第15章 性に関連した問題
【プロローグ】
Nさんは30代の女性で、1年ほど前に現在の夫と結婚しました。Nさんは、もともと少し神経質なところや、自信がなく傷つきやすいところはあったのですが、会社での対人関係の困難さから気持が落ち込んだり、不安になったりすることが続き、2年ほど前から「抑うつ神経症」という病名で精神科に通院していました。しかし、1年前に結婚を機に退職してからは、それほど大きな対人関係的なストレスもなく、夫との関係もそう問題なく、「うつ」や「不安」の症状もそれほど悪くはない状態で経過していました。実際、精神科への通院治療も、そろそろ止めても良いのではないかな、と思い始めていました。
ただ、一つNさんにはまだ主治医にも話していない問題がありました。結婚して1年になるのに、夫とセックスできずにいるのです。Nさんは夫が嫌いなわけではありません。むしろ大好きです。セックスという行為が嫌いなのでもないのだと思います。しかし、夫が挿入しようとすると、膣がとても痛くて怖くて入らないようになってしまいますし、実際に膣の入り口が堅く縮んでしまい、夫がいくらそうしようとしても入って行かなくなるのです。結局、Nさんも夫も諦めてしまう、ということを何度繰り返したかわかりません。実は、この問題は結婚する前からありました。夫も、Nさんのこの問題をわかっていながら、「それでも良いよ」と結婚してくれたのでした。しかし、Nさんは1年間もずっとセックスができない状態でいるのは夫にも申し訳なく思ってしまいますし、自分が女性として欠陥人間なのではないかと思えてきてとても落ち込むのでした。さらに、このままずっとできない状態でいたら、当然妊娠・出産もできないです。それは30代も半ばに入ろうとしているNさんにとって、のんびりしているわけにはいかないことでした。それで、ずっと男性の主治医にこんなことを話すのは恥ずかしいと思っていたのですが、Nさんはついに話してみることにしたのでした。
【心理的な性機能障害にはどんなものがあるか?】
心理的な原因・背景のある性機能障害、つまり精神科や心理カウンセリングで扱う性機能に関連した問題そしてその治療には、以下のようなものが主です。
(1)男性の勃起不全(性器反応障害)
性的に興奮しても、男性では性交をするのに十分な勃起が得られないこと、女性では膣の潤滑が不十分であることを、「性器反応障害」と呼びます。女性の場合は潤滑用ゼリーなどを使うことで性交はできるようになることが多いために、実際上の問題になってしまうことはまれです。これに対して、男性の場合は勃起できないことには挿入を伴う性交が不可能になるので臨床上問題になってくるわけです。
男性の勃起不全(インポテンス)にはいろいろな原因があり得ます。中には神経や血管の問題など、純粋に身体的な問題があることもあります。しかし、糖尿病などの基礎疾患がなく常用薬もない健康で若い男性の勃起不全は、そのかなりの割合が心因性のものです。特に、夜間寝ている時や自慰行為の時には勃起できるのに、特定のパートナーと性交するときだけ勃起不全となるようなものは、心理的な原因によるものと考えて良いでしょう。
男性の勃起不全については、最近では勃起不全改善薬(バイアグラ、シアリス)が使用されることが多く、実際心因性の勃起不全においてもかなり効果があるために、心理的介入をわざわざ行うことは少ないでしょう。しかし、それがなかった頃につくられた、マスターズとジョンソンによる行動療法的な介入法(およびその修正法)が少なくともある程度の改善をもたらしうることも知られています。
男性の心因性の勃起不全の典型的なものは「パフォーマンス不安」がともなわれているものです。何かをするときに、しっかり結果を出すことにとらわれすぎてしまい、満足行く結果が出せない不安が強まりすぎてしまい、結局できなくなってしまうというパターンです。パフォーマンス不安のある男性では、非常にしばしば、しっかり勃起して満足いく性交をすること期待されている状況だけでなく、しっかり振る舞い満足行く結果を出すことを期待されるいろいろな状況で不安を強めて回避的になってしまう傾向が見られることもあります。つまり、こうした男性における勃起不全は、一種のパフォーマンス不安の表れであり、期待されるようにしっかり勃起し満足いく性交をすることができないかもしれない不安から、勃起できなくなってしまっていることが多いのです。
