第2章 うつ病
【プロローグ】
(ここでのケースはフィクションです)
Aさんは20代後半の女性で、大学を卒業したあと外資系企業に就職し、これまでは熱心に仕事を続けていました。多くのサラリーマンと同様に、仕事でミスをしたり、辛いことがあると落ち込んだり不安になったりすることはありましたが、だいたいは一晩眠れば忘れていましたし、翌日にはまた元気に楽しく仕事に取り組むことができていました。対人関係もほとんど全く問題なく、人当たりもよく熱心で面倒見の良い彼女は多くの仲間から気に入られていました。
仕事の面でも高く評価されてきたAさんは、この春から役職を与えられ、新しいプロジェクトのリーダーという役割を与えられました。Aさんは、この昇進を少しプレッシャーに思うこともありましたが、何とかやりこなせるだろうと思ってもいました。
ところが、チームのリーダーとして働き始めると、部下の気持ちと会社側の要求が衝突することが何度かありました。彼女には役割上、会社からの要求にしっかりと答えることが求められていましたが、部下たちの言うことももっともであり、「いいからやりなさい」とはとても言えないと感じ続けていました。チームワークは次第に悪くなり職場の雰囲気が悪化してきている気がしてきました。これも自分の努力不足、リーダーとしての能力不足のせいだと思いました。問題は次第に山積してゆき、「あの仕事も、この仕事も片付いていかない。明日はどうしよう?」などと考えて夜も眠れなくなってきました。そのくせ、朝は不安な気持ちで早い時間に目が覚め、再び眠ることはできないので、仕方なく起きてぼーっとしていることが増えました。次第に職場についてもエネルギーが出ず、頭の回転が鈍ったようになり、ますます仕事が山積していくのをただ無力にながめているようになってきました。食欲もなく、味も感じず、ただ詰め込んでいるだけ。休みの日に何をしても少しも楽しめず、ただ苦痛に感じるだけでした。完全に自信を喪失しました。部下のみんなも、こんなリーダーに対していまいましく思っているのだろうな、と思うと、部下とまっすぐに目を見て話をすることさえ困難に思えてきました。社内用の携帯電話がなるたびに不安発作が起こるようになりました。「もうどこかに消えてしまいたい。死んでしまいたい。」とふと思うようにさえなってきました。
【うつ病とはどんな疾患か?】
うつ病およびうつ病に関連した気分障害(気分変調症など)は実は非常にありふれた疾患です。一般に「うつ病」と呼ばれるのは、「大うつ病major depression」というエピソード性の疾患です。「エピソード性」というのは、「だいたいいつ頃から(何月頃から)」というような比較的はっきりとした始まりがあり、数ヶ月から半年、長い場合は数年にわたって続き、しかし比較的はっきりとした終わりもあり、基本的に「治る」疾患だということです。このような「うつ病」あるいは「大うつ病エピソード」は、統計の取り方によって若干のばらつきはあるものの、だいたい10%〜20%の生涯有病率(その人が一生のうちに1回はかかってしまう確率)であろうと見られています。人が一生の中でいわゆる「盲腸(=より正確には急性虫垂炎)でおなかを切られてしまう可能性よりも若干高いくらいでしょうか。そのくらいありふれた疾患なのです。
いわゆる「うつ病」が「始まり」と「終わり」があるエピソード性の疾患であるのに対して、「いつから」明確に特定できず、ただただ慢性的にずっと気分がすぐれない(やや落ち込んだ状態)が続くものもあります。これは「持続性気分障害」に分類され、以前は「抑うつ神経症」とか「慢性小うつ病」と呼ばれていたものであり、現在は「気分変調症」と呼ばれています。「気分変調症」は気分の落ち込みの深さこそ「大うつ病」に比較して浅いところがありますが、持続期間が非常に長く基本的に慢性的に経過してしまうことや、後述しますが、治療に対してやや反応が悪く比較的難治性であることもあり、実は結構やっかいな疾患です。
うつ病は、多くの場合何らかの生活上のストレスが背景にあり、それをきっかけに発症します。つまり環境要因を無視できない精神疾患です。しかし同時に、統計的に見ると、うつ病には非常に強い遺伝要因・体質要因もあることが分かっています。つまり、高血圧や肥満・糖尿病などと同様に、「もともと生まれつきなりやすい体質」の人というのはいるのです。そこに離婚や離別・死別などの問題や、その他の対人関係の葛藤、人生の中での大きな失敗や損失、社会的役割上の変化、家族や夫婦関係の問題、などのいろいろなストレスがからみ、いよいよその人の処理能力を超えてしまうと、ちょうど電力の処理能力を超えると電気のブレーカーが落ちるように、「うつ病」と呼ばれる状態になってしまう、というわけです。
