第10章 神経症6:ヒステリー神経症
(解離性障害、転換性障害、身体化障害)

【プロローグ】
(ここでのケースはフィクションです)

 Iさんは、現在21歳の女子大学生です。振り返ると、Iさんは物心ついた頃からずっと、不安と落ちこみ感の中で生きてきた気がします。

 Iさんの生まれ育った家族は、Iさんと2歳年上の姉、そして両親の4人家族でした。何をやっても良くできる姉は母親のお気に入りの子でしたが、Iさんはいつも母親に姉と比較され、できないことをヒステリックに責められた記憶しかありませんでした。Iさんは母親から好かれていない、何をやってもいまいましく思われているのだと感じて、寂しい思いをしていました。

 Iさんがベッドの中で一人で泣いていると、時々父親が気まぐれのようにやってきてIさんをなぐさめてくれるのですが、そんなときは母親のIさんを見る目はますます嫌悪に満ちたものになっているのを感じました。「お前は、そうやってお父さんに色目をつかって!」と軽蔑されるように言われるのが怖くて仕方ありませんでした。

 そんな不安や寂しさがあったせいなのか、Iさんはいつの頃からか、小学校の低学年の頃からだったと記憶しているのですが、ベッドの中で一人になると自慰行為をするようになりました。そんなある夜、Iさんがベッドの中で一人で自慰行為をしていると父親がやってきました。そして、Iさんに寂しいのか?と言い、Iさんの身体をさわり始めました。父親は「このことはお母さんには秘密だよ。誰にも言ってはいけないよ。言ったら、お父さんはいなくなることになるからね。」と言って出ていきました。その日以来、時々Iさんが一人でベッドに入っているときに父親がやってきては似たようなことをしていきました。父親の性的な行為は次第にエスカレートしていき、性器をさわったり指を入れてきたりするようになりました。Iさんは強い罪悪感を抱きましたが、誰にも言えず、何もできずにいました。時々家族で食事をしているときに、父親が意味ありげに「お前ももう大人だよな。」と言ったりすると、Iさんはとても怖くなりました。実の父親とのそんな秘密の関係はその後数年間、ちょうどIさんに生理が始まる頃まで、続きました。

 Iさんが中学校に入った頃から、時々いくつもの「症状」が出るようになりました。急に足が動かなくなったり、声がでなくなったり、意識を失って倒れるようになりました。病院では「てんかん」を疑われ、脳波やMRIなどの検査をいくつもしましたが、異常なしとのことでした。Iさんの意識がなくなることは次第に増えていきました。高校生の頃からは、Iさんが自分が意識がない状態の時に、まるで別人になったかのように他人と話していたことを後で指摘されるようになりました。子どものように振る舞っていたとか、何か怒っていたとか、泣いていたと言われるのですが、Iさんにとっては全く記憶が抜け落ちていることでした。高校を卒業すると、Iさんは家族から離れたい気持ちもあったので、自宅から離れた大学に進学し、一人暮らしをするようになりました。大学での友人関係はまあまあやれていましたし、彼もできました。しかしそのうち、Iさんにとっては記憶のない時間に彼に対して暴言を吐いたり暴れたりするようになり、リストカットなどの自傷行為もするようになっていました。彼も見かねてIさんに精神科に受診するように勧めたのでした。

【ヒステリーとはどんな疾患か?】

 精神科の用語でいうところの「ヒステリー」は、一般に使われる言葉の「ヒステリー」とは全く意味が違います。基本的には「ヒステリー性格」とも呼ばれる、深層での性的な葛藤・傷つきやすさの問題があり、同性との、あるいは異性との独特の対人関係のパターンを繰り返す傾向のある性格をベースに持ちます。そして、何らかの心理的な葛藤を背景に「解離症状」と呼ばれる症状や「転換症状」と呼ばれる症状、そしていくつもの身体化症状を合併していることが多いことも特徴です。難治性の抑うつ症状や不安症状を合併していることも少なくなく、こうした問題のために精神科を受診するのは女性にやや多い印象がありますが、男性にもある疾患と考えて良いでしょう。

