第4章 双極性障害
【プロローグ】
(ここでのケースはフィクションです)
Cさんは20代後半の既婚女性で、夫は普通のサラリーマンであり、1才の娘がいます。Cさんは、振り返ると高校生の頃から理由もなく気分が沈んでいる時期と、若干ハイになっている時期があったような気がしますが、「うつ病」という病名がついて精神科に通い始めたのは20代半ばの頃でした。その時も、確かに仕事は忙しく大変でしたが、特別な対人関係の問題もなく、とりたててストレスなことはなかったはずでした。精神科に通って2,3ヶ月で症状は良くなり、通院も止めてしまっていました。その後、現在の夫と結婚し、退職したのです。その間若干の気分の波はあったものの、何とか普通に生活はできていました。しかし娘を出産して1,2週間でひどいうつ状態になりました。どんどん気分が落ち込み、何もする気がなくなり、そのくせイライラが強く育児がすごくストレスに感じました。このままでは赤ちゃんを虐待してしまうかもしれない、無理心中をしてしまうかもしれない、と不安になり、精神科への通院を再開したのでした。精神科では「マタニティブルーでしょう」とか「うつ病でしょう」と言われ、抗うつ薬を中心とした処方がなされました。通院を始めて2ヶ月ほどで気分は楽になってきました。しかし、その頃から若干気分が変にハイになっている感じがありました。夜も寝ないでインターネットをして過ごしたり、子どもを実家にあずけて外出してはたくさんの買い物をしてしまうようになりました。一方で、どこか夫の言動が気に障るようになり、ちょっとしたことで怒鳴りつけるようになってきました。次第に、インターネットで沢山の買い物をするようになったり、出会い系サイトに入ってみたりするようになりました。そんな話をすると友人から「ちょっとおかしいから早めに医者に行った方が良いよ」と言われました。そういわれると、確かにちょっと自分でも変だと思い、主治医のところに早めに受診してみました。主治医は「抗うつ薬の副作用で攻撃的になっているのかもしれない」と言い、抗うつ薬を中止しました。しかし、こうしたハイな状態はその後約1ヶ月間続きました。そして次第にハイな感じがおさまり、夫にイライラしたり攻撃的になってしまうのがおさまってきたかと思うと、今度は気分が沈んできて、また何もする気が起こらないようになりました。そのまま数ヶ月間はずっと気分が沈み、意欲が出ない状態が続きました。家事もあまりできないため、夫は次第に不満をためるようになり、夫婦げんかも増えました。育児も手につかないので、日中は近くに住んでいる実家の母親に来てもらい育児を手伝ってもらうようになりました。その間、Cさんは疲れてずっと横になっているだけでした。Cさんは、自分はなんてダメな妻であり、最低な母親なのだ、と思い、余計に辛くなっていました。
【躁うつ病(双極性障害)とはどんな疾患か?】
躁うつ病manic depressive illness(=双極性障害bipolar disorder)は、その名前の通り、以前には「躁病相」と呼ばれる気分が変に高い状態と、「うつ病相」と呼ばれる気分が沈んだ状態とが周期的に繰り返される疾患と考えられていました。(ここで気分の状態の「周期的」とはたいていは数週間から数ヶ月単位と比較的長い周期のものです。よく一般の人は1日の中でハイな状態になっていたかと思うとすぐに落ち込んだ状態になってしまう人のことを「躁うつ病だ」と言いますが、それは違います。一日の中で、たいていは数時間程度で感情状態が移り変わってしまうことは情緒不安定というのであり、「躁うつ」とは言わないのです。)
しかし、その後の研究の結果、「躁うつ病」の本質は「躁病」になったり「うつ病」になったりすることではなく、むしろ気分の状態に波があり一定のレベルを保っていることができないことにあるのだと考えられるようになりました。「躁病」になったり「うつ病」になったりするのは、そうした「気分の波」の結果の1つにすぎないのであり、臨床的に明らかな「躁病」や「うつ病」がない時期でも「躁うつ病」の人には少なくとも幾分かの気分の波があり、たいていは少しうつ気味か少し躁気味であることが多いのです。(さらに最近の研究の結果からは、躁うつ病の人は気分が躁病の時でも若干のうつ病的な要素を持っており、逆にうつ病の時でも若干の躁病の要素を持っていることがしばしばであることも示唆されています。)
