第12章 アルコール依存、物質乱用・依存症

【プロローグ】
(ここでのケースはフィクションです)

 Kさんは40代の男性の自衛官です。家族は妻と中学生になる娘が1人いました。Kさんは高卒で陸上自衛隊に入り、もともと身体が丈夫で運動が得意だったKさんは、精鋭部隊と呼ばれる空挺部隊に進みました。そのまま空挺部隊の指導役として勤めることになったのでした。その頃のKさんには、日本一精鋭と呼ばれる部隊に所属していることの誇りもありましたし、家族の中でも頼りにされており、自信に満ちた日々を過ごしていました。

 ところが、頻繁にパラシュート降下を繰り返す空挺隊員には珍しいことではないのですが、Kさんも次第に腰を悪くするようになっていました。そして、ついにある日の降下で完全に腰を悪くしてしまい、整形外科医から空挺を半永久的に禁止する診断書を出されてしまったのでした。

 空挺部隊で指導役をしていながら、自分はパラシュート降下ができないという事実は、Kさんのプライドをひどく傷つけました。パラシュート降下ができなくなったことで、給料も減りました。もう自分の存在価値はどこにもないとさえ感じるようになりました。Kさんは、もともとお酒は好きだったのですが、次第に勤務時間が終わるとロッカーからウイスキーを取り出して飲むようになりました。とてもしらふでは帰れない気持だったのです。飲酒の頻度も程度も次第にエスカレートしていきました。仕事のない休日は朝からお酒を飲むようになってきましたし、夜は毎日酔いつぶれるまで飲むようになってきました。二日酔いのために翌日の仕事に支障がでてしまうことも頻繁になりました。夕方になると、勤務時間が終わる前からロッカーの中にあるウイスキーに手を出してしまうこともたびたび起こるようになり、上司から注意をうけることも増えてきました。家に帰るとすでに酔っていましたし、その後もずっとお酒を飲み続けていることもあって、家族とのコミュニケーションもめっきり減りました。Kさんを不機嫌にしないようにと、、妻も娘もKさんのことは腫れ物にさわるように、見て見ぬふりをするようになっていました。変に不機嫌になられるよりは、お酒を飲んでおとなしくしていられる方がまだましだろう、と思われていたのです。

 そんな状態が続く中で、祝日のために何日も仕事にいかない日が続いたことがありました。この間のKさんの酒はひどいものでした。毎日朝から晩まで、起きている時間はずっと飲んでいました。そして、ちょうど連休が終わる頃、Kさんは激しい腹痛と吐き気のために救急病院に搬送されることになったのでした。

 Kさんは急性膵炎との診断ですぐに内科病棟に入院ということになりました。ところが、入院して2日目に、Kさんの精神状態が明らかにおかしくなってきたのです。小さな虫がKさんのベッドの周りを這い回っている幻覚が見えましたし、誰かが襲ってくるという感覚に襲われひどく不安になりました。夜も全く眠れなくなりました。訳のわからないことで興奮するようになり、内科病棟の職員に暴力を振るいそうになってきました。翌日には家族が呼ばれ、このまま内科病棟で治療していくことは困難なため、精神科病棟に移すべき事を病院側から告げられてしまったのでした。

【アルコール依存症、物質乱用・依存はどんな疾患か?】

 アルコール、覚醒剤、麻薬、抗不安薬など乱用や依存(病的嗜癖)になってしまう物質にはいくつもあります。すべてに共通して、使用するとその時だけ不安を和らげ精神的に楽になったり、高揚感を感じられたり、何かしら特別な気分になれるということがあります。ほとんどは脳の中の「報酬系」と呼ばれるドーパミン系を刺激することによって、直接的に「良い気持ち」にする薬理作用があり、このためになおさら依存しやすくなってしまうのだろう、というところはあります。しかし、これらの物質が向精神薬などの治療薬と違うのは、一時的には気分を楽にすることはあっても、長期的に見るとより脳の機能を低下させ、社会的機能を低下させる危険性が高すぎることにあります。長期的なデメリットが短期的なメリット(一瞬だけ楽になること)を著しく上回っていることが問題なのです。そして、物質を使って得られる解決は、しょせんはその場しのぎであり、本当の意味での問題解決を先延ばしにして現実逃避をしているにすぎないため、後々その多大なツケを払わなくてはいけなくなってしまうことも大きな問題の一つでしょう。

