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メディカルサイエンスエッセイ 寝椅子の下
第IV部 うまくいかない心
 パーソナリティ障害編




似た者夫婦の謎〜類別交配の話

性格形成の生まれと育ち

パーソナリティ障害の分類

消えた病名「ヒステリー性格」

自己愛性パーソナリティの2つの側面

境界性パーソナリティ障害 イントロダクション

境界性パーソナリティ障害における自傷行為の意味合い

境界性パーソナリティ障害は歳をとれば、30歳を過ぎれば治る?

境界性パーソナリティ障害が「難治」と言われるわけ

境界性パーソナリティ障害に対する治療(精神療法、心理療法)




似た者夫婦の謎〜類別交配の話

ここから先「性格の偏り」の問題を考えていくうえで、まずは類別交配 assortative matingの話題から入っていこうと思います。

おそらく誰でも知っている生物学の基本、「進化論 evolution」では、生き物たちは、少しずつ遺伝子に変化 variationをつけ、変化していった結果としてより増えやすかったものが増えて全体の遺伝子プールがそっちに傾いていき、長い時間をかけて別の生き物になっていった・・・ということになっています。

学校で習う生物学では、たいてい「首の長いキリン」の話が例にだされるので、ここでも「首の長いキリン」の話をします。

キリンの遠い祖先たちの首は短く、なんだかサイのような動物だったとします。 そこにたまたま遺伝子の変異で首の長い子が生まれました。 彼は首の短い仲間たちよりも敵を見つけるのがより早く、より高いところにある餌を食べることもでき、結果としてより生き残りやすく、増えやすい特徴を持っていました。 彼が結婚して子供を作ると、その子供も彼の遺伝子を引き継いで首が長く、やはり生き残り増えていくことに有利であったために、どんどん増えていき、全体の遺伝子プールが「首の長いキリン」に傾いていくことになりました。 その中で、さらにまた首が長い方がさらに生き残りやすく、増えやすかったために、長い長い時間をかけて、今のキリンのように、キリンは首が長くなってしまいましたとさ・・・、というストーリーです。

でも、変です。

仲間よりもちょっとぐらい首が長いくらいで、そこまで生き残るのに都合良い結果になり、そこまでそれだけの理由で子孫を増やせるか? という疑問。

そして、せっかく彼の首が短くても、彼の奥さんの首が短かったら、(「首が長い」などの特徴はたくさんの遺伝子がからんでいることもあって)遺伝子的な影響が薄められてしまい、その子供は(少なくとも彼ほどには)首が長くなくなってしまうでしょう。

そんなんでは、遺伝子プールの変化=進化など起こらないことになります。

高校の生物学でやることになってるらしい(?)「ハーディ・ワインベルグの法則 Hardy-Weinberg principle」というのがあります。 以下の5つの条件が保たれている限り、遺伝子プールは変化せず、進化は起こらないというもので、

(1)遺伝子が突然変異しないこと。
(2)別の遺伝子の流入がないこと。(移民や侵略によって別の遺伝子を持ったものが流入してきて、遺伝子プールが崩れていく・・・ということがない)
(3)配偶者選択/交配の仕方が完全なランダムであり、何の選択性もないということ。
(4)母集団が十分に大きいこと。
(5)自然選択(淘汰)が働かないということ。

というものです。

ところが、実際にはそうではないから、遺伝子プールは少しずつある方向に向かってシフトしていく=進化していく、ということになります。

今回注目したいのは、この「5つの条件」のうち「(3)配偶者選択/交配の仕方が完全なランダムであり、何の選択性もないということ。」が、現実の自然界では守られていないということです。

というのも、多くの動物には「類別交配 assortative mating」という傾向があります。 つまり、自分と似たような形質を持った異性を配偶者として選択し、「似た者夫婦」をつくり、その形質をさらに強調したような、さらにパワーアップした子孫をつくっていく傾向です。

「首のが長いキリン」の例に戻ると、たまたまの偶然で生まれた「首の長い子」が、「自分と同じように首の長い子が好き」という傾向を持っているとすると、彼は当然、首の長い娘さんを配偶者として選んでいきます。 すると、その首の長い夫婦の遺伝子を掛け合わせた子供は、やはり首が長くなるでしょうし、その特徴は(遺伝子の掛け合わせ方によっては)もっと強調されるかもしれません。 そして、その次の世代でも、やはり「自分と同じように首の長い子が好き」という傾向を持っているとすると、その家系の子孫たちはどんどん「首の長いキリン」の方向性に突き進んでいくことになるわけです。

ところで「首が長い」か「首が短い」かというのは、相対的なものです。 ですから、「首が長いキリンは、自分と同じように首が長い子が好き」という類別交配の傾向は、逆に言うと「首が短いキリンは、自分と同じように首が短い子が好き」というようにも言えます。(あるいは好きか嫌いかは別にして、「首が長いキリンは首が長いキリンと、首が短いキリンは首が短いキリンと、交配しそれぞれの特徴をより強化した子孫を残していく傾向がある」とも言えます。)

こうして、キリンの祖先のサイのような動物は、何世代もの交配を続ける中で、次第に「首が長いキリン」と「首が短いキリン」に両極化していくことになります。

これが「進化」を、特定の方向に方向付けていくメカニズムの一つなのでしょう。
(類別交配の傾向があるおかげで、「首が長いこと」は生存競争上有利でなくても、「首が長い子好き」の相手から「モテる」ことになり、子孫を増やせます。 さらに「首の短い子」と掛け合わされる確率が減るので、遺伝的傾向が薄められることもないわけです。)

では、人間ではどうなのか?

遺伝子の命じるままに行動し、遺伝子の命じるままに配偶者選択/交配をし、子孫を残そうとしていく他の動物=「ダーウィン・マシン」と違って、ちゃんとした「意思」や「理性」のある人間でも同じことが起こっているなどと言えるのでしょうか?

実は、人間においても幾つかの特質において「類別交配 assortative mating」の傾向があることがわかっていて、そのうち知能 IQ、価値観、性格傾向などは特に知られています。

例えば、知能IQについては、かなり強い類別交配の傾向があることがわかっています。 つまり、「知能の高い人は知能の高い人を配偶者として好み、交配する」傾向があると言えますし、知能は「キリンの首の長さ」と同じように相対的なものなので、逆の言い方をすると「知能の低い人は知能の低い人を配偶者として好み、交配する」傾向があるとも言えるわけです。

そうするとどうなるか?

試しにネズミを沢山あつめて、知能をはかるために迷路課題を行わせ、その結果によって「知能の高いネズミたち」と「知能の低いネズミたち」にわけてみます。 「知能の高いネズミ」は「知能の高いネズミ」と交配するように、「知能の低いネズミ」は「知能の低いネズミ」と交配するように人工的にしむけてみます。 当然、「知能の高いネズミの夫婦」の子どもは「知能が高い」傾向があるでしょうし、「知能の低いネズミの夫婦」の子どもが「知能が低い」傾向があるでしょう。 すると、7世代もそうやっているうちに、知能分布は明らかに二極化していき、知的能力の面では「全然違った生き物」になってしまうのです。

人間でも当然同じことが起こると容易に想像できるわけで、「知能の高い人」同士が交配してできた子どもは、「知能が高い」傾向がより強化されている可能性が高いでしょうし、「知能の低い人」同士が交配してできた子どもは、「知能が低い」傾向がより強化されている可能性が高いでしょう。 これが何世代か積み重なっていくと、人類は「知能の高い人集団」と「知能の低い人集団」に二極化していくことになりそうです。

事実、そうやって二極化していった結果として、現在の人類につながる「(他のサル人間たちに比べて)極端に知能の高い集団」が生き残り、繁栄してきたのでしょう。

やはり、私たち人間も、自分の意志の力で考え行動しているように見えながら、実際には「ダーウィン・マシン」でしかなかったのでしょうか。

いずれにしろ、現代社会に生きる人類の私たちにも「類別交配 assortative mating」の傾向は残っていて、自分と同じような知的能力、性格傾向、「ものの見方、考え方」(=価値観の体系)をする人を配偶者として好む傾向があり、次の世代をつくっていく傾向がある、ということは言えそうなのです。

その結果として、こうした特性は世代を重ねるごとに薄まり均質化されていくのではなく、ある方向に「偏り」を生じるようになっていくことも、このメカニズムのために避けがたいことではあるのでしょう。

人の「性格的な偏り」もその一つでしょう。


参考書:
(1) Mascie-Taylor C. Spouse similarity for IQ and personality and convergence. Behav Genet. 1989 Mar;19(2):223-7.

(2) McCrae R, et al. Personality trait similarity between spouses in four cultures. J Pers. 2008 October ; 76(5): 1137–1164.

(3) Distel MA, et al. Familial resemblance of borderline personality disorder features: genetic or cultural transmission? PLoS ONE 4(4): e5334.

(4) Merikangas KR. Assortative mating for psychiatric disorders and psychological traits. Arch Gen Psychiatry. 1982;39(10):1173-1180.


動物たちの間に広く見られる、そして動物たちの進化を特定の方向に押し進めてきた要因の一つであろう、「類別交配 assortative mating」(動物たちが、形質の似ているもの同士で惹かれ合い、交配する)という行動傾向は、私たち人間にもありそうです。

つまり、知能、価値観、性格といった特性が、どこか似ているものを配偶者として選択し、交配していく傾向です。 これによって「似た者夫婦」が形成されていき、その交配の結果として同じような特性を持った子供が生まれてくるわけです。
(世の中にたくさんいる「似た者夫婦」は、夫婦という生活を一緒に続けているうちに、だんだん似てきてしまうのではなく、もともと似た者であるがゆえに惹かれ合い、配偶者選択した結果である・・・ということを示唆する研究結果がたくさんあるのです。)

本当にそうなのだろうか? 

米国のMcCrae先生たちは、ロシア、オランダ、チェコの先生たちと共同で、4カ国にまたがる大規模な夫婦の性格調査を行いました。 その結果、やはり、知能IQほどの強力な相関はなかったものの、性格もかなりの広い領域で「似た者の夫婦」になっている傾向が示されました。

その他の幾つもの大規模調査の結果から、夫婦は性格的に「似た者夫婦」を形成する傾向が確かにあること; 誠実な人は誠実な人と(逆にいうと不誠実で反社会的な人は不誠実で反社会的な人と)、開放的な人は開放的な人と、神経症的な人は神経症的な人と、自閉的な人は自閉的な人と、依存的な人は依存的な人と・・・それぞれ惹かれ合い、配偶者選択し、交配していく傾向がありそうなことが示されてきたのです。

さらにこれは、「健常者」の範囲の問題だけではなく、「精神疾患」と言えるほどの偏りについても言えることが示されています。 つまり、性格的な偏りの強い人(パーソナリティ障害)の人は同じような性格的な偏りのある人と、統合失調症の傾向がある人はその傾向がある人と、神経症的な人は神経症的な人と、偶然よりも高い確率で配偶者選択していく傾向があるのです。
(しかも、これも「夫婦として長い間一緒にいるうちに似てきてしまった」とか「片方が心の病気になったことで、もう片方も引っ張られて心の病気になってしまった」のではなく、配偶者選択の時点から「似た者」を相手として選ぶ類別交配 assortative matingの結果として「似た者夫婦」が生じていることも、幾つもの研究の結果から示唆されています。)

あくまで類別交配という傾向についていえるだけですが、身もふたもない言い方をすると、頭のいい人は頭のいい人と、頭の悪い人は頭の悪い人と、性格のいい人は性格のいい人と、性格の悪い人は性格の悪い人と、心に特定の弱さを抱えた人は同じような弱さのある人と、それぞれ配偶者選択していく「決してランダムではない」傾向が確かにあるのだろうと言えるのです。

アムステルダム大学のDistel先生たちは、性格の偏りの中でも有名な「境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」について4000以上の家族のデータを取り、「境界性パーソナリティ」と呼ばれる独特の性格傾向(強い空虚感、衝動性、自己破壊性、対人関係の不安定さなど)が、どの程度家族内のメンバー同士で「似ているか」を調べてみました。 この性格傾向の問題は、他の性格傾向の問題と同様に、強い遺伝性があることがわかっていて(この話はあとでやります)、当然「遺伝子的には同一人物」のようなものである一卵性双生児は一致率が高く「似ている度」は0.45となっています。 これに対して、遺伝子的には約半分くらいしか共通していない「普通のきょうだい」や「二卵性双生児」の「似ている度」は0.19でした。 (親子は、遺伝子的には半分くらい共通しているのですが、あまりに年齢が違うので「似ている度」はもう少し低くなってしまうのでした。) ところが、遺伝子的には全くの他人であるはずの夫婦は、「似ている度」が「きょうだい」や「二卵性双生児」よりも高い0.22もあったのです。

これは、つまりそういうことです。 この夫婦の「似ている度」の高さは、類別交配の結果でしょう。

問題なのは、このように「パーソナリティ障害 personality disorder」と呼べるほどではなくても、性格上の不安定さ、生きづらさ、不幸になりやすさを、偶然よりも高い確率で、夫婦が共通して持ってしまうことです。 その結果として、偶然よりも高い確率で、不安定で不幸な夫婦関係、不安定で不幸な家庭が形成されることになり、その中に生まれてくる子供の不幸が続いてしまう・・・ということなのでしょう。


参考書:
(1) McCrae R, et al. Personality trait similarity between spouses in four cultures. J Pers. 2008 October ; 76(5): 1137–1164.

(2) Distel MA, et al. Familial resemblance of borderline personality disorder features: genetic or cultural transmission? PLoS ONE 4(4): e5334.

(3) Merikangas KR. Assortative mating for psychiatric disorders and psychological traits. Arch Gen Psychiatry. 1982;39(10):1173-1180.




性格形成の生まれと育ち

人が持つその人自身との向き合い方、他人との向き合い方、こうした対人関係の基本的なあり方のパターンを一般に「性格 character, あるいはパーソナリティpersonality」と呼んでいます。

そしてこの「性格」に関して、ずーっと慢性持続的に、自分自身のあり方や対人関係のあり方に何らかの生きづらさを抱えている問題のことを「(古い言い方で)性格障害 character disorder」あるいは「(今風な言い方で)パーソナリティ障害 personality disorder」と呼びます。
(ほとんどの人は、「物心ついた頃」からずーっと生きづらかった言うのですが、「性格」「パーソナリティ」といったものは、思春期前後に顕在化し、完成/固定化していく傾向があるので、教科書的には「性格の問題」や「パーソナリティ障害」を診断できるのは「思春期以降」ということになっています。)

「性格の問題」として、それこそ物心がついた時から一生に近いくらいずっと「生きづらい」なんて、イヤ過ぎます。

しかし、この「性格の問題」あるいは「パーソナリティ障害」は、いったいどうして生じてしまうのでしょう? その原因は「生まれ(=遺伝子的要因)」にあるのか? あるいは「育ち(=生育環境要因)」にあるのか? まずは、この問題をしばらく考えていきたいと思います。

というのも、かなり昔から「性格の問題」/「パーソナリティ障害」には家族性 があることが知られていたからです。 特定の性格の問題を抱えた人の家族は、やはり多かれ少なかれ似たような性格の問題を抱えていることが少なくないのです。

例えば、娘さんが「患者本人」としてやってきて、娘さん自身には情緒不安定で「うつ」になることを繰り返す性格の問題があるときに、その家族であるお母さんも情緒不安定で「うつ」っぽく、お父さんもアル中で情緒不安定でキレやすい・・・なんてことは珍しくないのです。

「似た者家族」です。(あるいは、そこまであからさまに「性格的に問題がある家族」ではなくても、密かに内面的に空虚感や不信感を抱え続けているお父さん/お母さんというのも少なくありません。)

そこで疑問が生じます。 この「似た者家族」が「似た者」になってしまうのはどういうわけなのか? 

「似た者夫婦」が「似た者」になってしまう理由は、すでにお話ししました。 長いこと「夫婦」を続けている間に似てきてしまうのではなく、配偶者選択の時点で、自分と同じような性格傾向のある相手を偶然よりも高い確率で選んでしまう傾向(類別交配 assortative mating)が、私たち人間にはあるからでした。

では、子供の性格や行動パターンが、何らかの意味で、親に似てきてしまうのはなぜなのか? これは「生まれのせい」なのか「育ちのせい」なのか?

今から30年以上前までは、子供の性格を決定づける大きな要因は、親の「育てかた(=子供との関わり方)」なのだろうと、さしたる科学的根拠なく、なんとなく、思われていました。 簡単に言うと、「母親がこういう人だったから、こういう子育てをする人だったから、あなたがこうなってしまった」というような感じです。 しかし、本当にそうなのか? 

「摂食障害編」でもとりあげましたが、人が持つ精神や行動パターンの問題が「生まれ」によるのか、「育ち」によるのかを調べていく方法として、「双子研究 twin study」と「養子研究 adoption study」がありました。
(この方法論の詳しい説明は、あまりにオタクで訳の分からない数学的な話になってしまうのでやめます。 詳細は、行動遺伝学 behavioral geneticsの教科書にあたってみてください。)

膨大な数の双子や養子のデータを使って、子供の「性格」あるいは「行動パターン」を決定づける要因を、「遺伝子的要因 A」、「(同じ家庭で育った同胞が共通して体験する)家庭環境要因 C」、「(その子が独自に体験する)個別の環境要因 E」という3つの要因に分け、その寄与率を計算していくのです。

すると、どんな母集団を使っても、どんな「性格」や「行動パターン」の側面に注目してみても、だいたい同じような結論が出てきました。

興味深い結論の一つとして、人の持つ特性について『子供が子供であるうちは「家庭環境要因C」が強く、他の「遺伝子的要因A」や「個別の環境要因E」は目立たない。 しかしこの状況は思春期前後で激変する。 思春期以降大人になっていくと、「遺伝子的要因A」と「個別の環境要因E」が大部分を決定し、「家庭環境要因C」はほとんど目立たなくなる。』というものがあります。

このパターンで、まず気づかれたのは知能IQでした。

知能IQは、かなり遺伝子的要因で決定されるものであることが知られています。 とはいえ、子供が小さな子供のうちは「家庭環境要因C」の影響も2、30%くらいは受けているのです。 もともと生まれつき頭が良くない子でも、知的な家庭環境で育ててあげれば、見かけ上の知能IQは少しは上がります。 逆に、もともと生まれつき頭の良い子でも、劣悪な環境に育つと、見かけ上の知能IQは下がってしまうのです。 しかし、これが言えるのは思春期前後くらいまでのことです。 それ以降、大人になっていくと「生育環境要因C」の影響はほとんどなくなっていき、もともと頭が良く生まれついた子は頭が良くなっていきますし、もともと頭が悪く生まれついた子は頭が悪くなっていくのです。 つまり、思春期前後を境にして、「家庭環境要因C」がガクンと下がって0に近くなり、「遺伝子的要因A」と「個別の環境要因E」の比率がグンと上がることになるのです。

人の持つ性格や人生に対する態度、行動パターン、なども同様です。

わかりやすいところでは、双子研究で有名なKendler先生たちが示した面白い研究結果があります。

Kendler先生たちは、まずは飲酒や喫煙といった(あまり良くない)生活習慣に注目して、こうした行動パターンを決定する要因が「家庭環境要因C」にあるのか、あるいは「遺伝的要因A」、「個別の環境要因E」にあるのかを年齢階層別に調べてみたのです。 結果、その人が子供のうちは「家庭環境要因C」が大きく作用しており、その人自身の「遺伝子的要因A」はあまり影響していないのですが、年齢が上がり大人になるにつれて「家庭環境要因C」の寄与率はどんどん下がり、逆にその人個人の持つ「遺伝的要因A」や「個別の環境要因E」が強まっていくのでした。 結果として、その人が大人になった頃(20代後半以降)には、飲酒や喫煙という行動パターンを決定する要因のほとんどが「遺伝子的要因A」と「個別の環境要因E」によって占められており、その人の育ちによる「家庭環境要因C」の寄与率はほとんど0になるのです。

またKendler先生たちは「教会に通うこと」といった(まあまあ典型的なアメリカ人としては好ましい)生活習慣に注目して、これまた年齢階層別に「遺伝子的要因A」、「家庭環境要因C」、「個別の環境要因E」の寄与率を計算してみました。すると、これまた、その人が子供のうちは「家庭環境要因C」がかなり大きく作用しているのに、思春期を過ぎて大人になると、「家庭環境要因C」は無視できるほど小さくなり、寄与率のほとんどを「遺伝子的要因A」と「個別の環境要因C」が占めることになっていました。

人の「性格」には幾つものディメンションがあり、いくつもの計測方法があります。 しかし、どのような切り口できってみても、だいたい同じような結果が出ます。 つまり、思春期を過ぎて大人になった人の性格を決定づけているのは、その約半分を「遺伝子的要因A」、残りの約半分を「個別の環境要因E」であり、その人が育ってきた家庭環境による「家庭環境要因C」の寄与率はほぼ0である・・・という、30年前の考え方からすると驚愕の事実が浮かび上がってくるのです。

これが、俗にいう「行動遺伝学の3原則」です。 摂食障害編でもふれましたが、以下のようなものです。

原則1:人の行動パターンや性格といったものはすべて遺伝子の影響を受けている。 

原則2:大部分(約半分)は遺伝子的要因Aによっており、家庭環境要因Cによる影響はほとんどない。 

原則3:遺伝子的要因以外の部分(残り約半分)は、ほとんどが個別の環境要因Eで説明される。


・・・そんな、バカな・・・


参考書:
(1) Kendler SK, et al. Genetic and environmental influences on alcohol, caffeine, cannabis, and nicotine use from early adolescence to middle adulthood. Arch Gen Psychiatry, 2008; 65: 674-682.