以前には、明らかな「躁病相」と明らかな「うつ病相」がある人たちだけを「躁うつ病」と呼んでいました。しかし、上記のように「躁うつ病」の本質は「躁病」や「うつ病」になることではなく、むしろ気分に不安定な波があることであるとすると、明らかな「躁病相」を伴っていなくても、特に明らかな理由なく気分が落ち込んだり、特に明らかな理由なく気分が改善し持ち上がったりする問題(こうした躁病相が明らかではない躁うつ病のことを「双極II型障害」と呼びます)も「躁うつ病」の一種に含まれてきますし、治療的にもそのように考えた方がうまくいくことが分かってきたのです。
躁うつ病は、極めて遺伝性・体質要因が強い疾患であると考えられています。明らかな「躁うつ病家系」というのさえあり、診断こそついていなくても、ずっと代々気分の波がある人たちばかり、という家系も珍しくありません。多くの躁うつ病の人は、明らかな「躁病」とか「うつ病」という状態が発症してくるのはだいたい青年期以降ですが、よく見ると小児期から幾分かの(それほどはっきりはしないものの)気分の波があったことが多いのです。つまり、生まれ持っている体質的・遺伝的な要因がありほぼ一生涯慢性的に「躁うつ病」という体質が持続するのです。この点で内科の糖尿病や高血圧と同様に、精神科の慢性疾患であると言えます。そして、内科の慢性疾患が治癒を目指すのではなく、悪くしないようにする治療が重要であるように、躁うつ病も治癒(医者にかからなくてよくなる状態)を目指すのではなく、悪くしないようにする治療が重要になってきます。
躁うつ病は、以前には「躁病」になったり「うつ病」になったりする疾患と考えられていましたから、以前には「躁病」になったら気分を落ち着かせる薬、「うつ病」になったら気分を持ち上げる薬を使用することが良いのだとされていました。しかし、その後「躁うつ病」の本質は気分の不安定な波であるということが分かってくると、むしろ気分の波を抑えるタイプの薬(これを気分調整薬mood stabilizerと呼びます。これには炭酸リチウム(リーマス)、バルプロ酸ナトリウム(デパケン)、カルバマゼピン(テグレトール)、そしてラモトリギン(ラミクタール)などがあります。)を使った方が良いだろうという考え方になってきました。実際、気分調整薬を使用することで「躁病」も「うつ病」も治療できるだけでなく、その予防もできることが分かってきました(ただ、うつ病相に対して明らかな予防効果があるのは炭酸リチウムとラモトリギンだけのようであり、バルプロ酸トリウムは躁病相の予防は良好なのですがうつ病相の予防は今一つであろうと見られています)。逆に、気分が高いときには安定剤、気分が落ち込んでいる時には抗うつ薬、というやり方をするとかえって気分の波のコントロールが悪くなる傾向さえあることが分かってきたのです。こうして、現在では躁うつ病の治療は気分調整薬を使用することが最もオーソドックスな治療ということになっています。
ところが、一時期は躁うつ病の治療は気分調整薬を適切に使えばすべて解決するかと思われていたのですが、実際にはそんなに簡単ではないことも分かってきました。躁うつ病の患者さんが気分調整薬を中心とした薬物療法をちゃんと行っていても、約半数の人が1,2年で症状再発してしまうのです。さらに、躁うつ病の人はなかなか「治りきる」ことがなく、つねに幾分かの症状(だいたいは「躁」よりも「うつ」なのですが)を残存していることが多く、人生の約半分を半ば病気の状態で過ごすことになってしまう、という統計さえあるのです。ここにきて、気分調整薬を中心とした薬物療法だけでは不十分なのではないか? 何からの有効な心理療法、心理社会的介入はないのか? という議論になってきたのです。
【躁うつ病に有効な心理的介入】
躁うつ病は「心の病気」というよりも「脳の体質的な病気」という雰囲気が強いため、なかなか心理療法、心理社会的介入の対象にならないだろうと考えられてきました。実際、精神分析、精神力動的精神療法、一般的カウンセリング、などはほとんど全く意味がないのです。
ただ、統合失調症において心理的ストレスが高いほど再発が多く、家族との関係が良好であるほど再発が少ない傾向があることが示され、これをもとに統合失調症の再発予防を目的として家族行動療法などが一定の効果を上げていることに刺激され、躁うつ病でも似たようなことがあるのではないか? という研究が続きました。そして、実際にそうだったのです。躁うつ病は、確かに非常に体質要因が強い疾患ではあるのですが、病状の悪化には心理的要因も相当に関連してくることも知られていました。つまり、ストレスが多いと悪化しやすいですし、ストレスが少ないと安定しやすいのです。そして、多くの人がそうであるように、躁うつ病の人にとってもストレスの主なものは対人関係的なものですから、対人関係をうまくやりこなすすべを身につけていくことでストレスが軽減でき、躁うつ病のコントロールも容易になるであろうことは理屈にあってはいます。実際、統合失調症においてそうであるように、躁うつ病においても患者さんの家族が患者さんに対して感情をぶつけるようなコミュニケーションが多いと再発率が高く、そのようなコミュニケーションがすくなく支持的な雰囲気であると再発率が低くなることも分かってきました。
