2004年11月19日(金) 17:00 - 19:30, 井深大記念ホール 全体会議セッション3 被災者・家族のエンパワーメント 座長:名取雄司、アニー・デボモニ 宇野林蔵 中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会 [日本] 横須賀の宇野といいます。横須賀は東京から約50キロ南で東京湾の入口にあります。住友重機造船所に1951年に入社してガス切断や船体の取付工として37年間勤めました。また10年間は修理船やアメリカ軍の艦船を担当し、そこでもアスベストの取り外しをすることがありました。修理船は期間が短いため粉じんの中で残業しました。新造船では、船の引渡し間近になると船主から改正工事の注文が出るので、防熱用のアスベストを自分で取り外すしかありませんでした。防じんマスクの支給は1978年頃からでした。 今から20年前、先輩のじん肺患者を見て、全国じん肺患者同盟や労働組合の力を借りて被災者の会を作ったことを思い出します。当時私は50歳の現役で、役員として会に貢献しました。退職後にアスベスト肺と認定されたのが12年前です。その前後から咳と痰が非常に多くなり、いつもカバンにティッシュペーパーとビニール袋を入れていました。毎年会員が中皮腫や肺癌で5人くらい亡くなっています。日本ではじん肺患者が今でも1万7千人を超えています。 私は夜中に発作を4回起こします。咳と咳の合間がなく、咳止めの薬や水が飲めません。寝床で正座をして頭を布団に埋めて、ティッシュペーパーを顔のそばに置いて、妻に背中をさすってもらいます。もがき苦しんでいるので、妻に「救急車を呼ぼうか」と聞かれても返事ができません。2時間位経って咳が少なくなるまで、妻は私を見守るしかないのです。とても生きた心地はしません。妻もオロオロするばかりです。自分だけの苦しみだけではなく、家族にも迷惑をかけています。 電車に乗っていても軽い発作として咳が出ますが、周りの人がコソコソと自分から遠ざかってしまうこともあります。その時は本当に情けなくなります。 横須賀の医師に相談して薬を変えたりしました。3年前からは吸入薬を使用しています。この様な苦しみは子供や孫には味わって欲しくないと思います。日本でも一刻も早くアスベストの使用を禁止して欲しいです。何事においても対応が遅いのは日本人の悪いところです。政府の怠慢としか私には思えません。病気の潜伏期間が30年・40年と長く、しかも裁判には時間がかかります。裁判をする必要の無い補償制度を作って欲しいと考えています。 これ以上人間を殺さないで下さい。アスベストにより中皮腫や肺癌で友人が次々と亡くなってゆきます。私も時限爆弾を抱えていることを一時も忘れることはできません。 |