第1章 「心理療法」とは何か?


 人間の歴史は、そのまま病気やその他の苦悩との闘いの歴史でもありました。ここでの「病気」には感染症やその他の身体の病気も、そして「心の病」、つまり精神疾患も含まれてきます。何らかの外的・内的な原因で身体の不具合を生じてしまうように、人には何らかの外的・内的な原因で心の状態に不具合を生じてしまうことがあります。人類はそれを何とか解明し、克服してこようとしてきました。心の病については、それこそイエス・キリストの時代から、もっとその前のギリシアの時代から、そしておそらくはもっと以前の歴史が残る前の時代からずっとあったのでしょう。

 最初の頃は、心の病も、身体の病と同様に、何らかの神からの罰や悪魔からのたたりのように考えられていたのでしょうが、次第にこれは科学的に理解しうる何らかの原因のある「病気」であること、何らかの治療法が存在する可能性があること、が気づかれてきました。

 大昔に想定されていた病気の原因は、黒い胆汁がたまってしまうためではないかとか、子宮の具合が悪くなるためではないかとか、今から考えると無茶苦茶な理屈ではありました。それでも、何らかの理解しうる、そして治しうる原因によって引き起こされているのだろうという考え方は大きな進歩だったでしょう。ルネサンス以降、病気の治療に対して、まじないや宗教的な儀式ではなく、科学的な方法で行っていくという「医学」が現代のような形をとるようになってきました。「心の病」に対しても、その原因の科学的な追求と当時に、どのように治療することが本当に治療的なのか? ということを科学的、経験的、実証的に一つ一つ検証しながら本当に役立つ治療法を模索する努力が現代に至るまで続けられています。

 いくつもの試行錯誤的な治療が行われました。この薬草を食べると良いのではないか? 水につかると良いのではないか? けいれん発作を起こした後は精神症状が軽減する患者が多い。ということは、人工的にけいれん発作を誘発することが治療になるのではないか? マラリアなど高熱を出す感染症にかかった後は、身体はぐったりするけれども精神的には具合が良くなることがある。ということは、人工的に感染症にかからせ高熱を出させることが治療になるのではないか? 脳の一部を手術でとってしまえば良いのではないか? 夜眠いのを通り越して徹夜をさせれば落ち込んだ気分も少しはハイになるのではないか? 結核の治療に使っていた抗菌薬の副作用で、どういうわけか精神的に具合が良くなる人がいる。ということは、このような構造の薬物が心の病の改善に役立つのではないか? 明るい光を浴びれば良いのではないか? マイナスイオンを浴びることが良いのではないか? などなど。 こうした物理的・薬物療法的な治療をすべて総称して精神科の「身体療法somatic therapy」と言います。このうち現在まで残り、広く行われている治療法には、向精神薬を使った薬物療法と、電気けいれん療法、光療法、などがあります。

 他方で、「心の病」に対して人対人の関わり合いが何らかの治療的な役割を果たすかもしれないことが以前から気づかれていました。人と人との関わり合いが治療手段の一つであるとして近代的な意味で明確に位置づけられたのは、おそらく精神分析の創始フロイトからでしょうが、それ以前からずっとあったことです。おそらく宗教が果たしてきた役割の一つはここにあったことでしょう。しかし、それが「宗教」という枠組みから解放され「医学」という科学の領域の一部になったことで、実証的にその有効性を確認したり、それがどのように「治療」になっているのかというメカニズムの解明を進めることなどの地道な努力を一つ一つ積み重ねることで、より効果的な治療法が探られるようになったきたのです。こうした、人と人の関わり合いにより「心の病」に対して治療を行っていくことを「精神療法psychotherapy」と言います。(日本では医師が行う場合「精神療法」という言葉を使い、心理士が行う場合「心理療法」という言葉を使いますが、根本的な差異はありません。また心理カウンセリングもほぼ同義語と考えて良いものです。)

 「心の病」に対する医学的な治療は、「身体療法」と「精神療法」の二つから成り立っているわけです。

 さて、「精神療法」には、そのやり方・流派にいくつものものがあります。細かく分類していくと、約300以上の流派があると言われています。しかし、医学研究の中で頻繁にあげられ、しっかりとした研究の対象になっているのは(つまり、しっかりとした科学的検証を経て医学的な治療として認識されているのは)、だいたい以下のものです。