うつ病の症状は、非常にしばしば独特の悪循環を起こすことが知られています。つまり、うつ病になり気分が落ち込むために、そもそも気分が落ち込むもとになった原因であるストレス要因を解決する気力も低下し、うまくこなせないようになり、そのことでますます気分が落ち込んでしまい・・・という悪循環を繰り返すのです。うつ病の症状がうつ病の状態を維持させてしまうため、負のスパイラルが生じて、なかなか抜け出せないということになります。これがうつ病において気分の落ち込みがずっと病的に続く主な要因になっているのだろうと考えられています。逆に言うと、こうした悪循環を断つような介入をすることで、人は自然にうつ病という状態から抜け出せるようになることも多いのです。これがうつ病に対する治療の基本的な考え方です。
上図は「うつの悪循環」の典型的なものです。「うつ病」という病的な状態のもとで、気分が沈んでいると、症状として物事の認知がネガティブなものになります。より正確な言い方をすると、物事のネガティブな側面にしか目が行かなくなるのです。こうして、いわゆる「マイナス思考」になります。マイナス思考の結果、行動パターンも消極てきなものになります。そして、マイナス思考であることも、行動パターンが消極的なものになってしまうことも、両方とも「抑うつ気分」をさらに強めあるいは維持してしまう、という「うつ病」の独特の負のスパイラルに入ってしまうわけです。
うつ病症状を維持させている悪循環を断つ方法はいくつかあります。
(1)薬物療法的なアプローチ。抗うつ薬を主体とした薬物療法により「落ち込んだ気分」そのものを軽減し、うつ病症状を直接的に軽減することで、問題に対処する能力を改善させるというやり方です。ここで注目していただきたいのは、抗うつ薬がすべてを解決するわけではないということです。薬物療法が行うのは、とりあえずうつ病の悪循環を断つ(あるいは軽減する)ことまでです。その後で、気分が回復し対処能力が元通りに向上してきたら、そもそも「うつ病」を引き起こすことになったストレス要因に対処し、適応的に解決していかなくてはならなくなります。抗うつ薬で抑うつ症状だけを軽減しても、背景にあるストレス要因を放っておいて何も改善していでいたら、いずれまた「うつ病」の波に飲み込まれてしまう可能性が高いでしょう。
(2)行動療法・認知行動療法的なアプローチ。気分が沈む状態にあると、物事のとらえ方・考え方もネガティブなものになってくる傾向が知られています。そして、物事のとらえ方・考え方がネガティブになってくると、それに合わせて行動パターンもネガティブで消極的なものが増えてきます。例えば、落ち込んだ気分の下では、「どうせ何をやっても楽しくないし、こんなつまらない自分が友人を誘っても、相手もつまらなくなるし嫌がるだけだろう。」というようなネガティブな考え方になりがちです。すると、いつもだったら友人を誘って遊びに行くこともやめてしまい、どんどん消極的な行動パターンが目立ってくるようになります。こうなることで、本来であったら楽しめたかもしれないことさえ、断ってしまうことになるため、ますます気分が沈んだ状態を維持してしまう、ということになっているかもしれません。こうした気分→認知(とらえ方・考え方)→行動パターンによる悪循環を、「認知」と「行動」面で修正し元の元気な頃のパターンに戻していくことでうつ病の悪循環を断とうという発想が認知行動療法です。
(3)うつ病の背景にある対人関係的な問題を解消していくアプローチ。ほとんどの場合、うつ病の直接的なきっかけになっているのは、対人関係を主とする生活ストレスになります。これまでのやり方がどうにもうまくいかなくなり、なにをやってもポジティブな変化が得られない状態が続くと、まるで電気のブレーカーが落ちるように、「うつ病」の状態に落ちてしまうのです。ということは、うつ病の背景には、たいていは何らかの未解決の対人関係葛藤/対人関係ストレスがあることがあります。これをしっかり見直し、適応的に解決し、対人関係のあり方を質的に変えていくことで現在のうつ状態を改善できるだけでなく、今後似たような状況で起こってくる対人関係ストレスに関連したうつ病も予防できるようになることが期待できます。抑うつ気分に関連した対人関係に焦点づけたやり方には、短期力動的精神療法と対人関係療法があります。これらのやり方では、背景要因を扱っていくため、うつ病症状の改善のスピードは薬物療法や認知行動療法に比較してゆっくりである傾向がありますが、治療終了後の効果の持続性についてはより有利に働く可能性も示唆されています。
