第8章 神経症4:抑うつ神経症
(気分変調症、全般性不安障害)

【プロローグ】
(ここでのケースはフィクションです)

 Gさんは30代後半の女性で、5年ほど前に結婚した夫との2人暮らしです。子どもはまだできないので、パートタイムの仕事をしながら主婦として生活しています。Gさんは、思春期頃から同じ女性同士のつきあいが難しく感じたり女性特有の集団行動や派閥をつくる傾向に苦手感がありました。就職してからもいわゆる「お局様」との関係が難しくなってしまったことはありました。しかし、だからといってひどくそのことで落ち込んでしまったりすることはなく、何とか無難にやってきたつもりでした。

 それが2年ほど前から「うつっぽい」というか、気分が重いことが多くなりました。なぜそうなってきたのか、原因はよくわかりませんでした。パートの職場では女性同士の感情的な難しさや気を遣ってしまうことはやはりありましたが、これはどこでも同じことのはずでした。家庭生活では、夫の母親がGさんの家事の仕方についてあれこれ意見をすることや、子どもはまだできないのかと聞いてくることには嫌に思うこともありましたし、夫がそれについて見て見ぬふりをしているようであることもGさんの気持ちをがっくりさせていました。しかし、それだけが原因でこんなにも長い間気分が沈んでいるものだろうか・・・と思いました。

 よくうつ病の人は朝から午前中が一番悪く夕方から夜になると多少気分が良くなってくるものだと聞いたことがありました。しかし、Gさんの場合は朝も気分が重くベッドから出られないのですが、その後お昼前くらいになると何とか起きられるものの、家事をやる気がするところまではいかず、夕方になってくると頭痛がしたり身体が鉛のように重くなってしまい、また寝込んでしまうのでした。たまに友人と出かけたりすることはできましたし、そんなときはそれなりに楽しく過ごすことはできました。しかし家に帰ってくると再び身も心の重くなり、家事もできなくなり、寝込んでしまうのでした。

 毎日のように頭痛がありましたし、背中から肩にかけての痛みや、手の震えや、心臓が「どうき」のようにどきどきしてしまうことも頻繁でした。自律神経がおかしいのかもしれない、身体のどこかが悪いのかもしれないと不安になり何カ所かの内科に行ってみましたが、どこに行っても特に異常はない、精神的なもの、ストレス性のものではないか、という回答でした。

 仕方ないので、何カ所かの心療内科・精神科にも行ってみました。どこに行っても「うつ病の一種でしょう」というようなことを言われて抗うつ薬や抗不安薬などを処方されましたが、よけいに眠たくなったり動けなくなってしまうだけで、いっこうに良くなる気配はありませんでした。そのまま1年以上が過ぎていました。

 夫婦関係はだんだん険悪な感じになってきていました。最初のうちは夫も少しは心配するような感じもあったのですが、Gさんの病状が長く続く中で、いつも寝込んでばかりで家事もしないGさんに対してあからさまないらだちを示すようになっていました。性生活も1年以上なく、夫はこの点でも不満をためているようで、時々いやみのようなことを言うのですが、Gさんとしてはとてもそんな気になれないのでした。

【抑うつ神経症(気分変調症)と全般性不安障害とはどんな疾患か?】

 以前に「抑うつ神経症」あるいは「慢性小うつ病」と呼ばれていた、数年以上におよぶ慢性で持続的な抑うつ状態は、現在の疾患分類では「持続性気分障害」に含まれる「気分変調症 dysthymia」という病名になっています。(英語名dysthymiaという言葉のdysは医学用語で「つらい」「苦しい」という意味に使われますし、thymiaは「気分」の意味です。すると、英語名dysthymiaは「気分苦痛症」とか「気分困難症」とか訳した方がより適切だと思うのですが、一般に日本語訳では「気分変調症」ということになっていますので、ここではこの呼び名で統一します。)

 これが以前は「抑うつ神経症」と呼ばれていたのは、つまり一種の神経症と考えられていたからです。神経症ということは、その人の性格とか対人関係のスタイルといったものが密接に関連しており、何らかの不安とそれに付随した不適切で回避的な行動パターン(防衛機制)が症状を維持してしまっていると考えらるということです。しかし、精神科疾患の近代的な分類法では疾患の原因や背景のメカニズムは問わないことにしようという流れの中で、ただ単純に気分症状が長く続く疾患という意味で「持続性気分障害」、その中でも持続的に抑うつ症状が続いてしまう問題として「気分変調症」と呼ばれるようになったわけです。