(1)精神分析と精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)

(2)支持的精神療法と対人関係療法

(3)非指示的(来談者中心)カウンセリング

(4)行動療法と認知行動療法

 以下では、それぞれについて簡単に説明していきます。


1.精神分析と精神分析的精神療法

 精神分析という人対人のコミュニケーションを道具とした治療法は、フロイトにより始められ、当初はヒステリー神経症(現在の疾患分類でいうと解離性障害、転換性障害に入ってきます)を主な対象としていました。

 フロイトは最初は催眠療法によってヒステリー神経症の治療を試みていましたが、催眠療法ではなかなか持続的な治療効果が得られないことの問題がありました。一方で、催眠状態下である種の嫌な記憶・嫌な感情の想起をすると、どういうわけか(少なくとも一時的には)ヒステリー症状が消失することに気づいてきました。そこで、フロイトは催眠状態下で嫌な記憶・感情の想起を行うことを主な治療手段とした治療(これを当初は心の「煙突掃除」と呼んでいました)を行うようになったのです。ところが、ヒステリー神経症の患者は、催眠療法を繰り返し行っていると、次第に治療者に過度に依存的になってしまう問題を生じやすいですし、別に催眠術によって催眠状態下に導入しなくても、思い浮かぶことをそのまま語ってもらっているうちに少しずつでも「嫌な記憶・感情」の問題に進んで行けることが分かってきました。こうしたことから、「自由連想法」と呼ばれる「自由に、思い浮かぶことをそのまま語ってもらう」というやり方で、患者の普段の意識的な心からは遠ざけられている(抑圧されている)嫌な記憶・嫌な感情を想起することが、最初期の頃の精神分析の治療技法となりました。(このように、精神分析の最初期のやり方では過去の記憶を想起することに重点が置かれていたために、現在行われている精神分析的精神療法においても過去の記憶の想起が重要な治療手段であるという認識をしている人が多いのです。しかし、それは後述するように間違った認識です。)

 しかし、フロイトや共同研究者たちが「嫌な記憶・嫌な感情」の想起を主な治療手段とする治療を行っているうちに、次第に、頭で記憶し言葉で想起するような記憶はさして重要ではなさそうなことが気づかれてきました。むしろ、いわば身体で憶え無意識的に繰り返してしまう情緒的反応や対人関係パターンのようなものがあり、そちらの方がより問題になるのだろう、ということです。患者の病理は言葉で想起されるよりもむしろ、治療場面の中で(治療者・患者関係の中で)無意識的な情緒反応あるいは無意識的な行動という形で「想起」されてくるのだ、と。こうして、治療者・患者関係の中に生じてくる(「想起」されてくる)、その患者が持っている独特の病理性をしっかり見つめ、理解し、修正していく、ということが治療手段の中心になってきたのです。患者が過去からずっと続く独特の病理性を治療者・患者関係の中にも繰り返し再現してくる(「想起」してくる)ことを「転移transference」と呼びます。

 現在の精神分析的精神療法(別名、精神力動的精神療法)は、このように、治療者・患者関係に展開する(「転移」する)患者の独自の病理性を治療者と患者で共同してしっかり見てゆき、理解し、少しずつ修正していくという治療です。

 なお、「精神分析」が発祥した頃には、ほぼ毎日(週4回)治療者と患者が1時間くらい会って話をするという非常に濃密な治療でした。しかし、このような濃密な治療はよほど時間とお金がある人しか続けられないこともあり、現在ではほとんど行われていません。現在主に行われている「精神分析的精神療法」は、そのほとんどが、週1回から2回、1回あたり約1時間弱(45分から50分が通常)というものです。

 こうして出来上がった「精神分析的精神療法」には以下のような特徴があります。

 (1)決まった曜日、時間、場所でだいたい週1回から2回、1セッションだいたい45分から50分の定期的な面接を行う。

 (2)治療者は比較的沈黙・傾聴していることが多く、より多くの時間が患者が「自由連想」的に、思いついたことをそのまま語ってもらうことに費やす。

 (3)そうしながら、治療者・患者関係の中に無意識的に動く「転移」が活動することを想定し、そこに患者の持つ独特の病理性が表れてくると考える。

 (4)患者が自由連想的に話している話題は、患者が無意識的に「転移」関係の中で感じていることを象徴していると考え、患者の無意識的な感情反応や無意識的な行動について「解釈」を行い、そして一緒に見ていき、一緒に理解を進めていくことを重視する。