(2) Kendler KS, et al. A developmental twin study of church attendance and alcohol and nicotin consumption: a model for analyzing the changing impact of genes and environment. Am J Psychiatry, 2009; 166: 1150-1155.

(3) Plomin B. Why are children in the same family so different from one another? Behavioral and Brain Sciences (1987) 10, 1-60.

(4) Torgersen S. Behavioral genetics of personality. Current Psychiatry Reports 2005, 7:51–56.


行動遺伝学の3原則』のことをお話ししました。

実際、成人の統合失調症、躁うつ病、うつ病などの「心の病気」はもちろんのこと、狭義の病気ではない、反社会性と犯罪傾向、アルコール依存症と薬物依存症、パーソナリティ障害など、ほとんどすべてにおいて「その寄与因子の約半分が遺伝的要因Aであり、残りの約半分が個別の環境要因Eであり、生育家庭環境要因Cの寄与率はほぼ0である」という結果が示されているのです。(もっとも、アルコール依存症については、生育家庭環境要因が幾分かは作用している可能性も示唆されています。)

今回の話題である「性格の問題」「パーソナリティ障害」について特に見てみると、いくつかの双子研究などの結果から、A群パーソナリティ障害(スキゾイド、統合失調型、妄想性)については3割程度、B群パーソナリティ障害(境界性、自己愛性、演技性、反社会性)については3〜6割程度、C群パーソナリティ障害(強迫性、回避性、依存性)についても3〜6割程度、の寄与率が「遺伝子的要因A」によっており、残りのほとんどが「個別の環境要因E」によっており、「家庭環境要因C」はほぼ0である・・・という計算になることが示唆されています。

もし、これが正しいとすると、親がどんなことを意図して子育てをしても、親が育てたようには子は育たない・・・ということになります。 子供の性格や行動パターンを決定づけるのは、親が「こう育てよう」として作り出す家庭環境要因Cではなく、個別の環境要因E、つまり、その子が個別に体験することになる「一見すると偶発的な出来事」による体験の積み重ねの方なのか? ということになってきます。 おそらくもしかすると、親子間の対人関係は子供の性格形成に無視できない影響を与えるかもしれません。 しかしそれも、親が誰に対してもどの子に対しても同じように振る舞う結果として生じてくる全般的な家庭環境の方ではなく、その子に対してだけ独特の対応をしてしまう結果としてその子にとってだけ個別の体験となるような「一見すると偶発的な体験」の方がより大きな意味を持ってくるということなのでしょうか?

そんな、バカな・・・。 そもそも、その子の性格形成にそんなにも大きな影響を与えるとされる「個別の環境要因E」とはいったい何のことなのか?

というか、「遺伝子的要因A」と「家庭環境要因C」も、いったい何を意味しているのか?

遺伝子的要因A」は、そのまんまです。 特定の性格や行動パターンを引き起こしているのが遺伝子的な要因にある寄与率です。 ところが、遺伝子というのは何もないところに働きません。 遺伝子と環境はかならず相互的なやり取りをしているのです。 特定の遺伝子が発現するには、特定の環境による刺激が必要です。 例えば、私たち人間は誰でも生得的に、遺伝子的に「言葉をあやつる能力」を持って生まれてきます。 しかし、この能力が発現するためには小児期に言葉をあやつる他の人たちとの関わりが不可欠です。 小児期に言葉をあやつる他人との関わりが全くない環境におかれてしまったら、いくら生まれ持った脳が遺伝子的に完璧でも、言葉をあやつれるようにはならないのです。 この意味で「環境的要因」は「遺伝子的要因」の発現に不可欠です。 ですが、逆にいくら環境的要因がちゃんとしていても、遺伝子的に「言葉をあやつれる能力」がなければ言葉をあやつれるようにはなりません。 犬や猫に、いくら愛情を持って人間の言葉で話しかけ続けても、犬や猫が「言葉をあやつる能力」を得ることがないことは、おそらく誰でも知っているでしょう。 その意味において、「言葉をあやつる能力」は「遺伝的要因」によっているのであり、(遺伝的要因による影響を除外したもとでの)「生育環境要因」による寄与率はほぼ0である、と言えるのです。

生育家庭環境要因C」とは、ですので、遺伝子的な要因が影響していない、その特定の雰囲気を持つ家庭で育ったどの子も同じように体験するであろう、純粋に環境要因だけによって決定されるものをさします。 わかりやすくイメージするには、養子研究で、遺伝子的には全然違った子供が、ただ生育家庭環境が同じだというだけの理由で似たような性質、行動パターン、性格を身につけることになる、そういう要因です。 例えば、日本人の家庭にもらわれてきた養子が、どんな子であっても、たとえ生まれた国や人種が違っても、日本語という特定の言語をしゃべるようになる、ということです。 ただ、ここに少しでも遺伝子的な影響がからんできてしまうと、計算処理の仕方によって、その部分は「遺伝子的要因A」や「個別の環境要因E」に割り振られてしまうことになります。 

例えば、よく知られたところではアルコール乱用/薬物乱用の問題があります。 アルコール乱用/薬物乱用には、「なりやすい遺伝子を持っている人」と「なりにくい遺伝子を持っている人」がいます。 このうち、「なりにくい遺伝子を持っている人」は生育家庭環境がかなり劣悪で不幸な子供時代を過ごしても大丈夫なのです。 しかし、なりやすい遺伝子を持っている人」は生育家庭環境が劣悪で不幸な子供時代を過ごしてしまうと、その後大人になってからアルコール乱用/薬物乱用になる確率がぐっと上がるのです。

反社会傾向/犯罪傾向も同様です。

これらの問題は、ある意味では、確かに生育家庭環境が影響していると言えるのですが、「ただし、遺伝子的な影響の下で」という条件つきになるのです。 こうした条件付きの生育家庭環境の影響は、純粋な「生育家庭環境要因C」には通常は分類されないのです。

では、残されたなぞの「個別の環境要因E」とは何か?

この種の研究をするときに「遺伝子的要因A」でも「生育家庭環境要因C」でも説明のつかない、「なんだかわからない、その他の残りの要因(測定のエラー、ばらつきを含む)」が「個別の環境要因E」に入ってきます。

「遺伝的要因A」でもなく「生育家庭環境要因C」でもない、その人が生まれ育っていく中で性格や行動パターンを形成していく要因って、具体的にはいったい何がありうるのでしょう?

その子にだけ、一見すると偶発的に降りかかってくる出来事です。 例えば、何らかの外傷、病気、事故などがあるでしょう。 あるいは「事故」とは言えないような、ほんのちょっとした体験もあるでしょう。 親の対応も、なぜだか他の子たちとは違って、その子に対して特異的な反応をしてしまう何かがあるかもしれません。 特に、同じ家庭に育っても、ほかの兄弟姉妹に対してはしないのに、なぜだかその子に対してだけ特定のネガティブな関わりをしてしまうこと、あるいは親としては平等に関わっているつもりでも、それを受け取る子供の方が(独特の感受性から)自分だけ特定のネガティブな関わり方をされていると感じること、があります。 さらに、子供が大きくなって、友人関係、学校での先生たちとの関わり、その他の家庭環境以外での対人関係が増えてくると、当たり前のように「個別の環境要因」が増えていくわけです。

いずれにしろ、双子研究や養子研究の結果から示唆されるのは、人の性格形成に大きな影響を与えるのは、環境要因の中でも、「(遺伝子的な影響を除外した)生育家庭環境要因」ではなく、「個別の環境要因」だということです。 「あの家族は、あんな雰囲気があって、あんな子育てをしてたから」という、家族全体を支配している全般的な家庭環境ではなく、「この子にだけわかる独特の体験として、この子とお母さんの間に、この子とお父さんの間に、この子と兄弟姉妹の間に、これこれこのような特定の体験があって、それをこの子はこれこれこのように独特に感じ取り、独特に反応し、それによって家族との関係性がまた独特に変化してきたから」という、非常に個別性の高い、特異性の高い、その子独自の生育歴によって性格が形成されていく・・・と表現する方がより事実に近いのでしょう。


参考書:
(1) Torgersen S. Behavioral genetics of personality. Current Psychiatry Reports 2005, 7:51–56

(2) Kendler KS, et al. Dimensional representations of DSM-IV cluster A personality disorders in a population-based sample of Norwegian twins : a multivariate study. Psychol Med. 2006; 36: 1583-1591.

(3) Torgersen S, et al. Dimensional representations of DSM-IV cluster B personality disorders in a population-based sample of Norwegian twins : a multivariate study. Psychol Med. 2008; 38: 1617-1625.

(4) Reichborn-Kjennerud T, et al. Genetic and environmental influences on dimensional representations of DSM-IV cluster C personality disorders : a population-based multivariate twin study. Psychol Med. 2007; 37: 645-653.

(5) Pike A & Plomin R. Importance of nonshared environmental factors for childhood and adolescent psychopathology. J Am Acad Child Adolesc Psychiatry, 1996; 35: 560-570.

(6) Plomin B. Why are children in the same family so different from one another? Behavioral and Brain Sciences (1987) 10, 1-60.


心の病気=精神疾患の中で、その発病に「環境要因」が関わっていることが広く知られているものがあります。 うつ病 depressionと心的外傷後ストレス障害 PTSDです。

うつ病 depression」は生活上のストレスがあって引き起こされることが多いですし、「心的外傷後ストレス障害 PTSD」は定義上死ぬほどの恐怖体験(心的外傷)によって引き起こされることになっています。 しかし、同時にその人の持つ性格的な脆弱性や、遺伝子的な「なりやすさ」も大きく関わっていることも知られていました。

2002年に、双子研究で有名なKendler先生たちは、膨大な数の女性の双子(一卵性双生児MZと二卵性双生児DZ)をあつめてデータを取り、双子研究の手法を使って、女性に多い「うつ病」がどのように引き起こされるのかを計算してみました。

すると、その結果としてわかったのは、生得的・遺伝子的に「うつ病」になりやすい人というのは、(1)うつ病を引き起こすような生活上のストレスに出会った時に心が折れやすく「うつ病」という反応を起こしやすいことと、(2)そもそもそのような生活上のストレスに出会いやすい行動パターンを持っているということ、があったのです。

同じ2002年、Stein先生たちは、やはり同じように膨大なデータをもとに双子研究の手法を使って「心的外傷後ストレス障害 PTSD」がどのように引き起こされるのかを計算してみました。 結果は、Kendler先生たちがうつ病について示したのと同じようなものでした。 つまり、生得的・遺伝子的に心的外傷後ストレス障害 PTSDになりやすい人というのはいて、そうした人は、(1)心的外傷後ストレス障害 PTSDを引き起こすような心的外傷体験に出会ったときに心が折れやすく「心的外傷後ストレス障害 PTSD」という反応を起こしやすいことと、(2)そもそもそのような心的外傷体験に出会いやすい行動パターンを持っていること、があったのです。

環境要因と遺伝子的要因が切っても切れない関係にあるのはこういうことです。

つまり、(1)特定の心の問題を引き起こすような不幸な出来事=環境要因に出会ったときに特定の遺伝子を持つ人は遺伝子的に病的な反応を起こしやすいといった意味での脆弱性があることと、(2)もともと持っている特定の遺伝子の関係で特定の不幸=環境要因に出会う確率がぐっと上がってしまうこと、の2つの「切っても切れない関係」があるのです。 (より専門的/オタク的には、前者をgene×environment interaction=G×Eといい、後者をgene-environment corelationあるいはgenetic mediation=rGEと呼ぶことが多いです。)

遺伝子が環境に働きかけ、環境が遺伝子を発現させるので、ここにはどうやっても切っても切れない関係があるわけです。

おそらくこのために「人の性格/パーソナリティを決定する大部分の要因は遺伝子的要因Aにあり、残りの大部分は個別の環境要因Eにあり、生育家庭環境要因Cはほとんど関係しない」ということ、「遺伝子的な要因のないところに生育家庭環境要因だけによる結果は現れない」ということになるのです。

まず、より理解しやすい(1)のパターンを見てみます。

つまり、同じような不幸な環境のもとで育っても、遺伝子的に大丈夫な人はパーソナリティ障害にはならないところが、遺伝子的に脆弱性のある人はなってしまうというものです。 不幸な環境という特定の環境要因が、特定の遺伝子による「不幸な性格」という特徴を発現させる、とも言えます。

例えば、良く知られたところでは(少なくとも一部の人種においては)脳内のセロトニン系を調節する遺伝子5-THTTLPRの型の違いがあります。 遺伝子的に、L型を持っている人も、S型を持っている人もいるのです。 これまでに幾つもの研究の結果から、L型を持っている人は全般的に心理的なストレスに強く、S型を持っている人は脆弱であることが知られていました。

ドイツのReif先生たちは、犯罪者を対象に調査を行い、小児期の生育家庭環境が幸福であったか、不幸であったかによって、将来大人になった時に暴力傾向を生じるかどうかを見てみました。 対象者は、暴力的か非暴力的かは別にしてすべて犯罪者です。 そうした特殊性はあるものの、L型の遺伝子を持つ人は、小児期の生育家庭環境が幸福であっても不幸であっても、あまり暴力的な大人にはなりませんでした。 しかし、S型の遺伝子を持つ人は、小児期の生育環境が不幸なものであると暴力的な大人になる顕著な傾向が示されたのです。

同じような話ですが、英国のSugden先生たちは大勢の小学生を対象にして、小学校に上がった時、卒業した時、それぞれにデータをとり、小学校時代に「いじめ」を受けたかどうかによって、精神的な問題を生じるかどうかを見てみました。 その結果、S型の遺伝子を持つ子は「頻繁ないじめ」という不幸な体験の影響を受けると精神的な問題を生じてしまう傾向があるのに対して、L型の遺伝子を持つ子は「頻繁ないじめ」を受けても(その時はつらいでしょうが)その後に精神的な問題を生じてしまうことはない傾向が示されたのです。(そもそも「いじめ」などという不幸な体験をしなければ、S型を持っていても、L型を持っていても大丈夫なのです。 また「いじめ」を受けることはあっても一時的なものであれば、「精神的な問題」というほどの症状は引き起こさない傾向も示されました。)

これがG×Eです。

これに対して、(2)のパターン、つまりrGEは、少し複雑な事情です。

以前からパーソナリティ障害の1つとして有名な「境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」の人は、小児期に虐待やネグレクトなどの不幸な生育家庭環境で育っていることが少なくないことが知られていました。 実際、「境界性パーソナリティ障害」と呼ばれる慢性的に不安定で不幸な生き方の原因は小児期の外傷体験のせいではないか? と大真面目に考えられていた時代がありました。(こうした考え方は、症状的にはほぼ同じと見なせる状態の人たちのことを、「小児期の外傷体験が原因で生じた心的外傷後ストレス障害PTSDが、その子の性格まで歪ませてしまったものだ」という考え方から「複雑性PTSD」と呼んでみたり、「アルコール依存症やその他の機能不全家族 dysfunctional familyに育てられたことが原因の、大人になったアルコール症者の子供 adult child of alcoholics=ACOA、あるいは大人になった機能不全家族の子供 adult child of dysfunctional family、両方ともを略してAC=adult child」と呼んでみたりすることにつながったのでした。)

では、本当にそうなのか? 小児期の虐待が「原因」で境界性パーソナリティ障害と呼ばれる不幸な性格が出来上がってしまうのか? というので、幾つもの研究が行われました。 しかし、その結果はほとんどすべて否定的でした。 小児期の虐待やネグレクトなど不幸な体験は精神障害全般の危険因子 risk factorとなるのですが、これは境界性パーソナリティ障害に限ったことではなく、何の特異性もなかったのです。
(注:ここで「危険因子 risk factor」とは純粋に数学的、統計学的な用語であって、ここには何の因果関係も意味しません。 つまり、特定の事象があるという条件のもとで、別の特定の事象がある確率が上がるものを「危険因子」というのです。 特定の事象のせいで、それが原因で、別の特定の事象が起こっている、というものでは全くないのです。)

さらに、たとえば米国のBornovalova先生たちは、双子研究の手法を使って、小児期の不幸が後の境界性パーソナリティ障害の「原因」となるのかどうかを直接的に調べてみました。 その結果は、ものの見事に単純な「原因説」を否定しており、むしろ一見すると因果関係のように見えるようなものは実は「特定の不幸な遺伝子を持っていることで、特定の不幸な環境要因を体験することになる確率がぐっと上がってしまう現象(=rGE)」によって大部分が説明されるものであることを示唆していたのです。

もう少し具体的にいうと、たとえばこれはどういうことなのか?

将来的に境界性パーソナリティ障害になってしまう人が小児期に体験しうる「特定の不幸な遺伝子を持っていることで、特定の不幸な環境要因を体験することになる確率がぐっと上がってしまう現象(=rGE)」にはどんなものがあるか?

たとえば、親子で共通する「情緒不安定な遺伝子」を持っていることです。 この子がこの遺伝子を持っているということは、基本的には親も同じ遺伝子を持っているということです。 すると、親もこの遺伝子のために、対人関係が不安定で、情緒不安定で、衝動的なところがありますから、この子に対しても、ついつい不安定で衝動的に、時には虐待的に関わってしまうことになります。 つまり、このことを外から見ると「この子がこの遺伝子を持っていることで、ということは親も同じ遺伝子を持っているために、親による情緒不安定で衝動的で虐待的な養育という、特定の不幸な環境要因を体験する確率がぐっと上がってしまった」ということになるのです。

もう一つ、たとえば、この子が遺伝子的にもともと気難しく育てにくい子だった場合です。 「育てやすい子」に比較して「育てにくい子」は、親側もついつい適切な子育て行動がとれなくなり、ついついイライラして子供にあたってしまったり、優しくできなくなりがちです。 その結果として、子供はますます気難しく、ますます育てにくい子になっていきます。 すると親もますます・・・というように悪循環です。 結果として、「この子がこの遺伝子を持っていることで、親による適切な養育行動を受けにくくなり、逆に不適切で場合によっては虐待的な養育行動を引き出しやすくなり、悪循環的に発展し、特定の不幸な環境要因を体験する確率がぐっと上がってしまった」ということになりかねないのです。(こういうのを、child-to-parent interactionといいます。)

こういうのがrGEです。 遺伝子的な影響で、一見すると偶発的に降りかかってくる出来事が、実は偶然よりも高い確率で降りかかってくることになるのです。

いずれにしろ、遺伝子的要因と生育家庭環境要因とは相互に関係し合い、影響し合うために、「切っても切れない関係」であり、「生まれか?育ちか?」というような単純な二分法では語れないのです。

ここまでの議論から、「性格の問題」「パーソナリティ障害」がどのようにつくられるのか?が大体わかってきたと思います。

○性格の問題の大部分、おそらく約半分を決定するのは遺伝子的な要因である。

○「育ち」の要因である生育家庭環境要因は、遺伝子的要因があってこそ意味を持ってくる。

○「性格」「パーソナリティ」といったものは、「あなたはお母さんにどのような育て方をされたの?」という言葉で表現されるような全般的な環境要因の影響をあまり受けない。 それよりもむしろ、きわめてプライベートな、「あなたがいて、お母さんがいて、2人の間に何が起きたの? それによって2人の関係性はどのように特異的に変化してきたの?」というような個別性/特異性の高いものによって決定されてくる。


参考書:
(1) Bornovalova MA, et al. Tests of a direct effect of childhood abuse on adult borderline personality disorder traits: a longitudinal discordant twin design. J Abnorm Psychol. 2013 February ; 122(1): 180–194

(2) Carpenter RW, et al. Gene-environment studies and borderline personality disorder: a review. Curr Psychiatry Rep. 2013 January ; 15(1): 336.

(3) Reif A, et al. Nature and nurture predispose to violent behavior : serotonergic genes and adverse childhood environment. Neuropsychopharmacology (2007) 32, 2375–2383

(4) Sugden K, et al. The serotonin transporter gene moderates the development of emotional problems among children following bullying victimization. J Am Acad Child Adolesc Psychiatry. 2010 August ; 49(8): 830–840

(5) Amstadter AB, et al. Genetic associations with performance on a behavioral measure of distress intolerance. J Psychiatr Res. 2012 January ; 46(1): 87–94

(6) Stein MB, et al. Genetic and environmental influence on trauma exposure and posttraumatic stress disorder symptoms: a twin study. Am J Psychiatry, 2002; 159: 1675-1681.