 抑うつ神経症(気分変調症)は抑うつの深さはいわゆる「うつ病」(大うつ病エピソード)のそれよりも深くはありません。ただ、持続がひどく長く慢性化した状態で延々と続くので患者さんの苦痛は相当です。

 さらに、抑うつ神経症(気分変調症)の中には、いわゆる「うつ」としては少しおかしな症状を併せ持っているものもあります。たとえば、普通の「うつ」では気分はずっと沈んだままあまり動かないものなのですが、何か良いことがあるとそれなりに楽しめたりもするのです。また、「身体が鉛のように重く、麻痺したようになる」という特徴的な身体化症状を伴うこともあります。これは「非定形的特徴」と呼ばれるものです。現在の疾患分類で「気分変調症、非定型的特徴を伴うもの」とは、古い病名では「抑うつヒステリー神経症」「ヒステリー性うつ病」というものとほとんど一致します。

 生活全般に慢性的な影響を与える「神経症」として、「全般性不安障害」もあります。これは簡単に言うと「病的な心配性」のことです。他人から見たらなんてことはないような些細なことを、くよくよ気にしてしまい、心配し、不安になってばかりの状態が慢性的に続くものです。非常にしばしば、イライラ感や身体化症状、身体的な不安、不眠、身体的な疲れやすさなどの症状を伴いますし、しばしば慢性的に抑うつ的です。

 疾患概念としては「気分変調症」と「全般性不安障害」は別ものではあるのですが、症状的に非常に重なるところもありますし、実際しばしばこの2つの疾患は合併しています。このため、ここではまとめてみたわけです。

【抑うつ神経症(気分変調症)および全般性不安障害に有効な治療】

 抑うつ神経症(気分変調症)も全般性不安障害も、軽度の抑うつ気分や不安が非常に長い期間、慢性的に続いてしまうものです。一般的な精神科・心療内科の治療としては、対症療法的に抗うつ薬や安定剤(抗不安薬や少量の抗精神病薬)を中心とした薬物療法がなされることがほとんどです。しかし、ここにはいくつかの問題があります。1つは、これらの疾患は基本的に慢性的に経過するので、なかなか「治る」ということがありません。背景にある何らかの解決されるべき葛藤がそのままにされてしまうという問題もあるでしょう。だらだらと何年にも渡って精神科・心療内科に通い、抗不安薬や睡眠導入剤などを処方され、少しも治っていかない患者さんは非常に多いと思います。もう1つは、そもそも薬物療法が思ったように効かない患者さんも少なくないのです。そして、気づくといつの間にかたくさんの薬をあれこれかけあわせて訳のわからない処方になっている、ということも少なからずあります。狭義の「うつ病」に対しては抗うつ薬は比較的しっかりと効くものなのですが、慢性の気分変調症に対する切れ味はあまりよくありません。(それでも、少なくとも部分的に効くことはあるので、抗うつ薬はしばしば使用されます。)

 抑うつ神経症(気分変調症)は背景に対人関係的な葛藤や性格的要因が絡んでいることもあり、古くから精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)が伝統的に行われ、少なくともある程度の改善を促せそうなことは示唆されています。しかし、これについての十分に説得力のある科学的な検証はまだなされていないと言って良いでしょう。

 一方、古典的な狭義のうつ病に対して有効性を実証している認知行動療法については、ある程度の効果を上げることは実証されています。しかし、意外と言えば意外なことに、狭義のうつ病に対してあれだけしっかりとした効果を示している認知行動療法も、より慢性的な問題である気分変調症に対する切れ味はやはり今ひとつです。またうつ病に対して認知行動療法と並んで有効性が示されている対人関係療法も、狭義のうつ病ほどの有効性・有用性を示すところにまではいたっていません。

 まとめると、精神分析的(精神力動的)精神療法、認知行動療法、対人関係療法すべてにおいて、幾分かの改善を促せる効果はある程度は期待できるものの、まだしっかりと説得力のある結論を述べることができるようにはなっていないと考えるべきでしょう。

