第9章 神経症5:社交不安障害
(対人恐怖、パフォーマンス不安)
【プロローグ】
(ここでのケースはフィクションです)
Hさんは20代半ばの独身男性です。数カ月前にあった人事異動で、これまでの事務仕事から営業の仕事に移ることになりました。これがHさんにとっては悲劇でした。Hさんはもともど「あがり症」があって、初対面の人と会って話すことが大の苦手だったからです。
Hさんが「あがり症」を意識しだしたのは、中学生の頃からでした。授業中にさされて朗読をした時にひどく緊張して赤面し、声がうわずってしまったことがあり、そのことでひどく動揺したのでした。しかも、それをクラスの仲間にばかにされたこともかさなり、すっかり人前で話したりすることが苦手になってしまったのです。その後、高校でも大学でも、人前で話したり、発表したりするときはいつも赤面し、身体が震え、汗をかいてしまいました。こんな風にへんに動揺している自分をみんなはどう見ているだろうと思うと、なおさら不安になるのでした。大勢の人前で話すことだけでなく、見知らぬ人に話しかけたり、教授などの目上の人と話すこともひどく緊張しました。初対面の人に悪い印象を与えてしまうのではないか? へんに緊張しているおかしな人だと思われるのではないか? ダメな人だと評価されているのではないか? などなどと考えるとよけいに頭が真っ白になってしまうのでした。
就職して、最初に配属されたのは内勤の事務仕事でした。Hさんにとっては、新しい環境で新しい人たちの中で緊張と不安の連続でしたが、何とかやってこれました。しかし、今回の営業への配置転換は、毎日があまりにも苦痛になってしまいました。毎日のように、ほとんど見知らぬ人と会って話をしなくてはなりませんでしたし、Hさんの赤面やふるえに相手が気づきへんに思うのではないか? と不安でなりませんでした。不安が強まってくると、相手に気づかれる前に早めに話を切り上げてしまうことも続き、これでは営業にならないな・・・と思ってもいました。会議での発表や顧客相手の商品説明も苦痛でした。あまりに緊張してしまうために、めまいや吐き気までするくらいでした。
「これではとても仕事を続けられない・・・」と思い、Hさんは仕方なく精神科を受診することにしたのでした。
【社交不安性障害とはどんな疾患か?】
社交不安性障害とは、対人関係場面に対して過度な不安を持ってしまう問題の総称です。「パフォーマンス不安」あるいは「ステージ恐怖」とよばれる大勢の人の前でスピーチをしたり何かのパフォーマンスをすることに対する不安と緊張を持ってしまうタイプのものも、1対1の対人関係も不安と緊張でうまくいかなくなってしまうもの(全般性社交不安障害)も、含まれてきます。ほとんどが思春期頃から始まり、その後ずっと持続します。こうした対人関係での「恥ずかしがり」傾向には、かなりの遺伝性があることが分かっており、つまり、この「疾患」の原因の大部分は「育ち」よりもむしろ「生まれ」あるいは体質的な要因にあることが分かっています。社交不安性障害は、本当にこれを「障害」あるいは「疾患」とすることが適切なのか? という議論が出てしまうことが時々あるくらいにありふれた問題であり、有病率は10%程度あるいはそれ以上ではないかと見られています。実際、50人以上の大勢の人を前にして全く何の不安も緊張もなく自然なスピーチをすることができる人の方が少ないかもしれません。しかし、こうした不安や緊張があまりに強いために、社会生活(日常的な対人関係や仕事など)に支障を来すようになると、そしてそれを治療の対象とするようになると、それは「障害」と呼ぶことになるのです。
社交不安性障害を持つ人の症状は、典型的には「認知」と「行動」そして「身体症状」の3つの面で症状が表れます。まず「認知」ですが、多くの社交不安性障害の人は、人前での自分の振る舞いがちゃんとできないこと、それによってネガティブな評価をされることを過度に気にしてしまいます。本当は他人はそんなに気にしていないようなことでも、気にされていることを気にしてしまうのです。そして相手のちょっとした言動を「ネガティブな評価をされた」「つまらないと思われている」「ダメだと思われている」などとネガティブに解釈する傾向があります。そうすると、多くの人はこうした不安や居心地の悪さを避けるために「回避行動」をするようになります。