(7) Kendler KS, et al. Toward a comprehensive developmental model for major depression in women. Am J Psychiatry, 2002; 159: 1133-1145.




パーソナリティ障害の分類

人の持つ、その人自身への、そして他人への向き合い方の基本的なパターン、つまり「性格、パーソナリティ character, personality」といったものゆえの生きづらさ、慢性的な不適応のことを、それを医学的な評価/治療の対象とする場合に、古い言葉で「性格障害 character disorder」あるいは今風の言い方で「パーソナリティ障害 personality disorder」と呼びます。

医学的な評価/治療の対象にする、ということは、何らかの仕方で「性格」を分類し、名前づけしていかなくては先に進めません。 ところが、性格は十人十色。 千人いたら千通り、万人いたら万通りあるでしょう。 ではどうするか?

性格の問題 characterological problemは、歴史的・伝統的に精神医学の中でも精神分析/精神分析的精神療法(=精神力動的精神療法)が好んで治療の対象にしてきたものでした。 (というよりも、奇妙な話に聞こえるかもしれませんが、もともと精神分析/精神力動的精神療法は、心理的な原因のある症状を治すための治療法ではなく、その症状の背景にある「性格」とも呼べる慢性的で広汎な不適応を治すための治療法だったのです。 精神分析/精神力動的精神療法は、「うつ」や「パニック」、「恐怖症」といった症状を治すのでもなく、「対人関係の問題」や「人生の悩み」を解決していくでもなく、ただそれらを引き起こしているその人本人の性格の問題を治すための方法だったのです。)

このため、精神分析/精神力動的精神療法の世界では古くから、その人の持つ特徴的な心の動き方、特徴的な葛藤の生じ方、特徴的な対応手段(あるいは不安からの逃げ方)などから、「性格の問題」を分類することをしてきたのです。

精神分析/精神力動的精神療法の世界でも、米国のKernbergらがまとめた分類が比較的わかりやすいですし、広く受け入れられ、その後米国精神医学会による精神疾患分類 DSMにも部分的に取り入れられたこともあって、よく知られています。

精神分析/精神力動的精神療法の世界では、「現実検討 reality testing」の有無によって、患者の病態水準を「神経症水準 nerutotic level」と「精神病水準 psychotic level」にわけることをしていました。 「現実検討 reality testing」とは、観念を「自分の中で想像したもの」であるか「外的な現実」であるかを見分ける能力を言います。 「現実検討が障害されている状態」とは、つまり「自分の中で想像したもの」と「外的な現実」との区別がつかなくなっているということであり、例えば「自分は嫌われているんじゃないかと思った」ということと「自分は嫌われている」ということの区別がつかなく被害妄想的になることなどで、これがひどくなるともっとはっきりした妄想 delusionや幻覚 hallucinationにまでおよぶことになり、つまりは「精神病状態 psychosis」にあることを意味するわけです。 これに対して「現実検討が保たれている状態」とは、こうした混乱は生じておらず、現実との適切な接触が保たれていて、つまりはその人の悩みは「神経症水準」にあるのだということを意味します。

ところが、精神分析/精神分析的精神療法という治療法は、もともと1回1時間弱(通常は45分〜50分)、毎週4回〜1回という治療者/患者の濃密な関係の中で、患者の心の奥深くを探っていくやり方でしたから、それ以外の方法ではなかなか露呈しない、その人の脆弱性が比較的簡単に露呈してくる傾向がありました。 そうしたなかで、表面上は明らかな思考の混乱や幻覚や妄想などの「精神病状態」の症状を呈していなくても、深いレベルでは「現実検討」が部分的に障害されてしまう傾向がある人たちが少なからずいることがわかってきました。 こうした人たちは、「現実検討」の部分的な障害の表れ方として「自分はこんな人間だ」「この人はこんな人間だ」という概念が混乱しやすく、非現実的に歪曲され不安定になりやすい傾向(=アイデンティティ拡散 identity diffusion)がありました。 そうした慢性的な傾向がある人たちのことを、「神経症水準」と「精神病水準」の狭間/境界線上にあるという意味で「境界状態 borderline state」、「境界症候群 borderline syndrome」、あるいは「境界水準 borderline level」と呼ぶようになりました。

このうち「精神病水準」の問題は、統合失調症など「狭い意味の病気」に入ってくるために、「性格の問題」には含めません。

こうして、「性格の問題」は「現実検討の部分的な障害」=「アイデンティティ拡散 identity diffusion」の有無によって、大雑把に「神経症水準の性格の問題=高水準性格病理 higher level personality pathology」と「境界水準のパーソナリティ構造=borderline personality organization」とに分類されることになりました。

あとは、特徴的な葛藤の生じ方、その葛藤に対する非適応的な対処法(不安からの特徴的な回避方法)によって、より細かい分類/名付けがされていくわけです。 神経症水準の性格の問題には、強迫性格/強迫パーソナリティ障害、ヒステリー性格、抑うつ性格/抑うつ性パーソナリティ障害(=気分変調症)、などが入ってきます。 境界水準の性格の問題には、いわゆる境界性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、演技性パーソナリティ障害(口愛ヒステリー性格)、妄想性パーソナリティ障害、スキゾイドなどが入ります。 
(ここで、「○○パーソナリティ障害」と表現しているのは、その性格がゆえにあまりにも生きづらくなっている場合。 確かに性格上の問題があり二次的な問題をいろいろ引き起こしてしまっているけれども、そこまでではないものは「○○性格」という表現にしています。)

精神分析/精神力動的精神療法の理論をもとにした、こうした性格分類は、年単位の長期間をかけるこの治療を行っていく上で、人の性格病理を理解し描写する上で、大変に有用でした。 しかし、なにしろ複雑で難解な精神分析理論をしっかり理解していないと使えませんし、そのためには実際に精神分析/精神力動的精神療法という治療法を実践し身につけていないと理解することもできないようなものでした。 これでは、精神分析学/精神力動的精神医学を好まない精神科医/心理学者には通じません。 「誰でもわかる、誰でも使える、共通の言葉」にはならなかったのです。

そこで、一定の教育訓練を受けた精神科医/心理学者であれば、背景理論によらず、「誰でもわかる、誰でも使える、共通の言葉」をつくろうという動きから出てきた米国精神医学会の診断分類=DSMでは、もっと表面的な特徴を羅列して「こんな感じの人を、こんな名前で呼ぼう」というアプローチにしたのです。

「性格の問題」「パーソナリティ障害」については、「こんな感じの人」のプロトタイプをいくつか用意して、それに似た特徴のある人たちのことを「○○パーソナリティ障害」と呼ぶことにしよう、と。

これは、例えば顔の特徴を「輪郭がこんな感じで、眉毛がこんなふうで、目がこんなふうで、鼻がこうで、口がこうで・・・」と細かく言われても全然ピンと来ないのに対して、「芸能人でいったら、○○に似ている」と表現した方がわかりやすい、というのに似ています。 いくつかのプロトタイプを用意して「似ている感じ」で選んでもらうのです。 これだったら、精神分析学/精神力動的精神医学の難しい理論など知らなくても「誰でもわかる、誰でも使える、共通の言葉」になります。

いかにも表層的な分類方法ですが、しかしどんな理論背景を持つ専門家も使える「共通の言葉」になった意義は大きかったのです。 このため米国精神医学会 DSMによる性格分類は、その後国際疾患分類 ICDにも似たような形で取り入れられ、多くの専門家がこの言葉を使って「性格の問題」「パーソナリティ障害」を扱うようになっていったのでした。




参考書:
(1) Gabbard GO. Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice (2014), American Psychiatric Press.

(2) Kernberg OF. Severe Personality Disorders: Psychotherapeutic Strategies (1993), Yale University Press.

(3) APA(高橋三郎ら訳) DSM-IV-TR 精神疾患の分類と診断の手引 (2002), 医学書院




消えた病名「ヒステリー性格」

ヒステリー hysteriaという言葉ほど理解されにくい言葉は、精神科/臨床心理学の領域の中で他になかなか見つかりません。 長い長い歴史の中で、あまりに複雑な意味を持ってしまってきたからでしょう。 そのためか、現在の公式の疾患分類には「ヒステリー hysteria」という言葉も、「ヒステリー性格 hysterical personality」という言葉もなくなりました。 しかし、この疾患概念は、今も非公式にしっかり生きているのです。

「神経内科学的に説明のつかない、機能性の、神経内科学的な症状を示す疾患群」のことを、古典的に「ヒステリー hysteria」と呼んでいました。

患者は「声が出なくなった」、「めまい、ふらつき」、「立てなくなった、歩けなくなった」、「喉に何かつまっているような違和感がある」、「疲れやすくて、全身が鉛のように重い」、「身体中の筋肉やスジが痛い」といった身体的な症状や、ひどいものになると「けいれん」や「記憶喪失」さらに「人格が入れ替わってしまう」などの症状まであったりします。
(こうした症状のうちいくつかは、現在では「慢性疲労症候群」、「新型うつ病」、「線維筋痛症」、「多重化学物質過敏症」、「顎関節症」、「メニエル症候群」・・・などなど、一見するとちゃんとした確立された原因があるかのような「病名」をつけられていることがあります。)

しかし、どれだけ精密検査をしても、そうした症状を引き起こすような神経内科学的な異常が見つからないのです。 結局、(本人もそれとは気づいていない)心理的なストレスによるものでしょう・・・としか言えない。

本人にとって意識されないような心理的なストレスなんてあるのか?

そうしたものが実際にあるということ、「無意識」の存在が広く知られ始めたのが、シャルコーやフロイトが活躍した19世紀後半でした。

その後「精神分析 psychoanalysis」の創始として知られるようになるフロイト Freud Sは、精神科医でも心理学者でもなく、神経内科医でした。 当時は、「ヒステリー」と総称される、神経内科学的な異常のない、心因性の、神経症状を示す患者が、特にフロイトが相手にしていたお金持ちの奥様/お嬢様にとても多かったのです。

フロイトは「ヒステリー」という神経症状を示す患者たちの「本人にとって意識されないような心理的なストレス」を探っていくために、最初は「催眠術 hypnosis」を、後により効果が高く副作用の少ない「精神分析 psychoanalysis」という方法を使って、症状の背景にある心の問題を見ていきました。 すると、驚いたことに、困ったことに、「ヒステリー」という症状を示す患者のほとんどが、その背景にある「無意識的な心理的ストレス」として、何らかの性的な葛藤を抱えていることに突き当たったのです。

このため、フロイトがまとめあげていった初期の「精神分析」の理論は、やたらと「性的な葛藤」が全人類共通の悩みの根源であるかのような印象を与えるに至りました。 「精神分析は、なんでもかんでもセックスの話にしてしまう」と揶揄されるようになったのです。

しかし、この批判はちょっと間違っています。 「精神分析は、なんでもかんでもセックスの話にしてしまう」のではなく、「ヒステリー性格の人は、なんでもかんでもセックスの話につなげてしまう」というのが、より正しいのです。 

というくらい、「ヒステリー」という症状をストレス反応的に起こしやすいことで知られている「ヒステリー性格」の人は、何らかの性的な葛藤を抱えている・・と精神分析/精神力動的精神医学の分野では考えられてきました。

でも、それは本当なのか? ただの偏見や臨床家たちの都市伝説に過ぎないのではないか?

その前に、そもそも「ヒステリー性格」とはなにか? そして彼ら/彼女らの抱えている「何らかの性的な葛藤」とはより具体的にはどういうことなのか? 

ヒステリー性格」の人たちが比較的特徴的に抱えている葛藤として「エディプス葛藤 oedipal conflict」というものがあります。 すごく単純化して言うと、エディプス葛藤にとらわれている人のことをヒステリー性格と呼ぶのです。

このエディプス葛藤という言葉は、もともと「自分の父親を殺して母親とセックスした勇者エディプス」というギリシアの物語から来ています。(自分の父親を殺して母親とセックスをする男のどこが勇者なんじゃ!?と思われる人もいるかと思いますが、それは結果的にそうなってしまっただけの話で、勇者エディプスはそれなりにいろいろ勇者的なこともしているのです。)

つまり、フロイトの初期の理論ではこうです。 男の子は幼い頃に母親からの愛情をめぐって父親と張り合い、しかし明らかに強大な力を持った父親に力で勝つことができず、それどころか、そのような不埒な気持ちを持ってしまったことへの罰として性的能力を剥奪されてしまう(「去勢されてしまう」と表現します)という不安(=去勢不安 castration anxiety)を抱えることになります。 結果として、この不安をうまいこと克服できない男の子は、父親への潜在的な敵対心、怒り、怯えを抱えたまま、しかし表立って自分の(適切な)男性的な攻撃性を示すことができず、2通りの歪んだ対処法を身につけていくことになります。 1つは、表立った敵対行動をせず、言われたことを「うっかり」やらないなどの、卑屈で受動的な抵抗をし続けるやり方です(=「受動攻撃性 passive aggression)」。 もう1つは、「男性として弱い」ことに対する「反動形成 reaction formation」として、過剰に男らしく振る舞い、不必要なくらいに周囲を威圧・圧倒しようとするやり方です。

女の子の場合も同様です。 女の子も幼い頃に父親からの愛情をめぐって同性である母親と張り合い、しかし明らかに優勢にある母親に勝つことはできず、それどころか不埒な気持ちを持ってしまったことへの罰として性的能力を剥奪されてしまう不安(女の子の場合に「去勢不安」という言葉を使うのは変ですが、要するに性的に張り合う資格さえ剥奪されるということ、完膚なきまで叩きのめされ、無条件降伏&武装解除を迫られるということです)を抱えることになります。 この不安をうまいこと克服できない女の子は、結果として、女性として適切な自己主張をして母親を含めて世間と張り合っていくことが難しくなり、やはり2通りの歪んだ対処法を身につけていくことになります。 1つは、表向きは敵対行動をせず、ソトヅラよく平和的に振る舞いながら、卑屈な受動攻撃性を示すというやり方。 もう一つは、「女性として弱い」ことに対する「反動形成」として、過剰に女性性を見せつけ、「女の武器」を使いまくり、不必要なくらいに周囲を威圧・圧倒しようとするやり方です。
(※本当の初期の精神分析の理論では、女の子におけるヒステリー性格の発展は「ペニス羨望」などの、さらに詭弁のような理屈がからんでくるのですが、これはいかにも怪しい屁理屈っぽい感じであり、余計に混乱するので、ここでは省きます。)

こうして「ヒステリー性格」、つまり「エディプス葛藤」が未解決のまま大きくなってしまった子は、男の子でも女の子でも、一見すると正反対の2通りの表れ方をするわけです。 一方は「自己顕示型、威圧型」とも呼べるような男性性/女性性を不自然なくらいに強調しすぎた人であり、他方は「逃避型、受動攻撃型」とでも呼べるような男性として/女性としての適切な攻撃性を過剰に抑えこみソトヅラよく「一見するとおとなしい、いい人」を演じている人です。

理屈上、「ヒステリー性格」の男女は、本当の意味で(エディプス葛藤をしっかり克服していないという意味で)成熟した大人の男性/女性になれていない人たちですから、どうしても「性的な葛藤」を生じやすく、どうしても恋愛関係/結婚関係がうまくいかない傾向があると考えられています。

でも、本当なのか? 昔の精神分析家たちの戯言/空想の産物ではないのか? そもそも「エディプス葛藤」などという怪しげな葛藤が本当に存在するのか? 「去勢不安」なんて、名前からして怪しすぎるではないか?

原因が早期の親子関係にあるかどうかは、わかりません。 しかし、男性にとっては父親的な、女性にとっては母親的な、自分よりも社会的地位が上の同性の人に対して過剰なまでの不安を抱きやすい人は確かにいます。 彼ら/彼女らは、自分を男性として/女性として、その目上の同性の人に認めてもらうことを切望し、認めてもらえずけなされてしまうことを極度に恐れ、敵視されて完全敗北に追いやられ、仲間や恋人を奪われ、追放され、「(象徴的な意味で)去勢」されることを恐れるのです。

なぜ、そんなことになるのか? しかし、こうした葛藤や不安は人間界だけのことではありません。 むしろ、群れ(社会)をつくる動物たちにとって、当たり前すぎるほど当たり前のことではあるのです。

群れ(社会)をつくる動物たちにとって、男なら男同士、女なら女同士、同性同士の中で競争し、張り合い、生存と繁栄に有利な上位の「社会的地位」を得ていくことはとても大切なことです。 「社会的地位」が上位にあるほど、食べ物はより豊かに得られますし、より良い異性と交尾することができ、結果としてその個体の持つ遺伝子の生存/繁栄に都合よくなっていくのです。 (逆に言うと、多くの動物たちの世界では、社会的地位が低いと残せる子孫も少なく、生き残っていくのも少なく、結果としてその遺伝子は淘汰されていく傾向が強まるのです。)

このために、多くの群れ(社会)をつくる動物たちは(角や牙などの)「武器や装飾品」を誇示することによって同性のライバルを威圧してみたり、異性の関心をひこうとします。 さらに、時には男性でも女性でも、お互いの優劣をめぐって熾烈な争いを繰り広げ、場合によっては(単純に優劣をつけるだけにとどまらず)相手を群れから追放したり、殺してしまったりすることさえあるのです。

さらに、「社会的地位」が上の動物には、「社会的地位」が低い同性の仲間に対して、ある種の生理的な「去勢」をするメカニズムさえもあります。 つまり男性でも女性でも「二次性徴」がしっかりと発達した、社会的地位も高い「強い大人」がひとにらみするだけで、まだ若い、社会的地位の低い同性のものに対して、その性的な能力を生理的に抑制することができるのです。

(一見するとヒドイ話のように聞こえるかもしれませんが、群れをつくって生活する動物たちにとって、同性同士の競争は、よりよい遺伝子を増やしていくために、群れ全体が生き残り繁栄していくために必要なことです。 さらに、群れ社会を社会的地位によって階層化することも、社会的地位が高いものが低いものを生理的に「去勢」することも、同性同士の競争が不必要に激化しないために必要な工夫なのです。 少なくとも社会をつくる動物たちの世界においては、平和を維持するために、ある種の不平等は必要なのです。)

私たち人間も「群れをつくる動物」ですから、他の動物たちと同様なメカニズムがあっても全く不思議ではありません。

そう考えると、「ヒステリー性格」の人たちが抱いているとされる「エディプス葛藤」も「去勢不安」も、(それが早期小児期の両親との関係に根ざしているかどうかは別にして)その存在自体は不思議でもなんでもないかもしれません。


参考書:
(1) Caligor E, Kernberg O, Clarkin J. Handbook of Dynamic Psychotherapy for Higher Level Personality Pathology. (2007) American Psychiatric Publishing

(2) Stone J, et al. The 'disappearance' of hysteria: historical mystery or illusion? J R Soc Med 2008 101: 12-18.

(3) CluttonBrock TH & Huchard E. Social competition and selection in males and females. Phil. Trans. R. Soc. B 2013 368, 20130074.


大雑把に言うと、古い精神分析の用語でいうところの「エディプス葛藤 oedipal conflict」が未解決で、「去勢不安 castration anxiety」を抱えたまま大人になった男女を「(広義の)ヒステリー性格」といいました。

彼ら/彼女らは、社会の中で普通にしていかなくてはならない「男同士」「女同士」の仲間内での適切な競争や戦いを必要以上に恐れ、その敗北恐怖症/失敗恐怖症がゆえに、そこから逃避してしまうか、あるいは過剰に周囲を威圧する過剰防衛をとることで、いずれにしろ「適切な」競争や戦いを避けることをしがちです。

さらに、こうした社会の中での適切な競争/戦いの結果として得られる「大人」としてのポジション、その中での現実的な異性関係を持つことを避けてしまい、非現実的に美化された恋愛関係に現実逃避してしまいがちです。(つまり、この人たちにとっては、恋愛が現実逃避の手段になってしまうことが少なからずあるのです。)

性格の病理水準が「神経症水準」である場合(つまり、アイデンティティ拡散がなく、対人関係における現実検討がほとんどゆるまない場合)、表面的にはおとなしく、平和主義者であり、「そとづらの良い、一見すると人のいい男性」であったり、「良妻賢母型の控えめな女性」であったりする「(狭義の)ヒステリー性格 hysterical personality」になります。 
(もっとも、神経症水準の(狭義の)ヒステリー性格の場合でも、人前では「そとづら」が良く、控えめ/おとなしめに振る舞っていても、家に帰ると急に内弁慶になり、横暴な「王子様」「お姫様」のように振る舞うようになってしまうことも少なくありません。)

それに対して、性格の病理水準が「境界水準」である場合(つまり、アイデンティティ拡散があり、対人関係において、特に感情的になると現実検討が部分的にゆるみ、自分に対しても他人に対しても幾分非現実的なものの見方をしがちになってしまう場合)、行動パターンは目立って派手であり、男性でも女性でも性的アピールが強過ぎ、いつも自分が「男性として/女性として」注目されていないと気が済まない、一見するとすごくわがままな感じの「演技性パーソナリティ障害 histrionic personality disorder(口愛ヒステリー性格 oral hysterical character)」になります。

彼ら/彼女らは、古い精神分析の理論上、性的な葛藤(これは「エロチックな」「性欲に関連した」という意味よりもむしろより社会的な「性役割に関連した」という意味での)があることになっています。

さらに、彼ら/彼女らは現実逃避の手段として、(不倫関係などの)生活感のない、美化された恋愛関係に逃げてしまう傾向があろうとも言われています。

このために、彼ら/彼女らは典型的に恋愛も結婚もうまくいかない傾向があると考えられています。 (恋愛も結婚も、最初のうちだけ美化された関係が展開するのですが、すぐにダメになってしまうことを繰り返すのだろう、と見られています。)

・・・理屈ではそう言われているわけですが、本当にそうなのか? 本当に彼ら/彼女らには「性的な葛藤」/「性役割に関連した問題」があり、恋愛や結婚関係がうまくいかなくなる傾向があるものなのか?