 (5)治療で重視しているのは対人関係の質や「性格」、あるいは「人格構造」そのものの変容であり、症状的な改善は副産物に過ぎないと考える。

 (6)治療の目標が「性格」あるいは「人格構造」の変容であることから、治療期間はしばしば非常に長くかかり数年〜5,6年は要することも少なくない。

 精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)は、当初はヒステリー神経症の治療としてスタートしました。その後、試行錯誤的に強迫神経症、その他の神経症、統合失調症、躁うつ病、などに適応されていきました。しかしいわゆる神経症(ここにはヒステリー神経症やパニック障害も含まれます)や神経症的な抑うつ状態、神経症的性格傾向の問題、そしてパーソナリティ障害以外には、あまり有効性は示せなかったこともあり、現在ではほぼ上記のもののみに適応があると考えて良い状況になっています。


2.支持的精神療法と対人関係療法

 精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)は患者の無意識的な反応をしっかり見ていくことが重視されていました。このため別名「探索指向型精神療法」とも呼ばれています。しかし、治療者と患者の関係で常に患者の無意識的なものを探索ばかりしているのかというと、そういうことでもなく、ネガティブなものを含め患者の意識的な情緒体験に共感したり、共感的な理解を進めていったり、(治療者・患者関係ではない、治療関係外の)対人関係で起こっていることやそれに対する感情反応を明確化し理解を進めていったり、少し目を背けている側面を直面化したり、具体的な情報や指示や示唆を与えたり、現実判断の手助けしたり、といったやりとりも当然あるわけです。精神分析的精神療法(精神力動的精神療法)の中で行われるやりとりの中で、無意識的なものや「転移」的なものを扱うことを除いた、これらのやりとりは、主には治療関係を強化し、患者の自我機能を支持することを意図して行われるものであり、これらを総称して「支持的精神療法supportive psychotherapy」と呼びます。

 当初は、支持的精神療法は、無意識や転移を扱う精神分析的精神療法が耐えられないような、自我機能が低く対人関係で容易に混乱してしまうような人を対象にすべきだと議論されてきました。しかし、その後の実証的な研究の結果、自我機能が低く対人関係で容易に不安定になってしまうような人(つまりパーソナリティ障害の人)こそ、治療者・患者関係に起こってくる問題を積極的・徹底的に扱っていかないとうまくいかないことが示されるようになりました。支持的精神療法は、むしろ、自我機能が比較的しっかりとしている人が、一時的に生じてしまった精神的な落ち込みに対してより向くのかもしれません。

 支持的精神療法は、その治療の性質上、精神分析的精神療法のようにその人の性格や人格構造の変容を治療の目標にしているものではないので、当面の問題が解決することを援助するために必要な数ヶ月程度で終えることができます。いわゆる短期精神療法です。ここから、治療の目標を最初から具体化・明確化し、治療に要する期限も最初から決めてしまうタイプの「短期力動的精神療法」が生まれました。ほとんどの「短期力動的精神療法」では無意識的な内容や治療者・患者関係(いわゆる「転移」)は扱わず、その人が当面直面している主として対人関係面での葛藤を整理することを主眼に3ヶ月〜半年程度の期間で行われます。こうしたやり方は性格的要因がそれほど強くない(つまりパーソナリティ障害と診断しなくてはいけないほどの問題はない)抑うつ状態や慢性的な不安などを対象にある程度の治療効果をあげられていました。

 そこに、認知行動療法が認知行動療法独特の特殊なやり方によってうつ病を治すことができる、という実証的な研究がたくさんあがり、うつ病に対する認知行動療法の熱が上がり始めた時期がきました。それに対して、すでに普通の「支持的精神療法」を実践していた専門家たちが、「そんな特殊な治療法を新しく作らなくても、これまで良識ある精神療法家が普通にやっていた治療法があるはずだ。それをとりあえずまとめて治療効果を見てみよう。」というので始まったのが「対人関係療法Interpersonal Psychotherapy」でした。「対人関係療法」の基本は支持的精神療法であり、基本的な治療技法はほとんど全く同じです。ただうつ病の治療に特化したものであるため、うつ病患者に見られやすい対人関係葛藤の領域を整理し、治療者と患者が短期間の間にしっかりと治療的課題に取り組みやすいように工夫はされています。「対人関係療法」はうつ病患者を対象にしていくつもの実証的な研究を行い、その結果、「対人関係療法」はうつ病に対して認知行動療法と同等の治療効果を上げられることが示され、現在ではうつ病に対する推奨すべき精神療法の一つとしてその地位を確立しています。