こうした背景で、躁うつ病に対する心理社会的な介入は、患者さん本人に対して行われるものと、家族に対して行われるものの二つが一つでなされることが最も良いであろうとみなされています。
まず、患者さん本人に対して行われる心理社会的介入です。現在までのところで有効性・有用性が確認されているのは、通常のうつ病に対するものとほぼ同じうつ病症状に対する認知行動療法、服薬遵守の向上を目的とした心理教育+認知行動療法、通常のうつ病に対する対人関係療法の変法である「対人関係と生活リズム療法」などです。これらの治療は多くの共通点があります。
まずは躁うつ病という病気について正確に知識として知ってもらい、薬物療法による再発予防治療の重要性やそのポイントを理解してもらうことがあります。気分がハイになったからといって、あるいはうつ病のような状態になってしまったからといって薬をさぼったり自己流の変な飲み方をしないようにすることです。以前には「躁病相」の時だけ気分調整薬を使い症状が治まってきたら薬を減薬することもあったのですが、現在の治療の基本的な考え方は再発予防に重点があり気分調整薬の減薬は基本的にしないことになっています。少なくとも患者さんの勝手な判断で減薬したり止めてしまうことの危険性をしっかり理解してもらいます。
次に、対人関係のストレスを中心としたストレスへの対処法を練習していきます。これは通常の行動療法で行われる対人関係スキル、コミュニケーションスキルの訓練と同様です。同様に、問題解決スキルの練習も行い、日常生活で出会うストレスに対して適切に対処していく能力の向上を目指します。
うつ病的な対人関係認知の問題や気分をさらに滅入らせてしまうような対人関係の悪循環を断つ意味で、通常のうつ病に対するのと同様な認知行動療法あるいは対人関係療法的なアプローチもなされます。この際、家族といかにストレスの少ない支持的な関係をつくっていくかも重要です。
躁うつ病の患者さんの生活リズムは気分の状態によってすごく大きく変動してしまいがちであること、そのことでさらに生活が乱れさらに気分のコントロールが悪くなりがちなことが知られていました。これに対して認知行動療法でよく行われるような日常生活の活動計画を立てること、行動を自己モニターすること、こうして規則正しい生活を保つようにしっかりとした動機づけを持って行くことも重要なようです。よく早寝早起きは健康に良いと言われますが、少なくとも躁うつ病を持っている人にとっては確実にそういえそうなのです。早寝早起きをして、一日を計画的にすごし、あまり大きな変動がないようにしていくことは、気分症状を安定化させるうえで役に立つでしょう。
さらに、うつ病症状の悪化を早期発見することは実は非常に難しく、なかなか再発予防効果を上げられていない実情があるのですが、躁病症状の早期発見は比較的容易です。何度か躁病相を経験していると、その人独特のパターンがあることに気づいていくでしょうから、それを利用して躁病になりかけの時期に早期発見し早期に対応することで重症化を防ぐことができます。
以上のポイントは、どのブランド名の心理社会的介入でもだいたい行っているポイントであり、躁うつ病に対する心理社会的介入としてほぼ必須と考えて良いでしょう。実際、このようなやり方によって躁うつ病の再発を減少し、症状を軽減しておくことに効果があることも実証されています。一般的に言って、対人関係でのストレス軽減やその他のストレス・マネジメントなどはうつ病相の予防や軽減に効果があり、服薬遵守を向上することを目的とした認知行動療法や躁病症状の早期発見を目的とした認知行動療法は躁病相の再発予防や軽減に効果があるようです。