・・・とはいえ、現在では「ヒステリー」も「ヒステリー性格」も公式の病名からはなくなってしまいましたし、問題行動の激しい「演技性パーソナリティ障害」は「パーソナリティ障害」と呼べるほどの問題性格ではあるのですが、「(狭義の)ヒステリー性格」はそこまでの性格の問題ではありませんから「パーソナリティ障害」に入っていません。 このため「ヒステリー性格」についての、科学的な研究は驚くほど少ないのですが・・・。

「(広義の)ヒステリー性格」の中でも、行動がより派手で病的であり、現在の国際疾患分類にも名前があがっている「演技性パーソナリティ障害 histrionic personality disorder」について、この性格の女性は、本当に恋愛関係/結婚生活が安定せず、性的な問題を抱えがちなのか? という問題を米国のHurlbert先生たちは50名もの「演技性パーソナリティ障害」の女性たちを対象にして実際に調査してみました。

すると、性格的に「演技性パーソナリティ障害」の女性たちは、性格的に「健常」な女性たちに比較して、確かに、性に関して葛藤的で、結婚生活が不幸でありがちなことが示されました。 「性に関して葛藤的」というのは、一方では性に対する嫌悪感/不安感があり、性的に積極的になれず、セックスをしてもつまらなく、不満足で、オルガスムにも達しにくく、性的な自尊心が低いところがありながら、他方ではいつも性的なことばかり考えてしまい、とらわれており、不倫関係に走りやすい・・・というのが具体的なところです。

これでは、どうみても、結婚生活に向いていないというか、結婚できたとしてもそれを維持するのは難しいだろうと予測できます。 実際、米国のDisney先生たちが「パーソナリティ障害傾向は、離婚のリスクに関係するだろうか?」というので1200人以上の一般人口を対象に調査したところ、数あるパーソナリティ障害傾向の中でも「演技性パーソナリティ障害」傾向は、特にその傾向が強ければ強いほど、離婚リスクが上がることが示されたのです。

では、「(狭義の)ヒステリー性格 hysterical personality」ではどうか? 現在の疾患分類ではパーソナリティ「障害」ではない、この性格特性については、ちゃんとした科学的知見がほとんど集まっていません。 ただおそらく、この性格の人たちにとっても、幸せに生きることは、実は難しいのではないかと思われるのです。


参考書:
(1) Apt C & Hurlbert DF. The sexual attitudes, behavior, and relationships of women with histrionic personality disorder. Journal of Sex & Marital Therapy, 20:2, 125-134.

(2) Disney K, et al. Personality disorder symptoms are differentially related to divorce frequency. J Fam Psychol. 2012 December ; 26(6): 959–965.




自己愛性パーソナリティの2つの側面

性格の問題として、米国精神医学会の疾患分類DSMに列挙されている「パーソナリティ障害」の1つに、「自己愛性パーソナリティ障害 narcissistic personality disorder」というものがあります。

他人に対する真の意味での共感性に乏しく、傲慢で、自己中心的/俺様/女王様的であり、いつも自分が特別扱いされていたり賞賛されていないと不愉快になり、自分は特別にそうされるに値する素晴らしい人間だと思っており、そんな自分の素敵さを自己顕示し他人を馬鹿にする、うまくいかないことはすべて他人のせい・・・。 DSMが描写する「自己愛性パーソナリティ障害」の人は、そんなとんでもなく偉そうな「俺様」「女王様」ということになっています。

とはいえ、そこまであからさまなナルシストは、なかなか現実世界にはいないものです。

しかし、もう少し潜在的なナルシストは、それほど少なからずいるものです。

米国のRuss先生たちが、実際に「自己愛性パーソナリティ障害」の人たちをたくさん診ている精神科医や臨床心理士を対象に調査を行い、いわゆる「自己愛性パーソナリティ障害」の人にはどのような性格的な特徴があるかを分析してみたところ、「自己愛性パーソナリティ障害」には、「誇大/悪性型 grandioce/malignant」、「過敏型 fragile」、そして「高機能/自己顕示型 high-functioning/exhibitionistic」という3タイプがあることが示唆されてきました。

このうち、「誇大/悪性型」と「高機能/自己顕示型」がDSMの描写する「自己愛性パーソナリティ障害」にほぼ一致するものです。 (もっとも「誇大/悪性型」はやや反社会性が目立ちます。)

それに対して「過敏型」はDSMの描写では見方によっては「回避性パーソナリティ障害」や「依存性パーソナリティ障害」に分類されるかもしれません。

もう少し具体的に描写すると、こんな感じです。

これら3つの類型のすべてに共通して、対人関係に傷つきやすく、(表面的には「俺様」「女王様」のように特別に振る舞っていても)深層では孤独と苦痛を感じており、他人から拒絶されること、誤解されること、ないがしろにされること、批判されることに、強烈に傷つき、怒りを生じやすいという特徴がありました。 そして、おそらくはこうした傷つきやすさに対する(あまり適切ではない)対処法として、他人と優劣を比較して競争しやすく、力を求める傾向があり、他人を非難する傾向があるようでした。

そのうえで、「誇大/悪性型 grandioce/malignant」の人は特に自分が特別にすごい人間であると誇大に思っており、他人の気持ちを全く考えようとせず、他人を利用/搾取することは当たり前であり、他人に対する怒り以外のネガティブな感情を感じることもなく、ほとんど一切の罪悪感も自己嫌悪感も苦痛も感じないタイプです。(この意味で、犯罪者や薬物乱用者に多い「反社会性(非社会性)パーソナリティ障害」とかなりだぶるところがあります。)

高機能/自己顕示型 high-functioning/exhibitionistic」の人も、(根底にある自信のなさ/愛されなさの反動として、特別な価値のある特別にすごい人間であろうとし、その結果として)自分が特別にすごい人間だと思っているところはありますが、実際に客観的な能力も高く、しっかりと自己主張をすることができ、精力的で社交的です。 やや過剰に成功や力を追い求めるところはありますが、それはそれで社会的に成功することへの原動力になっているタイプです。 (こういう感じの人は、中小企業の社長や医師、エリート会社員に少なくないかもしれません。) このタイプの人たちは、他人を利用する/搾取するとまではいきませんが、しょせん他人は他人であり、自分のすごさを賞賛する観客にしかすぎない、素晴らしい自分の人生の脇役でしかない存在ではあります。 とはいえ、根底にある弱さ/自信のなさが時々露呈して情緒不安定になってしまうこともあり、DSMの分類上は「境界性パーソナリティ障害」とだぶってしまうところが時にありえます。

これに対して「過敏型 fragile」の人は、表面上はナルシストとはとても見えないかもしれません。 彼ら/彼女らは、過去にMasterson先生が「小部屋籠り型 closet narcissist」と呼びGabbard先生が「過敏型 hypervigilant type」と呼んだものとほぼ一致し、人知れず密かに自分だけの世界の中で、自分は本当は特別に優れているのだと思いたいのですが、その幻想が現実によって打ち砕かれてしまうことを極度に恐れ、他人から少しでも軽んじられたり、馬鹿にされてしまうことを極度に恐れ、表面上は控えめというより引っ込み思案的な対人行動をします。 対人関係のちょっとしたことで傷つき、情緒不安定になったり不安になったり落ち込んでしまうので、DSMの分類上は「境界性パーソナリティ障害」や「回避性パーソナリティ障害」とだぶってしまうことも多いです。(このため、臨床診断病名としては「社交不安障害」とされていることもあるでしょう。)

いずれにしても共通しているのは、根底にあるのは強烈な自信のなさと愛されなさです。 実際、自己愛性パーソナリティ障害の人は愛されることに対してあまりに自信がないために、そう期待することを放棄していることが多く、「(少数の身近な人に)愛される、好かれる」ことよりも、かわりに「(大勢の人に)尊敬される、賞賛される」ことだけを求めがちになってしまうのです。

そのうえ、悲しいことに、彼ら/彼女らの「愛されない、好かれない」という不安は根も葉もない不安なのではなく、なかば事実でもあるのです。

米国のHoltzman先生たちは、自己愛性パーソナリティ傾向がある人たちが、日常生活の中でどのような会話をするかを、日常会話を定期的にサンプリングする録音装置を使って記録し分析してみました。

すると、自己愛性パーソナリティ傾向のある人たちは、「自分は特別に優れているのだから、いいのだ、許されるのだ」とばかりに、傲慢な、他人を不快にさせるような言葉を使ったり、普通なら避けるようなタブー語や性的な表現を露骨に使ってみたり、義務をさぼってみたり、することが実際に多いことが示されたのでした。 こういう行動パターンの人たちは、最初は彼ら/彼女らの自信に満ちた雰囲気、物怖じしない感じ、社交的で積極的なところが面白がられて人気者になることもあるのですが、すぐにその「嫌な感じ」が鼻につくようになり、嫌われ者(あるいは密かに軽蔑され、遠ざけられる存在)になりがちです。

ということは、ナルシストたちは、たとえ自分が表面的には賞賛されていても奥底では好かれておらず場合によっては軽蔑さえされていること、尊敬されていても敬遠され好かれてはいないこと、「すごい」と思われるような優れたものを持っていないと全く価値を失い、誰からも愛されなくなってしまうこと・・・を正しく感じ取り、だからこそますます「愛されること、好かれること」に対して不信感を抱き、人間嫌いになっているのでは? とも思えてきます。

でも、本当にナルシストたちは、他人が自分のことをあまり良く思っていない(自分が自分のことをすごい、素敵だと思うほどには、良く思っていない)ということに気づいているものなのでしょうか?

というので、米国ワシントン大学のCarlson先生たちが調べてみたところ、どうやら自己愛性パーソナリティ傾向のある人たちは、自分にそういう傾向があることをわかっており、自分が自分を特別だと評価するほどには他人は自分のことをすごいとも素敵だとも思っていないこともわかっており、最初のうちは人気者でも後になると好かれなくなってしまう傾向があることもわかっている・・・ということが示されたのでした。 「私は他人から傲慢だと思われているだろうね。でも、私は特別にすごい人間だから、いいのだよ。」という具合です。

そうわかっていながら、どうやって「でも自分は特別にすごくて素敵なのだ」と思い続けることができるのか?

どうやら、それは他人を価値下げすることによってなされているようなのです。 つまり、「あいつらはセンスがなくて、てんで頭が悪いから、俺様の本当のすごさを理解できないのだ」と周囲を見下してしまったり、「どうして私のすごさをわからないんだ!」と怒ってしまったりするのです。 そして、まさにこの傾向のために、周囲からはますます敬遠され、軽蔑され、孤独になっていってしまうのですが・・・。


参考書:
(1) Russ E, et al. Refining the construct of narcissistic personality disorder: diagnostic criteria and subtypes. Am J Psychiatry 2008; 165:1473–1481.

(2) Holtzman N, et al. Sounds like a narcissist: behavioral manifestations of narcissism in everyday life. J Res Pers. 2010 August 1; 44(4): 478–484.

(3) Carlson E, et al. You probably think this paper’s about you: narcissists’ perceptions of their personality and reputation. J Pers Soc Psychol. 2011 July ; 101(1): 185–201.


パーソナリティ障害(その人の生き方、あり方、性格の問題のために、とんでもない「生きづらさ」を生じてしまうこと)の一つとして「自己愛性パーソナリティ障害 narcissistic personality disorder」というものがありました。 いつも大声でそれを自己顕示しているか、自分の内側だけで密かにそう思っているかの表れ方の違いはあるものの、いずれにしろ、自分は特別に優れた存在であり、それゆえ当然のように特別扱いされるべきだと思っており、そんな特別に素晴らしい自分を理解できない他人は馬鹿で劣っていると見下しており、その意味で他人に対する真の共感性に乏しく、少数の身近な人に好かれるよりも大勢の人にすごいと思われ尊敬されることに価値を見出そうとしてしまう・・・という特徴がありました。

こうした性格の偏りが、わざわざ「パーソナリティ障害」と呼ばれるのは、こういう生き方だといずれは行き詰まり、「生きづらい」感じになってくるからです。 実際、自己愛性パーソナリティ障害の人に「うつ」や「不安」や「苦痛」が慢性的にあることが少なくないのですが、その理由は、対人関係でうまくいかないことを繰り返され、つらくなってしまうからであろうことが示唆されています。

しかし、なぜ「生きづらい」と感じるほどに対人関係が悪くなってしまうのか?

どうやら問題は「自己愛性パーソナリティ障害」の人が、自分の存在する価値や意味に対する不安から、必死に「すごい自分、特別な自分」という自己イメージを保とうとする無理なやり方にありそうなのです。

「自己愛性パーソナリティ障害」の人は、その根底に強い劣等感と「愛されなさ」への傷つき感と不安があります。 これを埋め合わせようとして「すごい自分、特別な自分」という自己イメージに頼ろうとするのです。

ところが、どうやったって、本当には特別に能力が高いわけでも、優れた人でもない「ただの人」が、そんな度外れた「すごい自分、特別な自分」という自己イメージを保ち続けることには無理があります。 私たちの普通の社会の中に暮らしていれば、他人との競争と比較の中で、いやでも自分の本当の力を思い知ることになるでしょう。 (このため自己愛性パーソナリティ障害の一部の人は、他人との接触を可能な限り避け、自分一人の誇大な世界の中に引きこもることがあります。 実社会の中では影がうすいのにネットの中だけで誇大で傲慢な発言を繰り返す「俺様」「女王様」の中には、少なからずこうした人たちがいるのでしょう。)

では、彼ら/彼女らはどうやって「すごい自分、特別な自分」という誇大性を保ち続けているのでしょうか?

自己欺瞞だと言えば全くその通りなのですが、「自分は本当はすごい、特別な存在なのに、周囲の人間どもが馬鹿で理解できないから、不当な扱いを受けているのだ」とか「周囲の馬鹿なやつらのせいで、俺様の本当の能力が発揮できないのだ」という言い訳を自分にし続けることによって、どこか被害者意識を持ちながら周囲の他人を見下し価値下げすることによって、「本当はすごい、特別な自分」という誇大な自己像を保っているのだろうと考えられています。

実際に、米国マイアミ大学のMcCullough先生たちが「対人関係でどんな傷つけられたことがあったか日記」を被験者に記録してもらうというやり方で調査した結果、自己愛性パーソナリティ傾向がある人、特に「他人を搾取する傾向、自分には特別な権利があると思う傾向」が強い人は、ほとんど常に対人関係において被害者意識を持っており、「普通の人」にとっては何てことはない些細な出来事をすぐに「馬鹿にされた」「ないがしろにされた」「傷つけられた」と感じてしまう傾向が強いことが示されました。

対人関係において常に被害者意識があるということは、当然、対人関係全般において人間嫌い(人間不信)になってしまうでしょう。 それをベースに、ますます「敵」のようになってしまっている他人から自分のすごさを理解されないことが正当化されてしまいますし、他人に対して悪質な行動をしたり、傷つけたり、搾取したりすることも正当化されてしまいがちです。 ますます他人を平気で見下し、ないがしろにするようになるのです。 こうして、結果的に「他人に対して共感性に乏しい」ことになってしまうのです。
(つまり、自己愛性パーソナリティ障害の人における「共感性の乏しさ」は、誇大な自己イメージを維持するために生じている二次的なものなのだろう、と言えます。 この点で、最初から脳の機能の問題として他人に対する共感性に乏しい発達障害の人とは違ってきます。 このため、一般には、自己愛性パーソナリティ障害の人における「他者への共感性の乏しさ」は、その人の自己愛の傷つきやすさと不安が絡んでいる部分でだけ目立ってきます。 自分に何の利害関係もない部分では、普通に他人の気持ちをわかることができるのです。)

他人から傷つけられた時に、「やられたら、やりかえす!」というのは、普通の性格の人でも普通にあることです。

しかし、自己愛性パーソナリティ障害の人は、おそらくはこうした普段からの被害者意識と共感性の乏しさの問題もあるせいでしょうが、「やられてなくても、やりかえす!」という傾向があることがわかっています。(また、自己愛性パーソナリティ障害の人は「やられたら、やりかえす!」時のやり返し方も、なおさら強烈であることも知られています。)

米国のReidy先生たちは面白い実験を行ってみました。 被験者に1対1の競争課題を行ってもらいながら、ライバルに電気ショックで苦痛を与えることができる(きわめて利己的な、一種の妨害行為です)というシチュエーションを用意したのです。

すると、自己愛性パーソナリティの傾向がない人でも、相手から電気ショックによる苦痛を与えられると「やられたら、やりかえす」とばかりに、自分も相手に電気ショックによる苦痛を与える(挑発されての攻撃性 provoked aggression)傾向はありました。

しかし、自己愛性パーソナリティ傾向がある人は、相手から電気ショックによる苦痛を与えられてもいないのに、平均的な人よりもすぐに、より強力に、より頻繁に、電気ショックによる苦痛を与える(挑発によらない攻撃性 unprovoked aggression)傾向があったのです。 やられた方からしたら、ただの八つ当たりであり、理不尽な攻撃です。

これでは、ますます人に嫌われてしまいます・・・・。

こうして、現実的に人から好かれず、愛されないということをどこかで感じてしまうために、なおさら「愛されることなんか求めない、力だけを求める」となってしまうのでしょう。 これがナルシストたちの悲しい生き方なのでしょう。


参考書:
(1) Ronningstam E & Baskin-Sommers A. Fear and decision-making in narcissistic personality disorder―a link between psychoanalysis and neuroscience. Dialogues Clin Neurosci. 2013;15:191-201.

(2) Miller J, et al. Narcissistic personality disorder: relations with distress and functional impairment. Compr Psychiatry. 2007 ; 48(2): 170–177.

(3) McCullough M, et al. Narcissists as “victims”: the role of narcissism in the perception of transgressions. Pers Soc Psychol Bull 2003 29: 885.