 アルコールを含め物質乱用には、病的に依存してしまい生活が堕落・破綻してくるという問題以外にも、問題となる精神作用物質の特有の問題もあります。

 アルコールは、よく知られているように、肝臓への障害(アルコール性肝炎、脂肪肝、さらに進んで肝硬変など)、膵臓への障害(膵炎)、脂質代謝異常(中性脂肪の増加)、などなど多くの健康被害を生じる可能性があります。さらに、アルコールの飲み過ぎに加えてビタミン類などの栄養障害があると脳機能への障害(いわゆるウェルニッケ・コルサコフ症候群)も起こる可能性があります。さらに、毎日のようにアルコールを飲んでいた人が、何かのことで急に断酒すると(しばしばアルコール依存症の人が肝臓や膵臓を壊して内科に入院したときなどにこうした問題が起こります)、「アルコール離脱せん妄」という幻覚妄想状態になることもあります。これは別名「振戦せん妄」とも呼ばれ、「小さな虫が見える」「こびとがいる」などの幻視や妄想、興奮、混乱、手の震えを伴い、時に全身性のけいれんを起こすことさえある危険な状態です。

 覚醒剤は、基本的にドーパミン系を直接的に過活動状態にするため、過剰に使用すると情緒不安定や興奮、幻覚や妄想などの統合失調症のような状態を引き起こしやすくなります。さらに薬がきれた状態では、これまでよりもさらに意欲が減退してしまうようになってきます。

 麻薬類は幻覚や妄想を生じてしまう危険性だけでなく、本当の意味での強い依存性があり、依存を生じるとやめられなくなります。(実際、麻薬類の依存性の強さは他の薬剤と比べものにならないほど強いものがあり、生活が完全に堕落・破綻してもやめられないという状態になってしまうことが少なくありません。こうしたことから、麻薬類は「国を滅ぼしてしまう薬」だという考え方があり、取り締まる法律も全く別格であり他の向精神薬に比較して非常に厳しいものになっています。)

 MDMA(エクスタシー)は、使用中に周囲の人たちへの根拠のない親しみ感が増すことから集団で使われることが多い薬剤ですが、薬がきれた状態になるとセロトニン枯渇症状(うつ病、パニック障害、強迫性障害、のような状態)が続くことになりますし、周囲の人たちへの親しみ感や信頼感がより低下してしまい、社会性が失われていく傾向があると考えられています。


 アルコールを含め物質乱用・依存に陥りやすい人というのはいます。性格傾向として病的嗜癖にはまりやすい人というのはいるのです。実際に、アルコール依存症はかなりの遺伝性があることがわかっています。一般に、反社会性パーソナリティ障害、境界性パーソナリティ障害、などB群パーソナリティ障害が背景にあることも多く、そこからくる対人関係や社会との不適応感から物質乱用・依存に逃避してしまっている、という側面も強いと思われます。寂しさ、孤独感、惨めさ、などの強いネガティブな気持を麻痺させるためにアルコールやその他の物質を乱用し依存してしまうのです。

【アルコール依存症、物質乱用・依存に対する心理療法】

 物質乱用・依存の中でもアルコール乱用(問題飲酒)、アルコール依存症が最も多く、そのため最もよく研究されているものです。しかし、これまでの研究でわかってきたことは、アルコール乱用・アルコール依存症の治療は非常に難しいということです。

 なぜアルコール乱用・依存症の治療は難しいのか?理由はいくつかありそうです。

 まずは本人の動機づけの問題があります。アルコール乱用・依存症は、多くの場合、家族などの周囲の人たちはこれを問題視していますし大変に困っています。しかし本人はこれによって楽になっている部分もあるので、なかなか自主的にやめていきたい、やめなくちゃいけない、という気持になれないというところがあるでしょう。

