独唱・感想文

 この夏休み、僕は「戦争と平和」を読むことにした。なぜこれを選んだのかというと、高校生という年代を考えた場合、例えば「三匹のこぶた」を選ぶよりは国語教師の受けが良いからだ。
 そもそもそれ以前に、なぜ読むことにしたのかということについても言及しておくが、それは単に「夏休みの宿題であるから」と言う他にはない。夏休みの読書感想文たるやすでに恒例とも位置づけるべきもので、半ば当然とした強制力をもって、全国の児童生徒の前に立ちはだかっている。

 しかしよくよく考えてみると、この習慣は果たしてどうなのかと僕は考えざるを得ない。長期休暇だからといって放埒と遊びほうけることなく、普段読めない本でも読みなさいということなのだろうが、その意図や意義は理解できなくはないものの、とはいえそれは小学生までの話ではないのかと。
 確かにごく一般的な小学生にとって夏休みは「遊び」に直結し、どこかで何らかの手綱を与えなければ果てしなく一日中走り回るのかもしれない。やけに走るからねあいつら。この暑いのに。しかも走りながら必要もなく「でぁっしゃー!」とか意味不明なこと叫ぶからね。ばっかじゃなかろか。
 だが、それが高校生の夏休みとなるとどうか。なにしろ終業式が終わって昼食を挟んだら、いきなり夏期講習が始まるのだ。夏休みはまだ始まっていないのに、である。かくしてジットリとした猛暑の中、壁に張り付いて叫んでいるらしいセミに邪魔されつつ「この場合(ミーンミンミン)、助動詞の『べし』は推量というよりは(ミーンミンミン)意志として使われ(ミィーン…)」云々をたっぷり九〇分だ。セミ殺すべし。

 そして翌日から本格的な夏休みが始まると、事態はいよいよ混沌を迎える。前述の夏期講習だけで半日弱を潰されるというのに、加えて塾ではありがたくも受験用の特別講座が開講されており、だからといって学校から各教科ごと出される宿題に遠慮が見られるかというともちろんそんな甘いこともなく、さすがに勉強ばかりでは誰ぞ刺してしまいそうだと息抜きを求めてみればついつい徹夜で麻雀をやってしまい、朦朧とした頭で講習に出たのち図書館で仮眠をとっていると非情にも呼び出しを告げる電子音、「ディズニーランドぉー」などとタワケたことをぬかす女を「真夏日にわざわざ金払って二時間並んで何が楽しいかボケナス」と優しく諭すのにしこたま労力を使い、ああイライラするとパチンコにでも行けば何とびっくり命釘の幅がパチンコ玉より狭かったりしてつまり勝てるわけもなく、ヘロヘロと家に帰ると親戚のじいさんが来ていて焼酎片手に戦時中の話ひとしきり、おまえ去年の話より爆弾が六発ほど多くなってるじゃねえかとの言葉を飲み込みつつ、よく考えたらこの三日間で四時間しか寝てないということに気付いてしまいと、かようにも夏休みは狂気の沙汰であって通常の登校日よりもはるかに忙しい。
 世間ではとかく忙しい人の多い昨今だが(「忙しくて更新」で検索するとわかる)、なんの実際には高校生の方がよほど忙しいのである。若さゆえの馬力と蛮勇でこそ何とか成立しているものの、五十代なら一週間で最低三回は死ねるスケジュールであるはずだ。にもかかわらず、それを鑑みることなくまたさらにここで読書感想文を書いてこいとの命、実に現代教育の背景たるやどうなっているのか、地獄の鬼にすらもう少しの慈悲はあろうとただただ嘆く次第だ。

 とはいうものの、嘆くばかりでは何も進まない。仕方なく読み始めることにしよう。「戦争と平和」である。

 しかし待て僕はここでどうしても一つ、憚りつつもなお声を大にして言いたい。ハードカバーの読みにくさは何とかならないのかと。確かに見栄えはいいだろう、高級感を備えるのも容易であろう、しっかり立つので本棚への収納にも便利だろう、しかしいかんせんそれは「読みにくい」という最大の欠点を導く装丁ではないか。
 全体が軟らかい文庫本であれば例えば右手一本で支え、そのまま片手でページを繰ることもできる。残った左手はといえばもう完全に自由であるから、ずっとフレミングしているなり猫をもふもふするなりうどん粉をこねるなり、好きに使えばいい。邪魔なら鼻に突っ込んでおけ。
 だがハードカバーとなるとなかなかそうはいかない。手一本で支えることはできるにせよ、片手のまま次のページに行こうとすればかなりの無理が生じる。寝転んだまま片手でなんとか次のページにと努力し、結果として親指の筋がおかしなことになり、イテテと焦って力配分を間違えたその一瞬のうち重力に身を委ねるハードカバー、着地点は当然ながら顔の上だ。怒りの遣り場もなく「もんがのふ!」とか何とか叫びながらただ本をチョップしている姿が、客観的に馬鹿に見えない道理はない。ハードカバーの基本的利点は理解するが、もう少し何らかの改善を求めたいところだ。

 そう改善といえばもう一つ、この本に対して僕はどうも腹に据えかねることがある。栞(しおり)だ。
 だいたいまともな本というのは、なかなか一息で読み切れるものではない。時間的制約もあればあるいは読み疲れて休みたい時もあるだろう。となればそこにはおのずと「読んだ箇所までの目印」が必要とされるわけだが、しかし栞となるヒモを捜せど紙片を求めど、どういうつもりか何一つこの本は備えていないのだった。どういう料簡、なんたる愚昧。残された方便はページを折ることだが、さても何かなかろうかと足掻いて周囲を見渡せば、幸甚かな本屋で勝手に入れられたらしいハガキが目に留まる。そうだこれを使えばよかろう、と。
「あなたにも結婚のチャンス!」
 思うのだがこのハガキは、なぜ会ったこともない僕に対してこんなに大上段な態度を見せるのだろう。なぜこの結婚相談所の厚紙は、僕にモテない認定を下すのだろう。これからのち、続きを読もうと本を広げるたびにこのハガキを目にするわけで、そのうち邪推だって募るだろう。
「あなたにも結婚のチャンス!」
「(そんな)あなたにも結婚のチャンス!」
「(役立たずな)あなたにも(最低限の)結婚のチャンス!」
「(タデ食う虫もいるだろうから)あなたにも(もしかしたら)結婚のチャンス(だけはあるかもしれないが実現の保証はしかねる)!」
 本を読み終えるのが先か火を放つのが先か、なにしろ一つの勝負といえよう。心穏やかに本を読ませるためにも、出版元は栞を付け、本屋は余計なハガキを入れないということを徹底するべきであると、僕はここに諌言しておく。

 さて、そんなこんなで今、障害はあったものの「戦争と平和」を読み終えた。なかなかこう、いろいろと興味深い本であった。また読みたいです。
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「…と。先生、読書感想文できました」
「書き直してこい」
「なぜですか!」

20080825