(4) Reidy D, et al. Narcissism and unprovoked aggression. AGGRESSIVE BEHAVIOR Volume 36, pages 414–422 (2010)




境界性パーソナリティ障害 イントロダクション

その人の生き方、あり方、性格の問題のために、その人自身やその人にとっての大切な人との関係性の中に、とんでもない「生きづらさ」を生じてしまう問題を「パーソナリティ障害 personality disorder」と呼ぶわけですが、その中でも「境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」は特に精神医学/臨床心理学の領域で学問的な関心を集めてきました。

境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」は、アイデンティティの不安定さ、対人関係の不安定さ、情緒/感情面の不安定さ、衝動的な自傷行為/自己破壊的行動を繰り返すこと、などの行動パターンの特徴で知られていて、人によっては「現代病」だと思っていることがあります。 しかし実際には、かなり昔からその存在は知られていました。

20世紀の初頭に、主にはヒステリーなどの神経症を治療する方法としてフロイトが「精神分析 psychoanalysis」を創始した時、このとんでもなくお金がかかる治療法はお金持ち専用でした。 その後、フロイトの弟子たちが「精神分析」の治療法を貧困層も含めてより広く使っていくようになった頃、弟子の一人であったウイルヘルム・ライヒ Reich W(1897〜1957)は、彼が「衝動的性格 impulsive character」と呼んだ患者たちに出会うことになりました。 彼が「衝動的性格」と呼んだ、情緒不安定と衝動的な行動パターンが問題となっていた患者たちは、たいてい若い女性であり、小児期の身体的/性的虐待歴があるなどの悲惨な生育歴を抱えており、対人関係全般が混乱し不安定であり、治療に入った時の治療者との治療関係も混乱し不安定になってしまうのでした。

ライヒはこの当時から、この「衝動的性格」というものが「神経症圏=現実検討が保たれており、現実と考え過ぎの区別がしっかりついている状態」と「精神病圏=現実検討が失われており、現実と考え過ぎの区別がつかなくなっており妄想的であったり幻覚を生じていたりする状態」との、ちょうど境界線上 borderlineに位置するものであろうことを想定していました。 

ライヒのこの考え方は、その後の精神分析学の流れに引き継がれていき、この病態は「境界状態 borderline condition」と呼ばれるようになります。 その後、米国のカーンバーグ Kernbergらがこれを性格病理の一つとして「境界性パーソナリティ構造 borderline personality organization」として定義し、その典型的なものを「境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」と呼ぶようになったのです。

精神分析学の特別な理論/理屈を知らない普通の精神科医/臨床心理士にも通用するように、患者の行動パターンに見られる表面的な特徴を羅列してみると、次のような特徴がわりと典型的です。

○アイデンティティの不安定さ。「自分はこんな人間だ」「この人はこんな人間だ」という人物像を安定した現実的なものとして保持するのが難しく、極端な理想化と極端な価値下げの間を揺れ動いてしまうことが多い。

○対人関係の不安定さと情緒の不安定さ。 対人関係が極端な理想化と価値下げの間を揺れ動くこともあり、対人関係は不安定で混乱しがち。 見捨てられ不安にかられてしがみつくかと思うと、強烈な嫌悪感で切り捨ててしまう。 それに関連して感情も不安定であり、主には怒りと落ち込みを揺れ動く。

○衝動的な自傷行為(リストカットや大量服薬など)や自己破壊的行動(アルコール乱用や薬物乱用、過食嘔吐などの依存症へののめり込み、不特定多数との性行為など)を繰り返す。 同様に、大切な人との関係も破壊することを繰り返す。

○自殺関連行動が多い。 自殺完遂も少なくない。

こうして、精神分析学の理論的背景など知らない、普通の精神科医/普通の臨床心理士にも通用する、誰でもわかる表面的な行動パターンによって記述された現在の「米国精神医学会の精神疾患分類DSM」でも、「国際疾患分類ICD」でも、上記のような特徴が「診断基準」として挙げられるようになった・・・というわけなのです。

当初、「境界状態」や「境界性パーソナリティ障害」などという概念は、精神分析学が作り出した幻想だろうと思われていましたが、こうして「誰でもわかる診断基準」を作った上で大規模調査をしてみると、この性格病理は決して珍しいものではなく、一般人口の中の数%という有病率で現実に存在するものであることがわかってきました。

それと同時に、この性格的な問題には相当の家族性があることもわかってきました。

例えばです、昔から「うつ病 major depression」の人には少なからず自殺のリスクがあることは当たり前のように知られていました。 ところが、同じ「うつ病」になっても、自殺関連行動をしてしまう人と、しないでいられる人がいます。 そして、このうつ病に関連した自殺関連行動は、うつ病の家族性とはまた別個の独立した家族性がありそうなことがわかってきたのです。

「うつ病」になったときに自殺や自殺関連行動をとってしまいがちなのは、どういう人なのだろう? というので、米国ピッツバーグ大学のMelhem先生たちは、親の過去に自殺企図/自殺関連行動の既往があるかないかで、子ども(平均20歳くらい)がうつ病になった時の自殺企図/自殺関連行動の発生頻度に違いかあるかどうかを見てみました。 6年間の追跡期間の中で、「うつ病」になった子どもが自殺関連行動をしたのは、親の過去に自殺関連行動の既往がない場合は1.9%であったのに対して、親の過去に自殺関連行動の既往がある場合は8.3%となり、全体として約4.4倍ものリスクがある計算になりました。 さらに、親の過去に自殺関連行動がある子どもは、年齢的により早い時期に自殺関連行動を始める傾向、衝動的攻撃性が高い傾向、人生の中での不幸をより多く体験する傾向、などもあったのです。 さらに、子どもが自殺関連行動をするリスクは、親の衝動的攻撃性が強いこと、子ども本人の衝動的攻撃性が強いこと、親に虐待の既往があること、子ども本人に虐待の既往があること、といった要因もあがってきました。

これはいったい何なのか?

親が衝動的攻撃性 impulsive aggressionが高い人だと、子どもも衝動的攻撃性が高くなる傾向があり、それが小児期の虐待に遭いやすいこと、人生の中で不幸な目に遭いやすいこと、そして自殺関連行動を起こしやすいこと、に関連していると言えそうなのです。

強い家族性のある衝動的攻撃性。 「うつ病」になった時の自殺関連行動のリスク要因となってしまう衝動的攻撃性。 これはどうも「境界性パーソナリティ障害」を中心とした「B群パーソナリティ障害」のことなのではないか? というと、確かにそのようなのです。

衝動的攻撃性 impulsive aggressionと強く関連するこの性格的な問題が「家族性」だということは、それは遺伝的要因によるのか?あるいは生育環境要因によるのか?

その問題は性格全般の「生まれ」と「育ち」の要因のところでさんざんお話ししてきました。

結論として、行動遺伝学でいうところの「遺伝子的要因」がだいたい45%、「個別の環境要因」がだいたい55%、そして「共通の環境要因=生育家族環境要因」がだいたい0%という寄与率として計算されるのです

ここで「生育環境要因がほぼ0%の寄与率」という表現は、子どもが両親との関係で体験してきたことが、その子の病的な性格の形成に全く寄与していなかった、ということを決して意味するものではありません。 ただ遺伝子的な要因のないところに、生育環境要因だけで説明されるものはない、という意味合いです。 おそらく多くの場合は、遺伝子的な不幸(親から遺伝子的に引き継いでいる生得的な衝動的攻撃性の高さの問題)に、生育環境的な不幸(親の性格的な問題のために適切で安定した養育を受けられなかったこと)が重なって、衝動的攻撃性が高く、人生の中で不幸を招きやすく、生き方全体がつらくなってしまう性格的な病理を発現してしまう、ということなのでしょう。


参考書:
(1) MelhemNM, et al. Familial pathways to early-onset suicidal behavior: familial and individual antecedents of suicidal behavior. Am J Psychiatry 2007; 164:1364–1370.

(2) McGirr A, et al. Familial aggregation of suicide explained by cluster B traits: a three-group family study of suicide controlling for major depressive disorder. Am J Psychiatry 2009; 166:1124–1134.

(3) Torgersen S. Behavioral genetics of personality. Current Psychiatry Reports 2005, 7:51–56.

(4) Distel MA, et al. Familial resemblance of borderline personality disorder features: genetic or cultural transmission? PLoS ONE 4(4): e5334.

(5) Bornovalova MA, et al. Tests of a direct effect of childhood abuse on adult borderline personality disorder traits: a longitudinal discordant twin design. J Abnorm Psychol. 2013 February ; 122(1): 180–194.

(6) Carpenter RW. Gene-environment studies and borderline personality disorder: a review. Curr Psychiatry Rep. 2013 January ; 15(1): 336.


境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」の重要な特性の一つであり、非常に家族性/遺伝性の高い特性でもあり、自傷行為や自殺関連行動に強いつながりのある「衝動的攻撃性 impulsive aggression」とは、(不安や落ち込みや怒りなど)ネガティブな感情になったときに衝動的な攻撃という行動に出やすい傾向を言います。

つまり、境界性パーソナリティ障害の人は、ネガティブな感情のもとで冷静で現実的な思考が困難になり、自分が考えていることも、相手の人が考えていることも、しっかりと現実的に把握することができなくなり、結果として非常に衝動的で無計画で攻撃的な行動に出やすい傾向があるわけです

どうしてこうなってしまうのか? その時、脳の中で何が起こっているのか?

境界性パーソナリティ障害の人に限らず、私たちは誰でも感情的になると、冷静で現実的な思考が困難になることはあります。 誰でもひどく落ち込んで自信をなくしている時や、不安な時は「疑心暗鬼」な状態(=ごくごく軽度の現実検討のゆがみ、ごくごく軽度の妄想的思考様式)になりやすいものです。 ただ、境界性パーソナリティ障害の人の場合は、これが行き過ぎているのです。

ネガティブな感情は、脳の中でも「感情の中枢」と呼ばれる扁桃核 amygdalaを中心とした辺縁系 limbic systemの活動によっていると考えられています。

人間の大脳は、脳の深く「芯」のような部分にある辺縁系 limbic systemと、その周りを皮のようにつつんでいる大脳皮質cerebral cortexとに大雑把にわけることができます。 このうち、辺縁系は進化的/発生的により古い脳であり、主には感情/情緒反応や決まりきった行動パターンをつくりだすことをしています。 それに対して、大脳皮質、特に前頭葉の前の方にある前頭前野 prefrontal cortexは、「理性的に、社会的に適切なように」その活動性を抑制する働きがあります。

基本的には、不安でも怒りでも、何らかの欲望/欲求でも、辺縁系 limbic systemから生じる動物的な衝動は、「社会的な脳」である大脳皮質の前頭前野 prefrontal cortexが抑制し、社会的に適切な行動になるようにコントロールしているわけです。

ところが、どうやら「境界性パーソナリティ障害」の人では、この大脳皮質・前頭前野から辺縁系を抑制する働きが機能不全を起こしているようなのです。

実際、たとえば米国ピッツバーグのSoloff先生たちは、衝動的攻撃性の目立つ境界性パーソナリティ障害の人たちを集めて脳の活動性をPETという脳機能画像検査によって見てみたところ、境界性パーソナリティ障害の人は健常者に比較して、前頭前野(特にorbitofrontal cortexという領域)の活動性が低い傾向があることを示しています。 不安などのネガティブな感情を引き起こした状態で脳の活動性を測定すると、大脳皮質の前頭前野の活動性が低く、逆に辺縁系の扁桃核の活動性が過剰になっていることが、いくつもの研究で示されているのです。

さらに米国コーネル大学のSilversweig先生たちは、境界性パーソナリティ障害の人たちを集めて、Go/No-go課題という衝動コントロールを測定するための課題を行いながら、脳の活動性をfMRIという脳機能画像検査によって見てみました。 すると、健常者に比較して境界性パーソナリティ障害の人は、ネガティブな感情状態のもとで、「理性的な、社会的な脳」である前頭前野の機能が低くなり、「感情の中枢」である扁桃核が過活動になることが示されたのです。 しかも、前頭前野の機能の低さは患者の衝動的な傾向に相関していましたし、扁桃核の過活動は患者のネガティブな感情傾向に相関していました。

こうして、境界性パーソナリティ障害の人は、ネガティブな感情状態のもとで、前頭前野の機能が低くなり、ネガティブな感情をコントロールできないばかりか、(自分の気持ちをとらえる回路も、相手の気持ちをとらえる回路も前頭前野にあるために)自分の気持ちも相手の気持ちも正確にとらえることが難しくなり、衝動に対する抑制がききにくくなり、衝動的で攻撃的な行動に出やすくなってしまうのだろう・・・と考えられるのです。

不安や怒りなどのネガティブな感情が、理性的な思考を圧倒し、破壊してしまう。 愛情や共感性や自分も相手も大切に思う気持ちも破壊してしまう・・・。 昔、精神分析学が想定した心のメカニズムが、実際に脳の中でこのようにして起こっているということを、現代の脳科学が確認したということでしょう。


参考書:
(1) New AS, et al. Amygdala–prefrontal disconnection in borderline personality disorder. Neuropsychopharmacology (2007) 32, 1629–1640.

(2) Soloff PH, et al. Impulsivity and prefrontal hypometabolism in borderline personality disorder. Psychiatry Research: Neuroimaging (2003) 123, 153–163.

(3) Minzenberg MJ, et al. Frontolimbic dysfunction in response to facial emotion in borderline personality disorder: an event-related fMRI study. Psychiatry Res. 2007 August 15; 155(3): 231–243.

(4) Silversweig D, et al. Failure of frontolimbic inhibitory function in the context of negative emotion in borderline personality disorder. Am J Psychiatry 2007; 164:1832–1841.


ネガティブな感情状態のもとで、現実検討が著しく低下し、物事を現実的に、冷静に、共感的に理解していくことができなくなってしまうことが「境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」の特徴の一つだと言いました。 が、ネガティブな感情でもなんでも、辺縁系が強烈に活動している状態のもとで、大脳皮質の前頭前野の活動が低下してしまい、現実的な判断力や他人への共感能力、自分への自省能力が下がってしまうのは、私たち人間に普通にある現象でもあります。

私たちの大脳の前頭前野は、それが不安であっても、怒りであっても、性欲であっても、強い感情/欲動のもとでは、どうしても機能低下を起こす傾向があるようなのです。

例えば、意思の力によって不安を抑えようとしているとき、前頭前野は活発に働き、扁桃核の活動性を抑えていきます(Delgado MR, et al. Neural circuitry underlying the regulation of conditioned fear and its relation to extinction. Neuron (2000)59, 829–838)。 逆に言うと、不安を我慢せずに噴出させてしまい、不安に巻き込まれるがままになっているとき、前頭前野の機能は下がっているのです。

暴力性/攻撃衝動についても同様で、意思の力で攻撃衝動を抑えている時は前頭前野が活発に働いているのですが、我慢しなくすると(暴力行動を発動する時には)前頭前野の活動性が低くなるのです。(Pietrini P, et al. Neural correlates of imaginal aggressive behavior assessed by positron emission tomography in healthy subjects. Am J Psychiatry, 2000; 157: 1772-1781.)

性欲動に関しても似たようなもので、意思の力で性欲を抑えている時は、前頭前野が頑張って働いているのですが、我慢するのをやめてHな気分を解放してしまうと、前頭前野の働きはぐっと下がります。(Beauregard M, et al. Neural correlates of conscious self-regulation of emotion. The Journal of Neuroscience, 2001; 21: RC165)


暴力/攻撃衝動などは特にそうなのですが、内的な欲動が高まり辺縁系の活動が活発になるのに対して、前頭前野の機能が下がるときに、その背外側部も内側部も機能低下を起こしてしまうことに注目です。

前頭前野の背外側部DLPFCは「意思の力で欲求を抑えこむ」ことをしていますが、内側部MPFCには自分の気持ちや相手の気持ちを理解するための「共感性」の中枢があると考えられています。 この部分の機能が下がることで、相手の気持ちに対する共感性が一時的にも下がることになります。 (暴力/攻撃衝動の場合、実はこれは非常に適応的な変化です。 というのも、攻撃衝動を行動にうつすときに、暴力を振るおうとしている相手に対して共感的な気持ちを持ってしまっていたら、効果的に攻撃ができなくなってしまうからです。 原始人から続く、戦いに明け暮れた人類の長い長い歴史の中で、同じ人間でもある相手に対する共感性をなくしながら、無慈悲に効果的に暴力を振るうことができるかどうかが、繁栄と滅亡の分かれ道になっていたのでしょう。)

私たちが「私はこんな気持ちだ」「相手はこんな気持ちだ」ということを概念化し理解する「共感性 empathy」≒メンタライゼーション機能 mentalizationは、大雑把にいうとこんな感じで構成されているのだと思われます。

私たちが自分自身の気持ちを概念化し理解する方は比較的簡単です。 私たちが体験する感覚は、脳のあちこちの感覚の中枢で別々に処理されています。 体性感覚であれば中心溝からすぐ後ろ側、視覚情報は後頭葉の一番後ろ、聴覚情報は側頭葉、という具合です。 感覚情報は、こうした一次感覚中枢を離れていくにつれて、どんどん抽象化/概念化されていくわけで、最終的に前頭前野の内側部あたりで「私はこう感じている」という、「私」という主語を持った、高度に概念化された「気持ち」になるのでしょう。

私たちと関わりを持つ「相手の気持ち」はどうでしょう? 私たちが関わりを持っている相手の言動は、視覚情報や聴覚情報などとして私たちの脳に入ってきます。 そして情報は抽象化/概念化されていくわけですが、それと同時に、相手の言動を鏡に映して反映するように、私たちの脳の運動や感覚の概念化をする部位の、相手の脳と同じ場所が活動することになります。 こういう性質のある脳の神経細胞のことを「ミラー・ニューロン mirror neuron」といい、サル以上の高等な動物にはその存在が知られています。 例えば、相手が「ものを食べるという行動」をしていると、それを見ている私たちは、同じ「ものを食べるという行動」を概念化する脳の部位が「ミラー」として活性化し、これによって相手がやっている行動を、自分に置き換えて体験することができるようになるのです。 相手が痛がっているとき、悲しんでいるとき、すべて同じようなものです。 私たちは脳の神経細胞の「ミラー」の働きによって、相手の状態を自分に置き換えて体験しなおしていくのです。 そのうえで、これらの情報は最終的には前頭前野の内側部に集約され、「相手はこう感じている」という、「相手」という主語を持った、高度に概念化された「気持ち」として理解されていくわけです。

前置きがとんでもなく長くなりました。

さて、ネガティブな感情(不安や怒り)のもとで前頭前野機能が低下しやすい「境界性パーソナリティ障害」の人では、この結果として「共感性」がどんなことになるか? 

ドイツのMier先生たちは、境界性パーソナリティ障害の人たちと健常者の人たちに、他人の感情を類推し読み取る課題を行ってもらいながらfMRIという脳機能画像検査によって脳の活動性を見てみました。

すると、健常者の人たちに比較して、境界性パーソナリティ障害の人たちは、感情の中枢である扁桃核の活動が過剰だっただけでなく、大脳皮質の「ミラー・ニューロン」のあるあたりの活動性が低いことが示されました。 つまり、相手の気持ちを共感的に理解するという心の作業において、境界性パーソナリティ障害の人たちは、その時の感情的な反応に圧倒されて、相手の体験を自分の体験にしっかり置き換えて体験し直すこと自体が難しくなっているようなのです。

また、米国のKing-Cases先生と英国のFonagy先生たちの共同グループは、対人関係において相手に対する「共感性」をベースに生じる信頼関係がどのように形成され、破綻し、修復されるかを、一種の協調性が必要な投資ゲームのようなものを使って模擬的にやってもらいました。 投資ゲームでは、「投資家役」は健常者ですが、投資家からお金を預かって運用し配当金を支払い返す「運用会社役」は健常者だったり、境界性パーソナリティ障害の人だったりします。

実際に投資ゲームをはじめてみると、「運用会社役」を健常者の人がやっている場合に比較して、境界性パーソナリティ障害の人がやっていると、ゲームの後半になってくるとだんだん「信用・信頼」を失ってきてしまい、投資額が減ってきてしまう傾向(協調性が破綻してしまう傾向)が顕著でした。

なぜこうなってしまうのか? なぜ境界性パーソナリティ障害の人たちは信用・信頼を失ってしまいがちなのか? というのを詳細に見てみると・・・

投資ゲームをやっていると、どこかで「投資家役」の人が「運用会社役」の人に不満や不信感を持ってしまう場面が起こります。 その不満や不信感は「投資家役」の人が投資するお金が減るという形で表れてくるわけです。 そうなると、それに対して健常者の人は「まずい」と気づき、少し多めに配当金を支払ってあげたりして関係の修復を図ろうとします。 ところが、境界性パーソナリティ障害の人は、その「まずい」ことに気づかないのか(これは脳機能画像検査でも、健常者だったら反応する大脳皮質の島の前部が、ちゃんと反応しないことにも表れています)、関係修復をしようとせず、結果として信頼関係の破綻を回復できずに、どんどん信頼を失っていくことになっていたのです。

投資ゲームのような簡単な対人関係のやりとりでさえ、このような大きな差が出てきます。

まして「普通」の、複雑で曖昧性の高い対人関係では、なおさら境界性パーソナリティ障害の人は相手の気持ちの微妙な変化に対して適切に共感的に気づくことができず、むしろ感情的な反応をしてしまい、結果として関係性を壊すようなことになってしまうのかもしれません。

ネガティブな感情が共感的で自省的な思考を破壊してしまう。 辺縁系の過剰な活動が大脳皮質の活動を圧倒してしまう。 境界性パーソナリティ障害の人たちにとって、対人関係を安定して維持することがとても困難なのは、そんな背景があるのかもしれません。


参考書:
(1) Mier D, et al. Neuronal correlates of social cognition in borderline personality disorder. SCAN (2013) 8, 531^537

(2) King-Cases B, et al. The rupture and repair of cooperation in borderline personality disorder. Science. 2008 August 8; 321(5890): 806–810.




境界性パーソナリティ障害における自傷行為の意味合い

自分自身に向けられた衝動的攻撃性 impulsive aggressionの表れの一つでもあるのでしょうが、境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorderの人たちは、自殺とはまた別に、自傷行為 nonsuicidal self-injuryを繰り返す傾向があります。 実際、境界性パーソナリティ障害の診断基準の中に「自傷行為を繰り返すこと」が含まれているほど、この問題は境界性パーソナリティ障害の人には多いのです。

これは一体なんなのか? なぜこんな行動を繰り返すのか?