 全般性不安障害も、一般的な精神科・心療内科の診療の中で、抑うつ神経症(気分変調症)とかなり似通った扱いをうけています。つまり、対症療法的に抗不安薬や少量の抗精神病薬、あるいは抗うつ薬を中心とした薬物療法を受けていることが多いのですが、非常に慢性化してだらだらと通院を続けてしまうということが少なくない印象です。

 一方でフォーマルな心理療法ではどうかというと、全般性不安障害については意外と言えば意外にも、抑うつ神経症(気分変調症)と違って認知行動療法や短期力動的精神療法の有効性・有用性がすでに実証されています。

【エピローグ】

 Gさんは主治医にカウンセリングを併用してみたいことを話してみました。主治医はGさんに心理士を紹介し、彼女は週1回50分の定期面接をして行くことになりました。

 心理療法が始まると、Gさんは気分が滅入ってきた背景について心理士に話していきました。

 驚いたことに、最初はGさんはほとんど気づかないでいたのですが、夫に対して強い不満や怒りがあったのに、それを心の奥底に押し込めていたのでした。結婚前はしっかりと男らしい積極性でGさんをひっぱっていってくれるように見えていた夫は、結婚後はどこかGさんに甘えるようになってきました。Gさんの家事の仕方や料理の味付けなど細かいことを気にして口出ししてくる夫に対して、Gさんは「小姑みたい・・・」と嫌悪感すら感じていたのです。次第に、夫の言動の一つ一つがどこか男らしくない、子どもっぽい、頼れない、と感じ幻滅していたのでした。そうした中で、夫の母親がGさんの家事の仕方に意見してきたときにはGさんはひどく女性としての、妻としてのプライドを傷つけられたように感じるところがあったのですが、穏やかに笑って対応しなくてはなりませんでした。しかも、夫がそんなGさんの気持ちを知ってか知らずか、何もしてくれないこと、Gさんをしっかり守ってくれないことに、またしても大きく失望し、不満や怒りさえ感じるようになっていました。夫婦間の性交渉についても、夫の仕方にGさんには大きな不満がありました。しかも今ではすっかりセックスレスになっており、このことでもGさんは女性としての、妻としてのプライドを傷つけられているように感じていたのでした。しかし、すべてについて夫には黙っていました。夫は自分が非難されていると感じると不機嫌になって見せることでGさんにこれ以上喋らせまいとしているように見えたからです。そんな夫の子どもっぽさ、包容力のなさが、ますますGさんを嫌な気持ちにさせていたのでした。Gさんが夕方近くになると具合が悪くなるのも、夕方になると夫が帰ってくることを意識するからなのだ、夫と顔を合わせたくないという気持ちがあったために「寝逃げ」していたのだ、夫のために夕食をつくるなんてうんざりだとどこかで感じていたからだ、どうせ文句を言われるのなら夫の好みの味付けの料理なんてつくりたくない、夫の好みのセックスなんてしたくない・・・。Gさんには、ちゃんとした妻、理想的な女性でありたいという願望がありましたから、自分がこんな気持ちを持ってしまっていたことはショックでした。しかし、これがGさんの本音でしたし、夫婦の根本的なずれだったのです。

 Gさんは、しかし夫と仲良くなりたいとも思っていました。そこで、少しずつGさんが感じていたことを口にするようにしていきました。夫を責めるのではなく、夫婦の問題として2人で解決していこうという気持ちで。驚いたことに、夫もGさんとのコミュニケーションにずれを感じており、Gさんから責められたり軽視されたりすることをとても恐れていたのでした。特にGさんから「子どもっぽい」「男らしくない」「頼れない」と思われてしまうことがとても不安であり、Gさんから否定的な発言や態度が出てくるのをとても気にしていたのです。そうした背景があり夫は心因性のインポテンスにもなっていました。夫はGさんに女性としての性的魅力を感じないからではなく、関心を失ってしまったからではなく、ただ否定されるのが不安で心因性のインポテンスになっていたためにセックスレスになっていたのでした。

 心理療法を始めて1年もすると、Gさんの症状はほとんどなくなっていました。これまであれだけ薬を使っていたのが嘘のように、精神科の薬も全く使わなくても良くなりました。夫婦間にはまだまだ解決していくべき問題は残されていましたが、Gさんも夫も夫婦関係を続けていくこと、仲良くしていきたいと思っている事では共通しており、何とかやってゆけるのだろう・・・という気持ちを持っています。