さて、日本ではほとんどの治療が国民皆保険制度の中で保険医療によって行われていくことになります。すると、「うつ病」という比較的良性の予後を持つ、比較的短期間で「治る」ことが可能な心の問題に対して、わざわざ手間も暇もかかる精神療法(心理療法)/カウンセリングを第一選択の方法とすることはほとんどありません。それよりも抗うつ薬を中心とする薬物療法で行った方が、圧倒的に時間もお金もかからないからです。このため、現在の日本の精神科・心療内科の臨床現場では、普通のうつ病に対しては、まずは抗うつ薬を中心とした薬物療法を行い、その通院のついでに(10分から15分程度の診察時間の中で)背景にある心理的ストレス要因をさぐり、できるだけ適応的に解決していくことを援助する、という程度の治療が中心になっているでしょう。実際、背景に性格的要因や神経症的な問題が少ない、いわゆる普通のうつ病の場合は、この程度の援助でほとんどが大丈夫なのです。ほとんどの場合、患者さん本人が背景にある問題に気づいていき、数ヶ月から半年程度かけて、これまでの無理のあったやり方をあらため、より無理のない適応的な仕事の仕方や対人関係のあり方を模索し、自らを変えていくようなのです。逆に言うと、こうした(やや放任主義的な)普通のやり方ではうまく解決しきらないくらいに、本人の性格的な要因/神経症的な要因が強く、その背景要因を解決するには心理療法/カウンセリングによる系統的な援助が必要である、という時だけに心理療法/カウンセリングが導入される、ということになるかもしれません。
ただ、抗うつ薬を中心とした薬物療法には以下のような幾つかの注意すべき問題があります。
(1)抗うつ薬はしっかりとした効果を発揮するまで数週間はかかります。それまでは、焦らず慌てず、ただただゆっくり休んで待つしかないのです。
(2)抗うつ薬は、何度も繰り返しているように、うつ病の悪循環を断つための手段でしかなく、うつ病そのものを本当の意味で治しているものではありません。当然、背景にある問題を解決してくれるものではありません。抗うつ薬を中心とした薬物療法でとりあえずうつ病症状を緩和していても、仕事の仕方や対人関係のあり方の問題など背景要因を一切変えることがなかったら、遅かれ早かれまたうつ病の波に飲み込まれてしまうことになるでしょう。それはちょうど、風邪をひいて高熱を出しているのに解熱剤で症状だけ抑えて、しっかり休まず仕事を無理して続けてしまうようなものです。後でこじらせてしまうことがないように、しっかり「治療」に入ることが重要です。
(3)抗うつ薬を使いにくい状況がある場合。とは言っても、実際にはあまりありません。妊娠中は催奇性の問題があるためほとんどの薬は使わない方が良いと考えている人が多いと思います。しかし、これまでの研究で普通の抗うつ薬はほとんど催奇性の問題はないであろうことが示されています。(初期の研究結果ではパキシルなどで心血管系の奇形が少し増える可能性が示唆されていましたが、その後の研究では否定的です。)また流早産や低体重児が増える可能性も示唆されていましたが、どうやらこれはうつ病と関連するようであり、抗うつ薬との関連については否定的です。そうではあっても心情的に薬物療法を控えたい人はいるでしょう。その場合は、心理療法/カウンセリングが適応になってくるでしょう。
(4)抗うつ薬は古典的な普通の「うつ病」に対しては効果的であることが多いのですが、より慢性的な経過をとる神経症的なうつ病(抑うつ神経症、気分変調症)などについてはぱっとしないことが多いです。
(5)子どものうつ病に対する抗うつ薬の位置づけは未だはっきりしません。そもそも、子どものうつ病が大人の古典的な普通のうつ病と同じものと考えて良いかどうかについても大変な疑問があります。これまでの研究では、新しいSSRIを含めてほとんどの抗うつ薬が(大人の普通のうつ病に対するものほどの)目立った効果を示せていないという問題もあります。
(6)一部に抗うつ薬を使用すると攻撃性や衝動性、自殺関連行動のリスクをかえって高めてしまうのでは?という議論があります。このことは未だ科学的にはしっかり確認されていないため、何ともいえないところがあります。ただ、抗うつ薬による治療は、少なくとも、あまりしっかりと自殺衝動を抑えることができるものではないようなのです。この点で薬を与えておけば安心だという安易な対応はまずいと言えるでしょう。
