2004年11月21日(日) 09:30 - 10:30, 第2会議室 ワークショップH 造船とアスベスト 座長:三浦溥太郎、クラウディオ・ビアンチ 林充孝 じん肺アスベスト被災者救済基金[日本] 横須賀における石綿被害が顕在化したのは、1982年5月読売新聞夕刊のトップ記事で、「横須賀共済病院の三浦医師を中心とした研究チームが、基地・造船関係で石綿肺ガンが多発し、過去5年間で39人死んでいたという研究結果」が報道されことによる。 この秋以降、全造船機械労組浦賀分会、神奈川労災職業病センター、神奈川県勤労者医療生協港町診療所の三者は、住友重機浦賀造船所の退職者によって構成されていた「浦賀退職者の会」の協力を得て、死亡者の追跡調査やアンケート調査を実施し、息切れ、咳・痰などの自覚症状の訴えが異常に多く、翌年から希望者の検診を行うとともに、じん肺管理区分申請や、労災申請を開始した。 1984年からは、米海軍横須賀基地退職者の検診も開始し、労災申請手続きを行うようになり、じん肺や石綿被害の「要療養患者」が急激に増加した。1985年11月には「横須賀地区じん肺被災者の会」が結成され、被害の掘り起こしが自主的に行われるようになった。 1986年、米空母ミッドウェーの大改修工事が米海軍横須賀基地で行われたが、この工事により発生した大量の石綿廃棄物が、公道上に投棄されていることが発覚し、発ガン物質である石綿のずさんな管理が明らかになり、大きな社会的問題となった。 1988年7月に、住友重機械工業株式会社を相手に、石綿肺の被害を受けた退職者8名が損害賠償を求めて裁判所に提訴した。この裁判は、被告会社の悪辣ないやがやせと裁判引き延ばしによって長期化したが、9年後の1997年3月に和解が成立し解決したが、同時に今後住友重機械の退職者が被害を受けたとき、補償金を支払う労使協定が取り交わされた。この勝利を受けて7月に、無料電話相談「じん肺・石綿健康被害ホットライン」を実施したところ、横須賀市内を中心に100件を越す相談がよせられた。 この間1995年7月、住友重機退職者で肺ガンにより死亡した遺族が提訴した損害賠償裁判も、1997年10月に和解が成立、解決した。そこで、裁判を支援してきた労働組合や、支援団体、被災者組織により「じん肺アスベスト被災者救済基金」を結成し、今日までの運動を引き継ぎ、被災者の掘り起こしや被災者支援の活動が開始された。毎年7月に行われる電話相談「じん肺・石綿健康被害ホットライン」には、毎年多くの相談がよせられ、今年の7月に行われた第8回ホットラインまでに500件を上回る相談がよせられ、多くの労災認定を実現してきている。 999年7月、米海軍横須賀基地退職者及び遺族16名が、雇用者である国を相手に「第1次米海軍横須賀基地石綿じん肺損害賠償請求」を裁判所に提訴。つづいて2002年5月被災者22名が「第2次の損害賠償請求」を、2003年7月には退職者及び遺族15名が「第3次の損害賠償請求」を提訴した。 第1次訴訟は、2002年10月横浜地裁横須賀支部から、全員救済の画期的判決が出されたが、東京高裁では原告5名が10年の時効により逆転敗訴し、残念ながら最高裁もそれを容認し確定した。第2次訴訟は現在和解協議が進行している。 また、2003年7月住友重機のじん肺に被災した退職者及び遺族14名が、会社を相手に第2次損害賠償請求を提訴している。 横須賀における掘り起こしはかなり進んでいると思われる。しかし、今年の電話相談でも100件を越える相談がよせられた。京浜工業地帯や全国各地の造船労働者の被害の掘り起こしは、まだまだこれからという思いが強い。 |