このため、マスターズとジョンソンによる行動療法的な介入(およびその修正法)は「快感集中法 sensate focus、pleasuring」と呼ばれるものですが、挿入を伴う性交をすることを禁じ、勃起することも期待せず、ただただ夫婦による性的マッサージによって性感をしっかり感じることだけに意識を集中してもらう練習をします。このようにして「しっかりと」勃起しなくてはいけない、「満足いく」性交をしなくてはいけないというプレッシャーから解放され、普通の性的興奮の反応としての勃起をするようになってくる、というものです。実際、この方法を夫婦間で練習することにより、6割から8割の患者で改善があることが期待できます。
ただ、男性の心因性の勃起不全は、患者である男性だけの問題というよりも、その夫婦の間にある問題の表れであることも多く、夫婦間葛藤が大きい場合、せっかく一度は「治った」形になっても再発率が高いこともわかっています。その場合は、やはり、夫婦間の根本的な葛藤を解決していく必要があるのでしょう。
(2)男性の早漏(premature ejeculation)
男性が性交の際に挿入直後に射精してしまうこと、このため男女ともに性的な快感を十分に楽しむことができない問題を早漏と呼びます。(多くの場合、早漏の男性は自慰行為で射精するときには、射精までの時間を長引かせることができます。パートナーとの行為で射精までの時間をコントロールすることが困難であるのが特徴です。)ただ、どの程度の持続時間を「直後」と呼ぶのかについての絶対的な基準があるわけではありません。本人またはパートナーが持続時間の短さから極端な不満を持ってしまう場合にこの「病名」がつくと考えて良いでしょう。多くの場合、挿入して2分以内に射精してしまうと不満を感じるようです。多くの男性にとって早漏は性的な経験が増えるにつれて、また年齢が上がるにつれて減っていく傾向があります。それでも持続的に射精までの時間があまりに短いことが苦痛になっている場合に「治療」が役立つ可能性はあります。
一般的に言って、射精までの時間は飲酒によって遅延する傾向がありますし、コンドームを二枚重ねにすることやペニスに感覚を鈍らせるローションを塗ることでペニスへの性的な刺激を直接的に減弱させたり、性交中に数学等の難しいことを考えて気をそらしたりすることで、民間療法的に対応している人も少なくないでしょう。しかし、それらの方法では性的な楽しみも減弱してしまいますし、基本的にうまくいかないことも多いです。
行動療法的には、「スタート・ストップ法」あるいは「スクイーズ法」と呼ばれるやり方がある程度の効果を上げられることが示唆されています。これらの方法は、パートナーにペニスを刺激してもらいながら、射精直前の状態になったら刺激を止めてもらうということを繰り返すものです。こうして性的興奮が高まっていき射精直前状態になる事への気づき能力を高めるための訓練となっているわけです。射精直前の感覚への気づき能力が高まることによって、それをコントロールすることも次第にできるようになり、ほとんどの場合2,3ヶ月程度で治った状態になることが期待できます。
また、抗うつ薬であり選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRIs)は副作用としてオルガスム障害(遅漏)がありますので、この副作用を逆手にとることで早漏を「治療」するという方法もあります。
(3)男性・女性のオルガスム障害
統計的には男性も女性も5%〜10%にオルガスム障害があると見られています。ただ、女性の場合若干事情は複雑であり、オルガスムを得ることができる人たちの中で、自慰行為によってオルガスムに達することができても、パートナーとの何らかの行為によって達することができるのは一部でしかなく、さらにその一部がパートナーとの狭義の性交(性器の挿入)によって達することができるのだと見られています。つまり、女性においては、純粋にパートナーとの性交によって(毎回、あるいはかなり頻繁に)オルガスムに達することができるのが「普通」だとは言えないところがあります。さらに、男性の場合、オルガスムに達するのが遅いことは性的・社会的に好ましいこととされる傾向があるためか、遅漏が臨床的に問題になってしまうことは少なく、このため治療法についての良質な実証研究はあまりありません。