患者さん本人に行われる心理教育や上記のような心理社会的介入に並行して、家族を対象として行われる心理教育やコミュニケーションスキルの向上を目的とした家族行動療法も、本人に対する介入と同等あるいはそれ以上の効果があることも実証されています。特に、家族と一緒に生活している患者さんにとって、家族は時にはストレスのもとにもなりますし、時には心の支えにもなります。家族を対象とした介入では、この「心の支え」の側面を強化することを目的にするのです。家族(あるいは配偶者)を対象として、「躁うつ病」という病気についてしっかりと理解してもらい、さらにコミュニケーションスキルを向上すること(特に共感的な傾聴や、心理的な援助を求める/それに答えるスキルなどを重視)で、家族内のコミュニケーションが改善するばかりでなく抑うつ症状や躁病症状の軽減、再発予防、服薬遵守までが改善する傾向があることが示されています。
まとめると、躁うつ病に対しては、いわゆる一般的な意味での心理療法(カウンセリング)は適応ではありませんが、躁うつ病に対する中心的な治療である薬物療法に追加・並行して、上記のような援助をすることで再発・増悪のリスクをある程度は軽減できそうなことが示唆されています。
日本国内では、保険医療制度による制約はあるものの、少なくともある程度は患者さん本人が自分の病気について理解し、対人関係などのストレスにうまく対処できるように援助することはできるでしょう。また患者さんが家族と一緒に生活している場合は、その一緒に生活している家族に対して心理教育を行うことや、より好ましい対応の仕方(コミュニケーションの持ち方)を実技的に練習してもらい、少しずつ改善していってもらうように援助することはできるかもしれません。
【エピローグ】
Cさんのうつ状態はひどく慢性的に続きました。あまりに症状が良くならないので、Cさんは別の精神科に相談に行ってみました。そこの精神科医師はCさんの病歴をもう一度丁寧に聞いた後で、おそらく普通の「うつ病」ではなく「躁うつ病」の一種であろうと言いました。そして気分調整薬である炭酸リチウムを中心に処方しました。
3週間もすると、症状はずいぶん楽になりました。かといって以前のように変にハイになってしまうことも今回はありませんでした。ただ、その後もずっと軽い気分の波は続いたのでした。おおざっぱに言うと、全体の7割は軽く沈みがちであり、全体の3割は軽くハイな感じでした。軽く沈みがちのときは、Cさんは家で寝ていることが多く、朝起きるのも遅くなりがちでした。逆に、軽くハイな時は、Cさんは夜更かしすることが増え、朝も早めに起きてごそごそ何かをしていないと気が済まない感じになっていました。また軽くハイな時には、以前ほど怒鳴りつけたりはしませんでしたが、どこか夫に対して些細なことで苛立ち、攻撃的に接してしまう自分にも気づくようになっていました。こうしたCさんの気分の波に影響されてか、夫婦関係は少しぎくしゃくしがちでした。
そんな悩みを主治医に話すと、主治医は何回か連続でCさんの夫と一緒に診察に来るように勧めました。Cさんと夫と一緒に診察室に入るときには、Cさんの持っている「躁うつ病」という病気についての説明と、どんな治療がなされているかの説明をされました。基本的に「治癒」することはない、慢性疾患だと聞いた時には、夫は多少ショックのようでしたが、現実的な問題として真剣に受け止めてくれました。病気の症状については、特に「うつ病」の時の考え方や感じ方の特徴、「躁病」の時の考え方や感じ方の特徴、「躁病」が悪化するときの早期発見のサイン、などの話もされました。さらに、夫婦間のコミュニケーションを改善する練習として、夫婦でお互いに「相手の話を聞き手に徹してしっかり聞く練習」をするように指示されました。相手が話している間は、下手に口をはさまず、つまり質問や意見や指示などで話を中断させることはしないで、しっかりと相手の目を見て、理解できるところまで話を聞いていくことを意識してやってみるように言われました。そんな馬鹿馬鹿しい、今まで夫婦間でしっかりコミュニケーションはとっていたはずだ、と思いましたが、とりあえず試しにそうしてみました。すると、Cさんも、夫も、意外なほどに相手が話している間に口をはさんでしまい、しっかり「聞き手に徹する」ことができていなかったことに気づきました。特に、相手が不機嫌な雰囲気でいるときには、なおさらそういう傾向があることに気づきました。そして、自分が話している間は、相手が口をはさまずにしっかり聞いてくれることがいかに安心できることであるかも分かってきました。夫婦関係のぎくしゃく感は少しずつ改善していきました。
Cさんは、その後もずっと再発予防のための薬は飲み続けていますし、今も多少の気分の波はあります。しかし夫や家族に支えられており、何とかやってゆけるだろう、という気持ちでもいます。
当事者向け参考書:
水島広子「対人関係療法でなおす双極性障害」(創元社)2010年