素人の人たちは、境界性パーソナリティ障害の人たちが繰り返すこの自傷行為を「本当に死ぬ気はないくせに、周囲の人の気を引こうとしているのだ」とか「自殺のそぶりをすることで周囲を振り回そうとしているのだ」と言ったりしがちです。

しかし、ほとんどの場合、境界性パーソナリティ障害の人が自傷行為を始めるのは、一人でこっそりとです。 (特に若い人の場合)結果として、周囲がそれに気づいてくれ「そんなにつらかったのか」とわかってくれることを見つけると、その行動をコミュニケーションの手段として使うことはありますが、それはどちらかというと副産物です。

多くの場合、境界性パーソナリティ障害の人たちは、まずは強烈な自己嫌悪から、自傷行為をしてしまいます。 しかし、すぐにこの行動によって少し心の苦しみが楽になることに気づいてしまうのです。 そうなると、自傷行為を鎮静剤代わりに繰り返し使ってしまうことにつながっていきます。

実際、多くの境界性パーソナリティ障害の人は、どうしようもなくつらい気持ちの時に、そのつらい気持ちから逃避するために自傷行為をしますし、彼女らにとって自傷行為は「一瞬、少しだけ楽になるための方法」であると言います。(事実、大規模調査をすると、自傷行為を繰り返す人たちというのは、その行動をつらい気持ちから逃げるための方法として使っていることがほとんどであることが示されています。)

結果として、心がつらい人が逃避的に精神安定剤(抗不安薬)やアルコールに依存するように、自傷行為という「一瞬、少しだけ楽になる方法」に依存することになります。 しかし、所詮は精神安定剤やアルコールと同じで、この方法によって楽になるのは一瞬だけですし、根本的な問題は何一つかわりませんから、「一瞬、少しだけ楽になる」後で、またつらい現実に引き戻されます。 そこから逃げるためにまた自傷行為を繰り返す。 ・・・やはり依存症なのです。

なぜ自傷行為によって心が少しだけ楽になってしまうのか?

これまでの研究で、境界性パーソナリティ障害で自傷行為を繰り返す人たちは、脳内麻薬用物質 endogenous opioidの働きが異常になっていることが示されています。 境界性パーソナリティ障害の人はつらいことをよりつらく感じやすいのですが、それに一致するように、脳内麻薬用物質の出方も、つらいときには普通の人よりもより高く出てきますが、普段はより低くなっているのです。

衝動的攻撃性のところで少し触れましたが、境界性パーソナリティ障害の人の思考と感情は、感情優位なところがあります。 つまり、前頭前野による抑制が低く、辺縁系(特に扁桃核)が過活動になるのです。

このため、心がつらいことがあると、大脳皮質の前頭前野は、辺縁系の過活動である「つらさ」をうまく抑えることができず、結果として普通の人よりもより「つらさ」が強まってしまうことになるわけです。

ここに自傷行為をするとします。 すると、この身体の痛みにに対して脳が反応し、脳内麻薬用物質がしっかり出てくるようになり、辺縁系の過活動がおさまってくることになります。 つまり、心のつらさが軽減されることになるのです。

これが自傷行為が精神安定剤代わりになってしまうメカニズムなのでしょう。 その他の方法ではどうすることもできなかった「生きることのつらさ」が、この方法では(一瞬ではありますが)楽になることを知るのです。 その結果として、この方法に依存することになってしまう。

その意味で、境界性パーソナリティ障害の人にとって自傷行為は、一種の依存症と言えるのです。 そして、これはその他のすべての依存症と同様に、この方法によっては根本的には何も改善しないのです。 それどころか、嫌な気持ちに対して適応的に向き合いことを避けることで、もっとちゃんとした対処能力がつく機会をうばってしまい、心がより弱くなってしまうのです。 そのうえ、この行為は自分自身の身体も、自分を大切に思ってくれている人との関係も、傷つけてしまいます。 依存症が依存症と呼ばれて問題視される理由は、まさにこの点です。 一瞬だけ楽になるだけで、あとは何一つ良いことなどないのです。

(とはいえ、この時点で境界性パーソナリティ障害の人にとって「生きることのつらさ」を軽減する方法はこれ以外に何もないことがほとんどです。 ですから、「自傷行為はいけないことだからやめなさい」と言われてやめられるものでもないのです。 むしろ、自傷行為という依存症から抜け出していくためには、自傷行為ではない、より適応的な対処法を身につけていくことが必要なのです。)


参考書:
(1) Victor SE, et al. Is non-suicidal self-injury an “addiction”? A comparison of craving in substance use and non-suicidal self-injury. Psychiatry Res. 2012 May 15; 197(0): 73–77.

(2) Schmahl C, et al. Neural correlates of antinociception in borderline personality disorder. Arch Gen Psychiatry. 2006;63:659-667.

(3) Niedtfeld I, et al. Functional connectivity of pain-mediated affect regulation in borderline personality disorder. PLoS ONE 7(3): e33293.

(4) Stanley B, et al. Nonsuicidal self-injurious behavior, endogenous opioids and monoamine neurotransmitters. J Affect Disord. 2010 July ; 124(1-2): 134–140.

(5) Prossin AR, et al. Dysregulation of regional endogenous opioid function in borderline personality disorder. Am J Psychiatry 2010; 167:925–933




境界性パーソナリティ障害は歳をとれば、30歳を過ぎれば治る?

昔の精神科医は「境界性パーソナリティ障害は年をとれば治る、30代を過ぎた頃には良くなっているから、それまで自殺しないで生き延びれば良いのだ」というようなことをよく言っていました。

この言い分は、半分本当ですが、半分嘘です。

この言い分が半分本当というのにも、ある程度の根拠はあります。

1987年にはカナダのParis先生たちのグループが、2003年には米国のZanarini先生たちのグループが、それぞれ境界性パーソナリティ障害で精神科への入院/通院治療をした経験がある人たちを大勢集めて長期間の追跡調査をしたのです。

カナダのParis先生たちは100名もの境界性パーソナリティ障害で総合病院精神科に入院/通院した人たちの、平均15年後の(平均年齢は41歳になっていました)予後調査を行ってみました。

すると、15年後にも「境界性パーソナリティ障害」の診断基準に入るような病状の人は全体の1/4くらいしかいませんでした。大部分は、もはや診断基準には当てはまらない「寛解 remission」した状態になっていると言えたのです。 特に自傷行為などの衝動的行動や、不安定で爆発的な対人関係の問題は大きく減っていました。 抑うつ感/不機嫌さや空虚感などの感情症状は、そこまで劇的な改善ではないにしろ、やはり改善傾向にはありました。 生活全般も改善しており「全般的には良好だが、部分的に問題がある」というレベルであり、仕事も「長続きせずしょっちゅう変えてしまうが、無職というわけではない」というレベルであり、家族との関係も「ストレスはあるが、ひどく混乱してるものではない」というレベル・・・が平均的でした。

同様に、米国のZanarini先生たちは、300人近い、入院治療歴のある境界性パーソナリティ障害の人たちを、入院治療を開始した時点から数えて、平均6年間以上追跡調査してみました。

その結果、やはり境界性パーソナリティ障害の診断基準に当てはまらなくなる「寛解 remission」を示したのは、2年後で35%、4年後で49%、6年後で69%、6年以上では74%にまで達していたのです。 

境界性パーソナリティ障害の各症状に注目してみると、やはり「自傷行為」や「爆発的で不安定な対人関係」などの衝動面の問題は最も早いスピードで改善していました。 それに対して、抑うつ感や怒り、空虚感といった感情症状は、それほどではないものの、それでも改善傾向にはありました。

これら2つの大規模な長期追跡調査は、いずれも「ちゃんと普通の治療を受けた人たち」という条件付きではありますが、それでも「境界性パーソナリティ障害」という性格の問題が、時が経つと年齢とともに良くなっていくものであることを示唆していました。

さらに、「境界性パーソナリティ障害」という診断のついた人の大部分が、6年〜15年の間に診断基準にはもはや当てはまらないという意味での「寛解 remission」、つまり「治った」状態になると言えたのです。

ここから、「境界性パーソナリティ障害の人は年を取とれば、30代〜40代になると、治る」という考えが一人歩きするようになります。 しかし、実際はそんなに簡単な問題ではなかったのです。


参考書:
(1) Zanarini MC, et al. The longitudinal course of borderline psychopathology: 6-year prospective follow-up of the phenomenology of borderline personality disorder. Am J Psychiatry 2003; 160:274–283.

(2) Paris J, et al. Long-term follow-up of borderline patients in a general hospital. Comprehensive Psychiatry, 1987; Volume 28: 530–535.


米国のZanarini先生たちの平均6年後までの追跡調査、カナダのParis先生たちの平均15年後までの追跡調査、いずれの結果でも、思春期〜早期青年期に「境界性パーソナリティ障害」の診断がついたたくさんの人たちの長期予後をみてみたところ、この重症の性格の問題も10年もするとかなり症状は少なくなり、もはや「境界性パーソナリティ障害」の診断基準には当てはまらなくなるという意味で「寛解 remission」=治った状態になっている人が多い(7割以上にのぼる)・・・という結果でした。

ここから、「境界性パーソナリティ障害の人は年をとれば、30代〜40代になると、治る」ということが言われるようになってきたのです。

ところが・・・

米国のZanarini先生たちも、カナダのParis先生たちも、前述の長期追跡調査だけでは終わりませんでした。 

Zanarini先生たちは、その後も追跡調査を続けて16年後まで、年齢的には40代前半になるまで、2年ごとに症状や状態を調査し続けたのです。

その結果、16年後には「寛解率」=「一度は境界性パーソナリティ障害の診断基準に当てはまらなくなる率」は、なんと99%にまで達していたのです。

しかし、「一度は境界性パーソナリティ障害の診断基準に当てはまらなくなった」人たちの中には、数年もするとまた元の状態に戻ってしまい「再び境界性パーソナリティ障害の診断基準に当てはまるようになってしまう」人たちもいました。 そのようにして「再発」してしまう人を差し引いても、10年後以降はだいたい6割もの人がちが「寛解 remission」=「境界性パーソナリティ障害の診断基準には当てはまらなくなる状態」になっていました。

とはいえ、「寛解」=「境界性パーソナリティ障害の診断基準に当てはまらなくなる」=「精神的に健康で、幸せに暮らしている」とは言えません。 実際、途中経過である6年後の追跡調査の時点でも、境界性パーソナリティ障害の数ある症状群のうち、衝動的行動や不安定な対人関係などの点では症状が目立たなくなっていましたが、抑うつ感/空虚感や怒りなどの感情症状はあまり良くなっていないことがわかっていました。

なので、今回はZanarini先生たちは「社会機能的回復 recovery」=「症状的に「寛解」しており、なおかつ少なくとも1つ以上の有為な対人関係があり、学校や仕事に定期的に行けていること」=「まあまあ普通の社会生活を送れていること」が達成されているかどうかも見てみました。

すると、結果はそれほど楽観的なものではありませんでした。 数年以上ちゃんと持続して「回復 recovery」していることが示されたのは、5、6年後では2割ちょっとしかおらず、16年後でも半分ちょっとに留まったのです。

さらに、この16年の追跡期間のなかで、約5%が自殺によって死亡し、また別の約5%が自殺以外の原因で死亡していました。 この自殺の多さと、自殺以外の早死に(non-suicidal premature death)の多さはいったい何なのか?


カナダのParis先生たちの、最終的には27年後まで(年齢的には50歳くらいまで)の追跡調査の結果でも、似たようなことになっています。

Paris先生たちの、もともとの322人の患者たちは、15年後の予後調査のときに足取りを追えたのは165名だけでしたが、すでにその時点で22名が死亡(14人が自殺、8人が自殺以外の死亡)していることが確認されていました。 その後、27年後の予後調査の時点で足取りを追えたのは88人になっており、その間にさらに3名の自殺、5名の自殺以外の死亡が確認されたのでした。 (なので、27年間の追跡の間に、確認された自殺が17名=10.3%、自殺以外の死亡が13名=7.9%となりました。)

27年後の時点で、まだ「境界性パーソナリティ障害」の診断基準に当てはまっていたのは7.8%であり、残り9割以上の人は、定義上は「寛解 remission」しているということになりました。

しかし、その内容を見てみると、平均的な社会的適応レベルは「それほど混乱しているほどではないが、幾分かの症状や問題がある」というものであり、衝動的な症状はかなり軽減されていることが多いものの、感情症状はそれほどでもなく、2割以上の人が「慢性神経症性うつ状態 dysthymina」にあったのです。 さらに、若い頃に比べて対人関係の不安定さは少なくなっていたものの、これも本当の意味で対人関係が良くなったのではなく、うまくいかない対人関係から距離を置き、孤立しがちになることでトラブルを避けているだけのことが多かったのです。 さらに、全体として約10%もの人が自殺してしまっており、その平均年齢は37.3歳という、意外に高い年齢だったのです。さらにさらに、自殺以外の死亡(殺人、事故死、病死、など)によって早死にしてしまった人も意外なほど多く(7.9%)、自殺による死亡と合計すると、18.2%もの人たちが早死にしてしまったことになります。

(自殺以外の死亡がこんなに多いことが不思議に思われる方も多いかもしれません。 しかし、これまでの研究でも、子ども時代から慢性的に不幸であり精神的に不健康な人、衝動的攻撃性が強い人、いわゆる非行少年少女、などの人たちは、自分自身の心や身体を大切にできないところがあり、自殺、殺人、病気、事故などのいろいろな理由で早死にしやすいことが統計的にわかっていました。)


これはどういうことか?

つまり、「診断基準に当てはまらなくなった」という意味で、「定義上、もはや「境界性パーソナリティ障害」とはいえない」というだけで、「寛解 remission」したのであって、事実上「治った」というものからはほど遠い位置にいる人が少なくなかったのです。 以前ほどにはひどく混乱したり、衝動的な行動に出ることはなくなっても、それは必ずしも本当の意味で落ち着いていて、満たされていて、幸福な状態というわけではなかったのです。

何度も「問題行動」を繰り返すうちに、そのうちに経験から学んで、対人関係からは距離をとり、表立ったトラブルは起こさなくなったというだけで、内面的な不幸さ、生きづらさ、寂しさは、相変わらずな人が少なくなかったのです。 

おそらくはそのために、表立った問題行動はぐっと減っているであろう中年期以降にも自殺(約5〜10%)をしたり、自殺とは言えないまでもそれに近い事故死をしたり、殺人事件の被害者になったり、心身ともに自分を大切にすることのできなさの延長で病気になり早死にしたりするのです。

さらに問題なのは、Paris先生の患者たちも、Zanarini先生の患者たちも、少なくとも一定期間は普通レベル(あるいはそれ以上)の精神科的治療を受けた人たちを対象にしているということです。 こうした、いわば「曲がりなりにも、ちゃんと治療を受けたことがある人たち」においてさえ、この結果です。

「境界性パーソナリティ障害の人は年を取とれば、30代〜40代になると、治る」などと簡単なことは言えるわけがないことは明白です。 むしろ、Paris先生たちの統計では、自殺完遂をする平均年齢は35歳過ぎ、中年期に入ってからなのです。 それだけではありません。 衝動的暴力性や自傷行為/自殺関連行動などの表面上目立った行動というのは、境界性パーソナリティ障害の経過において若年期にだけ見られる特徴の一つに過ぎず、この問題の本質ではなく、それだけをなくせば良いというものではない、ということです。 むしろ、その背景にある、本当の意味での生きづらさ、寂しさ/怒り/悲しみに満ちた「不幸な生き方」そのものを変えていかないことには、治療にも何にもならないのだろう・・・と思えてくるのです。



参考書:
(1) Zanarini MC, et al. Attainment and stability of sustained symptomatic remission and recovery among patients with borderline personality disorder and axis II comparison subjects: a 16-year prospective follow-up study. Am J Psychiatry 2012; 169:476–483.

(2) Paris J & Zweig-Frank H. A 27-year follow-up of patients with borderline personality disorder. Comprehensive Psychiatry, 2001; 42 : pp 482-487.

(3) Laub JH, et al. Delinquency and mortality: a 50-year follow-up study of 1,000 delinquent and nondelinquent boys. Am J Psychiatry 2000; 157:96–102.

(4) Teplin LA, et al. Early violent death among delinquent youth: a prospective longitudinal study. Pediatrics. 2005 June ; 115(6): 1586–1593.

(5) Wegman HL & Stetler C. A meta-analytic review of the effects of childhood abuse on medical outcomes in adulthood. Psychosom Med. 2009; 71:805– 812.





境界性パーソナリティ障害が「難治」と言われるわけ

境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorderの人は、定義上、対人関係がうまく行きません。 特に、本当の意味で心を通じ合わせる親密な関係を、良好に、安定して、続けることがほぼできないのです。

この性格上の問題を治そうと治療(精神療法 psychotherapy、カウンセリング)に入った時の治療関係(患者と治療者の関係)も、当然のことですが、これを免れることはありません。 患者は治療者(精神科医、臨床心理士)との関係を良好に安定して続けることがなかなかできませんし、逆に治療者も患者に対して大変な困難さを感じることになります。 結果として、他のほとんどすべての対人関係がそうなってしまうように、境界性パーソナリティ障害の人にとっては治療関係でさえも、放っておくと、そのうち不信感と無力感と怒りと虚しさと悲しさでいっぱいになり、ほとほと嫌になってしまい、いずれ破綻することになるのです。 これじゃあ、「治療」になりません。

理屈的にはそうなるのですが、本当にそうなのか?

米国エモリー大学のBradley先生たちは、境界性パーソナリティ障害を含めていろいろなパーソナリティ障害の人を精神療法/カウンセリングで治療している精神科医/臨床心理士をたくさんあつめて、調査を行い、治療関係の中での患者の治療者の対する態度を調べてみました。

すると、境界性パーソナリティ障害が含まれる「B群パーソナリティ障害」の人たちは、治療関係の中で、治療者に対して要求がましく怒りっぽく、かと思うと関係性を理想化/性愛化しようとしたり、全体として不安定で、治療を行っていくのに必要な信頼と協力性に欠ける態度が目立つのでした。

それに対して治療者はどうなるのか? やはり同じ米国エモリー大学のBetan先生たちは、治療関係の中で治療者の患者に対する気持ち/態度を調べてみました。

すると、やはり「B群パーソナリティ障害」の患者を前にすると、治療者たちは患者に対する圧倒的な嫌悪感、気持ちの混乱、猛烈な怒りや無力感、馬鹿にされている感じ、屈辱感、などのネガティブな感情に耐え難い気持ちになるのと同時に、その患者を極端に大切に思ったり性愛的な感情さえかき立てられる傾向が目立ち、結果として治療を行っていくのに必要な信頼と協力性が損なわれがちになるのでした。

せっかく治そうと治療を始めても、患者は治療者に対して猛烈な愛情とも憎しみともつかない非常に混乱した感情を向けてしまう。 同様に、治療者も患者に対して耐え難いほどの愛情とも憎しみともつかない混沌とした感情を抱えることになる。 こうした相互的なネガティブで混乱した感情は、放っておけば、悪循環を起こし、いずれは修復不能なほどに関係性を損ない、破綻していくことになるわけです。

実際、これを理由に境界性パーソナリティ障害/B群パーソナリティ障害の治療を嫌い、最初から「お断り」している専門家も少なくないほどです。

とはいえ、境界性パーソナリティ障害という重症の性格の問題は、ちゃんと治していかないと一生不幸なままであることは、すでにお話しした通りです。

では、どうやって「治療」という共同作業を進めていくのか?