3.非指示的(来談者中心)カウンセリング

 いわゆる普通の「カウンセリング」とは、ロジャーズによって始められた「非指示的(別名 来談者中心)カウンセリング」のことです。フロイトによって始められた精神分析および精神分析的精神療法には「神経症」を説明するためのいくつもの背景理論がありました。しかし背景理論が体系的になればなるほど、実際の臨床で治療者が患者の話を聞いていく仕方が、理論中心になってしまう弊害が出てきたのです。つまり、目の前にいる患者の話をそのまま聞いていくのではなく、既存の理論に当てはめようとしてしまうあまりに、本当に患者が伝えたいことがしっかり伝わらないようになってしまうことも少なくありませんでした。精神分析や精神分析的精神療法が陥りがちなこうした問題に対して、ロジャーズは何の理論的背景も持たず、何の先入観も持たず、ただただ患者の話に傾聴し、共感していくということの治療的な役割を強調しました。治療者は、患者の話に対して一切の指示も批判や判断も行わず、ただただ共感的に聞いていくだけであるべきだという考え方です。ですから、実際のカウンセリングでは治療者はほとんど意見も述べず、指示もせず、質問もせず、ただ傾聴し、時々に治療者が理解したことを「○○なんですね。」と共感的に確認していくというものになります。患者はこうして治療者という相手を使って話をしていく中で自分で自分の答えを見つけていくことになるわけです。

 ロジャーズ的な傾聴の態度は、それそのものが非常に支持的であるものです。このため、家族行動療法などで家族に教える傾聴の態度はまさにこのような話の効き方を練習するものになります。

 また、アルコール関連問題(アルコール乱用、依存など)に対して、問題飲酒を止めさせる「動機づけ面接」も、基本的にはロジャーズ的なカウンセリングの態度をもとにしています。

 ロジャーズ的な非指示的カウンセリングと支持的精神療法にはかなり共通点があり、実際に厳密にこの2つを分けていくことは不可能でしょう。ともに、特定の精神疾患を根本的に治していくことに特化したものではありませんが、目立った禁忌・非適応もなく、幅広い精神疾患に対してそれなりに有効であることが多いものです。


4.行動療法と認知行動療法

 行動療法は、、動物実験などで確認されてきた行動理論・学習理論を人間の心理や行動にも応用した理論を背景にもっています。動物の行動実験では、有名なところでは「条件付け」という学習理論があります。ある行動とその直後に与えられるフィードバック(「報酬」と呼ばれる良いものであったり、「罰」と呼ばれる嫌なものであったりするわけですが)とが脳の中で関連づけられるために、その「ある行動」が生じる頻度を増やしたり減らしたりする方向に誘導することができる、というものです。これはよく犬のしつけなどに使われるものでもあります。飼い主が憶えさせたい(学習させたい)ある行動に近いものを犬がした時に、えさを与えること(「報酬」を与えること)を繰り返すと、その行動の頻度が増えていきます。つまり、憶えさせたい行動を学習させることができるわけです。飼い主は段階的に犬に憶えさせたい行動により近いもの、より高度なものを誘導していくことができます。こうして一夜にして達成することは難しいようなかなり複雑な「芸」でも、動物は段階的に「学習」していくことができるわけです。逆に、好ましくない行動、止めてもらいたい行動が起こる頻度を減らすように誘導することもできます。それまで与えられていた「報酬」を、動物が好ましくない行動をした時にだけ与えないようにしてしまうのです。(逆の言い方をすると、「好ましくない行動」ではない行動をした時に「報酬」を与えることにより、「好ましい行動」をより強く誘導していく、という表現もできます。)あるいは、(学習のさせ方としては効率が悪く、あまりお勧めできるものではありませんが)「好ましくない行動」をしたときに、動物が嫌がるような何らかの「罰」を与えるという方法もあります。また、動物が不安のためにある行動を避けることを学習してしまっている場合に、動物が不安のために避けている行動をしても何ら嫌なことが起こらないことを繰り返し経験させることで、不安反応を消していくことができます(これを「消去」と呼びます)。
  実は学習理論で言うところの「消去」は、不安反応を本当の意味で「消去」してしまい、なかったことのようにしてしまうものではありません。一度学習された不安反応は、おそらくずっと「不安」の中枢である「扁桃核」に記憶されるのです。ただ、「暴露療法」などで、繰り返し繰り返し、不安を引き起こしていたはずの刺激を与えながら、本当はそれほど不安にならなくて良いのだという体験を続けていると、次第に大脳皮質の「前頭前野」と呼ばれる場所が扁桃核の活動を抑制してくるようになるのです。このため、生得的・体質的に前頭前野機能が高い人は不安反応を「消去」することが比較的簡単にできますし、逆に前頭前野機能が低い人は「消去」に多大な努力を要するようになってしまいます。 そうではあっても「実は無害なのだ」という体験を繰り返しているうちに、人は不必要で過度な不安反応を次第に起さなくなっていくものではあるのです。
 これらの、動物の行動実験の中で明らかになってきた「学習理論」を、ほとんどそのまま人間の「心の問題」にも当てはめてみようと始まったのが行動療法でした。

