お盆休みの土曜日、山奥、夕方、どう考えても医者はいそうにない。彼は大物を釣るつもりが自分という173cmの超大物を掛けてしまい、さっきまでの元気はどこへやら、その場にうずくまってしまった。先輩がもう一度刺さったところを見るとわずかだが針先が肌を貫き飛び出していた。先輩は彼に言った。今から針先を押し出して返しまで出しちゃうから。返しが出たらそれをつぶして針を引き出すからと言った。

 彼は動揺したが、針をはずすにはそれしか方法か無いことが分かると素直に従がった。急遽3人の手で簡易手術が始まった。まず毛針についた羽やボディがむしり取られた。そしてぐいぐいと針を今より深く差し込んだ。そして返しが出たところで、その返しをプライヤーで潰した。そして一気に引き抜いた。彼には不思議と痛みはなく事はすぐに終わった。血がもっと出るかと思われたが、蚊にさされたような後が残っただけだった。

 彼はそれでも恐怖心を抱いていたのか、しばらく座ったまま動こうとしなかった。しばらくするとしらけた雰囲気が漂い、誰からともなく帰ろうかと言うことになった。湖から上の道路に上がると彼はすっかり元気を取り戻していて、今日は不発だったが来年はでかいの釣るぜ、と息巻いていた。後の3人は顔を見合わせ呆れかえっていた。そう、この彼こそ、いつの日かHardyという名で活躍することを、まだ誰も知る由もなかったのである。


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