 次にもともとのベースにある性格的な問題とそこからくる社会・対人関係での不適応感があります。アルコール乱用・依存症やその他の物質乱用・依存症になってしまう人の中には、明らかなパーソナリティ障害を合併している人も少なくないですし、パーソナリティ障害という病名こそつかなくても、何らかの性格的な問題があって対人関係での困難さや「自分」というものの生きにくさの問題を抱えている人は多いでしょう。アルコールやその他の精神作用物質は、そこからくる強い不安感、孤独感、惨めさ、寂しさ、などのネガティブな感情を(一時しのぎにすぎないものですが)緩和してくれているわけです。ですから、アルコールやその他の精神作用物質をやめた時に、根っこにあるこうした問題にまた直面することになります。つまり、治療としては、アルコールやその他の精神作用物質をやめることだけでは不十分なのです。パーソナリティ障害やその他の性格的な問題が大きい人については、その根っこにある「生きにくさ」の問題を解決していかないと、「覚醒剤もお酒もやめられた、だけど生き地獄の日々が続いている」ということになってしまいます。

 アルコール乱用・依存症という問題に対して、これまでの研究である程度の有効性・有用性を示唆されているのは、今のところ、「動機づけ面接」と呼ばれる比較的短期の支持的精神療法と、認知行動療法、そして家族行動療法くらいです。アルコール乱用・依存症の背景にある性格的な問題を治していこうとする場合は別ですが、長期間におよぶ本格的な心理療法の有効性・有用性は疑問視されています。

 「動機づけ面接」と呼ばれる短期間の支持的精神療法は、患者本人が自主的に問題飲酒をやめていきたい、やめなくちゃいけない、という気持に誘導していくものです。誘導していくとは行っても、あまりに治療者側が強く誘導してしまうと逆効果なので、基本的にはロジャース派的な、患者の自主性・自律性を尊重したやり方で接していきます。過去には問題飲酒をする人の問題行動を指摘し、本人が否認してしまっているだけで、本当はそれがどれほど問題なのかを直面化させるやり方が横行していたことがありました。ところが、そうすればするほど、患者の自主性・自律性をくじくことになり、結果として治療成績が下がってしまう傾向が示されたことから、現在では極力そうしたやり方は行わないようになっています。

 認知行動療法も家族行動療法も、アルコール乱用・依存症になってしまっている人は、家族やその他の対人関係の中でより適切な問題解決行動やコミュニケーション行動をとらず飲酒に逃避してしまっていることで事態を悪化させているので、その点をまずは変えていこうとして介入することが多いでしょう。アルコール乱用・依存症の背景にある性格傾向の問題のところでも触れましたが、患者さんは非常にしばしば対人関係の中で孤立しており、強い孤独感や劣等感を強めていることがあります。ここにアルコールへの逃避が加わることで、ますます事態が悪化し悪循環を起こしていることも少なくないのです。酔っぱらって不機嫌になっていることが多ければ、家族もその他の周囲の人たちもその人を遠ざけたく思ってしまうでしょうし、変に不機嫌になってからまれるよりも、お酒だけ与えておとなしくしてもらっていた方がいい、というようになってしまいがちです。飲酒という行動によって、本人は家族や周囲の人たちをどんどん遠ざけてしまいますし、家族や周囲の人たちも本人に飲酒を許しお酒を与えることで遠ざけてしまっているのです。こうして、適切なコミュニケーションがますますなくなってしまっていることが大きな問題になってきます。過去には、このようにして本人にお酒を与え、アルコール乱用・依存症を助長してしまう家族は「イネイブラー」と批判的に呼ばれていたことがありました。しかし、家族としても、そのように批判・否定されてしまうだけでは、どうして良いのかわからず、かえって困ってしまうだけだったのです。そこで、最近では「何が悪かったのか?」ではなく「どうすれば良くなれるのか?」に重点を置き、行動療法的に家族に変わってもらうというやり方の方が中心になってきていますし、実際にこちらの方が治療成績が良いのです。つまり「家族が本人にお酒を与えてアルコール依存を助長してしまっているのが悪い」ではなく、「家族が本人とより良いコミュニケーションをする時間を増やしていくのが良い」というスタンスであり、さらに具体的にどうしていくかを話し合っていくタイプの治療が良いようです。

 その他の心理療法についての効果は不明です。過去にはアルコール依存症の「教育目的入院」というものが行われていたこともありますが、入院治療による効果は薄く、現在ではその高いコストを正当化できるほどの効果はないと考えられており一般に勧められるものではなくなっています。