人前で何かをする機会を避けようとしたり、パーティーなどではあえて世話役/裏方を買って出ることでなるべく他人と話さないで良いようにしたり、不安や緊張が相手に気づかれてしまう前に早めに話を切り上げてしまったり、他人と会食をする機会を避けようとしたり、赤面を隠すために厚化粧をしたり、汗をかかないように寒い格好をしたり、などなどいろいろあります。そして不安や緊張の表れである幾つもの「身体症状」を伴います。つまり、発汗、赤面、震え、喉のつまり感、息苦しさ、声のうわずり、などです。そしてこうした身体症状が出てしまうこと、それを相手に気づかれへんだと思われてしまうこと、精神的に弱いと思われてしまうことを過度に恐れ、隠そうとすることも非常に多いです。しかし、こうした不安にとらわれ、それをコントロールしようとすればするほどますます気になってくる傾向があるので、なかなかうまくいかず、むしろ不安はどんどん強まってしまい、「頭が真っ白」になってしまうことも少なくないのです。
社交不安性障害の中でも不安がより広範囲であり、1対1の対人関係でも過度に緊張し、ネガティブに評価されることへの不安が強く、相手のちょっとした言動で否定されている/軽んじられているという傷つきを感じてしまうために、対人関係を持つことそのものを避けてしまうことがずっと続く「全般性社交不安性障害」は、診断的に「回避性パーソナリティ障害」と重なるところがあります。
社交不安性障害は対人関係を持つことへの不安が主な問題ですが、対人関係を持つことに対する不安は、統合失調症、感情障害、軽症発達障害、パーソナリティ障害、など幾つものその他の精神障害に見られる症状であり、対人関係への不安があれば社交不安性障害と言えるものではありません。それぞれに全く治療内容が異なってくるので注意が必要でしょう。
【社交不安性障害に対する心理療法】
社交不安性障害が近年になってこんなにも一般の人たちの知るところとなったのは、おそらくは製薬会社による熱心な広報活動のためでしょう。そのことからお分かりのように、社交不安性障害に対しては選択的セロトニン再取り込み阻害薬に分類される抗うつ薬がある程度の効果をあげることが分かっています。また不安が一時的なものである「ステージ恐怖」に対しては舞台に上がる前にベンゾジアゼピン系抗不安薬を少し使ったり、ベータ遮断薬(一般には高血圧の薬として使われているものです)を使ったりすることで、不安・緊張やその身体症状としての表れを抑えることができるために使われることがあります。
しかし、薬物療法は対症療法であるために根本的に治すものではありません。このため例え抗うつ薬を使って治療を開始したとしても、心理療法的にこの障害の克服を目指していった方が良いとは言えるでしょう。
これまでの研究で有効性が実証されている心理療法は「曝露療法」を主な手段とする認知行動療法だけです。つまり、社交不安性障害においては、他の不安障害と同様に、不安に感じている状況(社交状況)を不安であるがゆえに避けているために、かえって不安の克服ができなくなっていると考えるのです。このため、認知行動療法では、これまで避けていた社交状況に対して計画的に自分自身の身を置くようにし、不安を感じることはあっても回避しないようにし、そうして不安に対しての「慣れ」を生じさせていくという考え方になります。もちろん、不安や緊張はかなり減らすことはできても「完全に」消せるものではありません。しかし、それで良いのです。不安ではあっても、すべきことができる程度のものであれば社会生活上は問題ないからです。それが現実的な治療目標になっていきます。
曝露療法は、その他の不安障害に対する曝露療法と同様に、行き当たりばったりにやれば良いものではなく、計画的に実施すべきものです。しかも時々気が向いた時にやれば良いものでもなく、できれば毎日行うべきです。そして一切の回避行動をすることなく、十分に長い時間(不安を感じて、その不安が徐々に高まり、しかしいずれピークを過ぎて下がっていくまで)その不安状況への曝露を続けるべきものです。さらに、有効性を実証されている認知行動療法では多くの場合は集団療法の形を使い、実際に集団場面でスピーチをさせるなどの訓練も併用しています。このように、かなり本格的に濃密にやっていくことで、相当の治療効果を得ることができることが分かっており、その効果は持続性があることも分かっています。