さて、うつ病は非常にありふれた疾患であるため、精神科疾患の中では、心理療法/カウンセリングの効果について、古くから比較的しっかり研究されてきた分野でもあります。以下にうつ病に対する心理療法/カウンセリングについて少し詳細に議論してみます。
【うつ病に対する心理療法:認知行動療法】
うつ病の悪循環のところでお話ししたように、うつ病にはうつ病の症状によってかえってうつ病を悪くしてしまうという悪循環を起こすところがあります。うつ病の症状である抑うつ気分と悲観的な認知パターンが、ネガティブな判断と消極的な行動パターンを引き出させ、そのことでさらに抑うつ気分と悲観的な認知を強めてしまうわけです。こうしてうつ病は悪循環により抜け出しにくくなるわけです。そこに働きかけ、うつ病の悪循環を断つことでうつ病から回復しやすくする、というのが認知行動療法の基本的な発想です。(時々、ネガティブな思考パターンや消極的な行動パターンを持っていることが原因でうつ病になってしまうと考えている人がいますが、認知行動療法の基本的な考え方は必ずしもそこに原因を見ているわけではありません。事実、ネガティブ思考はうつ病の原因になっているというよりも、むしろ、うつ病によってネガティブ思考が引き起こされているという発想の方がより正しいのです。ただ、それが悪循環を引き起こしているのだろうとは考えるわけです。)
うつ病に対する認知行動療法というと、とかく認知面ばかりが注目される傾向があります。それは、おそらく認知面に注目する方がより理解しやすいからでしょう。「ネガティブ思考をしているから、うつ病になる。ネガティブ思考をポジティブ思考に切り替えてゆけばうつ病は治る」という説明は非常にわかりやすいですし、とてももっともな気がします。しかし、うつ病に対する認知行動療法について行われた研究の結果からは、認知行動療法のやり方のうち認知面はどちらかというと「おまけ」でしかなく、行動面の方がより中心的な役割を果たすようであることが示唆されているのです。つまり、否定的で消極的な行動パターンを実際に変えていくことに治療的な効果の大部分があるのであり、そのような行動パターンの変化を促す動機づけとして認知面の修正があるのだと考えた方がより正確なのかもしれないのです。逆に、認知面だけを頭の中で修正しても、それに伴った実際の行動上の変化がなければ、認知行動療法はうつ病に対してあまり有効には働かないでしょう。認知行動療法は、その名の通り、認知と行動が表裏一体であり、認知面と行動面の両面の変化を生じさせて初めて意味のある治療法なのです。
通常のフォーマルな認知行動療法は、週1回45分から50分の治療セッションを数ヶ月間行っていくものになります。患者はまずは認知と行動と抑うつ気分の関連性についての簡単なガイダンスを受けた後で、自分の認知と行動、つまり自分の日常生活の中にどんなことがあり、それを自分はどうとらえ、どんな気持ちになったのか、そしてどんな行動をしたのか、という記録をとってみることから治療が始まります。一日が終わってから「今日はこんなことがあって、こんなふうに考えて、こんな気分になった。こんな行動をした。」という日記を書くのではなく、そのときその場で記録していくことがポイントになります。うつ病という精神状態にあると、何でもネガティブな側面にばかり目がいく傾向が強まるため、本当はいろいろな良いことや嫌なことがあった一日でも、終わってから振り返ると嫌なことしか思い出せないようになっていることがほとんどだからです。このため、一日が終わってから、あるいは一週間が終わってから「どうでしたか?」と聞くと、うつ病の人はたいてい「何も良いことはなかったですし、何もできませんでした。何も楽しめませんでした。」と言います。しかしその時その時に書いた記録を見ていくと、実は結構いろいろやっていますし、それなりに楽しめる出来事もちらほらあることに気づいていきます。ここが大きな違いになります。「今週は振り返ってみると、何も良いことがなかったし、何一つできなかったし、何一つ楽しいことなどなかった。来週も同じだろう。」という気持ちでいると、どうしても行動パターンは消極的になってしまいます。「どうせ来週も・・・」と思っている人が積極的なスケジュールを立てることなど不可能です。しかし、記録を見ながら「実は結構できることもあった。このことくらいは楽しめていた。」というものが見つかれば、それをもとに来週のスケジュールを立てやすくなります。「できること」「楽しめること」をするように計画立てていけば良いのです。「できること」「楽しめること」が実際に少しずつでもできてくれば、それが自信につながっていきます。