 行動療法が最初に人間の「心の問題」に対して目立った効果を示すことができたのは、不安障害(不安神経症)に対して「不安の消去」の理論を当てはめた「暴露療法exposure and responce prevention」でした。例えば、実験動物のネズミにブザーが鳴るのと連動して床に電気ショックが流れる仕掛けをつくって、何度も何度もネズミが嫌がる電気ショックを与えます。すると、ネズミは次第にブザーが鳴るだけで不安反応をするようになります。(これを「恐怖条件付け」と呼びます。)しかし、一度不安を学習してしまったネズミも、その後何度も何度もブザーを鳴らせるけれども電気ショックは起こらないという体験をさせると、次第に不安反応が消えてくるのです。これが「消去」です。人間に見られる不安神経症、特に単純恐怖症などは、本来不安にならなくて良いものに対して不安になってしまうことを(何らかの不明な理由で)間違って学習してしまったからであると考えるのです。そして不安の「消去」もほとんど同じ発想で行います。つまり、「本来不安になる必要のない刺激(ネズミの実験では「ブザーの音」)」を与えても、不安になることはあっても、本当にまずいことは起こらないし、大丈夫である、という体験を繰り返し繰り返し行うことで、不適切な不安反応は消えていくのだという理屈です。例えば、単純恐怖症の一つである高所恐怖症に対して、治療の中ではわざわざ患者を高い場所に連れて行き、確かに「不適切な不安反応」によって不安にはなるけれども、本当にまずいことは起こらないし、大丈夫であり、不安反応自体もしばらく観察していると次第に減っていくものであることをしっかり経験してもらい、そうした経験を繰り返し繰り返し体験してもらいます。そのうち、不安反応は「消去」され、実際に単純恐怖症のほとんどは、このような単純な理屈と単純な治療法で治ってしまうものであることが示されました。類似した発想で、「本来不安になる必要がないものに対して不適切な不安反応を生じてしまっている病態」である、「閉所恐怖」、「パニック障害」、「不潔恐怖と強迫性障害」、「心的外傷後ストレス障害」などの「不安障害」(=不安神経症)に対して「暴露療法」を行うことで比較的十分な効果が得られることが示されたのでした。

 しかし、暴露療法が効果を発揮するためには、患者が進んで不安を引き起こす状況に自らの身を置き、進んで不安を体験することが必要であり、不安から逃げるようなこと(「回避」と呼びます)をしては決してうまくいかないのです。実験動物であれば「回避」は「その場から逃げる」というわかりやすい行動で表れます。ところが、人間では頭の中で回避してしまうことがあるので困ったものなのです。例えば、蜘蛛恐怖の患者がいたとします。暴露療法をしようと蜘蛛を手ひらの上にのせて決して払いのけさせないようにします。しかし、患者が「これは私の苦手な蜘蛛ではないのだ。ちょっと毛深いけどカニだ。あの美味しいカニだ。カニだから平気なのだ・・・」と心の中で念仏のようにとなえて、本当にその気になってしまっていては、暴露療法の意味がありません。こうした事情から、行動療法では、「認知」の内容を扱わざるを得なくなってきたこともあり、行動を直接操作する方法に加えて、認知内容を直接操作する方法を組み合わせた「認知行動療法」が主流になってきました。