治療関係の中で、患者と治療者が、お互いがお互いに対してネガティブな感情を抱き、混乱し、苦しみ、本当に嫌になってしまうことは、この治療においては避けがたいこと、必然なこと、むしろ必要なことなのだと考え、この治療関係に展開してくる対人関係の問題を積極的にとりあげて、解決を模索していくことを、「治療」という作業の中心にすえるようにするのです。 耐え難いほどのネガティブな感情ゆえに治療を治療にならなくしてしまうようなこと、治療をぶちこわしにしてしまうような態度を、患者がしてしまうこともあるでしょうし、治療者がしてしまうこともあるでしょう。 いずれにしろ、こうした「治療阻害行動 therapy interfering behavior=抵抗 resistance/逆抵抗 counter-resistance」に対して早期に気づき、早期に解決していくことを、何度も何度も繰り返し続けていくわけです。
(こうして、まずは治療関係の中で、ネガティブな感情の応酬によって取り返しのつかない悪循環にはまり込み、関係を破綻させてしまうという、これまでの対人関係の問題パターンから抜け出すやり方をつかむことになるのです。 こうして学習された新しい対人関係の持ち方、破壊的にならずに大切にしていくやり方は、いずれ治療関係以外の対人関係に応用されていき、長く続いてきた性格の問題が治っていく・・・というメカニズムなわけです。)

治療関係の中で、患者の治療者に対するネガティブな感情(それは大抵が治療者の患者に対する微妙にネガティブな態度によって引き起こされたものなのですが)を取り上げ、それに対して共感的な理解をしていくことを、古くからある精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)の業界用語では「転移解釈 transference interpretation」と呼んでいました。 目の前にいる相手に対する感情を直接的に扱うことになるために、昔は、こうした話題は対人関係が不安定なB群パーソナリティ障害の人には向かないだろう(耐えられないだろう)と思われていました。

ところが、ノルウェイのHoglend先生たちがたくさんの精神分析的(精神力動的)精神療法において、「転移解釈」を行う技法を使った場合と、「転移解釈」の技法は控えるようにした場合とで比較したところ、予想に反して、対人関係が不安定な患者ほど「転移解釈」=「治療関係に生じている問題を積極的に取り上げていくこと」を必要としており、「転移解釈」を控えてしまうと治療成績が悪くなってしまうことが示されたのです。

まあ、当たり前と言えば当たり前でしょう。 上述のように、治療関係に問題が生じるのはほぼ必然であり、これに対して積極的な解決をせずに放っておけば、ネガティブな感情の応酬になってしまい、治療が破綻することになるのは避けられないでしょうから。


参考書:
(1) Bradley R, et al. Transference patterns in the psychotherapy of personality
disorders: empirical investigation. British Journal of Psychiatry, 2005, 186:342-349.

(2) Betan E, et al. Countertransference phenomena and personality pathology in clinical practice: an empirical investigation. Am J Psychiatry 2005; 162:890–898.

(3) Colli A, et al. Patient personality and therapist response: an empirical investigation. Am J Psychiatry 2014; 171:102–108.

(4) Allen DM. Techniques for reducing therapy-interfering behavior in patients with borderline personality disorder. Similarities in four diverse treatment paradigms. Journal of Psychotherapy Practice and Research, 1997; 6: 25-35.

(5) Hoglend P, et al. Analysis of the patient-therapist relationship in dynamic psychotherapy: an experimental study of transference interpretations. Am J Psychiatry 2006; 163:1739–1746.




境界性パーソナリティ障害に対する治療(精神療法、心理療法)

境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorderという性格の問題に対して、はたして「治療」などというものがあるのか? 果たして、性格が「治る」などということがあるのか?

実は、20世紀の初頭から、最初はヒステリー神経症とその背後にある性格的問題の治療として「精神分析 psychoanalysis」や「精神分析的精神療法 psychoanalytic psychotherapy=精神力動的精神療法 psychodynamitc psychotherapy」というものがありました。 「精神分析」ではほぼ毎日(週4回〜5回)、「精神分析的(精神力動的)精神療法」では1回〜3回、毎回50分程度を使って、かなり濃密な治療関係の中で、その治療関係という対人関係に展開する性格上の問題を扱っていくことによって、何年もかけて「性格の問題」を治していくための治療です。 「性格の問題」を治すための治療である「精神分析」や「精神分析的(精神力動的)精神療法」は、実際に「性格の問題」の一つである「重症性格障害 severe character disorder」に含まれる「境界性パーソナリティ障害」も治療対象にしており、実際に少なくとも幾分かの効果はあげていたのです。 ただ、「精神分析」や「精神分析的(精神力動的)精神療法」は、その長い歴史と伝統の中で、治療効果を数値化して客観的に測定するということをずっと怠ってきました。 そのため、ほんのわずかな研究報告をのぞいて、1990年代の終わりになるまで、「精神分析的(精神力動的)精神療法」の境界性パーソナリティ障害に対する治療効果が科学的に議論されることは、ほとんどなかったのです。

そうした中で、1990年代のはじめに、主には若い女性の習慣的な自傷行為を軽減することを治療目標とした行動療法を研究してきた米国ワシントン大学のLinehan先生たちが、うつ病などに対する普通の認知行動療法とは全く違った、非常に特殊化された認知行動療法である「弁証法的行動療法 dialectical behavior therapy=DBT」という方法をつくりあげました。

この「特殊化された認知行動療法(DBT)」は、それまでの「普通の認知行動療法」と、幾つもの点で違いがありました。

もともと「普通の認知行動療法」の基本的な考え方は、患者が習慣的に持っている特定の物事に対する過剰な不安と、それに対する持続的な回避行動をやめさせ、不安に向かわせること(曝露療法)と、特定の不安に関連する認知のゆがみを見つけて修正していくこと、にあります。 積極的に問題を見つけて、修正/変化を促していくのです。

しかし、こうした「普通の認知行動療法」のやり方を、もともと対人関係が不安定で不信感を抱きやすい境界性パーソナリティ障害の人と一緒にやろうとすると、うまくいきません。 境界性パーソナリティ障害の人たちは、治療関係においてさえも不信感が強い上にひどく傷つきやすいところがあるために、「問題」や「ゆがみ」を見つけて指摘され、修正/変化を迫られること自体に「否定されている」「今の自分を拒絶され見捨てられている」と感じ、強烈に傷つき、怒り、猛烈にネガティブに反応しがちなのです。 正当なことを指摘しているのに、患者に猛烈なネガティブな反応をされてしまう治療者の方も嫌な気持ちになり、ついついさらに批判的な物言いをしてしまったり、ゴリ押ししようとしてしまいます。 結果として、患者も治療者もともに治療関係をぶちこわしにするようなこと(=治療阻害行動 therapy interfering behavior)をすることになってしまうのです。

こうした治療関係の問題を客観的に観察し、詳細に分析した結果として、Linehan先生たちは、常に患者の「問題」や「ゆがみ」を見つけては修正/変化を迫るやり方に対して、患者にとっての「今のあるがまま」を認め、受け入れ、ある意味ではもっともな気持ちに対して共感的に理解していくことの重要性を強調するようになりました。

さらに、患者自身が患者にとっての「今のあるがまま」の気持ちを認めようとせず、否認し、わからなくしてしまうこと(=体験回避 experiential avoidance)に対して、「今のあるがまま」の気持ちを否定したり批判したりすることなく、しっかり体験し、十分に理解していくという態度(=マインドフルネス mindfulness)を重視するようになります。

その意味で、従来型の「普通の認知行動療法」とはずいぶん違った、特殊化された認知行動療法=弁証法的行動療法 dialectical behavior therapyを作り上げることになったのです。

弁証法的行動療法は「行動療法」ですから、ターゲットにすべき問題行動が明確にあります。 それはこの場合「繰り返される自傷行為/自殺関連行動」と、「生活の質を損なってしまう行動」と、「治療関係を損なってしまう行動=治療阻害行動」の3つが、主なものになります。

特に「繰り返される自傷行為/自殺関連行動」が最優先で扱われていくわけですが、すでにお話ししてきたように、境界性パーソナリティ障害の人にとっての自傷行為は、つらい気持ちになった時の、一種の一時しのぎの鎮静剤的な効果がある行動です。 極めて一時的ですし、現実逃避でしかないのですが、それでもつらい気持ちに対する有効なほとんど唯一の対処行動なのです。 ほとんど唯一の対処行動ですが、この方法では、つらい気持ちを一瞬忘れることができても、現実的には何も変わりません。 そこで、治療の中では「スキル・トレーニング」として、自傷行為/自殺関連行動のような一時的で現実逃避的な方法ではない、もっと現実的な問題解決につながるやり方を練習していきます。

理屈的には、これはうまく行きそうです。 では、本当にうまく行くのか?

Linehan先生は、まずは自傷行為/自殺関連行動を繰り返す境界性パーソナリティ障害の人に対して1年間の「弁証法的行動療法 DBT(週1回1時間の個人面接と、週1回2時間半の集団療法の組み合わせ)」を行った場合と、ごくごく一般的な「普通の精神科治療」を行った場合を比べてみました。

すると確かに、「普通の精神科治療」を行った場合に比べて、特殊化された認知行動療法である「弁証法的行動療法 DBT」を行った場合は、より自傷行為/自殺関連行動は減り、より精神科入院してしまうことも減り、1年間よりしっかりと治療を続けることもできたのでした(この1年間のうちに「普通の精神科治療」では5割が脱落していたのに対して、「弁証法的行動療法 DBT」では2割以下の脱落)。
(ただ、不思議なことに、こうした行動面での明らかな優位性が示されているにもかかわらず、「弁証法的行動療法」は「普通の精神科治療」に比較して、抑うつ感や絶望感、人生を生きる意味の問題、死にたくなる気持ちそのもの、などの内面的な問題は、ほとんど全く優位性を示していませんでした。)

この結果に気を良くしたLinehan先生たちは、今度は1年間の「弁証法的行動療法 DBT」と、「境界性パーソナリティ障害の治療の専門家による、行動療法以外の、普通の治療 CTBE」とを比較してみることにしました。 そして、今回は1年間の治療が終了してから1年以上追跡調査もしてみたのです。

すると、「境界性パーソナリティ障害の治療の専門家による、行動療法以外の、普通の治療 CTBE」に比べて「弁証法的行動療法 DBT」を行った場合、自傷行為/自殺関連行動はより減り(自殺目的ではない自傷行為の減り方は、比較してそれほど目立ったものではなく、僅差で優位というくらいでしたが)、精神科入院はより減り、治療薬に依存してしまうこともより減り、治療からの脱落もより少ない結果が示されたのです。 そのうえ「弁証法的行動療法」の優位性は、1年後の追跡調査の時点でも保たれていました。
(しかし、今回もまた不思議なことに、抑うつ感や絶望感、人生を生きる意味の問題、死にたくなる気持ち、などの内面的な問題については、「弁証法的行動療法 DBT」は「境界性パーソナリティ障害の治療の専門家による、行動療法以外の、普通の治療 CTBE」に比較してほとんど全く優位性を示せませんでした。)

特に、衝動的行動の表れ方の一つである、自殺企図/自殺関連行動の減り方は目を見張るものがありました。

これはすごい! 境界性パーソナリティ障害という性格の問題とその衝動的攻撃性の行動面への表れに対して、ほとんど初めて「エビデンス(科学的根拠)」にもとづいて効くと言える治療法が作り出せたわけです。 これで、極めて難治であると言われ続けてきた境界性パーソナリティ障害に対して「治療法はこれだ」と言うことができる・・・と思われました。

が、しかし・・・


参考書:
(1) Linehan MM. “Cognitive-Behavioral Treatment of Borderline Personality Disorder” The Guilford Press (1993)

(2) Linehan MM, et al. Cognitive-behavioral treatment of chronically parasuicidal Borderline Patients. Arch Gen Psychiatry. 1991;48:1060-1064

(3) Linehan MM, et al. Two-year randomized controlled trial and follow-up of dialectical behavior therapy vs therapy by experts for suicidal behaviors and borderline personality disorder. Arch Gen Psychiatry. 2006;63:757-766


(歳をとれば治る、などという簡単なものではなく)長期予後が極めて悪い上に、治療も困難であると言われてきた境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorderに対して、米国のLinehan先生たちが作り上げた、特殊化された認知行動療法である「弁証法的行動療法 dialectical behavior therapy=DBT」は、週1回1時間の個人面接+週1回2時間半の集団療法を1年間続けることで、境界性パーソナリティ障害の目立った特徴である自傷行為/自殺関連行動を、「普通の精神科治療」に比較して、顕著に改善することが示されたのでした。 この研究報告によって、それまで本当に難治だとされてきた、この性格的な問題に対して、この治療法は、ほとんど唯一科学的な根拠を持って「改善できます」と自信を持っておすすめできる感じだったのです。

ところが…

この業界で俗に「スポンサー効果」と呼ばれている摩訶不思議な現象があります。 研究はまったく公正に行われているはずで、なんのデータ操作や捏造などしてないハズなのに、なぜだか研究費を出してくれている製薬会社の薬に有利な結果が出やすい傾向があるのです。 精神療法(心理療法)やカウンセリングも同様で、この特殊化された認知行動療法を強力に推進するLinehan先生たちが実施した研究だから、その「スポンサー効果」で、それに有利な結果が出てしまったのかもしれません。

そう疑ってみると、Linehan先生たちの「弁証法的行動療法」の対抗馬として用意された「境界性パーソナリティ障害の治療の専門家による、行動療法以外の、普通の治療 CTBE」の内容を見てみると、「境界性パーソナリティ障害の専門家」が実施しているという割には、治療面接(個人面接)の頻度が2週間に1回程度くらいしかなく、治療の脱落率が6割近くもあります(弁証法的行動療法の治療脱落率は25%)。 これまで「境界性パーソナリティ障害」の治療を専門的にやってきた「精神分析的(精神力動的)精神療法」の標準的なやり方では、治療面接の頻度は週1回〜2回ですし、平均的な脱落率は3〜4割だったというデータがあるので、どうも変です。 もしかすると「当て馬」として、わざわざちょっと質の悪い治療施設を選んだのではないだろうか?と意地悪な見方さえできてしまいます。

そこで、本家本元のLinehan先生以外の治療施設で「弁証法的行動療法 DBT」を実施して、それと「普通の精神科治療」を比較したらどうなるか?

そこで、オランダのLouise先生たちは、「境界性パーソナリティ障害」の女性を対象に、Linehan先生たちの作り上げた「弁証法的行動療法 DBT」をそっくりそのまま取り入れて1年間実施した場合と、「普通の精神科治療」を比較してみました。

その結果は、米国のLinehan先生たちの結果とほぼ同じで、1年間の治療後に効果測定してみると、「普通の精神科治療」に比較して「弁証法的行動療法 DBT」を1年間みっちり受けた人たちは、治療期間の経過とともに自傷行為/自殺関連行動が目立って減ったのでした。 しかも、この自傷行為/自殺関連行動の減少効果は、もともと自傷行為/自殺関連行動の程度がひどい人ほど、顕著に現れたのでした。

…という結果ですが、またしても「普通の精神科治療」の内容を詳しく見てみると、治療面接は2週間に1回程度か、それ以下ですし、脱落率は7割以上もあります。 かなり質の悪い治療と言わざるを得ません。 

さらに、確かに「弁証法的行動療法」は「(どちらかというと質の悪い)普通の精神科治療」に比較して、目立った行動面の問題である自傷行為/自殺関連行動や衝動行為の減少という点では優位だったのですが、「抑うつ感」や「絶望感、空虚感」などのより内面的な問題の改善については優位性を示せていません。

Linehan先生のオリジナルな「弁証法的行動療法 DBT」とは違いますが、同じ認知行動療法の手法を使ったやり方で、英国のDavidson先生たちは境界性パーソナリティ障害の人たちの1年間の治療を行い、これを「(それほど質が良いとは言えない)普通の精神科治療」を比較して、その後6年間も追跡調査してみました。

その結果、確かに自傷行為/自殺関連行動は「認知行動療法」を1年間みっちりやった人の方が目立って減ったのですが、今回もまた「抑うつ感」や「絶望感」、「全般的な生活の質」などの差は出なかったのです。

その他の研究でも、繰り返し繰り返し、境界性パーソナリティの繰り返す自傷行為/自殺関連行動に対して特殊化して作られた認知行動療法である「弁証法的行動療法」(あるいはその他の似たような認知行動療法)は、確かに主な治療ターゲットとしている自傷行為/自殺関連行動は目立って減少させることができるものの、境界性パーソナリティ障害のよりコアな問題であろう「抑うつ感」や「怒り」、「絶望感、空虚感」、「生きる意味のわからなさ」などの内面的な問題はあまり目立って改善させることはできなさそうなことが示されたのです。

そんな、バカな…。 カナダのMcMain先生たちは、本家本元のLinehan先生の「弁証法的行動療法」をそっくりそのまま1年間実施した場合と、それ以外の「普通の精神科的治療」を1年間実施した場合の治療効果を2年間追跡調査してみました。

今回の「普通の精神科的治療」は、「カナダにおける普通の精神科的治療」であり、主には精神分析的(精神力動的)精神療法を週1回1時間行うという、かなり質の良い治療になっています。 (これに対する「弁証法的行動療法」は、本家本元のやり方通り、週1回1時間の個人面接+週1回2時の集団療法となっていました。) この「普通の精神科治療」が、主には週1回の精神分析的(精神力動的)精神療法を併用した、かなり質の良いものであったであろうことは、治療脱落率も38%(弁証法的行動療法の方の脱落率は39%)だったという、こうしたちゃんとした精神療法を行った場合の平均的な脱落率だったことからも示唆されます。

その結果…、なんと今回は自傷行為/自殺関連行動の減少という項目でも、他のどの項目でも、「弁証法的行動療法」は「(かなり質の良い)普通の精神科治療」に対して優位性を示せなかったのです。 それどころか、2年後の追跡調査では、「弁証法的行動療法」の治療効果は治療期間が終わってしまうと「中折れ」する傾向があり、特に内面的な症状については改善がより悪くなっている傾向まで示されたのです。
(実は、これは「弁証法的行動療法」に限らず、一般に「行動療法」や「認知行動療法」は治療ターゲットがはっきりしている分だけ目立った行動面での治療効果発現は早いものの、その後の改善は、それ以外の普通の精神療法に比較して、「中折れ」してしまう傾向が強いことが、幾つもの研究結果で繰り返し示されてきたことでした。)

結局のところ、「弁証法的行動療法」は「境界性パーソナリティ障害」という性格の問題に対する本質的な治療なのではなく、「境界性パーソナリティ障害」に随伴しがちな自傷行為/自殺関連行動などの衝動行為に対する「とりあえず、その問題行動を収めるための介入」といった意味合いが強い、ということだったのでしょう。

(そうではあっても、Linehan先生たちが「境界性パーソナリティ障害」に対して認知行動療法的な治療法で改善を示して見せたことは、それ以外の治療法を実践していた専門家にとって、大きな良い刺激になりました。 その後1990年代の後半以降、それに刺激されたように、長らくずっと治療効果の測定を行ってこなかった、それゆえにちゃんと科学的な根拠を持って「効きます」と言えてこなった精神分析的(精神力動的)精神療法を行う専門家たちが、Linehan先生たちの研究デザインと似たような方法を使って、その有効性/有用性を科学的に示して見せるようになってきたのです。 その意味では、この領域において、確かに大きな突破口を開いたことにはなったのです。)


参考書:
(1) Louise RV, et al. Dialectical behaviour therapy for women with borderline
personality disorder: 12-month, randomised clinical trial in the Netherlands. British Journal of Psychiatry, 2003; 182: 135-140.

(2) Davidson KM et al. Cognitive therapy v. usual treatment for borderline personality
disorder: prospective 6-year follow-up. British Journal of Psychiatry, 2010; 197: 456-462.

(3) McMain S, et al. A randomized trial of dialectical behavior therapy versus general psychiatric management for borderline personality disorder. Am J Psychiatry 2009; 166:1365–1374.

(4) McMain S, et al. Dialectical behavior therapy compared with general psychiatric management for borderline personality disorder: clinical outcomes and functioning over a 2-year follow-up. Am J Psychiatry 2012; 169:650–661.


重症性格障害 severe character disorderの一つである「境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder」を含めて、いろいろな性格障害 character disorderと呼ばれてきた問題に対する治療としては、20世紀後半くらいまではもっぱら精神分析 psychoanalysis(1回1時間、週4回〜5回)や精神分析的(精神力動的)精神療法 psychoanalytic (psychodynamic) psychotherapy(1回1時間、週1回〜3回)が行われていました。

ところが、治療プロセスの一部として常にデータを取りながら治療を進めていく行動療法/認知行動療法と違い、精神分析/精神分析的(精神力動的)精神療法は基本的にデータを取ることをしません。 それどころか、治療者/患者関係(転移関係)を重視し守秘性とプライバシーを重視するこのやり方は、第三者的な治療効果測定を行うこと自体を治療のルールとして禁止していたのです。 このため、境界性パーソナリティ障害を含めて、いろいろな性格の問題に対して、この治療法が効果があるだろうことは経験的には知られていても、客観的なデータを持って科学的な根拠にもとづいて効果があると言えずに来てしまっていたのです。

そこに、1990年代に入ってのLinehan先生たちによる行動療法/認知行動療法の結果の大々的なサクセスストーリーの発表です。 おそらくこれが大きな良い刺激になって、すでに長いこと境界性パーソナリティ障害の治療を行ってきていた精神分析的(精神力動的)精神療法の専門家たちが、治療効果に対するしっかりとしたデータを取り始めたのです。 (もちろん、この第三者的な評価を入れる、データをとる、という行為自体が、本来的な精神分析的(精神力動的)精神療法のルールに反しており、これが場合によっては治療効果を落としてしまう可能性さえあったわけですが、そうは言っていられない事情になってきた…ということでしょう。)

精神分析的(精神力動的)精神療法では、治療関係(治療者/患者関係)に展開する気持ちをしっかり理解していくことを重視します。 治療関係に展開する気持ちのことを、精神分析の用語では伝統的に「転移 transference」と呼んできました。 「転移」という言葉に現れているように、精神分析の基本的な考え方では、患者が幼少期の養育者やその他の重要な他者との関係性の中で体験してきた気持ちを、治療者との関係でも繰り返しているのだ…となります。 理屈的にはそうなのですが、古典的な精神分析のやり方とは違い、現在の精神分析的(精神力動的)精神療法では、患者が治療関係の中で治療者に対して感じる感情を丁寧に理解していくことはしても、それをわざわざ過去の重要な他者(両親など)との関係に関連付けて解釈することはしなくなっています。 ただただ、「今ここで、この治療関係の中で」患者が治療者のどんな言動に対して、それをどう感じ、受け取り、だからどのような気持ちになっているのかを、2人で丁寧に見ていく作業を続けていくのです。

これによって何をしているのか? 何の治療的な意味があるのか?