さらに、ネガティブな認知・ネガティブで消極的な行動パターンは対人関係面でも目立っていることが多いものですから、そこにもチェックと修正を入れていきます。毎日の認知・行動記録をとる要領で、毎日の対人関係場面で感じたこと、行動したことをしっかり記録に残していくのです。すると、対人関係において本来そうあるべきよりも歪曲してネガティブに捉えているために、ネガティブな気持ちを持ってしまい、消極的に関わってしまっている部分が多いことに気づいていきます。例えば、職場に行って朝の挨拶をしたのに、○○さんは答えてくれなかった、という出来事から、自分は○○さんに良く思われていない、と感じ、気分が滅入ってしまったという出来事があったとします。そのように感じると、○○さんのことをどこか避けるようになってしまい、余計にぎこちない感じになってしまいます。こうした感じ方・とらえ方に自分でチェックを入れるわけです。「○○さんが挨拶に答えてくれなかったのは、○○さんは机の上に広げてあった書類を読むのに一所懸命だったからかもしれない。実際、○○さんはしばしば仕事に集中すると人からの挨拶に気づかないほど集中することがある。別に○○さんから嫌われているとは言えないわけか・・・」などとなります。大事なのはそこからで、「だから○○さんを避けるようにするのはよそう。もう一度○○さんに挨拶をしてみよう。声をかけてみよう。」という行動に移すことです。こうすることで、ネガティブな認知→消極的な行動という連鎖を断つことができるからです。
うつ病という病気は認知の仕方をネガティブな方向に歪めてしまう傾向が強いものです。これは「病気」であるので、ある意味では仕方のないことでもあります。このため、患者さんが自分一人で認知や行動を修正しようとしても、なかなかうまくいかないことも多いため、治療者と一緒に自分の認知や行動を再チェックし修正していくことが助けになるでしょう。それが認知行動療法という心理療法だということになります。
これまでの研究で、認知行動療法は治療期間は数ヶ月程度の短期療法であり、軽症から中等度のうつ病に対して抗うつ薬を使用した場合と同等程度に有効であることが示唆されています。
一方で、いわゆる古典的なうつ病ではなく、若干性格的な背景のある慢性の抑うつ状態(抑うつ神経症、あるいは現在では気分変調症と呼ばれるもの)に対しては効果が今ひとつであることも分かっています。心理療法は心理的な背景、性格的背景のあるものにより強いのだろうという印象が一般にはあるので、意外と言えば意外な話です。
抗うつ薬を中心とした薬物療法は、当然と言えば当然ですが、その治療効果は一時的なものであり、薬をやめてしまうと再発予防効果はありません。しかし認知行動療法もその他の心理療法も、どうやら少なくともある程度は予防効果を期待できるようであることを示唆する研究結果もあがっています。かなり何度も再発を繰り返してしまうタイプの患者には月1回などのように頻度を落とした認知行動療法の「維持療法」を行うことで再発予防効果を得られることが示唆されてもいます。
【うつ病に対する心理療法:短期力動的精神療法と対人関係療法】
うつ病に対する認知行動療法の効果についての実証的研究は、精神療法/カウンセリングの世界に大きなインパクトを与えました。しかし、わざわざ認知行動療法という特殊な理論背景のある特殊な治療など行わなくても、古くから良識ある精神科医師や心理士たちが行ってきた(主には精神力動的精神療法の支持的精神療法的な要素を中心とした)うつ病に対する短期間の精神療法があったではないか、という議論も起こりました。実際、うつ病に対する認知行動療法が出てくるまでは、いわゆる短期力動的精神療法や支持的精神療法が普通に行われていたのです。本格的な精神力動的精神療法(精神分析的精神療法)が無意識的な心の動きを重視し、治療者/患者関係に展開する患者の性格病理(対人関係の独特の非適応的パターン)を重視するのに対して、短期力動的精神療法は、そうした無意識や治療者/患者関係(いわゆる転移)を基本的には一切扱わず、むしろ患者と患者の実生活の中での重要な情緒的関わりにある他者(「重要な他者」という表現をします)との関係を調べ、そこでどんなことが起こっているか、そのためにどんな情緒的な反応を生じているのか、といった問題を丁寧に見てゆき、その上でより適応的な対処法を探っていくというやり方が中心となるものです。これまで良識ある精神科医や心理士たちが普通に行ってきていた、こうした精神療法のやり方をもう一度整理し、うつ病の治療にとって本当に臨床的に必要なもの、有用なもの、だけを抽出したものが「対人関係療法Interpersonal