一般に心因的なオルガスム障害は性的快感に対する過度な抑制が働いていると考えられます。このため、男性の場合でも女性の場合でも、性に関する罪悪感やある種のとらわれについてカウンセリングをおこなっていくことは有効かもしれません。
行動療法的には、「ブリッジ法」や「マスターベーション訓練」などがある程度の効果をあげられるのではないかと見られています。
性機能障害のほとんどは、「治療」によって一旦は治ったような状態になっても、夫婦間の葛藤が続いていると再発してくる傾向があるのですが、男性における早漏と同様に、女性のオルガスム障害だけは例外的に経年的に良くなっていく傾向があることがわかっています。これは、女性の場合、年を経るごとに、経験をつむごとに、性に対する過度な抑制がなくなり、どのようにすることが快感であるかを学習するようになり、より自由に性を楽しめるようになるからではないかと見られています。
(4)女性の膣痙
プロローグに出てきたNさんは、この「膣痙」です。膣痙は、性に関する不安や葛藤がベースにある女性に見られる傾向があり、膣の入り口の筋肉が強く収縮してしまうために、痛みと不安から挿入が不可能になってしまうものです。実際、収縮があまりに強いために、ペニスはおろか指などの細いものでさえ全く挿入できそうにないほど固く閉ざしてしまうことも少なくありません。
膣痙は基本的には膣に何かを挿入されることに対する膣のまわりにある筋肉が条件反射的に収縮してしまう状態と考えられているため、この条件反射を徐々に解除していくことで比較的簡単に治していくことができます。基本的には、しばらくの間ペニスの挿入をしようとすることを一切やめます。その上で、女性が自分自身で指などの細いものから徐々に膣に入れていく練習を積み重ねていきます。こうして挿入に伴う過度な緊張・不安とそれに関連する膣の周囲の筋肉の条件反射的な収縮を徐々になくしていき、最終的にはパートナーのペニスが挿入できる程度にまでもっていくというものです。
症状的には上記の行動療法的なやり方で良くなることが期待できるのですが、背景に性に関する何らかの葛藤や不安があることがあり、これに対してはカウンセリングが必要かもしれません。
【エピローグ】
Nさんが主治医に症状・問題を相談すると、主治医はそれは「膣痙」と呼ばれる問題であろう、と言いました。膣痙は膣にものが入ることに対して不安や緊張があり、膣が過度に収縮してしまうという条件反射がついてしまっているものであるために、少しずつ、細いものから徐々に膣にものを入れていく練習をすることで、比較的簡単に治せるだろうと、医師は言いました。Nさんは少し信じられない思いでいました。Nさん自身の指ですら、入らないと思っていました。「もしご自身の指でさえ難しそうであれば、最初はさらにもっと細い、直腸用の体温計でも、イチジク浣腸でも、良いのです。細いものから始めて、徐々にならしていけば良いのです。」と医師は言い、「膣痙の治し方」というパンフレットを渡してきました。
Nさんは、自宅に帰ってから、医師に説明された通りに、パンフレットに書かれているように、「練習」を始めてみました。自分のベッドの上で、一人になってリラックスして、まずは自分の膣を鏡でゆっくり見てみて、そして自分の人差し指を先の方だけ入れてみました。怖い感じはありましたが、先の方だけなら入りました。指示されたように膣に指が入っている感覚をしっかり感じるように意識してもみました。この日の練習は「人差し指の先の方だけ」ということでしたから、それを何回か繰り返してその日と次の日は終わりました。3日目には「人差し指全体」を入れてみることにしました。膣の中に指が入っている状態がそれほど違和感なく、不安や不快感なく、心地よく感じられるまで、指をいれてじっと感覚を感じるようにしてみました。2週間目には「人差し指と中指の2本」が入るようになり、3週間目には夫の指を入れてもらうようになりました。膣の中で指を動かしても痛さや怖さを感じることはなくなりました。そして1ヶ月後には、夫のペニスを挿入してみました。最初は夫は動かずに、そして最後には夫に動いてもらっても大丈夫なようになりました。
今ではNさんには「膣痙」の問題はなくなっています。ただ、対人関係全般での自信のなさや、とりわけ自分の女性性に対する自信のなさ/性的な自尊心の傷つきやすさの問題があることが自覚されてもきました。今は、この問題にちゃんと向き合っていくために、カウンセリングを受けようかと考えているところです。