【エピローグ】

 Kさんとその家族は担当の精神科医に、現在のKさんの状態が「アルコール離脱せん妄」と呼ばれる状態であること、入院が必要だが現時点で本人の同意能力はないので家族の同意による入院(医療保護入院)となること、数日から1週間くらいは幻覚妄想で混乱し興奮した状態が続くため隔離や身体拘束が必要になるだろうこと、などを伝えられました。Kさんの家族は大変動揺しましたが、そうするしかないだろうことを理解しました。そして、Kさんの精神科での入院治療が始まったのでした。Kさんは、精神科医の言った通りに、最初の数日間は非常に混乱し興奮した状態で経過したため身体拘束を受けることになりました。その間薬物療法を使ってアルコール離脱症状を最小限におさえる治療がなされました。結局、アルコール離脱せん妄の症状自体は1週間程度でおさまり、急性膵炎の治療も合わせて3週間程度で退院することができました。しかし、そもそもこんな状態になってしまった原因であるアルコール乱用・依存の問題がありました。

 Kさんの幻覚妄想などの症状が落ち着いてくると、入院中から精神科の主治医はKさんとアルコール関連の問題を話し合いました。Kさんは、アルコールが原因と考えられるどんな身体の障害が起こっているのか、データではどうでているのか、今後どのような障害が起こることが予測されるのか、ということについての説明も受けました。そして、そもそもKさんがどうしてアルコールにおぼれていってしまったのかという背景の問題も、何回かの面接を重ねる中で考えていったのでした。

 同時に、Kさんの家族、特にKさんの妻とKさんの同席面接も何度か行われました。その中で、Kさんの飲酒について妻は問題だと感じているものの、Kさんが仕事で自信をなくしてしまい、嫌なことを忘れたい気持があることもわかっているし、何よりもイライラと不機嫌になっているKさんにお酒の問題を含めて何の話しをすることも怖くてできなかったことが話題になりました。不機嫌そうにお酒を飲んでいるKさんに対して、妻も娘も腫れ物にさわるように接するように避けるようになっていたのです。Kさんは、孤独感のためにアルコールに向かってしまったのですが、アルコールのために家族から避けられますます孤独になっていた側面もあったのです。そこで、主治医はKさんと妻の間に「コミュニケーションの練習」をするという課題を与えました。Kさんには、自分の事をわかりやすく具体的に話す課題を。妻には、Kさんの話しをゆっくり、聞き手に徹して聞く課題を与えたのでした。毎日、30分という一定の時間をとり、Kさんが心にあることを話し、妻がそれに余計な口を挟むことなく聞き手に徹して聞いてみるという練習でした。やってみると、驚くほどにKさんは自分の気持ちを言葉で伝えることができていなかったことに気づきましたし、妻は聞き手に徹してしっかりと話しを聞く姿勢にかけていたことに気づきました。途中から「話し手」と「聞き手」の役割を交代して会話をする練習も入れてみました。この練習は、Kさんが退院して外来に通うようになってからも続けられ、そうしている間にKさんの家族の中では以前よりも会話が増えるようになってきましたし、Kさんも以前のように家族の中で孤立感を感じることは少なくなっていきました。

Kさんにとって、空を飛ぶことができなくなったのは大きな喪失体験でした。しかし、それによってKさんの存在価値がなくなったわけでもなかったのです。少なくともKさんの家族は、Kさんが元気で働き、家族の事をしっかりと大事にしてくれていることをとても感謝しているようでもありました。そして職場でも、今まではプライドが邪魔して仲間に自分の気持ちをあまり話すことができずにいたのですが、Kさんは家族にそうしているのと同様に、職場の仲間にも少しずつ気持を話すようにしてみたのでした。驚くほどに、職場の仲間はKさんのことを仲間だと思ってくれていたのでした。まだまだKさんには、自分がこれから職場の仲間達の中でどのような役割をとっていったら良いのかわからないところがあります。給料も低くなったままです。そうではあっても、お酒によって気を紛らわしていないといけないほどの強い不安や孤立感はもうなくなってきました。自分には自分の、別の存在価値や生きる意義があるのかもしれない、と少し思えるようになってきています。