Psychotherapy」としてまとめられました。
対人関係療法は、精神分析学のサリバンの対人関係理論を元にしていますが、基本的には患者と患者にとっての「重要な他者」との関係に起こっている問題を丁寧に整理し、より適応的な対処法を見つけ、実行していくことを重視します。ここで「重要な他者との対人関係的な問題」とは、うつ病の場合、未解決の悲哀反応、対人関係での期待/要求の葛藤、役割の変更、対人関係の欠如、という4つの問題領域にだいたいは分けていくことができます。このように治療者と患者が取り組むべき問題領域をわかりやすくし、しかも期間限定にしてしっかり取り組むことで、より短期間で効果をあげる治療としていくことを重視しています。治療は、認知行動療法と同様に、ほとんどが週1回45分から50分程度の治療面接を定期的に持って行く形をとり、治療期間は数ヶ月です。治療面接の中で患者が取り組むテーマは、認知行動療法ほどかっちりと決められて与えられるものではないですが、普通の力動的精神療法よりはずいぶん具体的に方向付けられているものです。
その後、普通のうつ病に対して対人関係療法はその治療効果についての実証的研究を重ねました。その結果、うつ病に対して対人関係療法は認知行動療法とほぼ同等の効果を示すことができています。さらに詳しく見ていくと、対人関係療法は認知行動療法に比較して治療効果の発現はやや遅れるところがあるのですが、その後の回復はより順調であり、治療終了後でも患者は引き続き改善傾向を示す傾向も示唆されています。
対人関係療法に比較して問題領域をここまで具体的に示すことをしていない、普通の短期力動的精神療法では、治療効果は対人関係療法に劣ることが示唆されています。少なくとも治療効果の発現や短期的な治療効果という観点では、普通の短期力動的精神療法は認知行動療法や対人関係療法といったうつ病に特化した精神療法に比較してやや見劣りのする結果となっています。ただ、短期力動的精神療法も、対人関係療法も、特に比較的長期にわたりしっかり行った場合は、治療終了後も少なくともある程度しっかりとした再発予防効果はあるようであることが示されています。
短期力動的精神療法よりもさらに問題領域を限定せず、現在の当面の「うつ病」という問題よりも、その患者のより広汎な性格や対人関係病理を扱うことを重視した長期に行う一般的な精神力動的精神療法は、うつ病の第一線の治療としてはあまり出番がありません。もし、行うにしても、とりあえず「うつ病」という当面の問題を解決した後で、それでもその人の性格病理や対人関係の持続的な非適応的パターンが問題になる場合にのみ選択されることになる、というのがオーソドックスな考え方でしょう。
【うつ病に対する再発予防治療:再発予防に特化した認知行動療法】
うつ病は再発傾向があることが分かっており、一部の患者さんでは「反復性うつ病」と呼ばれるように、何度も何度もうつ病を繰り返してしまうことがあります。うつ病に対する心理療法として注目された認知行動療法も対人関係療法も、比較的短期間に行われるものでは、再発予防効果はある程度までしか望めないことも示されていました。(もっとも、力動的精神療法や対人関係療法では比較的長期間にわたってしっかりと行うことによって再発予防効果をかなり得られるのではないか?という結果が示唆されてもいます。)うつ病を何度も何度も繰り返してしまう人にとって比較的確実性のある再発予防治療は抗うつ薬をずっと服用しつづける薬物療法的な維持療法くらいしかなかったのです。
そこで、ターズデールらはうつ病の再発予防に特化した認知行動療法の開発に取り組み、「マインドフルネスにもとづいたうつ病に対する認知行動療法」というやり方で、少なくともある程度は再発予防効果があることを示しました。彼らの考え方は認知行動療法としては極めて挑戦的かつ斬新なものでした。
つまりこういうことです。うつ病になった時に認知行動療法で治療した人のうちで、少なくとも一部の人は再発予防効果を得ている。しかし、どうもそれは認知行動療法が当初想定したように、物事の抑うつ的な認知様式が変化し、よりポジティブな捉え方が身に付くためではないようだということが分かってきた。むしろ、認知行動療法をある一定期間一所懸命に実行することによって、自分自身の気持ちの動きや感情に対して、しっかり見つめることができるようになるためかもしれない。自分の気持ちの中に起こっていることを、見つめたくない考えたくない嫌だからといって避けることをせずに、しっかり見つめ受け入れてく姿勢のことを認知行動療法の分野では「マインドフルネス」という言葉で表現するが、その機能が向上することが再発予防につながっているのかもしれない。という発想から、その人の「マインドフルネス」な態度を向上させることを目的として、禅の瞑想的な手法を取り入れた認知行動療法ができました。そして、この方法では実際にうつ病の再発予防効果を示しています。