 患者の「認知」と「行動」に直接的に働きかける「認知行動療法」は、その後不安障害だけでなく、うつ病、過食症などの摂食障害、統合失調症における社会生活や対人関係の問題、などに応用され、それなりの効果を上げてきました。

 ほとんどの認知行動療法は、それ以外の精神療法のほとんどがそうであるのと同様に、週1回45分から50分の面接を行うことを基本にしています。ただ、治療目標は非常に明確化・具体化されており、その分だけ治療期間は短期間(数ヶ月から半年程度)であることが多いです。最近では、それよりは長期間行う認知行動療法によって、境界性パーソナリティ障害などのパーソナリティ障害に対しても有効性が示されるようになっています。


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 以上、「精神療法」/「カウンセリング」といっても、非常に幅広いいろいろなものがあることをご説明してきました。

 ただ、どの治療においても、治療の主体は患者本人にあるのです。これは明らかに治療ではあるのですが、外科手術を受けに行くように「受けに行く」のではなく、スポーツや何かの訓練を受けに行くように「治療者と一緒にやりにいく」という発想の方が正しいのです。

 「精神療法」/「カウンセリング」を行うことは、スポーツの練習に非常に似ているところがあります。まず本人に相当のやる気と努力がないとやってゆけないことです。さらに、繰り返し繰り返しの積み重ねが大事です。スポーツは本人の得意なもの、好きなものをやれば良いでしょうが、「精神療法」/「カウンセリング」はどうしても本人の苦手分野の練習になるのでさらに大変です。そしてどれだけの結果が得られるかは、あらかじめ分かるものではないのです。「私が指導すれば、どんな人でもオリンピックに出場できるようになります」などというコーチは、たぶんペテン師のたぐいでしょう。「私が治療をすれば、どんな患者も良くなります」という治療者は、たぶんペテン師のたぐいです。「治療」という、一種の心の練習を積み重ねることで、どこまでいけるか、どの程度良くなることができるかは、何ともいえないところがあるのです。それでも続けていくことできっと乗り越えられる壁がある、という点でも似ています。スポーツはいくら本を買って読んでも上達しません。一人で練習しても限界があります。「精神療法」/「カウンセリング」もほぼ同様なのです。頭で理解するのではなく、治療での体験を通じて、治療者を相手に練習を積み重ねることで、改善されていくというのが治療の本質かもしれません。


まめちしき:マラリア療法
Wagner−Jauregg(1857~1940)が1880年頃にウイーンの精神病院で働いていた頃は、まだ梅毒の末期症状である「麻痺性痴呆」の患者がたくさんいました。「麻痺性痴呆」は幻覚妄想などの精神病症状を伴い、次第に麻痺が進み痙攣を起し3年程度で死亡していく治療不可能な病気だったのです。

 そんな中で精神病状態にあった患者の少なからぬ人たちが結核などの病気で高熱を出した後で、何故だか分かりませんが精神症状は改善することを発見したのでした。ちょうどその頃、クリミア戦争での「戦傷神経症」のために精神科病棟に入院してきた兵士がマラリアにかかっていたことを利用し、そこから病原体をもらい、彼は「麻痺性痴呆」患者の精神病症状の治療のために、わざとマラリアに感染させ高熱を生じさせるという荒療治を開発したのでした。こうして行われた実験的治療で、9人中6人が症状改善を示し、退院して働きにでることさえできるようになったのです。

  以前は「治療不可能」だと見られていた病状に対して驚きの治療効果を示したこともあり、彼の「マラリア療法」は1927年のノーベル賞を受賞しました。何と精神科医としては初めてのノーベル医学賞でした。

  その後、梅毒に対してはペニシリンなどの抗生剤が開発されたことや、マラリア療法は相当にリスクも高い治療法であったこと(死亡率は2%〜13%でした)もあり、現在では完全にすたれています。