また、社交不安性障害に対する実証研究は乏しいのですが、C群パーソナリティ障害に含まれる回避性パーソナリティ障害については、精神力動的精神療法もある程度の治療効果を得ることが示唆されており、いわゆる「パフォーマンス不安」や「ステージ恐怖」に対する直接的な効果にはかなり疑問がありますが、「全般性社交不安性障害」に対しては精神力動的精神療法が有効に作用する可能性はあるかもしれません。
それ以外の心理療法の有効性は確認されておらず、一般的カウンセリングや通常のリラクセーション法、催眠療法、などは単体ではあまり持続的な効果は期待できないと考えた方が良いでしょう。
【エピローグ】
Hさんが受診した精神科では、精神科医は選択的セロトニン再取り込み阻害薬と呼ばれる抗うつ薬を処方しました。精神科医がいうには、抗不安薬を使うと不安はすぐにとれるが、それに頼ってしまうことが多いために、できれば避けた方が良いだろうということだったので、Hさんは一応それに従いました。
服薬を開始してしばらくすると、症状はずいぶん軽くなりました。以前に比べたら不安や緊張はやわらぎ、それほどとらわれなくなっていました。しかしまだ症状は続きましたし、一体いつまで服薬を続けなくてはいけないのか疑問でもありました。Hさんは自分の「あがり症」は性格のようなものだから、これを薬で治すとしたら一生飲みつづけなくてはいけないのか? と思ったのです。
そんな疑問を主治医に話すと、主治医は心理療法を勧めてきました。幸い、心理療法はHさんの仕事が休みである土曜日の枠が空いていたので、Hさんは心理療法をやってみることにしたのでした。
心理療法が始まると、心理士はHさんに「曝露療法」を中心としたやり方を提案してきました。曝露療法で対人関係に慣れていくことで不安や緊張を軽減していけるだろうというのですが、Hさんは毎日対人関係を持っているわけですから、今さら「曝露」をこれ以上どうすればいいのか?とも思いました。しかし心理士にHさんの「回避行動」を聞かれて気づいたのですが、Hさんには対人関係に接する機会は毎日すごくあるのですが、そのほとんどの場合で何らかの「回避行動」を使って不安をごまかそうとしてしまっていたのでした。顧客と話していても不安・緊張が強まって赤面したり震えたりしてくるのを感じると、早めに話をきりあげてしまうのもその一つでした。また、会議ではあまり発言をしないようにしていましたし、職場の宴会でも裏方に回ってできるだけ会話をしないでいいようにしていました。心理士はこうした回避行動をやめていき、なおかつHさんが不安なために避けている対人関係行動をあえて計画的にやってみることを勧めてきたのでした。
Hさんは、心理士と共同して、まずは自分がどんな対人関係行動をどんな意味で不安がっているのか、その時にどんな回避行動をしているのかをリストアップしてみました。そして、そのリストをもとに、ほぼ毎日「曝露」の訓練を行える対人関係行動を選び、計画的に「曝露療法」をしていくことになったのです。続けていくと、Hさんはいかに自分が対人関係行動の中で相手から「精神的に弱い」とか「ダメだ」と見られてしまうことを過度に気にしてしまっていたかに気づきました。計画された通りに「曝露」をしてみると、Hさんは自分が恐れていたほどには対人関係行動で「失敗」をしてしまうわけでもなく、たとえHさん自身が「失敗」と思うようなことをしても、相手はそれほど気にするわけでもないようであることが実感として分かってきました。実際、心理士に勧められて、会社の廊下でたくさんの人が見ている前でわざと荷物を落として床にばらまいてしまっても、そんなHさんを助けてくれる人はいましたが、軽蔑されたり笑われたりすることはありませんでした。会議でわざと発言につまってしまったときもそうでした。心理療法では集団療法を併用していましたから、あまりよく知らない人たちの前でスピーチをしなくてはいけない課題もありましたが、何度か繰り返すうちに、次第にHさんが苦手意識をこんなに強く持たなくてはいけないほどのものでもないことに気づいてきました。
治療は3,4ヶ月で終わりました。現在もHさんは対人関係で全く不安なく、完璧に堂々と振る舞えるわけではありません。しかし、それで良いのだろうと思っています。普通に社会生活をしていくうえで、対人関係において完璧に堂々としている必要など無いのだ、と思うからです。