 「解離症状」とは、心理的なメカニズムで起こる意識変容状態のことをさします。催眠状態などで誘導される「トランス状態」と似たような状態になり、意識はあるのに意識がない、少なくとも「本人」には記憶がない状態になるものです。人によっては単純にぼーっとしている状態に陥ることもありますし、あたかも人が変わったかのように別人のように振る舞い、その間のことを憶えていないこともあります。別人のように振る舞っている時に、別の名前を持った別の人格になっていることもあり、それが繰り返され持続的な問題となってくると「多重人格」とか「解離性自我同一性障害」とか呼ばれることもあります。こうした意識変容状態のもとで、いつもの本人の言動とは全く違った言動をすることがあり、衝動行為や暴力行為を起こしてしまうこともまれならずあります。解離している間に自傷行為をしてしまうということも珍しくありません。

 発作的・一時的に意識変容状態になることは、一部の「てんかん epilepsy」においても起こることがありますが、ヒステリー性の「解離」では、てんかんのような脳内の異常放電はなく、脳波上の異常は認められないものです。

 「転換症状」とは、心の葛藤が身体の症状に転換されているという意味で使われる用語です。ヒステリー神経症においてよくあるのが、「声が出ない」(失声症)、歩けない・動けないといった麻痺のような症状、神経学的・眼科学的には説明のつかない視力低下、聴力低下、喉の詰まったような感じ、胸の圧迫感、などがあります。これらの症状は、内科的に検査しても異常が認められず、結局心理的な要因によって起こっているとしか考えられないという結論になってくるものです。

 さらに、ヒステリー神経症では、非常にしばしば不安症状や抑うつ症状を伴います。そして、ヒステリー神経症における抑うつ症状は、非常にしばしば、「メランコリー型」とも呼ばれる古典的なうつ病の症状とは違い「非定型」と呼ばれるいくつもの特徴を伴います。(この症状の詳細は、「抑うつ神経症」のところで議論しています。)

 このように「ヒステリー神経症」は非常にいろいろな症状で出てくることが多く、1つの症状が解決したように見えても、別の症状になって再び出てくることも少なくなく、このため「症状」に対して対症的に治療していくとどうしてもうまくいかないという難しさが生じてきます。むしろ、「ヒステリー神経症」を引き起こしている、背景にある、心の葛藤をしっかり扱い、解決していくことでしか、なかなか本当の意味での治療にたどり着けないところがあります。

【ヒステリー神経症に対する心理療法】

 「ヒステリー」は、上記のように、独特な心理的な原因のある多様な問題として考えられるのですが、現在の精神疾患の国際分類(ICD−10やDSM−IVなど)では、精神疾患の原因を仮定してはいけないことになっています。むしろ、症状や行動の異常として表面に表れる、誰でも客観的に記述できるものから分類していくべきというのが基本的な考え方になっています。このため、古くから「ヒステリー」と呼ばれていたものは、現在の精神疾患の分類では、いくつもの横断的な病名で呼ばれることになります。「ヒステリー性格」のうち、適応の良いものは「精神や行動の異常」としては認められないため分類名はありません。適応の悪いものは「演技性パーソナリティ障害」という分類名を与えられています。ヒステリーの主な症状のうち、「転換症状」は「転換性障害」に、「解離症状」は「解離性障害」に分類されてきます。明らかな「転換症状」にならないその他の身体的な訴えを中心とする症状は「身体表現性障害」に分類されます。さらにヒステリー性の抑うつ状態は「非定型うつ病」あるいは「非定型気分変調症」という気分障害に分類されていきます。