【抑うつ神経症=気分変調症に対する心理療法】
いわゆる「うつ病」に対する心理療法の効果研究としては大規模な研究が沢山でているのに対して、抑うつ神経症(気分変調症)については小規模な研究が少ししか出ていません。しかし、抑うつ神経症(気分変調症)は抑うつ症状の「深さ」こそ「うつ病」に比較して浅いものの、慢性的に続くものであり、その人の生活の質を長らく大きく損なうものであり、決して軽視して良い問題でもありません。
抑うつ神経症(気分変調症)は過去には「神経症」と呼ばれていたように、その人の性格的・対人関係的な要因が強く絡んでいることが考えられます。このような問題は「性格病理」と考えられ、古くから精神分析や精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)が治療対象にしていました。そして恐らくは治療効果があるのではないかと見られます。しかし、精神分析や精神分析的精神療法の悪い癖で、その治療効果についてしっかりとした科学的根拠を示すための実証的研究はほとんど行われていません。
現在まで、比較的しっかりとした実証的研究で効果が示されているのは、やはり認知行動療法と対人関係療法です。しかし、意外と言えば意外なことですが、こうした性格要因が大きく関わっている慢性的な問題に対しては、「うつ病」に対してはあれほどキレの良い治療効果を示すことができた認知行動療法も対人関係療法も、治療効果は今一つであることが示唆されています。少なくとも、ある程度長期間かけてしっかり治療をしていくことが必要そうであることも示唆されています。
上図はKocsisらの研究結果。「うつ病」に対して最初に使った抗うつ薬が効かなかった時に、「次の一手」として何をするのが良いのか?を調べたものです。そのまま抗うつ薬による薬物療法を続けるのと、認知行動療法を組み合わせるもの、そしてなんのへんてつもないただの支持的精神療法を組み合わせるもの、を比較してみました。経過を見ていくと、結局のところ、どの方法も変わらない結果しか出せませんでした。抗うつ薬がなかなか効かないような難治性の「うつ病」の場合、性格的な要因が強く背後にあることもあって、普通のうつ病に対して開発された普通の認知行動療法ではほとんど意味がないのでした。
【まとめ:どのような場合にどのような治療がより優れているのか?】
うつ病の場合、重症なものに対してはどの心理療法も十分な治療効果をあまり期待できないため、抗うつ薬を中心とした薬物療法が治療の主体になります。(重症のうつ病の場合、妄想などの症状を伴うことがあり、そうなってくると抗うつ薬だけでなく抗精神病薬の併用が必要になってもきます。)そのような場合に心理療法を併用することもありますが、あくまで併用という位置づけです。
中等度から軽症のうつ病(慢性的でないもの)に対しては、比較的短期間で行う心理療法である認知行動療法や対人関係療法が心理療法としては勧められ、どちらも同程度に効果的であると見られます。どちらがより優れているとか劣っているということは言いがたいところです。どちらを選択するかは、治療者・患者の好みによるでしょう。短期力動的精神療法は、やや効果発現のスピードにおいて見劣りがするものの、その後の巻き返し効果もあり、場合によっては(治療者・患者の好みによっては)選択されることもあるでしょう。
一般的なカウンセリング(ロジャーズ的な非指示的カウンセリング)については、うつ病の急性エピソードに対してはほとんど治療効果がないことが示唆されており、うつ病に対する治療としてはお勧めできないものです。精神分析や精神分析的精神療法も(うつ病の背景にある対人関係の葛藤や性格病理の治療と位置づけるのであれば別ですが)うつ病そのものに対する治療としてはお勧めできません。
うつ病を何度も繰り返してしまっている人の場合、いわゆる再発予防治療が必要になります。再発予防を薬物療法的に行うことが最も確実な有効性を示されているやり方ではあります。心理療法的に再発予防治療を行う場合は、認知行動療法的に行うにしろ、対人関係療法や力動的精神療法的に行うにしろ、普通のうつ病治療のように短期療法で終わらせてしまうのではなく、より長期にしっかりと行った方が良いであろうと思われます。認知行動療法や対人関係療法には頻度を月1回などのように落とした維持療法のやり方もあります。