境界性パーソナリティ障害の人は、自分が何をどう感じているか、どんな気持ちでいるのかをしっかり理解せずに衝動的に動いてしまうことが多いことが知られています。 これを行動療法/認知行動療法の分野では体験回避 experiential avoidanceと表現し、だから「自分の気持ちをしっかり感じ理解すること」=マインドフルネス mindfulnessを重視していたのでした。 同じことを、精神分析的(精神力動的)精神療法の分野では「メンタライゼーション mentalization」=「自分や相手の気持ちを、意識的/無意識的に、しっかり感じ、とらえ、理解する能力」のなさとして表現します。 (このあとでやるKernbergらの別の精神分析的精神療法では、どうして患者のメンタライゼーション機能が破綻しているのかについて、そこに生得的な攻撃性の高さと、それによる思考の破壊、否認/分裂という防衛機制があることを理論的に想定しているのですが、今回見ていくFonagyとBatemanの「メンタライゼーションを重視した精神分析的精神療法」では、そこまで理屈的に原因を追究していません。 ただ、境界性パーソナリティ障害の人はこの機能が低いと言っているのです。)

精神分析的(精神力動的)精神療法の中で、治療関係=転移関係に生じる感情や気持ちをしっかり理解していく作業を繰り返すことで、このメンタライゼーション機能が改善していくことを促していくのだ、と考えることができます。

この精神分析的(精神力動的)精神療法が治療のターゲットにしているのは、まさにここです。 目立った症状である自傷行為やその他の衝動行為は、メンタライゼーション機能が良くなり物事をしっかりと考えることができるようになったら自然に治っていくだろうと考え、取り立てて治療のターゲットにはしないのです。 治療関係(患者の治療者との対人関係)以外の対人関係の問題も、治療者との関係を安定して持って行く心がしっかりつくられてきたら、自然に良くなっていくだろうと考え、わざわざ治療のターゲットにはしないのです。 気持ちの落ち込みも、不安も、怒りも、こうしたそれぞれの症状も特に治療ターゲットにして扱うことはせず、これらの問題も治療関係というきわめて親密でプライベートな関係性の中で自分や相手の気持ちにしっかりと安定して向きあうことができるようになったら、自然に解消していくだろうと考えるのです。 この点で、行動療法とは大きく違います。

そのような理屈を背景に、通常の精神分析的(精神力動的)精神療法は1回1時間、週1回〜3回という頻度で治療面接を行っていきます。 果たして理屈どおりに症状改善は得られるのか?

英国のFonagy先生とBateman先生たちは、精神分析的(精神力動的)精神療法の中でも、やや支持的療法の色彩の強い「メンタライゼーションを重視した精神分析的精神療法 mentalization-based psychoanalytically oriented therapy」を境界性パーソナリティ障害の人達(平均年齢30歳、約半数以上は女性)を対象に行ってみました。

まずは週1回1時間の個人精神療法+デイケアでの集団療法の組み合わせで行ってみました。 (デイケアとはいっても、かなり本格的で、毎日なんらかの集団療法が行われるプログラムになっていました。)

おそらく英国の医療費抑制政策の事情もあって、この治療を行うのは精神分析的精神療法についての高度な教育訓練を受けた精神科医や臨床心理士ではなく、なんと(特別な教育をしているとはいえ)より人件費の安い精神科看護師です。

精神分析的(精神力動的)精神療法は、行動療法/認知行動療法などと比較しても、なかなかその技術の習得が特に難しい治療法です。 それを、いくら医療費抑制のためとはいえ、特別な教育をしたとはいえ、特に長期間におよぶ高度な教育訓練を受けたわけでもない精神科看護師にできるのか? 本当にできるのか?

デイケアのプログラムに乗せる形で行われた精神分析的個人療法+集団療法(メンタライゼーションを重視した精神分析的精神療法 mentalization-based psychoanalytically oriented therapy)を18ヶ月行ってみた場合と、「普通の精神科通院」(=2週間に1回くらい通院して診察を受けるくらいのもの)を18ヶ月漫然と続けた場合とを比較してみました。

すると、当然といえば当然のように、この1年半の間に「普通の精神科通院」を漫然と続けていただけの人は、自殺企図/自傷行為が減ることはほとんどありませんでした。 しかし、「精神分析的個人療法+集団療法」をみっちりやってきた人は、ゆっくりですが着実に自殺企図も自傷行為も減ってきたのです。

では、もっと内面的な変化はどうか?

これまた当然といえば当然のように、この1年半の間ずっと漫然と「普通の精神科通院」を続けていただけの人は、抑うつ症状も不安症状もほとんど目立った改善をすることはありませんでした。 それに対して、「精神分析的個人療法+集団療法」をみっちり続けた人は、抑うつ症状も不安症状も、だいたい半年を過ぎた頃から、ゆっくりと改善していく傾向がはっきりと出たのです。 さらに、全般的な症状レベルも、社会的適応度合いも、「精神分析的個人療法+集団療法」をみっちりやった人たちは、ただ漫然と「普通の精神科通院」を続けていただけの人に比較して、有意に改善していました。

目立った症状である自傷行為/自殺関連行動などの衝動的行動だけでなく、抑うつ感や不安、社会的適応などより全般的な内面的な改善が示されたのは、Linehan先生たちの認知行動療法では苦手だった点であり、大きな意味があります。

しかし、週1回1時間の個人療法に加えて毎日何かしら集団療法を行うなどという、あまりにも濃厚すぎる治療プログラムはどうなんでしょう(とても「安かろう、悪かろう、最低限をやろう」が信条の日本の保険医療制度ではできません)? もっと普通にできるくらいに簡素化できないものでしょうか? それにこの効果はちゃんと長期間持続するものなのでしょうか? また中折れとかしないでしょうか?


参考書:
(1) Fonagy P & Bateman A. “Psychotherapy for Borderline Personality Disorder: Mentalization Based Treatment” Oxford University Press (2004)

(2) Fonagy P & Bateman A. Mentalization based treatment for borderline personality disorder. World Psychiatry 2010; 9: 11-15.

(3) Bateman A & Fonagy P. Effectiveness of partial hospitalization
in the treatment of borderline personality disorder: a randomized controlled trial. Am J Psychiatry 1999; 156:1563–1569.

(4) Bateman A & Fonagy P. Treatment of borderline personality disorder
with psychoanalytically oriented partial hospitalization: an 18-month follow-up. Am J Psychiatry 2001; 158:36–42.

(5) Bateman A & Fonagy P. Randomized controlled trial of outpatient mentalization-based treatment versus structured clinical management for borderline personality disorder. Am J Psychiatry 2009; 166:1355–1364.

(6) Bateman A & Fonagy P. 8-year follow-up of patients treated for borderline personality disorder: mentalization-based treatment versus treatment as usual. Am J Psychiatry 2008; 165:631–638.


古くから境界性パーソナリティ障害の治療を行っていた、普通の良識ある精神分析的(精神力動的)精神療法のやり方をうまいこと抽出して、英国のFonagy先生とBateman先生たちは「メンタライゼーションを重視した精神分析的精神療法 mentalization-based psychoanalytically oriented therapy」という名前にしてマニュアル化して、まずはデイケアのプログラムに乗せるような形で、週1回1時間の個人面接と毎日何かしら集団療法を行う18ヶ月の治療プログラムを組んで、境界性パーソナリティ障害の治療に使ってみたのでした。

治療終了時、つまり1年半後には、この「精神分析的個人療法+集団療法」を行った人たちは、その同じ期間ただ漫然と「普通の精神科通院」を続けていた人たちに比較して、目立った改善が見られました。 自殺企図や自傷行為は目立って減っていましたし、抑うつ症状、不安症状、社会適応などもすべて改善していたのです。

…が、この効果はちゃんと持続するでしょうか? 認知行動療法の時によくある「中折れ」現象を起こさないでしょうか?

というので、このFonagy先生とBateman先生は、この人たちをさらに1年半、その後さらに5年間追跡調査しました。
(この「精神分析的個人療法+集団療法」のプログラムでは、週1回の個人療法と、毎日何かしらの集団療法が行われますが、1年半以降3年まではデイケアでの集団療法のみになります。そして全3年ですべての治療プログラムが終了する、というようになっていました。)

その結果…。

まず3年目の時点で、最初の1年半に見られた改善は、「中折れ」するどころか、さらに改善が進んでいました。 自殺企図/自傷行為はさらに減り、抑うつ症状、不安症状はさらに軽減していきました。 そのうえ対人関係や社会適応もさらに良くなっていき、「精神分析的個人療法+集団療法」をみっちりやった人たちと「普通の精神科通院」を漫然と続けてしまった人たちとの開きは、さらに広がっていったのです。

それからさらに5年。 治療プログラムを卒業した彼ら/彼女らはどうなっていたか?

「精神分析的個人療法+集団療法」をみっちりやった人と、「普通の精神科通院」を漫然と続けていただけの人では、その差は歴然でした。 「普通の精神科通院」を続けていた人たちは、5年後(最初のエントリーから8年後)にもいまだに自殺企図や自傷行為を繰り返し精神科入院を繰り返す人たちがずいぶんいましたが、「精神分析的個人療法+集団療法」をやった人たちにはそうしたことはほとんどなくなっていました。 症状が安定しないために向精神薬を多剤(3剤以上)使ってしまう人も、「普通の精神科通院」を続けていた人たちには大勢いましたが、「精神分析的個人療法+集団療法」をやった人たちにはいませんでした。 さらに、社会適応も改善し、次第に「学校や仕事にちゃんと通っている人」の割合(当初は0でした)が増えて行く様子が見られたのです。

とはいえ、あまりにも濃厚な治療です。 毎週1回1時間の個人面接はまだ良いとして、月曜日から金曜日まで毎日何かしらの集団療法を行うなんていう超濃厚な治療はあまり実用的ではありません。 そこまでしないと治療効果が出ないというなら、ちょっと問題です。

そこでFonagy先生とBateman先生は、デイケアのプログラムに乗せない、普通の外来治療としてできる「週1回1時間の個人療法+週1回1時間半の集団療法」の簡素化した組み合わせ治療をやってみることにしました。 (これなら、学校/仕事に行っている人でも参加できそうです。)

今回はこの「精神分析的個人&集団療法」を、普通のカウンセリング(支持的精神療法)を同じように週1回の個人面接+週1回の集団療法で行う場合とで比較してみました。
(つまり、両方とも毎週2回はかならず十分な時間をとった治療に通うことになり、かなりちゃんとした、フォーマルな精神療法だと言えます。 これは「普通の精神科治療」に漫然と通うことや、Linehan先生たちの研究で出てきた2週間に1回くらいしか面接を行わない「境界性パーソナリティ障害の治療の専門家による、行動療法以外の、普通の治療 CTBE」に比較すると、その良質さがわかると思います。)

その結果…。 やはりというか、なんというか、その両方のやり方で治療効果は出てきました。 どちらの治療を受けた時も、1年半も治療を続けていくうちに、境界性パーソナリティ障害の人たちの自殺関連行動/自傷行為は減り、抑うつ感や不安感は減り、対人関係や社会適応は改善していったのです。

しかし、普通のカウンセリング(支持的精神療法)に比較して、「メンタライゼーション」を重視した精神分析的精神療法の方がさらにより治療効果が高かったのです。

Fonagy先生とBateman先生は、繰り返し「この治療法はオリジナルなものでも、特別なものでもない」と言っていますが、まさにその通りでしょう。 すごく以前から良識ある普通の精神分析的精神療法(やや支持的要素の強いタイプのもの)が境界性パーソナリティ障害に治療として行っていたものなのです。 彼らがやったことは、その治療効果を科学的に証明して見せた、その有効性/有用性を再発見した、ということだったのでしょう。


参考書:
(1) Fonagy P & Bateman A. “Psychotherapy for Borderline Personality Disorder: Mentalization Based Treatment” Oxford University Press (2004)

(2) Fonagy P & Bateman A. Mentalization based treatment for borderline personality disorder. World Psychiatry 2010; 9: 11-15.

(3) Bateman A & Fonagy P. Effectiveness of partial hospitalization
in the treatment of borderline personality disorder: a randomized controlled trial. Am J Psychiatry 1999; 156:1563–1569.

(4) Bateman A & Fonagy P. Treatment of borderline personality disorder
with psychoanalytically oriented partial hospitalization: an 18-month follow-up. Am J Psychiatry 2001; 158:36–42.

(5) Bateman A & Fonagy P. Randomized controlled trial of outpatient mentalization-based treatment versus structured clinical management for borderline personality disorder. Am J Psychiatry 2009; 166:1355–1364.

(6) Bateman A & Fonagy P. 8-year follow-up of patients treated for borderline personality disorder: mentalization-based treatment versus treatment as usual. Am J Psychiatry 2008; 165:631–638.


境界性パーソナリティ障害に対する治療として、古くから行われてきていた精神分析的(精神力動的)精神療法 psychoanalytic (psychodynamic) psychotherapyが本当に有効かどうか?

Fonagy先生とBateman先生たちの「メンタライゼーションを重視した精神分析的精神療法 mentalization-based psychoanalytically oriented therapy」がその有効性/有用性を示していましたし、本来的には認知行動療法の一種である弁証法的行動療法 dialectical behavior therapyの有効性/有用性を示したくて行ったカナダのMcMain先生たちの研究結果(Am J Psychiatry 2012; 169:650–661.)が、図らずも、その対抗馬として用意した「普通の精神科治療」が普通に併用していた精神分析的(精神力動的)精神療法が弁証法的行動療法に勝るとも劣らない有効性/有用性があることを示していました。

とはいえ、McMain先生たちの場合は、あくまで対抗馬として用意されていたものであることもあり、その内容がしっかりと定義づけされていませんでした。 一方で、Fonagy先生とBateman先生の「メンタライゼーションを重視した精神分析的精神療法」は、精神分析的精神療法とはいえ、かなり支持的精神療法の色合いの濃いものですし、しかも週1回の普通の個人面接に加えて、デイケアでの複数回の集団療法や外来での週1回の集団療法などを組み合わせており、いわゆる普通の精神分析的精神療法ではありませんでした。

そこで、精神分析的精神療法の中でも「対象関係論 object relation theory」と呼ばれる一派の流れをくむ米国のKernbergn先生たちは、「転移に焦点づけられた精神力動的精神療法 transference-focused psychodynamic psychotherapy=TFP」と名付けた、週2回45分の、ごくごく平均的な普通の精神分析的精神療法が境界性パーソナリティ障害に効くかどうかを見てみることにしました。
(ちなみに、日本の保険医療制度のもとでは、週2回の精神分析的精神療法は「過剰である」としてお上に認めてもらえず不可能なので、保険医療で行うとすると、どうしても週1回ということになってしまいます。)

Kernberg先生たちの理論では、境界性パーソナリティ障害の人たちは生得的な攻撃性の強さから、心理的に親密な関係にある相手(対象 objectという言い方をします)に対して愛情とも憎しみともつかない混乱した感情を同時に向けてしまうのですが、その攻撃性があまりに強いために、憎悪が愛情を完全に破壊してしまうことへの不安から、対象を心理的に分裂させ、思考プロセスも分裂させ、混乱したままにしておくことで、憎悪が愛情を破壊してしまうことを防衛しているのだ、と考えました。 治療の中では、一切の「支持的精神療法」のやり方は使わず、ただただ転移関係=治療者/患者関係に展開することになる、最初のうちは混乱して愛情とも憎しみともつかない感情を丁寧に丁寧に扱い、理解していく作業を繰り返していきます。 この作業を繰り返すうちに、分裂してしまうことのない、一貫した気持ちを持てるようになり、一貫した「自分」像と一貫した「他者」像が形成される力をつけていくことになり、メンタライゼーション能力をつけていくことになり、こうして心が成長することによって、二次的に症状(衝動行為、抑うつ感、不安、など)も治っていく…と考えていくのです。

理屈的にはそうなのですが、果たして本当にそうなるのか?

まずは、この「転移に焦点づけられた精神力動的精神療法 TFP」をその他の「ただの普通の精神科治療」や、パーソナリティ障害向けに特殊化された認知行動療法の一種などフォーマルな精神療法と効果比較してみました。 その結果は、ものによっては「転移に焦点づけられた精神力動的精神療法 TFP」の方が微妙に優れていたり、ものによっては対抗馬の方が微妙に優れたりしていますが、これはいわゆる「スポンサー効果」を眉に唾して差し引いてみると、結論としていずれにしろかなりの効果があることが示唆されてきました。

そこで、Kernberg先生たちは、思いきって、「転移に焦点づけられた精神力動的精神療法 TFP」(週2回、1時間=正確には45分の個人面接)と、Linehan先生たちのオリジナルな「弁証法的行動療法 DBT」(週1回1時間の個人面接+週1回2時間半の集団療法)のやり方、そして週1〜2回1時間の「普通の支持的精神療法 supportive psychotherapy」を1年間続けた結果を比較することにしたのです。 いずれも、しっかりと構造化された、フォーマルな精神療法です。 その結果はどうなったか?

1年後、すべてのしっかりと構造化された、フォーマルな精神療法を受けた人たちは、みな同じくらいに改善していました。 詳細を見ると、微妙に自殺関連行動の改善については「普通の支持的精神療法」よりも「弁証法的行動療法」や「転移に焦点づけられた精神力動的精神療法」の方が優れていましたし、怒りや攻撃性の改善については「弁証法的行動療法」よりも「普通の支持的精神療法」や「転移に焦点づけられた精神力動的精神療法」の方が優れていました。 が、全体としてみると、この1年間では、ほとんど目立った差はなかったのです。
(これまでの研究結果から、精神力動的(精神分析的)精神療法の効果は「スロースターター」であり、数年後以降に効果が伸びてくること、治療終了後の「中折れ」がないであろうことが予測されるのですが、残念ながらこのKernberg先生たちの研究結果は、今の時点では、長期追跡調査の結果は公表されていませんでした。)

さらに境界性パーソナリティ障害のより内面的で中心的な問題であると考えられている「愛着 attachment」の障害についてみると、「普通の支持的精神療法」や「弁証法的行動療法」を行った場合に比較して、「転移に焦点づけられた精神力動的精神療法」を行った場合は、もともとあった愛着の障害がかなり改善し、その反映である「内省機能 Reflective Function=RF」がかなり改善する傾向にあることさえも示されたのです。

繰り返しになりますが、このKernberg先生たちの治療法も、先に出てきたFanagy先生とBateman先生たちの治療法も、決してオリジナルな「最新の」治療法というわけではありません。 古くから「普通の精神分析的(精神力動的)精神療法」として広く行われてきたものを、再び科学的にその効果を検証するためにマニュアル化して再定義してみたというだけのものです。

古くから普通に行われてきた普通の治療が普通に効くのだ、ということを確認することは、完全にオリジナルな新しい治療法の効果を確認することと同じくらい、医学という科学の領域ではとても大切なことです。

それにしても出てきた結果をどう見るでしょう? 最低でも週1回の、しっかりと構造化された、フォーマルな精神療法を年単位でやっていくことなしには、こうした重症の性格的問題が治っていくのは難しい…と言えるのでしょう。 大変な時間と労力とお金が必要なのです。 まあ、性格の問題ですから、そう簡単に治るわけはないのですが。


参考書:
(1) Clarkin JE, Yeomans FE, Kernberg OF. “Psychotherapy for Borderline Personality: Focusing on Object Relations” American Psychiatric Publishing(2006)

(2) Clarkin JF, et al. Evaluating three treatments for borderline personality disorder: a multiwave study. Am J Psychiatry 2007; 164:922–928.

(3) Levy KN, et al. Change in attachment patterns and reflective function in a randomized control trial of transference-focused psychotherapy for borderline personality disorder. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 2006; 74: 1027-1040.

(4) Doering S, et al. Transference-focused psychotherapy v. treatment by community psychotherapists for borderline personality disorder: randomised controlled trial. The British Journal of Psychiatry (2010); 196: 389–395.

(5) Giesen-Bloo J, et al. Outpatient psychotherapy for borderline personality disorder: randomized trial of schema-focused therapy vs transference-focused psychotherapy. Arch Gen Psychiatry. 2006; 63: 649-658.