 このように現在の新分類では「ヒステリー」という言葉そのものがなくなり、上記のようにいくつもの病名にばらばらに分類されていくことになることもあってか、「ヒステリー」に対する心理療法についての系統的な研究はなかなか進んでいない印象です。

 古くからヒステリー神経症に対しては、精神分析や精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)が伝統的に行われ、それなりの効果を上げるようであることが示唆されていましたが、現在の疾患分類を用いての質の良い実証的研究結果はまだ非常に少ないです。

 認知行動療法も、身体表現性障害に対していくぶんかの効果を上げることを示唆する研究結果もありますが、決定的なことはいえない段階です。

 実際の臨床現場では、解離性障害や転換性障害は、なかなか普通の「カウンセリング」では扱いが難しくなってしまうこともあり、週1回以上の定期的な面接を明確な治療的枠組みのもとで行う精神分析的精神療法が行われることが多いと思います。これでさえ、現段階ではその治療効果について決定的なことがいえるほどの実証的研究のデータが集まっているとは言えない状態と考えるべきでしょう。
 そうではあっても、認知行動療法と力動的精神療法はある程度の効果をあげることは示唆されています。

【エピローグ】

 Iさんは彼氏と一緒に近くの心療内科を受診しました。しかし、そこでは「リストカット」をするような患者は診られないと断られてしまいました。次に行ったクリニックでは「解離性障害」であろうと言われましたが、そこでも解離性障害は診られないと断られました。仕方ないので、彼氏は保健所に相談に行き、付近の精神科・心療内科のクリニックと病院のリストをもらい、かたっぱしから電話をしてくれたのですが、そのうち「診ます」と言ってくれたのは2カ所だけでした。

 診察に行くと、医師はIさんについて、確かに解離性障害であろうと思われること、おそらく薬物療法はあまり助けにならないので基本的には使用せず、むしろ心理療法が勧められること、心理療法はIさんにとっても辛いものになるかもしれないし数年かかるかもしれないが役立つ可能性はあること、などを話し、臨床心理士との心理療法(精神力動的精神療法)を勧めてきました。

 Iさんは心理士との週1回50分の心理療法面接を始めました。そこからは、最初に主治医が言っていたように、本当に長く辛い治療になりました。Iさんは、いろいろな話しをしながら、心理士からどう思われているだろうか?ということが次第に不安になってきましたし、いつか嫌われ、「いらない子」とされ捨てられてしまうのではないか?と不安になりました。さらに、これまではできるだけなかったことにしようとしてきた、過去の嫌な思い出も、自分の性格上の嫌な側面も、すべて話さなくてはいけないことも辛さの大きな要因になっていきました。治療によって良くなりたいと思っている一方で、治療を進めることが怖いと感じている自分は、ある意味とてもわがままでいけない子のようにも思ったりしました。そんな自分を放ったらかしにして、何のアドバイスも保証も与えてくれない心理士を憎らしいと思ったりもしました。しかし、Iさんは逃げることなく、こうしたすべての話したくもない気持ちを心理士に話し、一緒に考え取り組んでいくことを続けていきました。治療を始めて1年もすると症状的にはずいぶん落ち着き、ほとんど周囲から気づかれるような「症状」はないようになってきました。しかし、Iさんの内面にはまだ未解決な気持ちがありましたし、「症状」がなくなったからと心理士から不要品のように思われ、捨てられてしまう不安も生じてきました。そして、そんな気持ちの問題もまた話していきました。

 結局、Iさんの心理療法は約3年間続きました。症状はなくなり、対人関係において相手のことを過度に気にしてしまい、いつも捨てられること、関心を失われてしまうことを恐れるようなことはなくなりました。そして、心理士との治療も「捨てられた」と思うことなく、自分から決断して終えていくことができたのでした。

※このケースイラストレーションでは患者に性的虐待という過去がありましたが、解離性障害(多重人格を含む)、転換性障害において、かならずしも小児期の性的・身体的虐待があるというものではありません。