抑うつ症状が慢性的に経過する抑うつ神経症(気分変調症)に対しても、認知行動療法で行うにしろ、対人関係療法や力動的精神療法で行うにしろ、やはりより長期間にわたってしっかりと行う治療が必要そうです。一般的な「うつ病」よりも治療は困難になることが多いからです。
ただ、慢性的ではない、普通の「うつ病エピソード」に対しては、日本国内ではわざわざ時間と労力とお金がかかる心理療法を選択することはせずに、抗うつ薬を中心とした薬物療法と若干の環境調整・心理教育だけで対処することの方が圧倒的に多いでしょう。ほとんどの普通の「うつ病」はこのようなやり方で十分に治療することができるからです。ただ、「うつ病」が治った後に何度も再発を繰り返してしまう人や、ベースに抑うつ神経症(気分変調症)があり慢性的に経過してしまう人の場合、そして長期にわたって抗うつ薬を使いつづけることに疑問や嫌悪感がある場合、比較的長期にしっかりと行うタイプの心理療法(認知行動療法的なものでも力動的精神療法や対人関係療法でも)が必要になってくるかもしれません。
【エピローグ】
Aさんは自分が「うつ病」かもしれないと思いつつも、ずっと精神科に受診をすることはためらっていました。しかし辛すぎて会社を休むようになってしまい、仕方なく受診することにしました。Aさんは「うつ病」と診断され、抗うつ薬を中心とした薬物療法が始まり、また主治医の勧めで2週間程度休職をとることにしました。休職をとることについては、Aさんは強い不安と罪悪感がありましたが、いずれにしろ実際に会社に行けなくなっていたからです。
主治医はAさんに、彼女の現在の状態は「うつ病」であることを説明しました。うつ病は心のブレーカーのようなものであり、つまりはこれまでのAさんの生活には何らかの無理があったのだろう、と言われましたが、この時点ではAさんには何のことかぴんとこないでいました。それでも「もう無理」であることは事実でしたから、休むしかないのだろうということだけは受け入れざるをえませんでした。
抗うつ薬を中心とした薬物療法が始まって2週間程度すると、少し気分が楽になってきた気がしました。とりあえずの休職期間を2週間としていたこともあり、Aさんは職場に戻りました。うつ病の症状はまだまだ強く、気分ものらないし、疲れやすいし、頭は回らないしで、以前のようには全然働けませんでした。さらに対人関係もひどく不安があり、消極的になっていました。自分でもおかしいと思いつつ、どうしようもできないものでした。この頃になると、Aさんは今回自分が「うつ病」になってしまった背景に、若干ではありますが、対人関係において無理をしすぎていたのかもしれない、と感じるようになっていました。上司や部下からの評価を過度に気にして、良く思われたい、嫌われたくないと思うあまりに、本来であればすべき自己主張をすることができず、今一つ大事なところで押しの弱いところがあるのかもしれない、と。Aさんはこの問題について少し本気で取り組んだ方が良いのだろうと思い、主治医に「カウンセリング」の併用を申し出ました。主治医は臨床心理士との週1回50分の定期面接による対人関係療法を勧めてくれたので、Aさんはそれを行って行く事に同意しました。
治療期間は3ヶ月かかりました。3ヶ月のうちに、うつ病の症状はほとんど全くなくなり、対人関係の問題も徐々にではありますが、より無理のない形に変わっていくことができました。主治医の勧めにより、抗うつ薬はその後半年くらい続けましたが、その後の経過も順調で、症状が再燃してしまうこともなく、Aさんは治療を終えることができました。振り返って見ると、「うつ病」は確かにAさんにとって辛く大変な「病気」でありもう二度と経験をしたくないものではありましたが、この「病気」をきっかけにAさんの対人関係のあり方は以前よりもずっと自然で無理のないものになりました。その意味では、この「病気」は自分が社会人として、大人として、より成長するためのきっかけだったのだな、とAさんは今では思っています。
<当事者・家族向け参考書>
デビッド・D・バーンズ『いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法』星和書店、2004年
デニス・グリーンバーガー『うつと不安の認知療法練習帳』創元社、2001年
水島広子『自分でできる対人関係療法』創元社、2004年
水島広子『「うつ」が楽になるノート』PHP研究所、2008年